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VERTIGO  作者: 東 砂騎
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手帳に挟んだ写真の中の少佐は、少し緑がかった目でこちらを真っ直ぐに見ている。

砂漠の直射日光にハレーションを起こし、ダイヤのように輝くラプターの前で、僅かに微笑んでいた。

写真を撮った日も、朝夕は寒く中綿入りのフライトジャケットを着ていたことさえ思い出せる。

所属戦闘機部隊のロゴが入った黒い野球帽の下の眼差しは、強くて鋭かったが、同時に優しかった。

年季を刻んだ目尻の皺。半分白くなった眉と、刈り込まれた髪の毛。

戦闘機乗りとしては最後の時期を迎えつつあった少佐は、それでもハンサムといえる顔立ちをしていた。

決して、若さや恵まれた外見といったものでは届かない精悍さ。がっちりとした頸に、フライトスーツに包まれた頑丈な体躯。

写真の中に残るその面影は、とても死を迎える年の写真だとは思えない。

そして、少佐の脇の下ではにかみながらも笑う自分。

少佐のフライトジャケットを着て、腕を組んで寄りかかる幼い笑顔の少女は、経験した交通事故こそが自分の人生最後の試練だと信じていた。

まだ髪の毛を伸ばし始めたばかりで、夜は首筋を撫でる冷たい風に肩をすくめていたのを覚えている。

写真を撮ってくれたのは誰だっただろう。少佐の後輩パイロットだった気がする。

温もりを伴った記憶は、夢のように曖昧にうつろう。

誓の目を見て、その眼差しが武器なのだと、そして相手の心を知る力なのだと言ってくれたひと。

パイロットにずっと憧れていた誓に、空の広さ、その美しさ、鋼の翼の強さと脆さを教えてくれたひと。

そして、その命で、一瞬の中の永遠を教えてくれたひとだった。

守谷 優人。

今でも、その名前をなぞれば、冷え切った命に蝋燭のような火が灯る。

もりや やさと。

呟いてみる。どこにもいない。

目の前には、その名が刻まれた黒い墓碑。冷たい御影石に、その(おもかげ)は見出せなかった。

緑に囲まれた、戦場とは無縁な閑静な墓地に守谷は眠っている。

ひしめく墓石が続く、死者のための場所。生い茂った緑が、近くを通る幹線道路からの騒音を遮る。

黒いスーツを着て、誓はその墓石の前に佇んでいた。

小平霊園を吹き渡る風に耳を済ませても、守谷の声は聞こえてこなかった。

ずっと存在を無視してきたことを、とうとう堪えきれずに認めてしまう。


少佐の代わりに、私が死ねばよかった。


そう考えることが罪なのだと、ずっと自分に言い聞かせてきた。

しかしその思いは錯覚というにはあまりにも重く、そしてはっきりとした存在感を持っている。

質量も時間も存在しない、虚無の暗闇がぽっかりと臓腑に穿たれたようだった。

もとより全てに負けたことを認めていた。

無力は罪で、本来生き残るべきものを殺したことも罪で、生き続けていることも罪だ。

裁かれるべき罪であるはずなのに、何の咎めも受けずにいる自分への天罰が下ったのだと思った。

涙を殺し、誓は呻き声を上げた。手足が竦んで、頭の中がノイズでいっぱいで割れそうになる。

たった一言、許さない、とでもいい、守谷に言ってほしかった。

真新しいトルコギキョウの花弁の青も、たなびく線香の煙も、もう守谷には届かない。

入間にアプローチするラプターが、轟音を立てながら頭上を通過する。

それを見送って振り向くと、ふと誓はそこに立つ青年に気付いた。

黙って立っているその青年は、手に白い百合の花束を抱えている。その視線は、誓を通り越して守谷の墓に注がれていた。

彼に軽く頭を下げて、誓はその場から去ろうと踵を返した。

「待ってください。谷川さん」

その時、歳はいくつか上に見えるその青年は、はっきりと誓の名前を呼んだ。眉に掛かるくらいで分けて整えられた前髪の下から、少し緑がかったハシバミ色の瞳が誓を捉えた。

動きを止めて青年を見返すと、彼はよく通る声で続ける。

「いや、・・・谷川軍曹」

彼が履いているベージュのチノパンのポケットに目を転じると、黒いパスケースのようなものが覗いていた。それはチェーンでベルトループに繋がれ、落ちないようにされている。

恵まれた長身と体格に通った背筋。そしてポケットに入っているのは恐らく、軍人の身分証だった。

相手の出方を窺い、誓は沈黙した。歩み寄る青年に、身体を硬くする。

その瞳の、澄んだ色。明るい茶色の髪色。そして、ハーフのような雰囲気の綺麗な目鼻立ち。そして、故人を連想させるそれらを持つ青年は続けた。

「僕は、守谷の甥です。・・・今日は、あなたと話をしたくて来ました」

青年は、日高と名乗った。日高 (あさひ)。同じく空軍の軍曹で、今は百里の管制隊に勤務しているという。

「・・・どうして、私が来ると」

「月に一度は、墓前に供花があると聞いていました」

押し黙ったまま、誓は日高に向き合った。何を聞かれるのか、そしてその後に何を責められるのか、誓は考えた。

「少し話しませんか」

日高は、穏やかながら、拒否をさせない声音でそう言った。




週明けの月曜日は長い。

不味いだけの紙コップコーヒーを飲み干して、そのままゴミ箱に捨てる。

コーヒーとは名ばかりの、脳に糖分を補給することが精々のそれの、べたつく後味が残った。時計を見ると、まだ午後1時だ。

頭が重い。著しく鈍った誓の頭は、これ以上の情報を拒否している。

手足が浮腫んで、いつもより重い。筋肉に粘土が詰まっているようだ。

何よりも、頭が疲れているのは分かっている。

休みなど取れるはずもないスケジュールを思い返すと、頭の中で膨張した脳が熱を増した気がした。

廊下の自販機コーナーに腰を下ろす。壁に寄りかかり、軽く目を閉じた。

「道川曹長、この調整16時までですよぉぉ!」

どこかで、数回言葉を交わしたことのある一等兵が叫んでいる。

大事な調整を忘れたまま、どこかへ行こうとした上官を追っているらしい。

ビニール張りの廊下に、キュッキュッとコンバット・ブーツの靴底が擦れる音が響く。

眠れない夜が、瞼を重くする。目を閉じた暗闇に、光の靄が広がった。

5分だけ、何もしないでいよう。

メタリック・ブルーのアナログ・ウォッチをちらりと見て、誓はゆっくりと息を吐いた。

海兵隊と空軍の合同訓練への準備は慌しく進んでいる。この後には、自分達のセクションのブリーフィングがあった。

踏みとどまっている暇はないし、仕事は早足でやってくる。

自分を支えていたものが内側から崩れてしまった後に、気付かないフリをしていた途方もない疲労感の復讐に遭う。

だるいのに、眠れない。鼓動のたびに脈打つ脳の血管を意識する。

大丈夫。

足を踏み出せば、また歩き出せる。

この足は壊れちゃいないし、神経だって正常なのだから。

残り2分15秒は、何も考えないようにする。

大きく肺に空気を取り込んで、細くゆっくりと吐き出す。

いつも意識しない空気に、僅かずつ色々な匂いが混じっているのを感じる。

灯油に近い燃料の臭い。整備員の汗。銃の鉄。靴に踏まれた、雨の後の草。

汗の臭いにも色々な種類がある。ざらついた、肉汁に似たものから、酸っぱいものまで人それぞれだ。

それから、柔軟剤の残り香。

今残っているのは、女性のシャンプーにも似た、柔らかなフローラルだった。

今度は聴覚を澄ませる。

甲高い、C―130のターボ・プロップエンジンのジェットの音が飛行場の空気に突き刺さる。

その中に、電動ねじ回しに似た機械音がかすかに混じっている。

偵察ヘリOH―1の、ローターの駆動音だった。

握った掌と、いつの間にか力をこめていた脇に、滲んだ汗の温度。

意識して力を抜き、手を伸ばす。

過去のことも、未来のことも考えない。

誓は、目を開く。霞んだ視界を、2、3度瞬いて絞った。

立ち上がるとわざと足音を立てて、階段を上がった。

まだ歩ける。

まだ戦える。

背筋を伸ばして、ブリーフィング・ルームに入った。

いつの間にか何もかも壊れてしまったが、誓とは無関係に世界は続いている。

空っぽになった誓を支えるのは、惰性と僅かな戦意だけだった。

飢餓状態でどこまで生きられるのか、まるで他人のように自分を眺めている。

だんだん、精神が削られて、脆く鋭くなっているのに、何もいえずに衰弱していく。

一体、このままどこまでいけるのだろう。全てが擦り減った後に、何があるのだろう。

誓は目を上げた。

椅子の並べられたブリーフィング・ルームには、三々五々人が集まりつつある。

正面のボードには地図や資料が貼り付けられていた。

和光でのブリーフィングはこれが最後だ。あとは入間経由で三沢に前進し、青森での訓練になる。

本来の空軍での任務だ。三沢到着後に、佐久や彦根と調整できる時間はあまり期待できない。

今のうちに細部まで詰めておかなければならなかった。

隣に座った藤枝に会釈する。

「誓ちゃん、大丈夫?顔色良くないよ」

「そうですか?何ともないですよ」

ああ、ひどい顔をしているのだなぁと悟る。

悲しみや怒りや、何よりそれら以外の何ともいえない感情には質感があって、胃の中を塞いでいる。

汁物に僅かな飯を食べるのが精々で、常に指先が冷え切っていた。

食べなければと思うほどに、空腹感は失せる。

「おっすー」

部屋に彦根が入ってくる。顔に貼り付けた笑顔を返す。

まだ無理矢理にでも笑える自分に驚いた。

これは仕事だ。個人が何を考えて何を抱えているのかなんて関係ないのだ。

それでも、彦根の顔を見るとほっとする自分がいる。

何となく安心できるのは、少佐に少しにおいと雰囲気が似ているからだ。

海兵隊の濃紺の迷彩が、段々と席を埋めてくる。中には、誓と同じように出向してきた、陸軍の迷彩も混じっている。

メモを開くなり、指で膝をトントンと打つなり、めいめいがブリーフィングの開始を待っている。

少し遅れたみほと佐久が、早足で入ってきた。

また笑顔で会釈すると、佐久がぎょっとした顔をする。

そして何かを言おうとして目を逸らし、黙って隣に座った。

仏頂面で腕を組み、目を閉じている。

何も言ってはこないが、ヒビが入りかけた誓のことを、きっと見抜かれているのだと思った。

午前のフライトで迷彩服はたっぷりと太陽に当たり、よく干された布団と、かすかな汗のにおいがする。

あまりにも健康的なそれが、この状況では何だか滑稽でひどく哀しかった。

手にしたアルミのカバーの手帳が、背後から差し込む陽光に反射する。

指揮系統を表す鎖に、英知と慧眼の象徴である梟があしらわれた入間の部隊のステッカーが貼られている。

一瞬、それが自分の部隊のエンブレムだとは思わず、いつの間にかここの肌合いに慣れきってしまった自分を自覚した。

手帳の年初めを見ると、まだ入間にいた頃のスケジュールが書き込まれている。

フライトの予定日や、訓練、演習が味気なく並んでいる。

リフィル式の手帳は、大体一年が過ぎれば中身を入れ替えるが、一番奥の写真ポケットにあるものはずっと変わらない。

失ったものの全てが、たった一枚の中に収まって、そこにはある。

ここで、その写真を見たら、佐久はきっと気付くだろう。憐れむだろうか。

それとも思い出に縋る女と蔑視するだろうか。

そこまで考えて、僅かに唇の端をゆがめた。馬鹿馬鹿しい。

佐久にだって、彦根にだって、何か抱えているものはある。

自分のことで精一杯なのも、皆同じだ。世の中はそういう小さな営みで構成されているのだと思った。

他人からすれば所詮、取るに足らない一時の幻影に過ぎない。

考えるのをやめた。

あらかた訓練参加者の揃ったところで、部隊長の前森が入ってくる。

篤実なやり手で名の知れた前森だが、その有能さゆえに多忙であまり部隊では見かけなかった。

「気を付け!」

一斉に起立した参加者達が気を付けの姿勢を取る。

説明を行う彦根が、さっと敬礼し、「ブリーフィング実施します」と報告する。

前森が答礼した手を降ろすと、彦根が休めの号令をかけた。

「それではこれより、訓練の想定説明を開始する」

ロシア領日本軍が侵攻を開始、青森に上陸。

敵戦車部隊が上陸し、青森一帯を占拠。秋田岩手の県境で、現在停止中。

敵は更に南侵を企図しており、そのための準備に入っている。

勢力は現在、3個機械化師団。今後も津軽海峡を渡って、増援が到着する模様である。

「尚、白神付近で、活発な敵偵察部隊の活動が確認されている。また、岩手秋田地区には民間人に扮した敵ゲリラが潜入している模様」

地図上で設定された敵性地域が、赤く塗られている。

今回の訓練は、青森侵攻とあるも訓練地域の都合上、岩手青森秋田の県境を跨ぐ演習場での実施になっていた。

敵の機甲部隊を撃破し、味方の前進を掩護することが主の目的となる。

本来対戦車戦に最も強い、戦闘ヘリの掩護は欠かすことができない。

それから、敵味方識別装置が作動しなくなったときの、SAMコリドーの説明。

日ごとに設定されるそれは、コリドー(回廊)の名の通り、航空機のために設定される経路だった。

ここを通れば、たとえ自分の所属を示す識別信号が機能しなくなっても、味方から迎撃されずに基地へと帰投できるという訳だ。

それから、訓練中のディスクリート・コード。

航空機が特定のパルスを発信し、それを受信したレーダーにはパルスに対応した数字が表示される。

三沢のレーダー管制下にある航空機は、頭が54から始まる4桁の数字を割り振られて発信している。残りの下2桁で航空機の個体を識別するのだ。

佐久はボールペンでメモを取っている。

実際の訓練区域をスクリーンに映し出し、彦根は更に説明を続けた。

「本訓練には陸軍、青森の歩兵連隊、戦車大隊と、空軍の支援、エイワックスが1機参加します」

それから、実際の訓練実施の要領についての説明が始まる。

佐久、彦根はフォーメーション・フライトで、整備班はその後に基地のC―130定期便で三沢へと前進。

誓は入間を経由し、三沢で空軍の支援として参加する。

今回は、佐久機の脳直指揮システムを用いた最初の実訓練になる。

ここでの自分達の評価が、今後に大きく関わることは重々承知していた。

鈍っていた頭に集中が戻ってくる。

入間出発は明後日の早朝5時。荷物はもうほとんどまとまっている。

必要な情報をメモ帳に書き出した。

「それではこれより、訓練間の気象の概況について説明します」

気象予報の技術士官、三輪中尉が気象予報図をスクリーンに映し出す。

山岳の多い東北地方上空の気象は、気流の乱れが強い。

3Dの大気データを表示し、強い山岳波の発生する地点がマーキングされる。

高気圧と低気圧の移動が日別のグラフィックで表示され、霧の発生や雨の予想日が表示された。

「三沢周辺、訓練区域では夜明けごろから9時頃にかけて霧による視程障害が発生するでしょう。なお、訓練間の夜明けの時刻は次の通りです」

夜明けと日没の時刻が表で出てくる。

三輪の気象概況の説明が終わると解散がかかり、各部ごとのブリーフィングに移行した。

足早に終わったそれで、確認する事項を質問し、やがてその後は各人の準備の時間になった。



入間出発まで8時間。、

何度床に入っても寝付けず、足は格納庫に向かっていた。幸い、格納庫内は数箇所に電気が灯っている。まだ準備をしているものがいるのだ。

やはり鍵は締まっておらず、ドアノブを開けると静かに足を踏み入れる。

静かな格納庫の中へ入った。照明の白い光に、機体は濃い陰を落としている。

隣接する部屋での電子機器の調整なのか、格納庫内には人影がなかった。

佐久機が、彦根機に並んで静かに佇んでいる。

息を潜めた工具や部品の森の中で、大きな岩のようにそれは存在している。

人間の体よりずっとずっと大きい。羆よりも大きい。

こんなものが空を飛ぶのだ。

誓は黙って、ざらついた青い輪郭を晒すそれを見ていた。

ヘリの鼻先に据えられた、アローヘッドが目の前にある。

そこから続く精悍なフォルムのコックピットや、二つのエンジンの付いた背。すらりとして逞しいテール。

失った空をもう一度、蘇らせてくれたもの。

鼻先をそっと手で撫で下ろす。冷たい装甲の感触。

センサーのガラスに、そっと手をかざした。

負け続けて、何もかもが瓦解してなお、空は青かった。

佐久の目で視る夏の、濃く、ガラスのように透き通った蒼。コックピットに触れる雲。

時に味方を救う英雄になり、敵を燃やし尽くす悪魔にさえなる翼。

戦士(ガージ)というTACネームを持つパイロットには、相応しい機体だった。

もう、自分が佐久にはなれないことも、決して少佐の命を償いきれないことも受け入れられる。不思議と穏やかな気分だった。

ふと、整備用の潤滑油や、鉄の臭いの中に、いつもとは違う匂いがしているのに気付く。

「誓」

一瞬幻聴を疑った。

まるでアパッチそのものが言葉を発したようだった。

コックピットはここからは陰になって見えない。

その声が消えた夜には微かにだが、深く瑞々しい、上等な沈香の香りがしていた。どこから来たのだろう。

「良い香りがする」

「線香だろう」

視線の質感を肌に感じていた。アパッチは電源も入っていないように見える。それなのに、暗視装置と赤外線カメラを搭載したアローヘッドは生きているように見えた。

「パイロット学生だったときに、教官に連れて行ってもらった場所」

「・・・お寺が、ですか?」

佐久の体温を、アパッチの機体越しに感じた。

指先でそっと、アローヘッドのレンズとレンズの間に触れる。

象のように大きく、そして賢い瞳。

「教官の縁の寺で、よく効くからと黒部大尉・・・教官は御守りを買ってくれた」

その声には、抑揚は無かった。

そのことが却って、影の色彩を感じさせる声だった。

佐久が過去のことを語るのを聞くのは、これが初めてだ。

「でもその年、8月10日の12時45分、エンジントラブルでおれの機は墜ちた。黒部大尉は死んだ。御守りは効かなかった」

そのときにベイルアウトに失敗し、佐久の体は重傷を負った。

最後まで操縦桿を離さなかった黒部の機体は、秋田の山間に墜落した。

山肌に機首を突っ込む形で墜落した機体は紙くずのように滅茶苦茶になり、周囲の木々や土やパイロットを巻き込みながら焦げて四散した。

鋼鉄の機体すらくしゃくしゃになる衝撃の中で、人間の柔らかい体など粘土のようなものだ。

黒部の肉体は肉片になり、まともに形を残していたのは爪の付いた足の親指の一部だけだった。

それも、航空燃料の火災で煤け、よく見ないと遺体とすら分からないような状態。

佐久は失明し、半身不随、両方の大腿を切断。生死の境目を彷徨った。

どうにか一命は取り留めたが、本当の地獄はそれからだった。

視覚を失った佐久が見た本当の闇。絶え間なく襲ってくる、無感覚になるほどの激痛。

麻酔は常習的に使うことは出来ず、ただただその痛みに耐えた。

どこまでも纏わりつく闇に、自分がこのまま消えてしまう恐怖に取り憑かれ、とにかく絶叫した。

時間の感覚が麻痺し、思考が上手くまとまらなくなった。

肉の塊として生きているように感じた。

そしてその時は、黒部が死んだことさえ知らずにいた。そんな事を考える余裕さえなかった。

「何だか偉い奴と松本がおれの前に現れ、手術の話を持ってきた。おれは一も二も無く飛びついた」


――視覚と、四肢が回復してからおれは、ようやく黒部大尉の死を知った。


それまで一度も、黒部大尉のことを顧みなかったおれは、矮小な人間なのだと思い知った。

――それを忘れるために、色々なものを恨んで生きてきた。

浅ましさ故に、あのお寺も、御守りも、自分と似た誓も、全てを憎まなければ生きていけなかった。

それは罪の告白だった。


「どうして、その話を今」

問い返した誓に、佐久は答える。

「・・・済まなかった」


そうして佐久が口を噤む。

目を閉じた闇に、佐久の息遣いを感じた。指先で触れたアローヘッドに、血の巡りと温もりを覚えた。

佐久から溶け出したような湿度と暗さが、影を満たしている。

深海の冷たさと、融けた鉄の熱さが交わって、生温い温度で揺らいでいる。

死の淵に一番近い場所で、佐久のいのちはまだ確かに生きていた。振り絞ったその声が、佐久の存在を証明する。

「・・・砂漠の夜明け作戦で、何が起きたのか聞いた」

アローヘッドに額を寄せ、誓は少し微笑んだ。

「そうですか」

生きるために、人間の犯す罪。

同じ疚しさを抱えた人間の間でだけ、その罪深さは赦された。

生きる人間の弱さと過ちを許すような温もりに、誓は目を閉じ、体を委ねた。そして、本当に心の奥に隠していた想いを、言葉にしてみようと決めた。


「少佐は、・・・守谷少佐は、私の全ての憧れでした」

ラプターのパイロットであり、命を救う翼だった少佐は戦死した。それも、戦闘機に乗らずに地上で。

その時、誓はその死を目の前で見た。

「なぜ少佐が死んだのか、鳥海少佐は言っていましたか」

「いや」

その答えを聞くと、誓は淡々と続ける。

その時、誓たちが駐留していたのは、キャンプ・ヘンドリクセンだった。

武装勢力による大規模な襲撃に遭い、連合軍に多数の死者を出した砂漠の夜明け作戦最大の汚点。

佐久は沈黙していた。恐らくは、その結末が見えていた。

誓は、言葉を続けようとした。しかし寒気とともに這い上がる手の震えを感じた瞬間、喉に空気が詰まった。

口に出せば、今度こそ守谷少佐が死んでしまう気がする。誓の中に閉じ込め、生きていた、思い出の中の守谷が。

鮮烈に蘇る赤い色。そして、アンモニア混じりの硝煙のにおい。爆薬の爆ぜる音。

その中で見た、最後の守谷の横顔。

気が付けば、額を抑え、眩暈に膝を付いていた。冷たいコンクリートの温度が、膝の骨を伝う。

必死に抑えようとする感情が、唇を震わせた。奥の歯ガチガチと音を立て、呼吸をするのも苦しい。

機体から降りた佐久の気配が近付く。肩に置かれたその手を払い、誓は気が付けば嗚咽していた。

「見ないで下さい」

拳で涙を拭い、顔を背ける。

苦しい。見ないで。止めて。そんな言葉の濁流だけが、口を突いて出る。止めて。どうして。見ないで。もう止めて。

助けて。助けて。助けて。


――少佐を助けて。お願いだから、少佐を助けて。


そのとき、言葉は、時間を遡った。その懇願は、掠れた絶叫だった。あの日叫んだ言葉が、よみがえる。

いつの間にか、うずくまっていた。息を切らせて振り向けば佐久の顔は歪み、紅潮していた。

不意に戻った静寂に、現実が戻ってくる。

奇妙な静けさの中、誓は他人のもののような自分の声を聞いた。

「・・・少佐は、あのとき私を助けようとして、脱いだヘルメットに手榴弾を抱え込みました。そして、床に伏せた・・・」

離れろ。それが守谷の最後の言葉だった。

銃撃戦の中で、テロリストと正対した数秒。誓は、その頭に引き金を引けなかった。そして交戦が発生し、手榴弾はあの場所に落ちた。

「あのとき、私が引き金を引ければ・・・敵を殺していれば、強ければ、少佐は、死ななかった」

救命処置も無駄だった。命は失われ、それから誓は生きている。

脱力して項垂れ、不意にこみ上げてくる笑いに唇を歪める。

「それからずっと、私は守谷少佐に恥じないように生きようとしてきました。少佐に守られた命が、貶められてはならない。強くなければいけない。そして、後悔してはいけない」

けれど、と続ける。

「今となっては、どれも叶わなかった・・・」

無力。結局、抗いきることはできなかった。虚しさを覚え、何もかもが無意味に思えた。

いつしか腕を掴む佐久の手が、煩わしい。それを振り解き、身をよじる。

「誓、立て」

佐久の声もまた、平常ではいられなかった。

「立てよ」

それでも、半ば持ち上げるように強引に誓を立たせた佐久を睨む。佐久の赤くした目の淵に、誓は疑問を覚えた。

どうでもいい女の、どうでもいい話のはずだ。どうしてこんな顔をしているのだろう。

誓の迷彩服の襟元を締め上げた佐久は、激昂しているように見えた。眉間には皺が寄り、眦は釣りあがっている。

顔を上げた誓を、佐久は眼を見開いて見ていた。容赦のない劫火が、その目には燃えている。

「いいか。おれ達は飛ぶしか能のないゴミ鉄屑だ。精々這いつくばって生きるしかないんだよ」

詰め寄られて、後頭部にアパッチの装甲が当たる。

「それが何だ。意味がないなら何になる。弱いなら何だ。これから飛ぶ空は全部下らないか。おれの飛ぶ空も、いつか救うかもしれない命も、お前にはクズなのか」

佐久の拳には、血管が浮いていた。それは、一番誓に似た男の詰問だった。自分の価値と命に揺らぎ続けてきた、一人の人間。

乾きかけた瞳を、再び厚い膜が覆う。

「違います」

心の奥底から答える。その声に偽りはなかった。

吐き出した心情は真情だった。

「・・・それでも、私は少佐を忘れてはならない。でもみんな、あの時から変わっていく。いつか忘れてしまうことが怖い」

脳裏に、日高の姿が過ぎった。日高の言葉は激しく誓を動揺させた。

あれから数年、自分が目標にしてきた叔父を奪った存在が許せなかった。日高は、守谷の最後に居合わせた百里の救難員から、誓の存在を知ったという。

顔を知ったのは、遺体安置所を映した写真週刊誌に掲載された一枚の写真によってだった。

守谷の棺に伏せる誓の写真が、掲載されていたのだという。

遺体の状況。一枚の写真。そして救難員の話。日高はそれらから真相を知った。

誓を、許せない、と呟いたその声。その後に日高は続けた。

「僕は、救難員に志願する。お前が出来なかったことを、僕には出来ると証明してみせる。命を救ってみせる。お前が僕より劣っていることを証明した瞬間、お前の無力を劣るゆえに赦そう。お前を恨むより、叔父はそれを喜ぶだろうから」

日高は生き、変わろうとしていた。空軍でも志願者のみ、選抜で残ったトップクラスのエリートである救難員。その道は極めて険しく長い。

人命を救うためにあらゆる訓練を受け、波濤の海、険しい雪山、奥深い山中でも墜落したパイロットを救い出す。

佐久も、日高も、信じる方向へ戦い続けてきた。その背は遠く、もはやそれを追う力が誓には無かった。

「どんなに変わっても、忘れるはずなんて、ない」

佐久が、ぽつりと呟く。過ぎた時間の中の絶対に、彼もまた苦しみ続けている。

「だから、立てよ」

声がする。気が付けば視界が歪んで、熱が目頭から零れていた。

襟元を掴んでいた力が緩み、踵が地面に付く。

生きるために殺した。それは人間の業そのものだった。

それを背負って罪を重ねることを、佐久は許容していた。

誓を、逃しはしない。

共に手を汚した誓を。

憎まれても、拒絶されても、バディを生きさせようと強制しているそれは佐久の優しさだった

「頼むから、立って、闘え。そうしたら」

願うように、佐久が言葉を搾り出す。

「おれが、飛べない無念を連れて行ってやるから」

その言葉に、目を閉じた。

手が汗ばんで熱い。嗚咽が呼吸と言葉を塞ぎ、誓は苦い塩味を飲み込んだ。視界を歪める熱を手の甲で拭い、奥歯を食いしばった。

佐久が親指で目頭を擦る。

無言の中に、湿り気を増す呼気が満ちる。腰が砕けるような震えが、身体を襲った。

カチカチとぶつかる前歯の音。そして、沈黙が続く。

生きることに執着しなければ生きていけないふたつの影が、コンクリートに映る。


「佐久少尉」

連続した無言を破ったのは、佐久の背後から恐る恐る発された藤枝の声だった。

目を赤くしたまま顔を上げた佐久が、さっと士官の顔を繕う。

「あの・・・整備班で夜食作ったんですけど、いかがですか」

誓は顔を背ける。そのまま黙って立ち去ろうとした誓に、藤枝が声をかけた。

「・・・誓ちゃん、どお?折角だし、うちの豚汁美味しいよ」

上手く言葉が出なかった。去りたかったが、逡巡が足を竦める。

俯いたまま黙っていると、不意に手首を強い力が掴んだ。

骨に食い込むほどの強い力に、痛覚が戻ってくる。

「行きます」

佐久が勝手に答えた。そして、誓だけに聞こえる声で、はっきりと囁く。


生きるために、食え。


佐久の口調には、許すつもりも見逃すつもりもなかった。

そして、(せい)への凄まじいほどの執着があった。

自分は随分と長い間、それを失っていたのだと知った。

ただ生きることを、誰かの命を食って生きながらえることを、肯定されたかったのだと。

佐久は、誓を無理矢理引きずる。まだ歪んだままのその背を、誓は見つめた。


アパッチの整備班が待機室で用意してくれた飯は美味かった。

ふっくらと温かい白飯に、良く味噌の塩気と香りの効いた豚汁。

食べながら涙が零れて、苦しかった。

空っぽだった胃を、温かい豊かなものが満たしていく。

芯まで火の通った人参。うっすらと透けた大根。脂身のあるぷりぷりした豚肉。

「泣くほど美味いか、ほら、お代わり食え」

藤枝が注いでくれたお代わりを、また泣きながら掻き込んだ。

隣で佐久が、時々涙を拭いながら飯を食べている。

体中が生き返っていくのを感じていた。

――守谷の血肉で生きながらえている。

それなのに、こんなに豚汁が美味く感じたことに罪悪感を覚えた。

賤しく、浅ましかった。情けなかった。

そして、恐らくは同じ想いをして、それを赦す人間が隣にいることが救いだった。

腹が一杯になるまで食った。

呼吸は熱く速い。睫毛は濡れて、目の周りが腫れている。

それでも、体は、心は、生きようとしている。

生きることを狂ったように求めている。

胸の中に生きている守谷の命を、初めてはっきりと感じた。

電撃のようにはっきりと強いその衝撃。

守谷はこの中に、こんなにも近くにいたのに、どうして気付かなかったのだろう。

箸が落ちて、手が震えた。加速する呼吸に、眩暈が起きる。

頑丈な掌が、震える右手をそっと強く握った。

そのまま、両手でしっかりと握られた掌が、熱を増す。

その確かさに、息を吐いた。そして誓は、祈るように、目を閉じる。

佐久の目から溢れた涙が、その手に落ちた。



『・・・これに対し、ロシア領日本の加藤議長は「大変遺憾であり、我が国に対する挑発行為である」とコメントし・・・』

情勢の悪化を報ずるニュースが、三沢の食堂に響いている。

佐久は箸で飯を口に運びながら、それを流し見していた。

津軽海峡の国境問題は日に日に深刻化し、沿岸警備が厳重化されている。

函館からは北海道が望めるのに、越えられない国境がそこにはあった。

アメリカ領の領海に侵入した漁船を拿捕したことを巡り、一時緩和した国境問題はまた悪化していた。

ロシア領は大都市部を除くと経済状況が良くない。アメリカ領に比べると質素な暮らしを強いられていた。それでも、朝鮮半島の情勢よりはかなりいいといえるだろう。

特に軍の練度は高く、精鋭揃いと言われていた。

旭川や函館の連隊は、北海道全域から選抜された超人的特殊工作員を多く擁している。

『青森港です。こちらでは厳重な警戒が敷かれ、出入りする船を青森の歩兵連隊員が検査しています。中央からも海兵隊が増員に到着し・・・』

デジタルモザイク・パターンの迷彩服を着た歩兵連隊の兵士が、漁船の中を捜索する。

その右腕には赤い腕章が巻かれていた。

漁師は致し方ない、といった風情でそれを眺めている。年季の入った赤銅色の肌は、漁師が戦場に近い海で操業してきた長い時間を思わせた。

インタビューにも、「仕方(すかた)ねぇんだ、青森だがらなぁ」と応じる。

佐久は、三沢でも何となく張り詰めた空気を感じていた。ここは前線基地だ。

末端の兵まで、起こっていることに敏感になっている。

三沢は海にすぐ面した基地であり、防空の要である反面敵からも狙われる。

地理上の特性としては海霧に覆われることが多く、そのために視界がゼロでも着陸できる精度のレーダー誘導を備えた唯一の基地だった。

『それでは、次のニュースです・・・』

北の短い夏は駆け足で去ろうとする。窓の外は早くも残照に染まっていた。

広い食堂を眺めながら、佐久は味噌汁を啜った。

食事時間も終わりに近い所為か、人影は疎らだ。

海風を受ける三沢は、夏でも夕方になれば気温が低い。風の強いエプロンでは、少し肌寒さを感じるほどだった。

三沢に屯するF―16が離陸していく爆音が、食堂の窓をかすかに震わせる。

士官外来の場所を頭の中で確認し、明日のスケジュールをもう一度思い起こした。

トレーの上に空いた食器を重ね、紙ナプキンで口を拭った。

食べ終わった食事を片付け、短く合掌して席を立つ。返却口で声をかけると、食堂勤務のおばちゃんが「はぁい」と返事をする。

食堂から歩きながら、ふと三沢出発前の日々を思い出した。

ぎょっとしたのは、顔色の悪さだけにではない。何よりも、まるで存在しないかのような、生気のなさにだった。

心も体も乾ききって、まるで瀕死の病人のように虚ろだった。

強いと思っていたものが、砂の塊のように脆いものだと知った。

互いを許容できる余裕はなく、弱い人間がいがみ合う。それが世の中の大半だった。

痛みを知れば、自分を守るために尚更相手を傷つける。

簡単に相手を受け入れることが出来れば、戦争は起きない。

そしてようやく、争いの果てに何かを見つけるのだ。

目を上げれば、三沢の整然とした建物の並びを、夕日が薄く金色に塗る。

エプロンでエンジン出力を上げたり絞ったりしているF―22のタービン音が、悲鳴のように三沢に響いていた。

反対側を歩く兵卒に答礼をしながら、波打ち際のような薄い雲の重なりを見上げる。

漣のような群雲が、高高度に幾重も広がっていた。東北の短い夏の最中にもう、秋の気配が肌をなでる。

空の天井が高くなり、夕焼けの色彩は淡くなる。

麻痺し続けてきた痛覚が、少しずつ戻ってくるのを感じていた。

一歩一歩、三沢を歩く。足の裏を押し返す地面を感じる。


おれはまだ、生きている。


広がり始めた夕闇の中で、佐久は無意識に拳を握った。

感覚はある。心も体も、死んではいない。黒部や、守谷とは違う。今の時間の中を、確かに生きている。

浅ましくても、弱くても、まだ戦える。

腕時計を見た。

もう入間発のエイワックスは到着しているはずだ。

何かを確かめたくて、急かされるようにエプロンへと走った。格納庫の合間を縫い、ヘリの駐機場所へと。

肺の中に、流れ込んでくる冷気が心地よい。血が巡り、鼓動が高鳴る。

熱い息を吐く。

背の低い格納庫を抜けると目の前が開けて、だだっ広い飛行場を見渡す。

そこには、三沢のものではない機体が羽根を休めていた。

白銀の膚を残照に染めて、航空灯火を輝かせている。

背中に黒の傘を背負ったそれは、エプロンの中でひときわ大きく、優美だった。

整備員がランディング・ギアと呼ばれる脚や、機体の下に取り付いて点検を行っている。

滑走路や誘導路、ターミナルを彩る灯火の色とりどりの輝きの海に浮かぶその姿はひどく幻想的だった。

空を染める濃い鮮やかな青。残照の熱さ。その色に映える三沢の景色。佐久は、エプロンに出されたアパッチに近付いた。

整備班は夕方に到着し、点検を行っている。

発動機を積んだ電源供給車を傍らに従えて、アパッチは佐久を待っていた。こういった燃料や電力を補助するものが飛行場には備えられている。

藤枝はアパッチの上の足場に立ち、背の装甲を観音開きに開いて中を見ていた。

他の整備員はパソコンを開いている。機体のわき腹にはコンピューターとの接続口があり、専用の端末で飛行履歴や機体の状態を知ることが出来た。

機体の装甲の各所には扉がある。

ブロック状に設計された各コンピューターは、そこから故障箇所を交換するだけで修理が可能になっていた。

「お疲れ様です」

藤枝を見上げて挨拶をすると、藤枝は笑顔でお疲れ様です、と挨拶を返す。

夕闇を吸って影を濃くするアパッチの機影。

機体の両側面の出っ張りはアビオニクスの格納場所だったが、同時に整備の際はそれが足がかりになる。

そこに足をかけ、佐久はローターハブを見上げた。

銀色のシャフトを軸に取り付けられた、ブレードのヒンジは頑丈で、弾薬箱に似ていた。

2枚のブレードをひとつに組み合わせ、それを2つ組み合わせて、アパッチの四枚のブレードは構成されている。

また、メインブレードと機体にはジョイント部分が無い。回転軸の根元であるギア・ボックスが機体の中心に設置されている。

お陰で高い負担に耐えられ、以前のヘリコプターではありえなかった宙返りや捻りといった機動が可能になっていた。

「どうですか」

「特に問題はありません。アビオニクスも調子がいいです」

佐久機の唯一の弱点は、精密すぎて繊細だということだ。

脳神経への情報処理を行う機器は、本来ならば戦闘ヘリのような野外での運用には向かない。

不時着時には必ず神経の接続を切るように徹底されている。

そうしなければ、脳への後遺症が残る可能性があるからだ。

「ここはすっかり涼しいですね」

「ええ」

飛行場を吹き抜ける風に、藤枝が目を細める。腕まくりをした藤枝は僅かに汗をかいていた。

ふとE787に目を向けると、いつの間にかクルーがエプロンに集合していた。

こちらも機材の調整だろう。

数十メートル離れているが、全長60メートルを越す機体は間近に見えた。入間の部隊の帽子を被った誓が、クルーの列の最後尾で立っている。

ふと、そこにいた鳥海と目が合う。鳥海は相変わらずの鋭い視線で、佐久を見た。

軽く会釈をすると、にっと笑う。

どうにも油断できない雰囲気があり、佐久は少し警戒した。

ふと、列を離れてその鳥海が歩き出した。こちらへ向かっている。

後ろに誓を引き連れた鳥海が、ヘリを見上げる。

「少し見ていってもいいかね」

「どうぞ」

皺の刻まれた目は鋭いが、今は他意がないように見える。

少佐の後ろで、置物状態の誓が、「これが、AH―64X型です」と、まるでショールームの案内みたいな商会をした。

一日も経っていないのに、久しぶりに見るような気がする誓は、他人の顔をしている。

「テールに付いているのが、チャフ・ディスペンサーです。カートリッジは30発です」

アローヘッドからロングボウ・レーダー、エンジン、コックピット周りまであっさりと一通り説明する。

最後まで、相槌を打ちながら聞いていた鳥海は、唸りながらヘリを見上げた。

「私がメディックのときにも、こんなヘリの支援があればね」

「メディックだったのですか」

「ああ」

知力体力気力ともに優れ、軍隊で一番の過酷な訓練に耐え抜いたエリートのみがなれる救難員(メディック)

敵地に取り残され、あるいは海上を漂流するパイロットを救出するためにあらゆる訓練を受ける。

待つものにとってはまさに救いの天使である一方、任務中の事故によって命を落とすものも後を絶たない。

目を細めてヘリを見る鳥海の目の鋭さは、なるほど元メディックだと思えば納得できる。

「今度は、是非うちの部隊を見に来てくれ。E787がどう運用されているのか、理解をしてもらいたい」

佐久の目を見て笑う、その真っ直ぐな眼差しは誓に似ていた。

色んな場所に、誓の欠片が散らばっている。誓に影響を与え、誓を変化させたものが。

当の誓は小首をかしげて、どこか遠い目をしている。その瞳は、まだ少し腫れているように見えた。

「ありがとうございます」

「では、今訓練間はよろしく頼む」

差し出された手を握ると、強い力で握り返された。

それでは、と軽い挨拶を残して踵を返した鳥海。彼を挟み、一瞬誓と、佐久が向き合う。

ふわり、と金色に染め上げられた誓の後れ毛が風に揺れた。

グレーの迷彩服を着たシルエットが、残照にほのかに赤らむ。

E787の白い翼を背に、誓は佇んでいた。

遠くを見るその佇まいには、研ぎ澄まされた鋭さが漂う。佐久が初めて見る誓の表情。

薄暮に染まる薄青の世界の中で、その姿は飛行場の光に縁取られていた。

後れ毛は銀色の光をたっぷりと吸い、まるでジュラルミンの翼と同じ色をしている。

夕暮れのとろとろとした色彩をその身に映したエイワックスを背に、若いフライト・オペレーターは真っ直ぐ立っていた。

三沢を包む潮風のにおいと、数多の灯り。銀の翼は、遍く味方を守る力を秘めて、そこに存在している。

誰に讃えられることもなく、それは明日も明後日もいくさ場を飛ぶだろう。

その連綿とした時間の質量に、佐久は胸が詰まるのを感じた。

「・・・・」

誓は頬の辺りの肉がいくらか落ちて、目の下には影がある。

それでも、眼光にはガラスの破片に似た輝きがあった。レーダー上に現れた輝点のように、その光は確かな存在を示す。

何があっても、今バディは誓しかいない。

ひとつの事実が、静かな覚悟のように胸に広がった。

それだけを認めるのに、随分遠回りした気がした。


また、空で。


その言葉が聴こえたのかは分からない。

誓は、ゆっくりと右手を挙げる。つばの真横に、指先までそろえたその手を添えた。

空に生きる者の、フライト・オペレーターの、そして戦う者の、敬礼。その瞳に灯る意志を、佐久は確かめる。

佐久は、それを真っ直ぐに見据え、目を逸らさずに答礼した。

二人の敬礼の間隙を、風が吹く。

パシッという音を立てて、手を降ろした。そしてコンバット・ブーツを鳴らして(きびす)を返し、佐久と誓はそれぞれの機体へと歩き出した。


《完》


本作品は、WEB・同人誌で発表されたものを改訂・増補しました。

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