前日談3話 俺とあいつと変わらない一日と(前編)
俺が『あいつ』と初めて話したのは、中学校に入学してまだ一ヶ月も経っていない頃だった。
入学初日に熱を出し、ようやく登校したときにはすでに気の合うもの同士で大よそのグループが形勢されていて。
とはいえまだ入学式から3日あまり。その時点なら俺に大さじ一杯程度のコミュニケーション能力でもあればどうにかなったと思うのだが、あいにく当時の俺には小さじ一杯分のコミュ力すらなく。
1週間、2週間と時が経ち、気づけば典型的なぼっちの完成である。
幸いいじめなんかはなかったが、だからといって俺みたいな陰気なぼっちに話しかける物好きが現れることもなく。
読書、寝たふり、花の水やり、それと教室の隅っこの掃除。休み時間は大体その4つでローテを回し続けて3週間、4週間と経った。
中学校生活はずっとこのままなんだろうか……と嫌気が差しながらも、結局は黒板消しをパシパシはたいて煙を吹かすだけの作業に従事していたある日、話しかけてきたのが"あいつ"だった。
「なぁ、なにしてんの?」
――因縁つけられる!?
真っ先に思ったことがそれだったのは、今思い返せばアホらしい話だが、当時の俺は結構本気でそう勘違いしていた。
だから肩を一度震わせ、恐る恐る声のする方を向いて……ちょっと下に視線をずらした。
はたして目に飛び込んできたのは、俺を見上げるくりっと丸い瞳。黒く輝くその瞳に宿っていたのは敵意などではなく、ただ純粋な興味だけ。そして同級生というよりかは、『小学生が迷い込んだ』と言われた方が違和感のない童顔に小さい体。
率直に言って、変だ。あいつの姿を視界に収めきった直後の、最初の感想である。
同じ年齢なのにこんなに小さいことも変だけど、なによりも俺なんかに話しかけることが変だと思った。
だけど……あまり怖くはなかった。なんで、と聞かれたら上手くは言えないけれど……とりあえず、あいつの学ランがぶかぶかだったのはいくらか関係しているはずだ。
「えっと……こ、黒板消しを綺麗にしてた」
だから俺は、あいつの言葉に答えられた。それからは……自分でも驚くほどに、早かった。
いつの間にか仲良くなって、いつの間にかお互いに"親友"と言える存在になった。いつの間にか……そう、本当にいつの間にかだった。
そして誰よりも眩しくて明るいあいつに照らされるように、俺の学校生活も少しずつ輝きを増していった。俺自身も昔よりかは間違いなく明るくなっていった。
初めてだった。
小学校のときも一応片手で数えられる程度だが友人はいた。だがここまで影響されることなんてなかった。ここまで俺を変えてくれる人なんていなかった。
というのにふと後ろを振り返ってみれば、いつの間にか俺の人生は俺が少し前に想像していたよりもずっと輝いていて。隣を見れば、いつもあいつがいて。
気づいたらこの手にあった偶然の産物だけど。近くにありすぎて、普段はそのありがたみを忘れそうにもなるけれど。それでも、だからこそ俺にとってはかけがえのない大切な絆で。
だからあいつが倒れたあの日は本当に心配した。あいつがどこかへ消えるんじゃないかって怖かった。
だから命に別状がないって聞かされたときには、心の底から安心した。性別が変わった、なんて聞かされたけれど……あのときの俺には些細な問題だった。
だって始は始のまま、ちゃんとそこにいたから。女になったっていっても、全然姿変わってないし……いや、姿程度が変わっていても関係ない。
始が始であるならば、俺が俺であるならば。なにがあっても絶対に、俺たちの絆はずっと変わらない。
あのときからも、
あいつの体が、性別が変わったあの日を越えても俺はそう信じていた。そう、信じたかったんだ――
◇■◇
ずず、ずずず……。
ただひたすらに、麺をすする音だけが断続的に聞こえてくる。
俺……夜鳥終斗は今、自宅のリビングにて親友である始と二人して無言で蕎麦を食していた。
冷房が効いたリビングの大机でたった二人向き合って着席し、その中央でざるに盛られている蕎麦を箸で掴んで手元のつゆ入れに放り込む。器の中に注がれているのは塩分控えめで薄味のつゆだから、しっかり漬けて絡ませるくらいがちょうど良い。
だから箸に挟まれた蕎麦の塊をどっぷりとつゆに漬け込んで、それから持ち上げて口に含んだ。始も大体同じタイミングで蕎麦を口にすすり始めたらしく、即興の二重奏が始まった。
ずっ、ずずず、ずず……。
どちらからともなく音が止まる。口内に収まった蕎麦を噛んで潰せば、蕎麦の素朴な風味とつゆのうま味。葱のシャキッとした触感としょうがの鼻にくる刺激。それら全てが手を取り合って口で踊り、『これぞ蕎麦の醍醐味だ』とこれ以上ないほどの説得力をもって訴えかけてきた。
やっぱ夏は蕎麦だよなぁ。
感慨に耽りながらじっくり咀嚼していると、向かい側から始の声が聞こえてきたので俺は面を上げる。どうやらあいつが先に口の中の蕎麦を飲み込んだようだ、相変わらず食べるペースが早い。
「うん……頑張ったあとの蕎麦は旨い!」
「それ、蕎麦じゃなくても言うだろお前は」
「それを言われたら異論はない。だけどそれはそれとして蕎麦は旨い!」
そんな満面の笑みで言われたら、こちらこそ是非もない。今日は諸事情のために、付け合せのひとつもないただのざる蕎麦しか用意していないが、それでも美味しそうに食べてもらえれば嬉しいものである。
ついでに夏休みの宿題がお互いに結構捗ったことも思い返し、二重の意味で俺の顔もほころんだ。
そう、夏休みの宿題。
今は7月20日。海の日当日であり、夏休みの開始日でもあった。
「それにしても、思ったよりも真面目にやっていたなお前。正直もっと早くダレるかと予想していたが」
「ふふん、今年はさっさと宿題終わらせて夏休みをエンジョイするって決めたからな」
今の会話から分かるとは思うが、俺たちはつい先ほどまで夏休みの宿題に勤しんでいた。
今年こそは夏休みの宿題を計画的に終わらせよう、主に始の。
以前から画策していたとおり、俺は夏休み当日から勉強なんて嫌だと渋る始をなんとか説得し、それに成功した。だが説得時の渋りようから、正直なところ始はもっと早くダレるものかと思っていたのだが……存外、事は捗って。
始はところどころヘタレな部分こそあれど腹を括ると……"頑張る"と決めたときには強い。
『早く終われば、後顧の憂いなく夏休みが満喫できる』『宿題は俺の家で手伝ってやる』『ついでに飯も出してやる』。宿題の面倒さよりも俺が並べ立てた餌に天秤が偏ったらしく、十分やる気になった始は悪戦苦闘しながらも真面目に宿題を頑張り、初日にも関わらず結構な量を消化し終えていた。この調子ならば8月上旬辺りで全ての宿題が終わるだろう。
「それに、オレは頑張ると決めたらとことんまで頑張る"男"だからな!」
「なら最初から頑張れよ……って話は置いとくか。実際、去年に比べればほんとよくやってるよ」
去年の惨状を思い返してはうんうんと、感慨深く頷いていた俺。だがすぐにはっと気づいてツッコミを入れた。
「って、お前そういえば"女"だろ一応」
「ありゃ、そういやそっか。まぁいいじゃんそんな細かいこと」
言われてみれば確かに。にししと笑う始は、以前の彼……彼女?とにかく男の頃の始と全然変わっていない。
英語のプリントが刻まれた半袖のTシャツにノースリーブのパーカー。今は机で見えないが、下は少々だぼついたカーゴパンツ。
それに首元に巻かれた薄布のチョーカーも含めて、全体的に大人……っぽくあろうと背伸びしたような印象の強いセンスは今までどおり。
大喰らいのわりに細い腕も、そのくせぷっくりと丸っこい輪郭の童顔も相変わらずで、強いて言えば入院生活が長いせいか若干髪が伸びたように思えるが、だからといって一目で女子に見えるかと言われたら……少なくとも俺には無理だな、無理。
「うん、始はやっぱり始だ」
「なんかそこはかとなく馬鹿にされた気がするんだけど」
「気のせいだろ。それよりも早く食べよう。映画、楽しみにしてたんだろう?」
「むっ、そうだった。ポップコーンとかの分も考えて昼飯少なくしたんだし、さっさと食べてさっさと行かなきゃな!」
言うが早く、始は前よりもがっつりと蕎麦を箸で掴んでたっぷりとつゆに漬けてから、一気にすすり始めた。
会話に出たとおり、俺たちはこの蕎麦を食べたあと映画を見に行く予定だ。
学生は勉強が本分ではあるが、遊ぶのが仕事とも言う。俺だってそれなりに真面目に生きてはいるものの、日なが1日勉強して過ごせるような物好きでもなく、始ならなおさらのこと。
適度なガス抜きは時として頑張るより大事だし、これは頑張りに対する報酬でもあるのだ。
そんなわけで急ぎ蕎麦を頬張る始に合わせて、俺も蕎麦をすするペースを速めるのだった。
◇
出向いたのは自転車で20分ほど漕いだ先にある大型ショッピングモール……にくっついている映画館。見たのはハリウッド産のとある大人気アクション映画……の、続編。
始は常日頃から小遣いの少なさに喘いでいるというのにわざわざBDを買うほど前作にハマっていて、今日の続編を見に行くのがそれはもう楽しみだったそうな。
かくいう俺も始からBDを借りてはがっつり楽しんだ身であり、実のところ今日は結構楽しみにしていた。人に話すとわりと驚かれるけど結構好きなんだ、アクション。
そんなこんなで映画館へ赴く道すがらああだこうだと前予想で騒ぎ、そんなこんなで件の映画を見終わったあと。
映画館を出て、直結しているモール内へと足を踏み入れながら俺たちは感想を言いあっていた。
「いやー、良かったなぁ……なんていうか……良かったなぁ」
「うん……出来自体もだが、映画館で見ると迫力が違うなやっぱり。前作をBDでしか見てなかったのがもったいなく感じるくらいに」
「だよな! 小遣い叩いて映画館まで来た甲斐があったってもんだ、しかも今作はついに3Dだったし! 初めて3Dで見たけどすごいのな! ほら、あのビルが爆発して主人公が空から飛び降りる場面とか。ビルの破片や爆風がバーンって!」
「あー、今の3Dってあんなに飛び出るのかってなったな。それ抜きにしても前作を越えるスケールとアクションだったしおおむね満足だった。ただストーリーが前にも増して大雑把だったのはなぁ、どーなんだあれ」
「ド迫力のアクション見に来てるんだし、話なんてざっくり分かればよくない? 火薬ドカーンとか車バカーンとかそういうのさえあればいいんだよそういうの!」
ぐだぐだと感想を言い合いながら、目的もなくショッピングモールをさまよう俺たち。
話はいつしか『これからどーしようなー』といった辺りに着地していて。
「特にやることも思いつかないし、適当にぶらついてから帰るか?」
「んー、でもせっかく暑い中自転車漕いできたんだし、映画だけじゃなくてなんかしていきたい。なんか……お、終斗終斗」
始がなにかに気づいて体の向きを変えたので、俺もそれに倣う。俺たちの視線の先に広がっていたのは、モール内の一角に陣取られているゲームコーナーだった。
この手のコーナーにしてはかなりの規模があるので、『そこら辺の小さいゲーセン行くくらいならこっちの方が遊べる』と言われるほどだ。
このモール自体がわりと近いこともあり、俺と始にとっても馴染みのあるコーナーだった……はずなのだが。
目の前に広がる馴染みのない光景に俺は今、目を丸くしていた。ちらりと隣を窺うと、始も同じような感じだった。
「ただいま『カップルデー』実施中でーす、カップルの方は今がお得ですよー!」
全体的にピンク色なプラカードを持った女性店員の呼び声が、ゲームコーナーから響いてくる。
あちらこちらへ視線を動かしてみればコーナー全体が派手に飾りつけられているが、やっぱりピンク色が目に眩しい。
そして中にいる客は……ほぼ全てと言っていいほど、どこもかしこも男女男女男女男……ああ、あれはお一人様か。この空間でよくもまぁ……。
とにもかくにも普段の客層が随分近づきがたそうな風貌へと変貌を遂げたゲームコーナーに、俺も内心ドン引きだった。
男一人であの空間には立ち入りたくない。男二人なら……なおさら辛いよなぁ。
始も同じようなものだろう。そう思ってあいつに目を向けたが、しかしあいつはなぜか呼びかけを行っている店員へと向かっていて。
店員と一言二言なにかを話してすぐ帰って来た始が手に持っていた物は……これまたなぜか、『カップルデー』のチラシだった。
「……なんで?」
この3文字の問いが『なぜそんな俺たちに縁もゆかりもないチラシを貰ってくるのか』という意味になるのは、言わずもがな。
始はそれを読み取り、しかしなおかつ真剣な表情で返答を返した。
「そりゃお前……"お得"だって聞いたら飛びつくしかないだろ! タダより安いものはないんだよ!」
それを言うなら『タダより高いものはない』だろうに、勉強の成果を生かせよお前は。
……というツッコミを、俺はあえて飲み込んだ。なぜならばもっとツッコむべきところがあったからだ。
「お前がしょっちゅう金欠気味なのは分かるが、そもそもカップルしか適用されないだろ。男二人でどうしろっていうんだ、いやそういうアレなアレがあることも否定はしないがそれはそれとしてだな……」
「いやいや、男と女じゃん。お前とオレ」
「は? ……あ。まぁ、あぁ、うん、まぁ……」
言われて思いだしたひとつの事実。思い出したが……え、マジでやるの?
俺の困惑を見透かし、始がむんずと強引に手首を掴んだ。しかしこの掴み方からしてカップルとは程遠くないか。
「カップルデーっていっても要は男女二人だとお得になるってだけの話しだし、物は試しだって! クレーンゲームは5回までタダだし、しかもハズレなしのガラガラくじもあるんだぜ!」
「それ絶対ハズレなしとか言いながら、9割方置き場に困るクリアファイルとかボールペンとかしか入ってないやつだろ……」
「クリアファイルもボールペンも使えるだろ! ほら行くぞー!」
必然的に女扱いされることやこのコーナーの魔境ぶりすら"タダ"の魔力には勝てないらしく、始は俺を引っ張りながらコーナー内へと足を踏み入れた。
中に入るとやはりカップルだらけのピンクだらけで「うわぁ」と思わず声が上がるが、引き気味な俺の意思とは関係なく始に引っ張られたまま、俺は結局コーナーの中央辺りに位置する受付へと辿り着いてしまった。
受付は表と違って男性の店員が対応していたが……彼の瞳に光が宿っていないのも表情が抜け落ちているのも、俺の気のせいだと信じたい。
「すいませーん」
「はい……ああ、カップルデーをご利用ですか?」
受付の店員は声をかけてきた始を見て、次に俺にもちらりと目線を向けてから、改めて淡々と尋ねてきた。
俺からしたら始は男にしか見えないのだが、それでもなぜかすんなりとカップル認定されてしまった。なにも喜ばしくない。
なんとも釈然としない気持ちになる俺に対して、始の方は気にする素振りのひとつも見せず、店員から2枚のチケットを受け取った。
「よし行くか!」
最初から最後まで心配になるほどの無表情だった店員を背にして始が歩き出し、俺もそれについていく。
始は歩きながら振り返って、2枚のチケットを提示してきた。
「1枚がクレーン5回分のタダ券で、もう1枚がガラガラくじの券。というわけで、とりあえずクレーンやろうぜクレーン! ガラガラくじはまだ準備中みたいだし」
「まぁ貰ったものは使ってなんぼではあるが、お前もうちょっと色々気にしないのか」
始が病院で初対面の少女に『小さいお姉ちゃん』呼ばわりされたときのことを思い出しながら、俺は疑問をこぼしてみた。
微妙にデリケートな話なので若干言葉を濁してはみたものの、そんな気遣いは不要とばかりに始は笑顔を見せた。
「もう過ぎたことだし、あまりあーだこーだ言ってもしょうがないじゃん。それにこの体のせいでそれなりに苦労しているんだから、こういうときくらい得しないと!」
「前向きだな……うん、お前らしいよ」
性別が変わっても、中身は本当に全然変わってないなこいつ。
「ふふん、まぁね」
始が自慢げなドヤ顔を見せた。
どうやら野暮な心配だったらしい。当人がすでに事実を受け入れているのなら、外野から口出しすることもないか。
俺はひとり納得して内心でうんうんと頷いていたが、始の言葉にはまだ続きが合ったらしい。彼……じゃなくて彼女の呟くような、それこそ単語としては聞き取れないほど小さい声が耳に届いた。
「……でも、"オレらしく"いられたのは……」
「ん?」
「や……なんでもない! それよりもクレーンだクレーン!」
「あっ……まったく、しょうがないやつだ」
始が一足先にクレーンゲームへと足早に駆け出したので、俺も置いていかれないようについていく。
聞き取れなかったかすかな呟き、始は一体なにを言おうとしていたんだろう……。
なんて疑問はいつの間にか、ゲームコーナーの騒音に紛れて掻き消されてしまっていた。
そんなこんなでクレーンゲームの筐体が立ち並ぶ一角に到着した俺たち。始が筐体の中身を順に確認して、どれをプレイするか吟味しだす。
「さーて。どーれーにーしーよーうーかぁー……」
最初は爛々と目を光らせていた始だったが、筐体をひとつ確認するごとにその光が消えていく。だがそれも無理はない、なんせその中身が中身だったからだ。
「……ファンシーだな、全体的に」
「いくらなんだってやりすぎだろこれ! 独り身の男にも配慮したげて!」
おそらくカップルデーのせいだろう。
ラジコンやら菓子やら用途の分からない謎代物やらアニメのフィギュアやら、それなりにバランスよく配備されていたはずの景品は、すっかり全国津々浦々のゆるキャラ軍団やその他女子受け良さそうなキャラグッズにすっかり占拠されていた。
「あれだ、カップル向けだから女性の欲しそうなものを『俺が取ってあげるよ』というあれをあれするためのあれなんだろう多分」
「オレ正直者だから正直に言うぞ! 超くだらねぇ!」
さすが親友というべきか、同意しかない。
しかし周りでは結構な数のカップルが楽しんでいる辺り、ここでのマイノリティは俺たちの方なようでなんとも居た堪れない心地だ。
「むむむ……」
始も実質男みたいなものだし互いに独り身だし、似たような気持ちなんだろう。
しかも俺の記憶にある限り、始はこういったファンシーなものを好まないはずだ。俺もである。
タダとはいえこれは引き返すしかないかな……俺はもう完全に諦めるムードだったが、しかし始のハングリー精神は俺の予想すら超えていたらしく。
「よし決めた、とりあえずなんか取ろう!」
「え。まさかやるのか、これ……?」
「まさかもなにも、やらなきゃ損だろタダなんだし」
こんな状況でも、始は負けずに楽しもうとしているようだ。
……まぁ、当人がやる気ならしかたがないか。
タダならやらなくても損はしないんじゃ。なんて無粋な言葉は、今は胸の内にしまっておくとしよう。
「うーん、でもぶっちゃけ欲しいのないんだよなー……おっ」
右から左に中身を吟味しなおしていた始の目が、ある一点で止まった。
あくまでも原型を崩さない程度の軽いデフォルメが効いた、丸っこい犬のぬいぐるみたち。もふもふと見るからに柔らかそうな毛並みのそれらは、律儀なことに全員"お座り"の体勢で、ケースの中からつぶらな瞳を客へと向けていた。
始はその瞳と視線を交し合ったあと、右の筐体を見て、左の筐体を見て。
「……うん、決めた。これにする!」
「あぁ、確かにこの中なら一番無難な感じだからな」
他の筐体に入っているのはご当地産のゆるキャラとか、どこぞのテーマパークにいそうなファンシーでファンタジーなやつらばかり。
それらに比べれば、これはおおよそただの犬だ。なんとなく抵抗が少ないというのも頷ける。
俺がそういった意図で"無難"と称したことを察して、始も同意を返した。
「分かってるじゃん。というわけでちょっと店員呼んでくるな」
そう言うやいなや始は少しの間その場を離れ、しかしすぐに店員を連れて戻ってきた。そして先ほど貰ったタダ券を使って、5回分のクレジットを追加してもらった。
店員が持ち場へ戻っていくのを余所に、始が筐体へと向かい合う。
「よし、それじゃあやるか。べつに欲しいものじゃないから取れなくてもいいし、タダだから気楽でいいな!」
――はたして、5回目。
商品を守るガラス越しに見える景色は、片隅にぽっかりと空いた景品の出口とそれを囲むように積まれたたくさんのぬいぐるみ。
そのうちの一匹はすでに下半身の一部を出口の上に投げ出していた……が。
アームが横に動く。縦に動く。降りる……ぬいぐるみの頭を引っ張り上げ……ようと軽く持ち上げ、しかしすぐに力尽きてぽとりと落とした。
ぬいぐるみは揺れこそしたものの、位置自体は全くの不動。
あまりにもあっさりと、全てのクレジットが尽きた。
獲物を取ろうが取るまいが、そんなものは全て操縦者の責任だ。
一仕事終えたクレーンゲーム特有の貧弱なアームが、そう言わんばかりに淡々と定位置に戻っていく光景を眺めながら、俺は始を慰めた。
「惜しかったな。ま、タダだし欲しいものでもないし。それこそタダでクレーンを楽しめたと思えばおつりも……」
「まだ……」
「は?」
「まだ、オレは……!」
漫画で難敵を相手して、瀕死になりながらも立ち上がるどこかの主人公が似たような台詞を言っていた気がする。
とにもかくにも始はズボンのポケットから財布を取り出すと、震える手で100円玉を――
「まてまてまて、気楽じゃなかったのか気楽じゃ!」
「だっ、だってもうちょっとで取れそうなんだぞ! ここまで来たら意地でもやりたいじゃん! あと100円、100円だけだから!」
「それ次失敗しても繰り返すパターンだろ絶対……!」
「たとえどんな運命だろうとオレは行く!」
「あっ」
かっこいい台詞と共に100円を投入し、すっかり当初の志を忘れて往生際の悪さを見せ付ける始は、正しくクレーンゲームのカモだった。
ちなみに俺は元々この手のゲームはやらないし、今回も始に5回とも譲っている。いやだって、今目の前にいるこいつみたいにムキになって金使いたくないし……。
「ムキー! どうなってんだこのクソアーム!」
また目の前で尊い100円が失われていく。もうこうなったら止めようがないがはたして景品を取れなかったとして、あるいは"欲しいものでもない"と称した景品を手にできたとして、そのとき始は後悔しないのだろうか。どちらにしてもするだろうな多分……。
それにしても、やっぱ変わらないな始は。
今日3度目だか4度目だか、とにかく俺はまた不意にそう感じた。
以前と同じくちょっと背伸びした服を着て、そのくせ子供のようにすぐムキになるあいつ。その体がすでに異性のものになって1ヶ月半ほど経っているなんて、ともすれば冗談のようにも思える。
……ま、冗談でもなんでも瑣末な話か。
なんて思っている間にボトンッとひとつ落下音が耳に届いた。気がつけば彼女が排出口を前に屈みだすところだった。どうやら艱難辛苦の末にようやくぬいぐるみを落としてみせたらしい。
声のひとつでもかけてやろうと近寄るが、そこで俺はひとつの異変に気づいた。
なぜか屈んだままぬいぐるみを取り出さず、喜びの声すら上げず、ただその場で動かない始。
「……始?」
声をかけると、彼女は一拍置いてからようやく口を開いた。
「……これ、いくらかかったと思う?」
「300円くらい?」
「500円」
「ワンコインといえばワンコイン分か。で、どうしたんだ」
「500円って地味に大きいよね……ぶっちゃけていい?」
「いいぞ」
「今地味に後悔してるんだけど」
「知ってた」
やっぱり始は始である。
彼女は「はぁ」とため息をついてようやく排出口に両手を突っ込み、ぬいぐるみを取り出した。
排出口から引っ張り出されたのは、こげ茶の毛並みと三角耳の子犬一匹。その見た目から推察するにおそらくは『柴犬』だろう。他のぬいぐるみよりも一回りサイズが小さくシルエットも丸っこいので、もしかしたらいわゆる『豆柴』なのかもしれない。
例によってお座りしているそいつを、始は実に微妙そうな顔で抱き上げた……が、ほどなくしてその目が丸くなる。
「おお、おお……?」
感触を確かめるように、ぬいぐるみのボディへと手を沈めては離して。
最初はおそるおそるといった感じだったが、すぐに抵抗がなくなったようでもふもふとなで回したり顔を埋めてみたり。
ひととおり堪能したあと、ぬいぐるみに埋めていた顔を上げて、始が言った。
「これ……すっごいもふってた!」
「そうか」
なんというか、人生楽しんでるなこいつ。
しかし本当はいらない物だったが、当人が楽しんでいるのならば、それで良しというやつなのだろう。
微笑ましく視線を送っていた俺に、始がぬいぐるみを突きつけてきた。
「終斗も触ってみろよ、めっちゃもふいから!」
もふい、とはまた新しい表現だな……。
しょうもないことに関心を抱きながら、俺は突き出されたぬいぐるみと始の両方を視界に収め……ふと、あることに気がついた。
それは気づけば口から漏れていた。
「お前とそいつ……なんか、似て」
「似てねぇ!」
「ふぉっ」
顔に押し付けられたぬいぐるみは……なるほど確かに、これはもふい。
と、ぬいぐるみのせいで暗い視界の中に、突然大音量の放送が響いた。
『ただいまより、カップル限定ガラガラくじを行いまーす! すでにチケットを持っている方はもちろん、飛び入り参加も受付中! 皆様奮ってご参加ください!』
「お、ナイスタイミング! 行くぞ終斗!」
視界が明るくなったと思ったら、見えたのはガラガラくじへと赴く始の背中。
「まったく、忙しないやつだ」
ぼやいてその背を追いかける。ほどなくして俺たちはゲームコーナーの一角、巨大ガラガラくじの前へと到着した。
それを見た俺たちは、異口同音の感想を思わず漏らした。
「これはまた……」
「でかっ!」
普段は精々バラエティ番組でしか見ないような、子供の身長程度なら余裕で越えるほどの巨大なガラガラくじはなんともはや無駄に圧巻で、これを回せるのかと思うとちょっと楽しみになってきた。
ガラガラくじはまだ準備中だったが、すでにカップルたちが並び始めており、俺たちもすぐにその後ろへと混ざった。
ぬいぐるみを片手で抱えている始と駄弁り、待ち時間を過ごす。
「お、くじの後ろに景品の一覧が載ってるな……へぇ、プールや松坂牛なんかも当たるんだってよ!」
「あまり期待しすぎてもなんだが、とはいえ期待しないのもつまらないからあれだ、5等くらいは当たって欲しいな。高性能ミキサーとか地味に使えないか?」
「欲がないなぁ、せっかくなんだし夢はでっかく持とうぜ。あ、でも5等がもし当たったらあげるから今度ジュースでも作ってよ」
「当たればな、当たれば……お、早速回すみたいだな」
「ほんとだ。当たるなよー、当たるなー……」
準備の終わったガラガラくじは、早速先頭のカップルを出迎えていた。
日焼けした精悍な顔付きの彼氏と、若干化粧の濃い彼女の組み合わせ。彼氏の方が「一等をプレゼントしてやるよ」と格好をつけて、彼女と二人でハンドルを回すも結果は白玉。
そんな光景を見ながら俺たちは会話に興じていた。
「よぉしハズれた! 二重の意味でよし!」
「器量が狭いな……そういえば一応はハズレなしって名目だったはずだが……ああ、ティッシュ一箱か。まぁそんなもんだよな」
その後も、初々しい高校生カップルにヤンキー&ギャル、熟年の老夫婦やマセた小学生カップル。
次々とガラガラくじに挑むカップルたちを会話の肴に駄弁っていると、あっという間に列が消化されていつの間にやら俺たちの番だ。
「次の方どうぞー!」
くじの側に立つ女性係員の元気な声に呼ばれ、俺たちはくじの前に立った。始がぬいぐるみをそっと床に置く。
ほどなくして係員がマイク片手に近寄ってきた。
「今度のカップルは身長差がありますねー、背の高い彼氏さんは頼もしいでしょう!」
「そ、そうですね。は、はは……」
係員が場を盛り上げようとコメントを投げてくるが、始にとっては自身のコンプレックスに向かってナイフを投げられたようなもの。
顔を引きつらせながらも愛想笑いで返せただけよくやったと思う。
心の中で同情しつつも、近くだとより大きく感じる巨大ガラガラに「おお……」と感嘆を抱き、さて回そうかと意気込んだとき……俺ははたと気がついた。
「そういえばどっちが回すか決めてなかった。1回だけだよなこれ」
「あー、そういやそうか。どうする? じゃんけんで決めるか」
はたして俺と始は向かい合い、じゃんけんで白黒つけようとした……が、側にいた係員が営業スマイルのまま口を挟んできた。
「こちら取っ手が結構重くなっておりますので、二人で回すようお願いしまーす」
二人専用のガラガラとか初めて聞いたぞ!?
係員の口から飛び出た、間違いなく意図的に仕組まれたであろう碌でもない仕様に俺たちは顔を見合わせる。今の俺たちの心境は多分同じだろう。
「「マジか……!」」
ほら、やっぱり同じだった。
図らずしも始と言葉を揃えた直後、脳裏に浮かんだのは今まで会話の肴にしていたカップルたちの姿。思えば彼ら全員同じように二人で一緒に回していたような気がするが……。
「「あれやるのか……」」
始とまた言葉が被った。
『みんなバカップルだなぁ』と笑って見ていただけに、あれらと同じになるのかと思うと言葉にできない悲しみが込み上げてくる。
というか男同士で仲睦まじく手を重ね合わせて「あははー」「うふふー」とガラガラ回すとか普通に嫌だ。
どうする?どうしよう。アイコンタクトで意思を交わし、頷きあったのが決断の合図。
「行くぞ終斗……!」
「ああ……!」
まるで戦場にでも赴くような面構え。
おそらくこの場に一番相応しいであろう"和気藹々"の4文字から最も程遠い雰囲気でくじに望む俺たちに、係員が営業スマイルのまま首を傾げるのが横目で見えたが今は些細な話だ。
ガラガラくじの取っ手はおおよそ手三つ分。両手で回すと考えて人単位で換算すれば1.5人分だ。つまり普通に回すならば手と手が触れ合い重なり合うのは必然。
だが……逆転の発想、というものがある。
両手を二人して広げたら重なってしまうのならば……あらかじめ、自分の手と手を重ねておけばいいだけの話だ!
はたして取っ手を掴んだ四の手は、しかしスペース的には二つ分。
わざわざ奇妙な持ち方をする俺たちに、係員があくまでも営業スマイルのまま顔を引きつらせていたのが横目に見えたが、もちろん些細な話である。
普通の男子高校生な大きさであろう俺の手二つの隣に、始の手二つが若干の距離を空けて並んでいる。始の手は相も変わらず俺の手より一回り小さかった。
始の方を向いて合図代わりに頷き合うと、始が女っ気とは程遠いかけ声を出した。
「しゃあ! せーの!」
「せーの!」
俺も合わせてかけ声を出し、二人で並んでガラガラくじをぐるりと回す……あっ、なんか思ったより軽い。あの係員嘘ついてたな!まぁこっちも本当のカップルではないので、おあいこといえばおあいこだが。
はたしてぐるりと1週回ったガラガラがぺっと吐き出したのは……片手大の真っ青な玉。
白じゃないことにまず驚き、ガラガラくじの後ろにある看板に載っている景品一覧を見ては、また驚いた。
直後に係員が、大きな声で景品名を読み上げた。
「おめでとうございまーす! 2等の『豊永ランドジャンボプール招待券2名様分』です!」
横では係員がからからとハンドベルを鳴らし、後ろの列からはカップルたちのざわめきが聞こえてくる中、俺と始は事態を飲み込めずただただ顔を見合わせて。
1秒、2秒、3秒……ようやく当たった景品と喜びの実感が沸いてこようというときだった。目の前で始がにんまりと口を弓にしながら右手を上げてきた。
ああそういうことか。考えるまでもなく理解して、俺も左手を上げ、そして――。
「やったなぁ!」
「ああ!」
確かな手応えと共に、パァン!と気持ちの良いハイタッチの音がゲームコーナーに響き渡るのだった。
「え、えーっと……」
おおよそカップルらしからぬ喜び方に、係員がとうとう営業スマイルを解いて目をぱちくりさせていたが、やはり些細な話である。




