第4話 ヒラヒラと、フリフリと、悶々と。(前編)
疲れた。その一言につきる。
「あ゛ー……」
半分ぐらい意識が飛んだような状態でようやく我が家に帰ってこれた俺は、ゾンビチックな鈍いうめき声を上げながらリビングのソファーに倒れこんだ。
疲れた。本当に疲れた。この世に生を受けて十数年。まだまだ若輩者ではあるがそれでもこの人生、後にも先にもこんなに疲れることなんてないんじゃないかってくらいには疲れた気がする。
顔面にまで疲れが満ちているのもきっと気のせいではないだろう、なにせ冷静な表情をずっと貼り付けていたのだから。顔面表情筋をここまで酷使したのだって、生まれて初めてである。
「……どれもこれも、人をパシらせた姉さんのせいだ」
あのショッピングモールに行かなければ、こんなに疲れることなんてなかったのに。
偶然始の声が聞こえたから、じゃあ挨拶でもしていこうか。なんて思うこともなかったのに。
息が詰まるほど可愛くなった始の姿を目に焼き付けてしまうことも……。
「あああああああ……」
駄目だ、思い出すんじゃない俺。
始の小柄な体格と無垢な雰囲気を良い意味で引き立てる、清らかな淡い水色のワンピースとか。
細い脚を包み込んだ上でその輪郭を映えさせる白のニーソックスと、咲き誇る花のようにふわりと広がるワンピースのスカート部分との間に見える僅かな、しかし確かな存在感を示す肌色――いわゆる絶対領域とか。
あと清楚で可愛らしいストラップシューズも良いチョイスだが、個人的に一番目を引くのはやはり髪型だろう。
髪を束ねて結ぶだけ。文字にしてみれば単純かつ簡単な所作だが、それだけでも印象は劇的に変わる。目撃者たる俺が言うのだから間違いない。
まず重要なのは、髪を結んだという事実そのものだ。
無造作に下ろした髪型の始は正直見慣れている。セミショートの茶髪はその長さからしてさすがに男っぽいとは言えないが、さりとて女性らしさを感じるかといえばそうでもない程度。いまさら髪一つでドギマギするようなことは無い……はずだった。
しかしその髪を結んでみればどうだろう。少し偏った見方かもしれないが、髪を結ぶ。ほとんどの男性がしないであろうその行為は、それだけで"女性らしい"という印象と浮かべさせる。
そして髪を頭の片側で一本に纏めたいわゆる『サイドポニー』、もしくは『サイドテール』と呼ばれる髪型。
後頭部で一本に纏めるポニーテールと左右の側頭部で二本に纏めるツインテールを足して二で割ったような髪型だが、側頭部で結ぶことにより髪全体のシルエットをふわりと広がらせて幼さや愛らしさを強調させるという点では、どちらかといえばツインテールに近い性質を持つだろう。
しかしそれらを全面的に押し出す趣のあるツインテールとは違い、片側だけで結ぶサイドテールは幼さや愛らしさを強調しつつも全面的に押し出すことはなく、ゆえに決して大人っぽさや女性の色気といった相反する要素を損なうこともない。
愛らしくも幼すぎず、さりとて無理に背伸びしているような印象を与えることもない絶妙な按配を保つサイドテールという髪型は、高校生という大人に足をかけた時期でありながら未だに子供のような幼さを残す始の長所を引きだしながらも、どことなく女性としての色気を残した、始によく似合う髪型だと俺は思う。無論、ツインテールやポニーテールとかもそれはそれで似合うと思うが。
「…………ってなにを分析しているんだ俺は!」
誰もいないリビングに、我に返った俺の孤独なツッコミが響き渡る。
気を抜くとすぐこれだ。こんなのだからあのときだって、ろくでもないことを口走ってしまったのだ。
『まぁ……そういうのもいいんじゃないか。似合ってるし可愛いと思うぞ』
『ふぇ』
着飾られた始と必死な形相の梯間に動揺が極まっていたからって、ついうっかり"可愛い"とか……!
しかも始も始で「ふぇ」ってなんだそのリアクションは。てっきり「かっ可愛いとか言うな!」みたいな言葉が飛んでくるかと思ったのに、というかその方が気が楽だったのに「ふぇ」ってお前。まんざらじゃないのか、もしかしてまんざらじゃないのか!?
それに、梯間の質問だって。
時間の経過で少しは動揺も収まり、始の話題でほどよく和むことでようやく気持ちが落ち着いてきたと思ったら、唐突な「巨乳が好きなの?」で頭が真っ白になってしまった。
次の瞬間、無意識のうちに脳内の空白に描かれていたのは始の――。
そのよからぬビジョンをごまかすようについ「大きい方が良い」的なことを言ってしまったが、今冷静に思い返してみれば、そもそも質問に答える必要すらなかったんじゃないのかあれは……。
大体なんで梯間はあんなこと聞いてきたんだろう。ついなにかを勘ぐってしまいそうになるけど、案外単なる気まぐれかもしれない。下に弟がいる分、軽い下ネタくらいなら慣れていそうだし。
しかし姉さんもそうだけど、女性はたまによく分からなくなるな。
「終くん」
そういえば始は女になっても相変わらず分かりやすいが、あいつもあいつで最近たまに考えが読めなくなるときがある。たとえば今日の反応とか……。
「終くんってば」
ああまたろくでもない妄想ばかりが頭に浮かぶ。だから妙な期待はするなとあれほど……!
「おーい」
なぜか姉さんの声のような幻聴が聞こえてきた。
そうだ、姉さん。やはり全部あの人のせいだ。どうせ毎週うちに来るんだから、スイーツなんてそのついでに自分で買ってくれば良かったのに。
きっとこの幻聴も、そんな俺の恨みからくるものなんだろう……。
「……秋の貧乳特集、Aカップの天使――」
「うわああああ!!」
人の大事なプライバシーを容赦なくさらけだしてくれる幻聴に、幻だと分かっていても俺はその声を遮るべく反射的に体を起こしながら、つい声を上げてしまった。
そして起き上がったことでようやく気づいた。幻聴が実は幻聴ではなかったことに。
「……姉さん?」
「気がついた? まったく、これ以上気づかなかったら終くんのエロ本をタイトルから特集記事まで細かく読み上げなきゃいけないところだったわ」
「もう読み上げ始めてただろ……! というかわざわざ箪笥の一番下段の引き出し、それも底より少し上に一枚板を敷いてカモフラージュしたその下に隠したのに、なんで気づいてるんだよ!」
「ふふふその無駄にかけた手間隙は評価するけど、弟のエロ本の隠し場所なんて姉の目にかかれば、最早透けてるも当然……!」
したり顔で"エロ本"などと堂々と口に出しつつ、その何冊かのエロ本をトランプのように両手で広げて見せたのは、決して思春期真っ盛りの男子高校生などではなく、むしろその間逆。
切れ長気味で輪郭がくっきりした存在感のある瞳、細く長い整った鼻梁、そして愛らしさよりも美しさが勝る大人らしい顔付きの美人だ。
"美人"と評せるのは顔だけでない。すらりと伸びた長身に、でるところはでている体型。これで身なりさえちゃんとしていれば、男の一人や二人惚れさせることぐらい容易なはずだが……その肝心の身なりが、悲しがな本人のずぼらな性格を反映しすぎていた。
せっかくの黒い長髪は首の根元辺りで結ばれて一本に纏まっているが、適当なヘアゴムに適当な結び位置に適当な結び方なんてされては女性らしさ云々よりも、『ああこれただ単に邪魔な髪を纏めたかっただけなんだな』といういらぬ本音が見えてしまう。寝癖もところどころ跳ねていて、これでは色気もなにもあったものじゃない。
下半身のジーンズは間違いなく適当に選んできただけだろうが、長い足を良い意味で際立たせているからまぁそれはいい。それはいいのだが……嘆かわしいことに上半身に着ているもののせいで、もはや足とかどうでもよくなってしまう。
洗濯が悪いのか干し方畳み方が悪いのかその全部が原因なのか、とにかく若干しわが付きよれたTシャツの胸元には、『たこ焼き万歳』とかいう胡乱極まりないロゴがどんと載っていて、その下にはデフォルメされたたこが爪楊枝に刺したたこ焼きをいい笑顔で掲げている、ある意味では猟奇的なイラストが。しかしみるからに大阪土産っぽいが、それにしたって送る方もそのチョイスはどうなんだ。それを堂々と着る方もどうかしているが。……もし他人からの土産じゃなくて彼女が自分で買ってきたのなら、俺はもうなにも言うまい。
黙っていれば美人。正装ならば美人。
俺の目の前にいる、そんな表現がこれ以上ないくらいに相応しい人物こそ、残念なことに俺の実姉である夜鳥十香だった。
その残念な十香姉さんは、とうとうエロ本の一冊を開いて読み始めてしまう。
身内に自分のエロ本を読まれるという状況は、冗談抜きに血を吐くほどきつい。急いでそれを止めるべく俺は本気の声音で姉さんに言った。
「その無駄なところを無駄に透かす洞察力はどうでもいいから、さっさとその手に持っているのを戻してきてくれ……!」
「あら透けてるのはブラだけでいいってこと? このAカップの天使みたいに。ていうかこないだまで巨乳物ばっかじゃなかった? なに、貧乳派に転向したの?」
「うるさいよ上手いこと言ったつもりかよ、大体なんで俺のエロ本事情そんなに知ってるんだよ! それに来るなら来るで連絡しろ! こんな早く来るなら尚更――」
「早いって……もう夜の6時よ? むしろ普段より遅いくらい。それに連絡だってちゃんとしたし、返答無かったけど」
「いやそんな馬鹿な…………嘘だろ」
姉さんの言葉が信じられず慌ててスマホを取り出した俺は、はたして姉さんの言葉が真だったことを理解して、がっくしとうな垂れてしまった。
帰ってきたときはたしかにまだ昼過ぎだったはずなのだが……どうやら一人悶々と悩んでる間に何時間も経ってしまったらしい。なんということだ、昼飯は図らずも抜きになってしまった上に掃除もまだ途中だなんて……。
俺が無為に時間を失ってしまったことで後悔に暮れている中、姉さんが一際大きな声を上げた。
「あ! そうそう終くんに聞きたいことあったのよ!」
「……なんだ突然」
「そんな虚ろな目してる場合じゃなくて! スイーツよ限定スイーツ! 終くんが倒れてる間家中ひっくり返して探したのに、あるのは精々このエロ本たちぐらい! でも姉さん信じてる、心優しい弟のことだからきっとサプライズのためだとかでこっそり隠しているだけだって――」
切羽詰まった様子で捲くし立てる姉さんを見て、今ようやく思い出したことがある。それは――他ならぬ、姉さんに頼まれたお使いの内容だった。
「……ごめん、完全に忘れてた」
姉さんに頼まれてショッピングモールに行ったのにその肝心の買い物を忘れるという、本末転倒どころか転倒して死亡ともいえる失態にいまさら気づき、俺は力なく謝ることしかできなかった。
自分でも頭を抱えたくなる失態だが、しかし『ぶっちゃけしょうがないよね』という気持ちも無きにしも非ず。だって始とか、乳とか。色々大変だったんだこっちも。
「分かってた! うん終くんの様子も正直あれだったし実はそうなんじゃないかって想定してたから姉さん気にしない! うん、もう覚悟はできていたから……」
やたらテンション上げてきたかと思えば、すぐに悲壮感を全開にしだす姉さん。
そこまでお通夜みたいな雰囲気だされると、さすがにこっちも真面目に申し訳なくなってくる。
「ほんとに悪かったって。代わりにって言うのもなんだけど、夕飯は少し気合入れて奮発してやるから……」
普段夜鳥家から離れて一人暮らしをしている姉さんは、しかし毎週土日の最低どちらか1日は、俺の様子を見るためにここへと戻ってくる。
本人曰く『両親の代わりに終くんの面倒を見る義務がある』だそうだが、姉さんの性格があれなもんだから、実際に面倒を見てもらった覚えは全くない。それどころかこの駄目姉、俺が振舞っているご飯を目当てにしている節まである。
実際「やっぱ手料理って良いわ……インスタントやコンビニ飯で乾いた舌に潤いが戻ってくるわ……」とかたまに感慨深く言っていたりするし。というか姉さん、普段の食生活大丈夫か……?
とにかく、そんな事情も踏まえつつ姉さんに詫び代わりとして凝った手料理でも作ってあげようと思い立った俺だったが、次の瞬間にはまた一つ失態を思い出して項垂れてしまうのだった。
「ってああそうじゃん。冷蔵庫の補充もショッピングモールでついでにって思ってたのに、そっちも忘れてたんだ……」
今日は本当に一から十までどうしようもないな俺……。
しかし本当にまいったぞこれは。冷蔵庫の中身からあり合わせで作れればまだ話は早かったが、こういうときに限ってその中身が本当にすっからかんなのだ。
今から作るものを考えて食材を買いに行く、というのは正直面倒くさい。料理に乗り気ならともかく精神的疲労が大きい今だとなおさらだ……が、ここにきて突如猛烈な空腹感が襲ってきた。
そういえば、昼飯抜いてたんだった……。
意識するとさらに腹が減ってくる。姉さんの分はともかくとしても、このままでは俺自身がもたない。
仕方ない……気は乗らないが、夕飯の献立を適当に考えつつ買い物にでも行くか。そう思った直後、姉さんから、突然あるひとつの提案が飛んできた。
「……よし、だったら今日は姉さんに任せなさい! たまにはとびきりのご飯を振舞ってあげるわ!」
「…………は?」
ずぼら系姉ちゃんは浪漫。