第2話 ヒラヒラと、フリフリと。(前編)
たとえば中学校入ってすぐ。あいつは今よりも数段引っ込み思案でひとりぼっちだった俺に、誰よりも早く手を差し伸べてくれた。
たとえば中学2年生の秋、クラス委員を決めるとき。定員2名の飼育委員に興味こそあれ自信がなくて手を上げられなかった俺を引っ張るように、あいつは俺に一瞬目配せをしてから先に手を挙げてくれた。
たとえば高校1年の春、あいつが反転病にかかる少し前。二人でコンビニに立ち寄ったときに見つけた、好奇心はそそられるものの明らかに怪しげで俺がつい飲むのをためらってしまったドリンクをあいつは「任せろ!」の一言で実際に飲んでみせた。ちなみに存外旨かったらしい。
他にもたくさん。大事なことも、くだらないことも、楽しいことも。
――いつだって、最初の一歩はあいつが踏み出していたんだ。
◇■◇
あの悶々と悩まされた夜から数日後の土曜日。
時の流れとともに、とりあえずいつもの調子を取り戻した俺は、たまの休みを満喫しようと朝から家中の掃除に励んでいた。
そういえば昔、始に「掃除が楽しいとか変わっているなぁ」と呆れられたことがあったけど、あいつは少々分かっていないと思う。
楽しいだろ、掃除。適度に運動できるし、汚れを落とすのは気持ち良いし、綺麗にした景色を見るのは爽快感あるし。それにこれは俺個人の事情だが、どうせ一人暮らしなんだから家事は楽しんでやれる方が精神衛生上もよろしいだろう。
そんなわけで今、高校生一人が暮らすには正直広すぎる3LDKの我が家を俺は掃除道具片手に駆け回っているのだ。
フローリングを拭き、台所のシンクを磨き、風呂の垢を擦り、換気扇もきっちりと洗う。ついでに布団を干しつつ……。
といった感じであっちにこっちにと、ただひたすら掃除にのめりこんでいた俺の思考に横槍を入れたのは、ズボンのポケットに入れておいたスマホのバイブレーションだった。
今やっていたトイレ掃除を中断し、手に持っていたブラシをブラシ入れに突っ込んだら両手のゴム手袋を外して。掃除を中断させられた上、地味に長い動作を強いられることに若干のイラつきを感じながらも、パスワードを打ち込んで画面を開く。
そのまま某有名トークアプリを開けば、そこには一件のメッセージが。差出人の名に、ああ面倒事かな。となんとなく察し、メッセージを開いてみて、ああやっぱりな。と、ひとりため息をついた。
『今日うち――あ、私の家じゃなくて終くんのいる家ね。たしかその近くにデパートあったでしょ? あそこで今日限定スイーツの販売やってるらしいから買って来て欲しいの! 今日の夜受け取りに行くから、お願い><』
メッセージを確認していると、すぐに画像も送られてきた。円形のビスケット生地をフルーツの山が豪勢に彩った、男の俺でも食欲を刺激されるほど綺麗なタルトが写っている。
……ま、掃除ももうすぐキリのいいとこまで片付くし、どうせその後は暇なんだから仕方ない、行ってやるか……。
俺はそう思い立つと、軽く右肩を回しほぐしてから再びゴム手袋をはめてブラシを握る。
「それにしてもうちの近くって、自転車で2、30分はかかるんだが……まったく、弟使いの荒い『姉さん』だよ。本当に」
オレはそうぼやきながらも、トイレだけはとりあえず終わらせておこうと、気合を入れて掃除を再開するのだった。
●
「――始、アンタ……終斗も惚れるような可愛い女の子になりなさい」
「…………へ?」
と、そんなわけで始まった『朝雛始美少女化計画(まひる命名)』。
そのスタートは、まひる曰く「なにごともまずは形から」ということで。
「――そんなわけで、某ショッピングモールにやってきたわけだけど……なんていうか、芋っぽい」
形から……つまりファッションとか髪とか要するにオレの外見を磨くため、休日に近場のショッピングモールでまひると待ち合わせていたオレだったけど……合流してからの最初の一言がまさか「芋っぽい」だとは、とんだ不意打ちである。
「い、芋っ……そんなに変かなぁ……」
今日のオレは、無地のTシャツの上にもう一枚チェック柄のシャツを羽織り、下は迷彩柄の長ズボン。そんで首に黒のチョーカー巻いたり、ズボンにちょっとしたアクセントとしてチェーン付けたりとかして小物を全体的に散りばめた、どちらかと言えば少し派手寄りな装いをしていた。
バリエーションこそそれなりにあれど男のときからずっと、オレの私服の雰囲気そのものは概ね今日と同じような感じだ。
じゃあどうしていつもそういった格好をしているのかと言うと、認めたくはないけどオレは男のときからどちらかと言えば……そう、どちらかと言えば!同年代に比べて子供っぽい体型だ。
だからせめて服装で大人っぽく、かっこよく見せたいって考えた結果、自然とこんな感じになったのだけど……その結果が"芋っぽい"だもんなぁ。
一方のまひるは柄のないカットソーの上にジャケットを羽織り、脚の輪郭が映える青いジーンズを履いたシンプルかつ中性的な服装だったけど、高い背にすらりと伸びた肢体。あと本人のざっくばらんな気質もあるのか、総じてかっこよさと綺麗さをしっかり兼ね備えた彼女に似合う装いになっており、そのセンスの良さを窺わせる。
出会い頭にオレの服装を一刀両断したまひるは、次にオレの全身をじっくり下から上まで目線で辿ってから、再び言葉の刃を振りかざしてきた。
「変って言うか……有体に言えば似合ってない。もっと具体的に言うなら無理して背伸びしてる感がすごい」
「ぐはぁ!」
袈裟斬りだけに留まらず下段から斬り返してきた言葉の刃が、オレのハートを再び切り裂く。
実は……実は、男のときからも若干自覚はあったんだ。でも、今日に至るまでずっとなけなしのプライドで見てみぬ振りしていた。
だって、幼児体型って認めたくなかったから――。
オレは人目もはばからずその場で膝をつき、無力感に打ちひしがれることしかできなかった。
「オレは、オレはずっと周りからそんな目で見られていたってのか……!」
「うわ人がこんな綺麗に崩れ落ちるの初めて見た……こう、もうちょっと他になんか無かったの?」
「そんなこと言われても、男の頃からずっとこんな格好ばっかしてたし……女物とか、わざわざ着る気もなかったし……」
女になって約半年。色々と慣れてきたこともあるけど、オレだってそれまでの十数年男として生きてきたのだ。未だに慣れなかったり避けてしまうことだってある。
例えば言葉遣いなんかはまるっきり男の時のままだし、服もその類だ。
セーラー服なんかはさすがに慣れたけど、私服ともなるといかにもなヒラヒラから溢れる女子力に気圧されたり、スカートの頼りなさとかがどうにも落ち着かなかったりして、ついつい男のときと同じような服装に逃げてしまっていたのだ。
そのツケがまさかこんな所で来るとは……!
「オレはこれから、どうしたら……」
「大丈夫よ、始」
項垂れるオレの肩にそっと手を乗せたのは、いつだって頼りになる親友で。
「今日は、あんたの外見を磨くためにここに来たんだから。私が、あんたをどこに出しても恥ずかしくない立派な美少女にしてあげるわよ」
「まひるぅ……」
縋るように見上げた先には、優しく微笑むまひるがいる。
無駄に飾らず、気取らず、それでいて洗練された彼女の装いは大人らしくてかっこよくて、正しくオレの理想の姿そのものだった。服装そのものは全然女の子っぽくないのもなお良し。
そんな彼女に任せたのなら、きっと――。
「オレも、まひるみたいにかっこよくなれるかな……」
「…………」
ねぇ、なんでなにも言ってくれないの。
「なにも考えず、私に全部任せなさい」
ねぇ、その微笑みの裏になにかあるような気がしてならないんだけど。
オレが心の中で言い知れぬ不安を感じた直後、まひるはオレの腕を持ち上げて無理矢理立たせ始めた。
「ようし、そうと決まったらちゃっちゃと行くわよ! 始って素体は良いから弄りがいがありそうって前々から思ってたのよね!」
「ねぇなんでそんな張り切ってるの!? ほんとに信じていいんだよね!」
有無を言わさずオレを引っ張って進もうとするまひるに対して、止まらない不安からつい声を張り上げてしまったけど……振り返ったまひるは、相変わらずの優しげな微笑みで。
「あんたの望む結果になるかは蓋を開けてみなきゃ分からないけど、女子初心者の始に一つだけ教えてあげるわ」
だけどその声音からオレは、まるで"鋼"と称しても過言ではない硬い意思を感じた。感じとって、しまったんだ。
「女子っていう生き物はね、自分だけじゃなく――人を着飾ることも大好きな生き物なのよ」
◇
はい、そんなわけで。
「やりとげたわ……完璧ね、これで宣言通りどこに出しても恥ずかしくない"小動物系"美少女の出来上がりよ」
ショッピングモール内の一角、本屋や雑貨などが立ち並ぶ通路で、まひるは青空を見るような爽やかさで天井を見上げながら言った。無論、今いるのは室内だから青空なんて見えるはずもないのだけど、その曇り無き笑顔を見ていると本当に快晴が広がっているような錯覚を覚える。
……オレの心に広がってるのは、むしろ空を覆い地を乱す激しい嵐なんだけどね!
オレは羞恥心から顔を真っ赤にし、スカートの裾を握り締めながら目の前のまひるへ精一杯のツッコミを入れた。
「オレがどこに行くのも恥ずかしいんだけど!? 違う、オレが求めてたのはこういうのじゃない……!」
服屋に靴屋に雑貨屋に。まひるの勢いに圧倒され、されるがままに目まぐるしく連れまわされて。するとあら不思議、気がつけばオレのコーディネートは完遂されていて。
生まれて初めて着た……着てしまった淡い水色のワンピースは、腰辺りから膝下にかけてふわりと広がったスカートが、清楚感と可愛らしさを絶妙に両立させている。
しかし当然そんな服を着れば、秋も深まる今日この頃だというのに足がくっきりはっきり露出するわけだけどそこはそれ、純白のニーソックスがスカートとの境目にわずかな肌色を残しつつもしっかりとガード……ガード、してるのか……?
ちなみにオレが履いていた、一年間苦楽を共にしたスニーカーは衣装代えと共にお役御免となって、今はシックな茶色のストラップシューズがその代わりを努めている……のだけど、靴としての性能を限界まで削いだそれはぶっちゃけ歩きにくい。スニーカーの機能美がいかに尊かったのかをオレは今、再認識している。嗚呼、あの『靴とは歩くために履く物だ』という真理を体現したかのような優美なフォルムが恋しい……。
そんでもって無造作に流していた栗色の髪はふわふわの白いシュシュを使い頭の右側で括られて、ぴょこんと飛び出たサイドテールへと様変わりしている。同じポニテの類でも髪が短いせいか、まひるみたいに燐とした馬の尾とはいかず、どちらかといえば可愛らしい子馬の尻尾みたいな感じになっているけれど。
もうひとつついでにいえば、今着ているワンピースはさっきまで着ていたズボンと違ってポケットが無いので、そこに入ってたオレの財布やスマホは素朴で優しげなデザインの白いポシェットに収まっていた。これも勿論、まひるプレゼンツ。
さぁなんという事でしょう。そこには芋っぽいと一言で評された平凡な少女の姿はなく、思わず庇護欲をくすぐられるような小柄で可愛らしい一人の美少女が――ていうかオレなんですけどね。
いや自己評価で美少女とか何様のつもりだと自分でも思うけど、でも実際以前のオレよりも間違いなく服のチョイスは似合ってるし多少は可愛くなってはいるはず、はず……オレの求めた路線とは、間逆だけど……!
「オレは、もっと大人っぽく……」
「自分の体見てから言えよ」
「あぅ」
オレの心に二度も刃を滑らせてなお、その切れ味に衰えはない。
しかも実際、今の可愛らしい服がオレの体にどうしようもなく合ってるので、反撃のしようもないのがまた悲しい。
「でもいやよいやよと言いながらも、ぶっちゃけ『イケる』って思わなかった?」
「まぁ、否定はしないけどさぁ……」
そりゃね。正直最初に鏡見た時は、服だけでこんなに変わるものかと本当に驚いたよ。「これが……オレ?」ってそんなベッタベタな台詞を思わず口に出してしまうくらいには。
自分で言うのもなんだけど「これならワンチャンあるんじゃね?」とも、思った。
だけどそんな自画自賛もつかの間。
一応制服にだってスカートもソックスもあるけれど、今着ているワンピースやニーソ、シューズなんかもなんていうか制服に比べてデザインがすっごい女の子していて、"女装"している感みたいなのが半端無い。
いや男の頃なら兎も角今は女なんだから"女装"というのもおかしな話だとも思うけど、それでもオレの中に残っている男としての価値観的なものがそう感じるせいか、羞恥心でオレの心が悲鳴を上げてしまうのだ。
それにこの髪型も……まひろのポニーテールは彼女の大人っぽさや活発さを上手く強調してるっていうのに、オレのサイドポニーはなんだか子供っぽさや可愛らしさを強調されてるみたいでこれまた女装感が強まっている気がする。
そういった理由によりこの格好をしているだけでも結構恥ずかしいっていうのに、この格好をさせられて以降妙に周りの人たちから視線を感じてそれが更に恥ずかしさを助長させていた。やめてー、見ないでー。
顔の赤みが抜けないオレに向かって、まひるは楽しそうに笑ってみせた。
「良いじゃないの胸張りなさいよ。女は見られてナンボよ? そんだけ始が可愛いってことでもあるんだし」
まひるはそう言うけれど、オレはもう恥ずかしさで頭が一杯で、初見のときのわずかな自信すら保てないんです。
むしろこれで似合ってないとか面と向かって言われたら、恥ずか死んでもおかしくない。そう考えると不安ばかりが募っていく。
「ほ、本当かよぉ……てかもしそうだとしても、やっぱり恥ずかしいし……もしこんな所、仲の良い奴にでも見られたら……」
「……あー、たとえば夜鳥くんとか?」
「あ、それ無理だわ。多分死ぬ、いや絶対死ぬ」
「ほぉ」
見知らぬ人でもいやだけどまだマシ。知り合いだとぶっちゃけきつい。友人だとさらにきつい。
その理屈でいくと親友はやばい、頭が爆発するレベルでやばい。
まぁでも今日この日こんなところでそう都合悪く、終斗とばったりと会うわけもないだろうし……うん、終斗にうっかり見られる前にこの服はしばらく封印しよう。まひるには悪いけど、オレにこれは早すぎる。主に心のレベルが足りないのだ、RPGにたとえるならオレはスライムで苦戦する程度のレベル。勇者よりも村人の方がお似合いだ。
この女の子レベルMAXの服はいつか魔王を倒せるくらいになったら着よう、なにしたら魔王倒せるのか分からないけど。
そう心の中で決心したオレに対してまひるは不意に、あくまでもなにくわぬ顔で言った。
「始、ちょっと後ろ向いてみ?」
「後ろ?」
あまりに自然なまひるの言葉に、オレはなんの考えも持たないままとりあえず後ろを向く。
そう、すぐ後ろに魔王が潜んでいることも知らずに――。
「……その、なんだ。わざとじゃないんだ」
特に弄った様子のない自然体の黒髪に、クールな印象の強い端正な顔立ち。
後ろを向いたオレの視界に入ってきたのは、なんだか気まずそうな感じで立ちつくす終斗だった。
その瞬間、きっと村人が魔王にばったり出くわしたときについ思ってしまうであろう一言が、オレの脳裏にも浮かんだ。
――あ、死んだわ。