後日談5話 久しぶりの大作戦!(後編)
古びた洋館を背景に映るテキストは、文字だけでもねっとりと重い空気感を伝えてくる。
BGMのひとつもなく、俺も始も無言で。ただテキストを進めるためにボタンを押す音だけが静かな部屋に……いや、もうひとつだけ響いているものがあった。
俺の心臓だ。とある事情のせいで、このゲームを始めてからというものの心臓がバクバクと早い鼓動を刻み続けて止まらないのだ。
理由?そんなもの決まっている。
俺たちが今プレイしているホラーゲーム……は特に関係ない。なぜならばそんなものよりも、もっと恐ろしい体験をしている真っ最中だからだ。
具体的に言えば、始に抱きつかれているのである。……いや、饅頭が怖いとかそういう捻った話ではなくてな?
もっと具体的に言えば……当たっているのだ、胸が!
始の胸は、控えめに言っても薄い。薄いが……全くの無ということはもちろんなく。
冬ということもあって普段は厚着だから分かりずらいが、今の始はとことんまでに薄着だ。
それにあいつは甘えてくるにしても、基本的には頭から飛び込むように正面から抱きついてくるのだが、今は胸を中心に半ばしなだれかかるような形で腕を抱きしめてきている。
ここまできたら言わずとも分かるだろうが、胸の感触がほぼダイレクトに飛び込んでくるのだ。
そりゃ薄いか厚いかと言われたら前者だが、それでも確かに感じられる双の球が俺の腕を浅く挟みこむように……ってこらー!
油断していると思考がすぐ疚しい方向に釣られてしまう。どれもこれも今日の始が妙にあざといせいだ。
スカートだけじゃなくて、上まであんなに薄着だなんて……。
露出した肩とか腋とかが視界に入ったときは、本気で変な声を上げそうになった。説教でごまかしたが、内心が悟られなかったか少々心配だ。
ああでもあの腋、肌も輪郭も綺麗だったな……毛の一本もなかったし。元男とはいえ、女子になったんだしやっぱり毛の処理とかしてるんだろうか。うーん、こう、なにかの拍子にあの腋を写真に収め……男はほんとそういうことばかり考える!馬鹿か、馬鹿だよ!
駄目だ駄目だ!こんな雑念ばかり、どうせ始はなにも考えていないだろうに俺ばかりがこんなに欲望丸出しでは……そうだ、ゲームに集中しなければ……。
俺が必死に雑念を振り払おうとする一方で、ゲームの方はひとつの山場を迎えていた。
その瞬間を境に、今までの静寂が嘘のように大迫力かつ不安を煽るBGMが鳴り響く。
同時に画面を占領したのは、悪霊の醜く爛れた顔。古いゲームらしく荒い画質で描かれているが、この場においてはそれすらも恐怖を後押しする要因となった。
ゲーム用に計算され、最適化された演出に『昔のゲームも侮れないな』と内心で唸る俺。
しかしそこまでの代物を始が怖がらないはずもなく、
「ひぃ!」
彼女は短い悲鳴を上げて、俺の腕へと力をこめた。
ひぃ!
柔らかい感触がすごい勢いで腕に押し付けられて、俺も生娘じみた悲鳴を上げそうになった。すんでのところで飲み込んだが、その分心臓の鼓動が一層早くなったように思える。
雑念を捨てろ、恐怖を飲み込め、そうさ今の俺は館の探求者……。
俺は迫る恐怖にゲームの主人公を重ねて、全力でゲームの世界にのめり込もうとする。
その甲斐あってかたった今発生した悪霊から逃げるイベントは、選択肢のひとつすら間違えることなく完璧な逃走に成功した。
悪霊の姿が見えなくなり、ゲーム内の空気がほんの少しだが弛緩する。始もようやく落ち着いたのか、俺の腕への締め付けが少し緩くなった。
良かった、なんとか生き延びられたか……。
俺は二重の意味でほっと一息をつきながらテキストを読み進め――
突然別の悪霊が現れた!俺は咄嗟に身構えた!
「きゃあああああ!!」
始が一際強い悲鳴を上げながら、再び強く抱きしめてきた!俺は……無事耐えることが出来た!
怖い場面に差しかかったら、一拍置いて始が強く抱きしめてくる。
攻略法さえ分かってしまえばあとは作業ゲーだ。今度は大きく動揺することもなくむしろ楽し、もとい恐怖を抑えることができた。
しかしほっと一息入れたところに不意打ちとは、攻略法が分かっていなければ危なかった。やってくれるなこのゲーム……。
俺が内心で密かに戦慄を覚え『もう油断はしない』と心に決めたとき、隣から小さな声が聞こえてきた。
「終斗ぉ……」
ああ、気の抜けたところに突然来たもんな。始もさぞ怖かったことだろう、俺も怖かった。
しかしここは、彼氏として安心させねばなるまい。正直この精神状態で薄着の始を直視するのは少々肝の冷える行動だが、油断しなければ耐えられるはずだ。
俺は腹を括り、始を慰めるために隣へと顔を向けて。
「始、大丈夫か――」
――きゃあああああ!!
喉までせり上がってきた心の悲鳴を、一文字に口を結んで無理矢理押し込めながら全力で顔の向きを戻した。
な、なんだ今の演出!いくらなんでも反則だろう!
今の俺に油断はなかった。だが相手の方がその防御を真正面から打ち砕くほどに強かったのだ。
思わず口に手を当ててしまう。心臓がかつてない速さで活動している。生き物の心臓が一生のうちに鼓動する回数は決まっているという説があるが、それが正しければ俺の寿命はきっと1年くらい縮まっているだろう。
思い出したくないのに、今見てしまった光景が、恐怖の根源が脳裏に焼きついて消えない。
下から見上げてくる瞳と、その目尻に溜まる涙。上気して薄らと赤く染まった頬。
不安げに震える小さい肩は、文字どおり卵のようにつるりとした曲線と白さが眩しく。
極めつけには、緩めのブラウスから覗く水色の……うわあああああ!!
思い出すだけでここまで鮮明に興ふ……恐怖を蘇らせるとは、なんて恐ろしいんだ。
だが俺は彼氏として、その恐怖をおくびにも出さず始を慰めなければならない。
そう、つとめて冷静にだな……
「そういえばお前、上下の色合わせて――ん゛ん゛っ!!」
「終斗?」
「いや、大丈夫だ。任せろ、こんなゲームあと2時間以内にクリアしてやるからな」
「終斗、オレのためにそこまで本気に……」
そのとおり。今の俺は始のためにも雑念を捨ててゲームに望まなければならないのだ。
上下の色なんて気にしている場合ではない。なんのことを指しているのかって?黙秘させてもらおう。
兎にも角にもやれる男は有言実行。一度恐怖の根源を垣間見たおかげか驚異的な集中力を発揮した俺はこれ以降、どんなイベントが来ようと心を乱されることはなく、はたして2時間どころかたったの1時間でゲームをクリアしたのだった。
そうしてたどり着いたEDは、ほんのりビターながらもほろりと来るハッピーエンド。
なんだかんだでゲーム自体は面白かったな……流れるスタッフロールに余韻を感じていると、不意に腕に感じていた感触が消えた。隣を見れば、始が俺の腕から体を離していて。
ああ、こっちも終わりか……自分が色々抑えられなくなりそうなのは確かに怖かったけれど、ぶっちゃけただの役得だったのでこの時間が終わりを迎えるのは悲しいものだ。
ひと段落着いた開放感とちょっとの哀愁を込めて、俺は口を開いた。
「ふぅ……良いゲームだったな」
二重の意味で、ありがとう。
一方、俺の腕から離れた始も怖がってはいたが楽しめてもいたようで、目尻に溜まっていた涙を拭いながら俺に微笑みを向けた。
「うん。結構怖かったけど、最後の方はぐっと引き込まれちゃったよね。EDは感動的な意味でちょっと泣いちゃったし……最後まで逃げずに見て良かったよ」
「怖がりなのに、よく頑張ったよな」
『昔のゲームだから大して怖くないだろう』なんて当初の予想に反して、今のゲームと比べても遜色ないほどの怖さだったのだが、始も成長したものだ。
俺が褒めると、始は照れながら声を落として言った。
「そ、それは、その……終斗と一緒だったから耐えられたっていうか……えっと、でも……」
「どうした?」
なぜかもじもじと言いよどむ始に俺が尋ねると、彼女はためらいながらも続きを話した。
「あの、終斗の方は……ど、どうだった? 俺、ゲームの間ずっと抱きつきっぱなしだったし……」
気持ち良かったです。
「き……」
「き?」
「……気にしてないよ。ノベルゲームだから操作の邪魔にもならなかったし」
すんでのところで本音を抑えて、建前とすりかえた。
危うく意味を取り違えそうになったが、色気より食い気な始が聞くわけないよな。
……自分に抱きつかれていてどういう気持ちになったか、なんて。
今の質問はどうせ『抱きつかれて邪魔じゃなかったか』って意味合いだろう、きっと。
しかし俺の返答に、なぜか始の顔が少しだけ曇る。
そして始はおもむろに机の上を占拠していた"おすわりわんこ"から、一匹だけ引き抜いて座り直した。
彼女の顔よりも大きなそいつをぎゅっと抱きしめて顔を埋める。
「どうしたんだ?」
「……なんでもない。乙女心は色々あんの」
「はぁ……」
なんだかよく分からないが、乙女心は生憎畑違いだ。
迂闊に踏み込む真似は早々するまいて。それはそれとして、おすわりわんこに顔を埋める始は可愛いので一枚撮っておこう。
パシャリ。シャッター音が響いた直後に始は立ち上がった……が、特に勝手に撮ったことに対して言及することもなく。
「よし、ゲームは一旦止め! ちょっと気分転換しよう!」
なんて威勢よく言いだすと、雑然としている本棚から一冊の雑誌を取り出した。
急に元気になったようだが、うーむ……これは女心ならぬ、乙女心と秋の空、とでも言えばいいのだろうか。
乙女心は複雑だ……しかし、あの始が乙女心か……。
なんというか、感慨深いな……と一人耽っていたら、始が俺の隣に戻ってきた。
その手に持っている雑誌は、よく見れば水着のカタログのようだ。
「水着? なんでこの季節に」
俺が素直な疑問を口にすると、始は笑顔で答えた。
「えへへ。ほら、この近くって市民プールあるじゃん。近くって言っても自転車で20分くらいはかかるけど」
「ああ、あるな」
大きくはないし特筆できるほどの中身でもないが、そこそこの近場かつ屋内に作られているため雨天でも開いている。ついでに言えば入場料も安い。
つまるところ『ちょっと泳ぎに行こうぜ!』くらいのノリで利用するには実にちょうど良い、と評判の市民プールのことを始は言っているのだろうが、それにしたってあそこは夏季しか営業していないはずだ。
こんな真逆の季節になぜ……と少し考えて、ふと思い当たった。
「そういえばあそこって今改築中だったか? こないだ通りすがったときに、そんな看板を見たな……そのときはあまり気にしてなかったから、内容までは分からなかったが」
「だったら説明した方がいいね。その改築なんだけどさ、実はもうすぐ終わるみたいなんだ。それでなんと……あそこ、温水プール化するんだよ!」
「なるほど。だから水着か」
「そういうこと。温水だから年中無休になるって話で改築終わったら早速開くみたいなんだけど、改築記念でしばらく安くなるみたいだしせっかくだから行きたいなーって話を、十香さんと電話で」
「待て」
聞き捨てならない名前が聞こえたぞ今。
「待つ」
「よしえらいぞ。で、いつの間に姉さんと連絡先交換したんだ。うちに姉さん来るのって基本的に夜だから、1ヶ月前のあのときしかお前は会っていないはずなんだが」
少なくとも俺が見ている間にそんなやりとりをした様子はない。
それにあのときの始は酔ってすぐ寝たし、姉さんも始が起きる前に帰ったし、連絡先を交換するタイミングなんて……。
「そうそう、そのときなんだけどね……なんか気づいたら上着のポケットに十香さんの連絡先が入ってたんだ」
無駄に粋なことするなぁさすが漫画家!
「それからちょくちょく電話とか某トークアプリとかで話すようになったんだけど……聞いてない?」
「聞いてない……」
あの姉、意図的に言ってなかったな……。
とはいえべつに悪いことをしているわけでも……いや待て。
「始、もしかして姉さんに俺たちのこと話したりしたか……?」
「えへへ、実は惚気とか結構聞いてもらっちゃったりして……あ、十香さんって聞き上手だよね! 楽しそうに聞いてもらえるから、つい会話がはずんじゃって……」
これ駄目なパターンだ……俺はつい額に手を当てながら、始に言わざるをえなかった。
「始、姉さんの職業知ってるか?」
「そういえば、聞いてないかな……OLとか? ピシッとした制服似合いそうだし。それとも明るい人だし接客業とか――」
「漫画家」
「え?」
「漫画家。ほら、俺がこないだあげた新発売の単行本。あれ描いてる中の人」
つい1週間ほど前に発売したばかりの、姉さんにとっては記念すべき初の単行本。
俺にとってもそれなりにめでたいことなのでたまに知り合いに布教しているのだが、それなりに評判がよくてなによりといったところだ。
そしてもちろん始にも布教済で、面白かったという感想も貰っているのだが……よもやその作者が、そんなすぐ近くにいるだなんて夢にも思わなかっただろう。
現実が飲み込めない、と体で示すように一瞬固まってから、大きく口を開いて驚きを露にした。
「……えええええええ!? すごいじゃん! 漫画家じゃん! すごいじゃん!」
始は元々漫画も結構読む人間だ。よほどすごいことなのか、目を輝かせてすごいすごいと連呼をしてみせたが……この様子だと間違いない、彼女はまだ事の重要さを理解していない。
「サイン貰えないかなー」なんて無邪気にはしゃぐ始に真実を伝えるのは苦しいが、それでも弟である俺には、姉さんの策略を止める義務があるのだ。
俺は始に向かって、重苦しい口調で言った。
「……そこまで気に入ってくれて良かったよ。お前が話したネタもきっと、姉さんの漫画に貢献するだろうしな……」
「…………え」
今度は一瞬どころか、10秒ほど固まった始。
「ぁ……」
漫画家に恋バナを与えるなんて、正しく飢えた虎に牛一頭を与えるが如し。
その事実に気づいたであろう始の頬が、見る間に赤く染まっていった。
「あ、あの……」
「うん」
「あ、あんまり話しすぎるのは、ちょっと控えます……」
「分かればいいんだ」
俺が頷くと始は未だ頬を染めたままだったが、話は終わりだと言わんばかりにすぐ話題を切り替えた。
「そ、それよりも今は水着だよ水着! せっかくプール行くんだし、今は通販でも頼めるんだから新調したいじゃんって思ってさ。終斗も新しくしない?」
「俺は去年の物がまだ着れるしな。始は新しくするんだな」
「オレ、去年の夏は妹のお下がりだったから。あのときはまだ水着とか全然興味なかったしお下がりでもよかったけど……今はほら、そういうのも楽しみたいなって。お年玉も結構貰ったしね!」
「そうか。ならプール行くときが楽しみだな」
「えへへ……って、話が一度逸れちゃってすっかり聞くの忘れてたけど、一緒にプール行ってくれるの?」
「もちろん。断る理由がない」
懸念事項といえば、精々姉さんの同伴が確定しているということくらい。
逆に行く理由は、始の新しい水着が見れる。それだけで十分どころか十二分だった。
俺の答えを聞いた始は花開くような笑顔を見せると、意気揚々とカタログを開き、俺にも見えるように床に置いた。
開かれたカタログに載っていたのは女性用の水着。
「どうしようかなー、前のはちょっと子供っぽすぎたし、今度はちょっと大胆に……でも清楚な路線っていうのも気になるんだよねぇ」
ぱらぱらとカタログを捲りながらああだこうだとはしゃぐ始の横で、俺もカタログを眺めながら脳内でああだこうだとはしゃいでいた。
去年の夏はピンク色のワンピースだったな……あれもあれで思い返せば良い物だったが、しかし幼児体型だからといって子供じみた衣装だけが大正義なわけじゃない。
まず肌は目を見張るほど綺麗だ。肢体だって、あの食欲でどうしてそこまで細身でいられるのか分からないほどにすらりとしている。ただ背と胸が他よりも多少小さいだけで、始にも女性としての魅力はちゃんと備わっているのだ。
だから露出度が高くても似合うはずなんだよな。たとえばタンキニとか……いや、いっそビキニくらいでもいけるはずだ!あれは胸を強調するだけの代物じゃないのだ、胸がなくとも露出度が高くてなにが悪いと、俺は力説していきたい。
でもそれはそれとして控えめなのもいいな……ほら、パレオとか。髪なんかも下ろして淑やかな感じを……いいな。よくない?
俺の脳内で繰り広げられていたファッションショーは、しかし始が俺に話を振ってきたことで中断されてしまった。
「終斗」
「ん?」
「あの、その……」
ゲームが終わった直後のように、またもじもじとしながら始は尋ねてきた。
「しゅ、終斗は……どの水着が、オレに似合うと思う?」
「えっ……!」
思いもよらぬ不意打ちだが、ある意味では願ったり叶ったり。
先ほどまでの妄想を具現化するときがようやく来たか!と意気込みかけて……理性が待ったをかけた。ここしばらく本能に負けてばかりだったが、久しぶりに仕事したな理性。
しかしその理性いわく『どこまで踏み込んでいいのかが分からない』ということで。
言われてみれば……実際、始はどこまで"受け入れられる"んだろうか。
元男という過去があって、女性として生きている今があって。
その間で始が苦心する姿だって、俺は目にしてきて。
今でこそこんな教育上少々よろしくない服まで着れている始だが、実際のところ彼女がどれだけ女物の服……ひいては"女性らしさを強いられる"ことに抵抗がないのか。反転病に罹ったことのない俺には上手く悟ってやることが出来ない。
そりゃあ俺だって男だ、自分の彼女に自分好みの服を着て欲しいという欲なんてごまんとある。だが……それで始を傷つけるくらいなら、という思いも確かにあって。
二つの相反する気持ちを天秤に乗せ、悶々と悩み……はたして俺は答えを出した。
「……始の選んだ水着だったら、なんでも似合うと俺は思うよ」
天秤は後者へと傾いた。
一種の妥協ではあるが実際大抵の水着は似合いそうだし、始も自分の嫌な水着は選ばないだろうから、お互いにとってベストな選択肢だろう。
だが俺の回答に、始が一瞬目を見開いた。
驚いたようなその表情に内心で『え?』と疑問を浮かべて瞬きをするも、次に目を開いたときには始の表情は笑顔に戻っていて。
「分かった。それじゃあ頑張って選んでくるから、またプールで見せたげるね!」
あれ……?
後から思えばこのときにもっと疑問を持っておくべきだったが、少なくともこの日の俺には露出とか当たってたりとか水着とか、とにかく心に余裕がなかったのだろう。気のせいか、と最後まで気に留めることもなく今日という日を終えた。
1週間後……その愚かな選択を盛大に後悔することを、このときの俺はまだ知らない。
●
終斗が帰ったあとの夜、1階のリビングにて。
「はぁー……」
ソファーにうつ伏せで倒れ伏したまま、オレは無力感から自然とため息をついていた。
しばらくそうしていると、通りすがったお母さんに声をかけられた。
「あらあら、その様子だと上手くいかなかったようね」
「うん……」
下も上も大胆にして、積極的にスキンシップまでして。それでも終斗はいつもどおりだった。
それでも、せめて好みのひとつでも分からないものかと水着の話題を振ってみたものの……。
「なんでもいい、かぁ……」
単なる気遣いなのか。それとも本当にオレの体に興味がないから、水着だってどうでもいいという証左か。
終斗はずっとオレのことを好きだったのを隠していたから、それを考えれば前者の可能性はある。だけど巨乳好き疑惑がある以上、後者の可能性だって捨てきれないのも事実で。
べつに終斗がどんな好みを持っていてもオレの気持ちが変わることなんてないし、終斗がオレのことを愛してくれているという事実にも変わりはない。ないのだけど……。
『……始の選んだ水着だったら、なんでも似合うと俺は思うよ』
あの瞬間、はっきりと理解した。
きっとまひると話していたときに感じたモヤモヤの正体は、オレの欲望だったんだ。終斗にオレの全部を好きになって欲しいという欲望。
傲慢かもしれない。『体なんて関係ない』なんて、見ようによっては最上級の愛とも言える。
だけど……やっぱりこのちっこくて女として取り得のないであろう体でも、好きになって欲しい。いや、もしあいつの好みに見合わなくても、終斗に好きになってもらえるように自分を磨きたい。
それなのに、結局は終斗の好みすら分からず途方に暮れて。
まるで終斗に片思いしていた頃に戻ったかのように、あいつの気持ちが掴めない。
「恋人になれれば、もうちょっと分かり合えるものだと思ってたんだけどなぁ……」
「恋人でも親友でも、それこそ家族でも、他人は別の生き物だから。いつだって分かり合うのは難しいものよ」
独り言のつもりだったのだけど、どうやら思いの他大きい声が出てしまったようで、上からお母さんの返答が降ってきた。
「なになになんか面白そうな話してる気がするー! 始、終にいとなんかあったの!?」
どこからともなく、妹の初穂まで寄ってきた。隠すことない野次馬根性だけど、オレも逆の立場なら多分似たようなことになるのでツッコミはしない。
ついでにいえば今はツッコむ気力もない、それよりも気になることだってあったし。
仰向けに寝転がりなおすと、上からいつもの微笑でオレを見下ろすお母さんの姿が見えた。
胸も背も小さい、オレ似の母親。この人にしか、聞けないことがあった。
お母さんと目が合うと、オレはそのままの姿勢で尋ねてみた。
「……お父さんはさ、お母さんの体型ってどう思ってるのかな。やっぱ、その……体型なんて関係ない。とか?」
「あー、なに始。終にいにそんなこと言われたの? まぁそりゃそんな幼児体型じゃ」
「初穂、ちょっと静かにしていてね?」
「あ、はい……」
お母さんが微笑んだまま、しかし確かな真剣味を帯びた一言で初穂を黙らせた。
――ここからは選ばれなかった者のみに許されし聖域。選ばれし者は去るがいい。
そう言外に伝えた気がするのはきっと気のせいではない。選ばれなかったオレには分かるのだ。
お母さんが、オレと同じ目線までしゃがみだす。オレもそれに釣られて体の向きを変えてお母さんに向き合った。
目が合って、お母さんが再び口を開く。
「ふふ、懐かしいわね。私もあなたのようにちっとも成長しない自分の体型に悩んでいた時期があったのよ」
「お母さんも……?」
「ええ。でもそんなとき、お父さんが言ってくれたの……『ちっぽけな陸地にありふれた山々なんかよりも、世界にただひとつしかない雄大な大海原の方が俺にとっては偉大で美しく、愛おしい』ってね」
大海原……愛おしい……。
お母さんがうっとりして頬を赤く染める中、初穂が空気も読まずにツッコミを入れてきた。
「いやいやなにその口説き文句!? 山だって高いのはそれなりに珍しいし大海原だってわりとどこでも見れるし、そもそも胸の例えとして無駄に壮大すぎない!? さすがにそれは厳しいんじゃ、ねぇ始……」
「いいなぁ……」
「いいの!?」
初穂が驚くがむしろ悪い理由なんてあるだろうか。
大は小を兼ねる。常にはびこる世間の風潮に逆らい堂々と、恥じらいなく小を賛美した力強い言葉じゃないか。
選ばれない者にしか理解出来ない空間で、初穂を置き去りにしてオレとお母さんは話を進める。
「まだ諦めるには早いわよ、始。複雑なのは乙女心だけじゃない、男心だって色々あるのよ。特に思春期なんてそう、みんなかっこつけの意地っ張りなんだから、使えるものは全部使って外側引っぺがさなきゃ意外と分からないものよ」
「使えるものは、全部使って……」
「もちろん嫌われたら意味ないから『親しき仲にも礼儀あり』ってことは忘れないように。そしたらあとは全力で、ね?」
なんて言われれば、『ああそうか』と心が自然に思い返した。
「そっか……そうだよね。今までと変わらない。使えるものは使って、全力でぶつかる……まだ終斗から直接好みを聞いたわけじゃないんだ、オレ……もうちょっと頑張ってみる!」
ソファーから飛び降りて、ぐっと拳を握るオレ。
そうと決まれば行動あるのみ!自分でチャレンジして駄目だったのならば……。
「あらあら、もう元気に。若いっていいわねぇ」
のほほんとしたお母さんの声を置き去りに、オレは自分の部屋へと戻る。
続けて部屋に置いてあったスマホの某トークアプリを開いて、ある文章を打ち込み、すぐに送信した。
メッセージを送ったのは、おそらく終斗に一番近いであろう人。ともすれば、オレよりも。
使えるものは全部使って。漫画のネタにされる可能性もあるけれど、そんなことで躊躇している場合じゃないから。
すぐに"既読"の文字が付き、ほどなくして返信が。そしてオレも、さらに返信を。
それを何度か繰り返したのち、送られてきた文面がこれだった。
『あなたの悩みは全部まるっと分かったわ、私に全部任せなさい!』
サムズアップのひとつでも浮かんできそうな、力強く頼もしい文面の主。その送信者の名は『夜鳥 十香』だった。




