前日談4.5話 オレとあいつと変わらない一日と、水……着……?
――俺も! 俺も……お前がお前のままでいてくれて嬉しかった!
「そっか、そうなんだ……へへへ」
帰り際に親友から言われた一言。オレがオレのままなのは言われなくても当たり前。なのになんだかとてもこそばゆくて嬉しくて、笑みをこぼしながら自転車を漕ぎ続ける。
すっかり日も落ちた頃、小脇にぬいぐるみと鞄を抱えてオレは自宅へと戻った。
白い壁面に赤い三角屋根、2階建てでついでに小さい庭付き。小高い丘の上にでも立っている方がお似合いだけど、当然ここは閑静な住宅街だ。
この周辺では一番目立っているであろう我が家。そのドアを開けたオレは、玄関へと意気揚々と踊り出て思うがままに声を張り上げた。
「たっだいまー!」
言うが早く靴を脱ぎ、足早に廊下を渡ってリビングへと赴いた。
家の外観に合わせて、全体的に洋風のインテリアで整えられたリビングにはすでに先客が二人。うち一人、オレのお母さんである朝雛一葉が台所からオレに向かって呼びかけた。
「あら、お帰りなさい。夜ご飯はどうするの?」
「ん、まだ食べてないから家で食べる」
親子の血の濃さを示すようにオレとあまり変わらない背丈のお母さんは、しかしいつも騒がしいオレとは違って常に柔和な微笑みを絶やさず、その茶髪も腰辺りまで伸ばしていてオレよりも1段も2段も女らしい。……いや、べつにオレ女らしくなくてもいいんだけどさ。
エプロンをつけている辺り、どうやら夜飯の支度をしていたようだ。そういえば味噌汁の良い匂いがここまで届いてきているような。
食事の気配に釣られて早速腹が空いてきた。そんな矢先、はつらつと明るいソプラノボイスがオレの耳に届いた。
「おかえり始! それあれじゃん、たまにテレビでやってる『おすわりわんこ』! なにそれどこで手に入れたのていうかなんでそんなの持ってるの? 実は隠れファン?」
オレの兄妹……あー、姉妹か。
オレの姉妹らしくやんややんやと騒ぎ立てながら、さっきまでテレビにかじりついていたはずの妹の初穂が駆け寄ってきた。
べつに隠れファンでもなければ報告すべきはこっちでもないのだけど、さてどこから切り出そうかと迷う間にも初穂は一方的に喋りまくる。
「へー、始こういうの好きなんだーうわ兄妹、じゃなくて姉妹か。姉妹ながら意外……じゃないのかな。わー、わりと似合うかもー」
「お前どこ見て思ったそれ! これはそういうのじゃないし大体オレの方が年上なんだからいい加減呼び捨てやめろよ!」
茶色のショートヘアーとぱっちり開いた瞳が快活な印象を与える初穂は、オレよりも背がちょっと高いからってオレのことを全く年上扱いしようとすらしない。
だから人が怒ってもどこ吹く風と、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「へへん、そういうのは私よりも背が高くなってから言うんだね。そもそも始には年上の威厳なんてどこにもないし、それならせめて終にいの半分ぐらいの年上っぽさでも持ってこないと」
「キー! こんのやろう……ええい、これが目に入らぬか!」
時代劇の印籠がごとく、バッ!と突き出し見せびらかしたるは『豊永ランドジャンボプール』の招待券×2。
なんだなんだとそれを覗き込み、次の瞬間にはなんだと!と言わんばかりに目を開いて初穂が大きく声を上げた。
「これ豊永のジャンボプールのチケットじゃん! なにこれどこで貰ったの! ちょうだい!」
初穂が予想どおりの良いリアクションを返してくれたおかげで、オレもテンションを上げて自慢できるというものだ。高笑いまで自然と飛び出してきた。
「ふはははは見ぃたかぁ! これぞ今日、終斗と行ったゲームコーナーのくじでオレたちが友情の力で引き当ててきた2枚だ! 残念だったな、これはオレと終斗の分なんだよ!」
「えーなにそれずるーい、じゃあ私が終にいと行く! 年上なんだから可愛い妹に譲るくらいの甲斐性見せてよ!」
「こんなときだけ妹づらするなばーか! おかーさーん! そんなわけでオレお父さんに連れてってもらおうと思うんだけどさ!」
「ずーるーいー!」と往生際悪く駄々をこねる初穂を気持ち良く無視してお母さんに話しかけると、オレたち二人の言い争いをいつもの笑顔で見守っていたお母さんは、ちょっとだけ笑顔を崩して悩むような仕草を始めた。
「うーん、あの人は休みの日なら多分良いって言ってくれると思うんだけど……」
「だけど?」
「……うん、どうせまだ夏の予定もあまり決まってなかったし、せっかくだからウチのみんなと終斗くんとで行っちゃう? ジャンボプール」
「お母さんそれほんと!?」
最後の台詞は初穂のものだ。オレが口を開く前に、恐ろしいほどの早さで割りこまれてしまった。
だがお母さんはさすがというべきか一切動じずに話を続ける。
「ほんと、になるかはお父さん次第だけど……多分大丈夫じゃないかしら。あの人そういうの好きだし、今年の夏も泳ぎに行きたいってこないだ話していたところだったし。始もいいわよね? まぁ、終斗くんと二人きりがいいっていうなら……それはそれでやぶさかじゃないけど」
やぶさかじゃない、と言われても。
「べつにオレあいつと仲良いけどそんな積極的に二人きりになりたい理由はないし、気に食わないやつならともかく家族で来る分には断る理由もないけどな。終斗も同じだろ多分、一応聞いてはみるけど」
オレとしては特になんてことのない話だったのだけど、なぜかオレの話に二人は微妙な雰囲気を漂わせていた。
「お母さん……さすがに、始に"そーいうの"期待するのはちょーっと……無理があるんじゃないかなぁ」
初穂が苦笑しながらお母さんへと言葉を投げると、お母さんもお母さんで「あらあらー……」といつもの笑顔に陰りが差して。
「なに、なに二人とも。オレなんか変なこと言った?」
初穂がさっと目を逸らす。一方お母さんは陰りの差した笑顔のまま沈黙を保ち……ほどなくして、仕切りなおすようにパンと両手を合わせた。
「……うん! まだ二人とも若人だもの、時間はいくらでもあるわよね。もしかしたらこれでなにか変わるかもしれないし、とりあえずプールには行く方向で! お父さんには私から話しておくから」
「あ、ありがとう……」
言うだけ言って、お母さんは台所に戻っていった。
そんなこんなで二人で行くはずだったプールは一家総出の一大イベントとなったわけだけど、しかし他所事が気になりすぎてそれどころじゃない。
なのでさっきからずーっとなんとも言えない表情を浮かべている初穂に尋ねてみた。
「お母さんさ、なんなのあれ?」
「……私から言えることはなにもないから……あ、そんなことよりも早く今年用の水着用意しなきゃ! こんなこともあろうかと、今年のカタログは準備してあるのよねー。始も見るでしょ?」
「え? いやオレ水着とかそこまでこだわらないから、去年のやつ使えばいいし」
なにを言っているんだお前は。
そう言っているとしか思えない眼差しが、初穂からオレへと向けられた。
が、すぐに彼女はなにかに気づいたようでその表情を落胆へと変えて、ため息ひとつとともに告げた。
「あのね始……ひとつ聞いていい?」
「お、おう」
「普通さ、女の子は海パンだけで泳がないよね」
「そりゃな。そんなん痴女だ痴女」
「……じゃあ、今の始の性別は」
「一応、女だな」
「じゃあ、去年の水着は」
「海パンだな、トランクスの」
「それとその前の質問の答え、繋げてみて」
「女が、海パン」
「……つまり、そういうことだよ!」
「そういうってどういう………………………………あ」
ようやく、本当にようやくその単純明快な事実に気づき……オレは近所迷惑も辞さないレベルで声を張り上げた。張り上げざるをえなかった。
「ああああああああああああ!!!! オレ女じゃん! 海パン駄目じゃん!」
「うるさっ! むしろなんで今まで気づかなかったのかが不思議だよ! とにかくカタログ持ってくるから!」
初穂が一旦その場を去ってからも、オレの脳内では海パンとビキニがぐるぐると回り回っていた。なんでビキニって?女性用水着で真っ先に思いつくのがそれだったんだよ!発想が男子中学生らしいって?つい半年ほど前までは男子中学生だったんだよオレ!
海パンは着れないビキニは着れる、海パンが着たいビキニは着たくない、海パンは痴女でビキニは女装……あっちは駄目だしこっちは嫌だし。いっそプールを諦めれば早い話だけど、諦められればこんなに悩まない。せっかくの夏休みに一度も泳ぎに行かないなんて、そんな選択肢はオレにとってありえないのだ。
ぐるぐるぐるぐる……目が回りそうなほど悩んでいる間に、初穂がカタログ片手に戻ってきた。
「それじゃあ見よっか……始、聞いてる?」
「あ、ああ、うん……」
すでにソファーに座っている初穂の隣に、ふらふら歩いて腰を落とす。その間もオレの脳裏では海パンとビキニが渦を巻いていた。
「海パン、ビキニ、ビキニ、海パン……」
「なに考えてるのか知らないけど、水着はビキニだけじゃないからほら」
若干呆れた声音とともに初穂が開いて見せたページには"タンキニ"や"セパレート"といった中々に見慣れない単語とともに、色んな女性用水着が載っていた。んじゃああれか、見慣れない単語は水着の名前かこれ。ほえー……。
よく見るものやらそうでもないものやら色んな水着があるけれど、どれもこれも脳内で自分に着せ替えては、そのイマジネーションが醸し出す不協和音に頭が痛くなった。
女物の服は、未だ色々とハードルが高い。
……下着に関しては、もう諦めた。男女の体の作り的に仕方ないし、そもそも人に見せるものじゃないし。全力で無地の飾り気ないものを選べばダメージも少ない。
セーラー服、あれもまだマシだ。スカートが辛いけど露出自体は少ないし、なにより『校則だからしょうがない』と自分に言い訳ができる。体操服だって男女でほとんどデザインが変わらないのでセーフ。万が一女性用がブルマだったら辛かった。
だけど学校以外、プライベートで下着以外の女物を着けるのはぶっちゃけ無理だ。
性別が変わっても容姿が大きく変わってない以上、未だに女物を着ても『男の朝雛始の女装』としか思えないこと。そして今まで男として生きてきた価値観による女物への忌避感。
その上で『着なければいけない決まり』すらないのならば、そういった服を着なくなるのも未だ慣れないのも当然の話だ。
特に水着なんてその筆頭、なにせ女物と男物とでデザインがはっきりと分かれているのだ。ゆえに額にしわが寄る。
だからといって水着から逐一逃げていたら、泳ぐことなんて一生できない。
せめて露出度が少なくて中性的なものがあれば……むむむとしかめっ面で思案するオレを見かねたのか、初穂があるひとつの提案とともにページを捲っていく。
「ああもう。そんなに普通の水着が嫌ならほら、こういうのもあるから。『ラッシュガード』って言うんだけどさ」
初穂が見せてくれたページには今までの水着らしい水着と違って、サーフィンなどでよく使われているようなぴっちりと体に張り付いたスーツや、Tシャツにパーカーといった普段着とさほど変わらないような水着が載っていた……これ水着なの?
「けっこー種類豊富だし、水着として使うんじゃなくてその上から着れるようなゆったりした普段着っぽいのも多いから、これならそんな恥ずかしかないでしょ」
「お……おお! いいなこれ!」
ぴっちりした方はともかく、パーカーとかならなるほど確かに水着を隠せるし、見れば中性的な感じのもあるようだ。
そうだよこういうのが欲しか……っ!
ある事実に気づいて息を飲んだオレを不審に思ったのか、初穂が訝しげに訪ねてきた。
「なに、どうしたの? これ以上はないよ多分」
「いや、それはいいんだけどさ……」
「じゃあなにさ」
「……値段」
「は」
「値段……高くない?」
「は?」
ラッシュガード含めてカタログに載ってる水着の値段は、ワンコインのトランクスで2,3年は保たせるオレからしてみれば、驚天動地の衝撃プライス。無論悪い意味で。
希望の光が見えてきた矢先だけに、この絶望は厳しいものを感じる。悔しさから思わず歯噛みするオレに、初穂は宇宙人と相対したときのような驚きの視線を向けてきた。
「いや、水着なんてこんなもんでしょ……常識的に考えようよ」
「常識の基準は世界じゃなくてオレの財布なんだよ……!」
「それにしたって普通、貯金のひとつやふたつくらいしとかない? 私だって毎年水着のためにお金貯めてるっていうのに、そういうところがもう年上として駄目なんだよ」
「そりゃオレだってお年玉とか一銭も貯金してないわけじゃないけど、だからって女物の水着で出費なんて想像できるかー! くそっ、ラッシュガードの値段がこれで下に着る水着の方は……げっ、布面積少ないのにこっちのが高くない!?」
脳内で、自分の貯金とこれからの出費を予測してそこに水着とラッシュガードを……駄目だ!どっちか片方だけでも正直きつい!
「あら、そういえば……始の着れそうな水着なら確か家にあったわよ? それも露出少ないやつ」
「なんと!?」
悩めるオレに飛び込んできたのは、いつの間にやらお玉片手にオレたちの側まで来ていた母の一声だった。
――タダより高いものはない。
なぜか一瞬脳裏にそんな言葉が過ぎったが、あんなものは古き時代の誤った慣習にすぎない。現にオレはタダのくじに飛びついたおかげでジャンボプールのチケットを手に入れたのだ。
だから迷わずお母さんの言葉に飛びつくと、彼女は菩薩のように微笑みオレの望み通りに救いの糸を垂らしてくれた……それは、縋り付くにはあまりにも細く脆い糸だったけど。
「ほら、去年初穂が着ていたピンクのワンピース。あれが確か押し入れにしまってあったはずなのよ、初穂はここ1年で背とか随分高くなっちゃったけど、今の始にはちょうどいい大きさだったんじゃないかしら」
ぷつんと、べつに亡者を振り払おうとしたわけでもないのに蜘蛛の糸が切れる音が脳裏に響いた。
去年初穂が、まだ成長期も来てなくてオレとそこまで体格が変わらなかった頃に着ていた水着は、フリルとリボンが可愛らしい少女趣味のワンピース型。
あれを、オレが。
隣で初穂を見ると、オレから顔を背けて肩を震わせている。あああれ絶対笑いこらえてる、このやろうまじこのやろう。
もう一度、お母さんを見る。こんなときでも絶やされない笑顔は、いっそ菩薩よりも閻魔に近い。地獄の閻魔の宣告は、たったの一言だけだった。
「……タダよ?」
――タダより高いものはない。
タダのくじに飛びついたおかげでジャンボプールのチケットが手に入り、そのせいで今オレは身を切るような苦渋の決断を迫られている。
だがタダより安いものもない。
これを受け入れるだけで、プール代も水着代も払わずに有名プールを思う存分堪能できるのだ。
……値段か、女装か。
この後の顛末については、今はまだ語れない。
だけどひとつだけ語れることがあるのならば――バイトのひとつすらしていない高校生の財布は常に、夏の日差しとは縁遠い冬の寒さに晒されているという明確な事実だけだった。




