INCIDENT-1
航空燃料の、鼻に突く臭いがあたりに充満していた。
何かが燃える、濃く刺々しい煙が目に染みる。汗をたっぷりと吸った戦闘服はごわごわして不快だった。
一歩一歩踏みしめる機体の残骸が、不安定に傾く。
折れたブレードは街路樹の根元に突き刺さり、風にぎいぎいと軋む。
煤で汚れた顔を、とめどなく流れる汗が黒く染まりながら落ちる。
脇に構えた短機関銃を握る手が、細かく震えていた。
途中からもげたように消えたビル、四車線の道に散乱するガラスの破片、黒焦げになって変形した車。
そして目の前でアスファルトにめり込み、破壊されつくした機体。
残骸はまだちょろちょろと炎に包まれ、濃紺だった機体は真っ黒に煤けている。
パイロットを守るために強化された構造を有するキャビンは、水面に沈むように右半分を下にしてめり込んでいる。
折れたテールが墓標のように逆立っていた。
コックピットのガラスは高熱で融けて残骸にへばりつき、散らばったコンピューターの基盤がそこらへんに散らばっている。
嘘だ。これは夢だ
息を吸い込む唇を強く噛み締める。
どこにも誰もいない。風だけが廃墟と化した街の中を吹き抜ける。
煙が目に染みるのに、どうしても目を閉じることができない。
体が強張っている。ここにいてはいけないと誰かが囁く。
胃の中に丸めた新聞紙が入っているみたいだ。
けれど、ここから離れることができない。
空を見上げると、今にも雨が降りそうな真っ黒な雲に、戦火の赤が映えている。
壁のように両脇に立つビルには、墜落しながら衝突したアパッチが抉った外壁の傷。
恐る恐る、足許に目を向ける。
いつも掛けていたサングラスのレンズ。
飴のように融けたヘルメットのバイザーの破片。
それらが意味するものを理解するのを、頭が拒否している。
落ちていた手袋を持ち上げようとすると、何かが入っていて重い。
手袋越しの、ぐにゃりとした皮膚の感触。血がポツポツと落ちる。
ああああああああああああ
誰かの、絶叫が聞こえた。
目に飛び込んでくるのは、人間の体だったもの。
生のままのピンク色をした肉片。
割れた白い小皿が転がっている。よく見ると、その裏側には髪の毛が生えていた。
ああああああああああああ
絶叫。意識はハッキリしているのに現実味がない。
足許が揺らいで、膝を着く。
ごぼごぼと気管を熱い塊がせりあがってきた。
喉まで溢れるそれを飲み込めず、思わず吐き出す。
口から、糸を引いて赤黒い液体が零れ落ちた。目の前が急に暗くなる。
「お前が殺したのか」
低い声が、耳元に聞こえる。
その声は、佐久でも彦根でもない。
必死に空気を吐き出して、言葉を紡ごうとする。
虚しくひゅうひゅうと呼吸だけが漏れる。
口を動かしても、息を吐いても、声帯は麻痺したように震えない。
唇の端から、垂れ続ける静脈色の血。
瓦礫の上に、血が落ちて筋を作る。
叫んだ。けれども、声は響かない。視界の端に、パイロット用のコンバット・ブーツの爪先だけが映る。
「佐久も、お前が、殺したのか」
少佐。
名前を呼ぼうとして、力を振り絞る。
誓と同じ、濃いグレーの戦闘服を履いた脚。
その所々には、赤黒い穴が穿たれている。
どうしても、顔を見られなかった。
もう少しだけ顔を上げれば、あんなにも愛しかった少佐に、また会えるのに。
目が合えば、自分の罪が少佐自らによって糾弾されてしまうのではないか。
顔を上げれば、誓が愛した少佐の記憶さえ否定されてしまうのではないか。
許してください、とは言えなかった。
それでも、声にならない声で少佐の名前だけを呼び続ける。
少佐が、しゃがみこんだ。
恐ろしくて、ぎゅっと目を閉じる。顔が近付く気配を感じた。
「誓」
少佐が名前を呼ぶ。
怖い。けれども、目を開けなければいけない気がした。
抉じ開けるように、ゆっくりと、しかし視線を逸らしながら瞼を上げる。
半ばまで目を開くと、違和感に気付く。
長い黒髪、小柄な身体。
はっと目を見開くと、そこには変に黄色く青い死人色の顔をした女がいた。
淀んだ黒い目。顔に飛んだ帰り血。
抱えた短機関銃を、誓に向けているその女には、見覚えがあった。
また、どこかで軋むような叫び声が聞こえた。
「ちょっと!誓!!」
肩に指が食い込んでいる。何度も繰り返し名前を呼ばれて、誓は重たい瞼を開いた。
ぼんやりとした視界に、影が落ちる。
血の流れるザーという音と、いつもよりずっと速い鼓動の音が鼓膜を掠った。
瞬きをぱちぱちと繰り返すと、ようやく現実の視界が戻ってきた。
手の甲で額を拭うと、汗でつるりと滑る。
ソファに横たわったまま、誓は大きく深呼吸をした。
「大丈夫なの?」
顔を覗き込んだみほが眉をしかめる。
ひどい顔をしているに違いない。どうにか頷いて、誓は呼吸を整えた。
肘掛に寄りかかり、脚を床に投げ出して捩れた姿勢のせいで、体中が痛かった。
待機室は昼の日差しに温度を上げ、じっとしていても汗が出るほどだ。
窓は開放されているが、風は吹き抜けなかった。
ソファに接していた部分には、汗がたまって体温を留めている。
まだ痺れたように重い頭を、ふと横に向けた。
一瞬、息が止まる。
目を剥いてそれを見つめた誓に、みほが怪訝そうな顔をした。
黒い手。
テーブルの上に無造作に置かれた、佐久のヘルメットと、手袋。
さーっと身体の表面が冷えていくのが分かった。
あれは夢だ。そう強く言い聞かせても、身体が言うことを聞いてくれない。
割り箸のように強張った手足。奥歯の奥から溢れる酸っぱい唾液。
――あ、やばい。溢れる。
長い睫毛を瞬かせた美女が、じっと横顔を見つめているのを感じる。
それにも構わず、急いで備え付けの洗面台に駆け寄った。縁を掴み、身体を丸める。
喉の奥を、嘔吐感が圧迫する。
酸っぱい唾液と、食道で留まる刺激の塊の代わりに空気を吐き出す。
「誓!」
背中をさする暖かい手の感触とは反対に、冷え切った指先と、自分の体温。
蛇口を捻り、口の中を流すと、ようやく感覚が戻ってくる。
新しく、清潔な格納庫待機室のにおいが、ざわつく五感を鎮める。
ヘリは墜ちていないし、あの女もどこにもいない。
ここがいつもの世界だ。
髪の毛をまとめて捻り上げた、いつものスタイルのみほが傍で誓を見ている。
白衣に襟付きシャツ、ジーンズというラフな格好だが、妙にきまってしまうのはそのスタイルゆえだろう。
いちいちシックな黒皮のデザインスリッパが、目に留まる。
「・・・」
ぐったりとした疲労感を振り払いながら、みほに頭を下げる。
患者を診るような目に、わずかに覚える反感。
「ちょっと座りなさい」
「え」
みほの白くて華奢な手が伸びる。唐突に握られた手に、誓は一瞬目を見開いた。
こんなに冷たいじゃない、と呟くみほの目には、険があった。
部屋の中央に置かれたテーブルを挟み、パイプ椅子に座る。
こんなに暑いのに、脊髄が氷柱になってしまったように寒かった。
鳥肌の浮かぶ肌をさすり、みほから目線を逸らせる。
「ちゃんと夜は寝てるの」
「はい」
みほが何を案じているのかは分かる。
サイボーグたちの管理を任されている責任もあるだろう。
しかし凍りついた心は、誰かが立ち入ることを拒否している。
「今日みたいなことは頻繁にある?」
「いいえ」
嘘だった。
神経接続をする訓練が始まると同時に、ぽつぽつと悪夢を見るようになっていた。
佐久機の墜落。戦争の夢。そして自分の死。
生々しい臭い、景色、感覚が、時折やってきては吹き荒れていく。
それらは再構築された過去の断片だった。
それを受け入れている自分がいる。
「あのね、今はカウンセラーも普通に受けられるし、それが評価に響くわけじゃ「必要ありません」
考えるよりも早く、言葉が口を突く。
カウンセラー。
言葉さえも、体が拒否していた。
動物的な本能で、脳に言葉が届く前にそれを遮ってしまったと思った。
縮まった身体と、寄せた眉根がどうみほに映るか、誓は考えたくなかった。
みほは口をつぐんで、誓を見ている。
「・・・別にいいの、必要がないなら」
前髪を耳に掛けて、みほは呟く。
あっさりと引き下がった態度にほっとしながら、一方でこれで済むはずがないという警告が頭の中で点滅する。
警戒感を露にしていたのだろう。
そんなにしなくても、無理強いなんてしないよ、とみほが苦笑する。
瞳には複雑な色が浮かんでいたが、その言葉に少しだけ、自分の肩が下がったのが分かった。
「みほさん、ちょっといいですか、この検査ですけど」
その時、佐久がドアを開けて入ってきたのは救いだった。
誓をちらりと一瞥し、何も言わない。
そのままクリップボードに挟んだ書類をみほのまえに差し出し、何かを確認している。
捲った袖から伸びる長くて逞しい腕。
みほとつりあうような長身。すらりと無駄のない脚。
帽子のつばの下の、陰のある面立ち。
強い印象を残す、鋭くて澄んだ眼差し。
群馬から暫く経ち、今も会話は少ないが以前ほどの衝突はない。
あの後はふたりともたっぷり説教を食らって、特に誓はみほにみっちりと反省させられた。
あんたたちはそうやって人が苦労して作り上げた身体を粗末にする、私は悲しくて堪らない、とみほは母親のようだった。
佐久はあれから突っかかってはこないし、ビンタの応酬もあれっきりだ。
「じゃあ、検査、調整しておくから」
ぼーっとしながらみほと佐久をみると、まるで二人が作り物のようにつりあっていて、少しだけ心が翳った。
迫力のある、立派な身体の佐久と、豊かでありながら何も無駄のない身体を持つみほは、似合いすぎるほど似合っていた。
こうやって男女って巡りあっていくんだろうな、と勝手に奇妙な感心をする。
生まれた疎外感を無視し、乱れた髪の毛を手ぐしで結いなおしながら、誓はため息をついた。
孤独というたったひとひらの言葉では、背負う未来永劫を何も言い表せない。
捨てようと思っても捨てられない荷物がある。
そして、それを捨ててしまえば自身を支えるものが何もなくなってしまう。
あの日の、あの30秒が、今の誓の全てであり、捨てることのできない重荷だった。
それには誰も触れられない。触れさせるつもりもない。
繰り返す悪夢の源が、ほかでもないその30秒だったとしても。
帽子を被り、誓は伸びをして立ち上がる。昼休みはもうすぐ終わりだ。
身体をごりごりと鳴らして伸びをする。
「誓、あんたも19日、入間で検査だからね」
「はい」
まだ少し残るだるさを、大きく息を吸って追い払った。
時計を見ると、もう昼礼の五分前だ。誓は駆け出し、格納庫のフロアへと向かった。
飛行場勤務隊に提出された、飛行計画を、頭の中で確認しなおす。飛行の経路や時間が、全てそこには記載されているからだ。
それから、メモ帳に走り書きされた朝のブリーフィングの気象予報と、他の部隊のフライト。
誓はボクサーのようなヘッドセットを被り、目隠し型のバイザーをそれから下ろした。
アイマスクと渾名されるそれは、内側に液晶画面が付いている。
単なるデータ表示だけではなく、地上の部隊や、プレデターと呼ばれる無人偵察機からの映像を観ることができた。
コンソールの電源を入れ、各種のソフトウェアが立ち上がった後に脳波と同期する。
びりっとした痛みが首筋を突きぬけ、誓は新たな感覚の目覚めを知る。
E787の一部を模したシミュレーター・コンテナの中は無表情で、清潔な白一色に沈んでいる。
旅客機でいえばビジネスシート程度の席。目の前のコンソールに、液晶画面。
システムが接続を認識し、正常な接続を示すLEDが点灯する。
《system OK...starting HSD》
ヘッドセッドディスプレイ(HSD)は、複数の情報を同じ視界の中で処理するための、バイザー装着型ディスプレイだった。
目の前のバイザーの、真っ暗な液晶に、つらつらと白い文字が流れる。
手慣れた仕草で、見えないコーヒータンブラーを誓は掴んだ。
人間の神経とシステムや機体を直接接続するその異様な外観は、あるものには嫌悪を感じさせるだろう。
コンソールに軽く指を滑らせ、通信モードを点検に切り替える。
接続の点検に走査が走り、視界に緑色の字幕が瞬く。
スタンバイモードに入り、奇妙に広がった視界と体感がびりびりとした痺れを引き起こす。
口許にマイクを寄せて、誓は自らの声を神経とヘッドセットのスピーカーで聴いた。
「テスト、ワン、ツー」
無線テストを行うと、技術スタッフに接続成功を報告する。傍に控える松本が、わお、と呟いた。
気休めや慰めを言わない誠実さ、そして心地よい無干渉がむしろ誓にとっては有難かった。
これならRB剤の投薬はいらないね、と安心したように呟く松本の声が小さく聞こえた。
群馬から帰って以来、脳波は安定している。
「スタンバイモードレディ」
「了解」
レーダー・ディスプレイを開くと、佐久機の状態が表示される。近隣の訓練空域で待機している佐久機とは、いつでも接続に入れる状態だ。
E767搭乗時とは違い、シミュレーターから衛星を中継して佐久機と交信しているため、データのやり取りにタイムラグがある。
旅客機をベースにし、あらゆる種類のレーダーを搭載、軽く6,000mを越える高度で活動するE787のアドバンテージは、さすがにシミュレーターにはない。
「ガージ、スコーピオン」
佐久のTACネーム、そしてE787のコールサインに、自分のTACネーム。
戦闘機や救難機のパイロットやクルーには、名前の代わりに呼ぶあだ名のようなものがある。それがTACネームだ。
コックピットとキャビン間や、編隊内での呼び出しに使われる。
大概は最初に上司に決められるのだが、やたら勇ましいTACネームが、誓はいつも少し恥ずかしくなる。
「スコーピオン、ガージ・リーディング・ユー・ファイブ」
無線機の感明度5、つまりハッキリと大きく聞こえると、佐久の応答が来る。
誓は次に、神経接合率が最も低い深度3――モードAの接続開始を告げる。
「アテンプト・コンタクト・モードアルファ」
「ラジャ」
身体の中を這う電流に、指がぴくりと引きつった。
目の前がいきなり、電気が消えたように暗転した。
脳の中心にピリッと白い閃光が瞬く。佐久の神経に侵入し、身体に佐久の電気信号が入り込んでくる。
一瞬詰まった息に、視界が広がっていく。
グレー一色に染まった視界に、森の細かな葉のさざめきが映る。
赤外線処理された映像だ。
「コネクト・コンプリーテッド。アーユーノーマル?」
「コネクト・ノーマル」
佐久の瞬きが2、3度視界を遮る。
殆ど中身は通常のものが残っていないほど改造された攻撃ヘリ、AH―64Xのセンサー類は、パイロットの神経に直接接続されるようになっている。
視覚で得た情報を脳が処理し、それを操作に反映させる行為の限界とタイムラグを取り除くために、パイロットをもそのアビオニクスとしてしまった特別な機体。
死亡の危険もある手術は成功し、そしてそれはきわめて大きな成果を生み出した。
しかしその代償もまたそれに見合っている。
「コンテニュー・サーティーパーセント・コネクト」
「ラジャ」
戦場進出まではモードA、30%以下の神経接続を保ち、脳にかかる負担を軽減する。
心拍数は多少上がっているものの、佐久はいつもどおり冷静だった。
コクピットの前に広がる森と、その上の遥かな空。
雲が低く、細かな雨がコクピットにぶつかっては横に伸びていく。
アパッチのコックピットの視界は開けている。
視界を妨げるのは、ガラスの境目のフレームだけだ。
前方、上方、側面は全てガラス張りで、パノラマの世界が広がっている。
開放感に溢れたコックピットは、まるで空の中に突き出ているようだった。
自分の周囲を、雨が当たって落ちていく。
ガラスに映える佐久の姿の向こうの景色を見つめながら、雨の中を飛ぶ。
雨の筋にぼやけた街。ワイパーでふき取られたガラスにまた雨粒が落ちる繰り返し。
落ちる雨粒がぶつかる音が聴覚を包む。頭上を、ブレードの切っ先が掠める。
佐久はずっと正面や側面に注意を払い、殆どコックピット内を見ない。
デジタル化されたコックピットの正面には中央に液晶画面が3つあり、地図やアローヘッドからの映像を表示することができる。
しかし、脳神経に情報を直接転送するため、脳接続が使えない場合の飛行でしかこれを見ることはなかった。
パイロット席を挟んでボタンやレバーが配置されているが、整然としていてシンプルなレイアウトだった。
しかし、技術が進歩して計器がコックピットからほぼ消えても、隅っこには御守りが下がっている。
こんなところにまだ、人間の原初からの風習が残っているのが可笑しい。
操縦桿を握る佐久の操縦に、するりと素直に機体が傾く。
前方上下左右、コックピットいっぱいに広がる地平線が傾いだ。
神経を接続していなくても、元々佐久が飛びぬけて操縦センスのあるパイロットであることは疑いようがない。
ヘリを最小の操縦で、自分の思い描くコースに乗せている。
足許が抜けたようなふわふわした感覚。コックピットの視界の上を過ぎるブレードの影。
ほぼ視覚のみの同調であるモードAなのに、コックピットを包む湿り気とひんやりした空気は感じられる気がする。
高度を上げたり下げたりしながら、完全に視界が同調するまで調整する。
感じることのできない風を感じられる気がした。
郊外の小さな演習場の上空は、周りを囲む住宅地が見下ろせる。
佐久が通常の視覚に切り替えると、住宅街の連なりとその向こうのビルが望める。
濃い灰色を滲ませたような空と、雨に降られる屋根の海、突き出たデパートやオフィスビル。
暗い曇り空に、夜光虫の群れのように、暖かい街の灯りが地平線まで続く。
丘の連なり、住宅地、地平線の果てまで、行けるような気がした。
佐久機が高度を下げれば、足許の森の枝先が、機を中心に白波を立てる。
「アロー・セブン・シックス、エアボーン」
(アロー76離陸)
彦根機であるアロー76が朝霞飛行場――つまり、和光基地を離陸した。
演習場上空でフォーメーションを組んだ後に、立川経由で宇都宮まで行って帰ってくる航法訓練を行う。何のことはない飛行だが、各チェックポイントを通過する精度を確認する重要な作業だった。
予定時間は一時間少しだ。
陸路では、渋滞に引っかかれば片道で6時間はかかるコースだった。
機体が向きを変える。和光基地から離陸し、上昇した彦根機を早くもその視界に捉えた。
旋回し、向きを変えた彦根機は正面に正対しているので、ガラスに付いた埃くらいに小さい。
「アロー・セブン・シックス・インサイト」
彦根機から発信された識別信号を受信し、自動的に視界の機影にタグが付く。
二機のアパッチの進路を確認し、誓はナビゲーションの準備をする。
佐久の視界に直接ルートナビの矢印が表示できるのだ。
コックピットから見る世界は広く開けている。
見る限りに降りしきる雨の世界が、誓には美しく見えた。
窓のないE787に乗り組む誓には見ることができなかった空だ。
彦根機は、埃からあっという間にはっきりとしたアパッチのシルエットになる。
更に接近してきた彦根機がバンクをする。バイザーの下の白い歯が剥きだしになっていた。
笑っているのだ。
――何故笑っている?
誓は得体の知れない危機感を感じた。
佐久が彦根機に親指を立てる。急に佐久は出力を上げる。その手は操縦桿を引いていた。
コックピットがいきなり上を向いた。
視界いっぱいに厚い灰色の雲が広がる。
雨が自分に突き刺さっているような感覚に陥った。視覚のみの同調の筈なのに、後頭部に重力を感じる気がした。
視界の高度データが急速に上昇する。
そのまま、わずかに先行する彦根機を視界に捉えたまま、佐久機は天に向かって突き刺さった。
目の前で何が起きているのか、視界を信じられないまま誓は息を呑む。
垂直上昇して空を抉った機体の視界に、やがて逆さの地平線が映る。
天地が逆さになり、三半規管が役にたたなくなる。
「ひゅあああああ」
情けない悲鳴を上げた誓の声に、佐久がすんっと息だけで笑ったのが聞こえた。
街が自分に向かって直角に生えている。眩暈がした。
やがて目の前に森が迫り、操縦桿を握った佐久が機体をその上に滑り込ませた。
「リクエスト・ナビゲーション」
何事もなかったかのように、佐久がナビゲーションの開始を要求する。
僅かに笑いを含んだ声音に腹が立ち、一杯食わされたと分かるとやがて可笑しくなった。
「ラジャー、スタート・ナビゲーション」
最初から彦根と佐久はこれをやるつもりだったのだ。
一杯食わされた。
冷静を取り戻し、誓はマップと気象データをダウンロードした。
通過点として設定された立川へのルートナビは佐久機に表示されている。
さてと、と気分を切り替える。
和光基地の東にある立川周辺には、様々な交通が錯綜している。
そもそも、和光基地自体が入間・横田・立川の航空交通過密地帯に隣接しているのだ。
空軍基地である入間と、和光基地の交通はタイトに絡み合っていた。管制官が、どうしてこんなところに設置したのかと愚痴るのを聞いたことがある。
GCA(着陸誘導管制)と呼ばれる、着陸を誘導するレーダー管制の経路もあり、気を使って飛ばなければならない。
周囲の航空機を掌握するため、誓は飛行場のレーダーに接続した。
今回は佐久機が一番機となり、斜め後ろに付いた彦根機がそれを監督する形になる。
コールサインはアロー89Fに変化し、編隊で一機の扱いだ。
和光離陸から5分もかからない立川の管制塔と交信し、佐久は周辺の交通情報を要求している。
雨は降っているが雲は飛行できないほどの低さではない。厚い雨雲の下に、何マイルも先の街までも見渡せるほど視程はある。
立川の機は一機が和光方向へと向かい、他は飛行場周辺を周回していた。
前方、高度2000フィート付近の、小さな芥子粒のような機影がきっと和光方向に向かう機なのだろう。機影に反応してタグが付く。
「キャリアーインサイト」
(輸送ヘリ視認)
「アロー・エイト・ナイナー・ラジャー。キャリアー・セブン・ワン、トラフィック・・・」
(アロー89、了解。キャリアー71、交通情報・・・)
佐久が、立川の管制塔に輸送ヘリを確認したことを報告すると、管制塔はトラフィックと呼ばれる、相互に接近する航空機の情報を輸送ヘリに流す。
程なくして輸送ヘリも、アパッチのフォーメーション・フライトを視認したことを報告した。
輸送ヘリは2000フィート、佐久の機は1500フィートで飛行中のため、一応衝突の危険性はない。
ただ、ある程度近付くと500フィート(150m)の高度差は少なく見える。
誓は内心、かなり近いな、と感じた。
今までレーダー上でしか見たことのなかった空は、誓にとっては改めて新しい世界だ。
ローターの二つ付いた、大型の輸送ヘリの部隊マークまではっきりと見える。
長い胴体に大きなブレードを持つ輸送ヘリは、500フィート差があっても間近に錯覚してしまう。空飛ぶ芋虫だ。
それを見送ると、立川の街がはっきりと近くに見えだした。
マンションや住宅街の密集地の合間に見えるのは駅周辺のビル群だろう。
駅前は色とりどりの傘で一杯になり、鮮やかな色彩が咲き乱れている。それはガラスビーズの宝石箱に似ていた。
赤い航空障害灯の点滅で幾つも飾られた駅ビルを見ると、そういえばあそこの中の中華美味しかったな、と余計なことを思い出す。
繁華街を他所に、機体は立川飛行場管制所の庭である管制圏を通過していく。
都心は回避し、首都圏を囲むように走る外環道沿いに埼玉、筑波を経由して宇都宮へと向かう予定だった。
所々の人口過密地域に聳えるビルの群れ。その遠くに霞む山々が、どこまでも続く。
佐久が飛行している間に、誓は気象データを確認する。
右目の視界にデータを開き、雨雲の動き、山沿い周辺での発雷予報に目を通した。
筑波や宇都宮周辺では、夏場は雷の発生が多い。エリアを指定して、発雷警報をオンに設定する。
手元のコンソールを、無意識にブラインドで操作した。
佐久の目下には広大な昭和記念公園。昭和記念公園のすぐ隣に、立川の陸軍基地。
マンションや警察署がひしめく中に、公園と、隣接した飛行場の部分だけがぽっかりと空いて見える。
飛行場上空には、周回で飛行するUH―60とOH―1の機影が視認できた。
小柄でスリムな偵察ヘリOH―1は、着陸態勢に入っており、滑走路に向けてその高度を徐々に下げている。
飛行場の芝生には水溜りができており、その細い脇腹が水面の灰色の空の中に一瞬映えた。
管制塔の中から、こちらを指差す人間が見える。管制員だろう。
佐久機はやがて立川を抜けると、埼玉の方向へと変針した。
外環道は大動脈のようにはっきりと地表を走り、片側三車線の道路にはトラックが流れている。
低いビルと住宅地、そして北側の山間には観覧車。西武遊園地だ。湖や川が、都市の合間を縫っている。それらは皆、雨の灰色にくすんでいた。
しかし、北関東の方向には僅かに光が差す雲の合間もあった。
黒い山並みに、雨雲の間から差す光の柱が落ちる。天地を繋ぐその美しさに、息を呑んだ。
ずっと見ていたい
これが仕事でさえなければ、佐久の目でこの空を見るのも悪くはない。
パイロットになりたかった誓の夢を、いくらかでも慰めてくれる気がした。
もしももう一度生まれることができるのなら、佐久のように生まれたかった。
そうすれば、こんなにも無力ではなかったと思うし、幾つかの出来事に抗うことも出来ただろう。
この身体を与えられてからは、もう二度とパイロットを目指すことが許されないことは分かっている。
ジャンボ機のパイロットになると決めた17歳の春はもう、遠すぎた。
親の反対を押し切って、フリーターになりアルバイトをしてまで学費を稼ごうとした。
空軍は滑り止めで、本命は航空大学校を受験するつもりだった。
あの事故さえなければ、今頃はきっと大学校を卒業していたかもしれない。
せめてもの救いが、第二世代のサイボーグ手術を受け、こうしてパイロットの目を見ることができることだ。
改造型ではあるが民間航空の主力であるボーイング787の機体に乗り組み、空軍で食いつないでいるのが皮肉だった。
もしかしたら、自分にはパイロットの適性はなかったかもしれないし、生身のままでは身体的な欠陥があったかもしれない。
これで良かったのかもしれないとも思う。
際限のない問いが心の中に揺れる。誓は考えるのを止めた。
ヘリは東京スカイツリーを飛び越えて、筑波へアプローチする。
佐久機は、越谷上空を通過している。景色は随分変わり、水田や里山を通過していた。無数に走る路線が、関東をくまなく覆う鉄道の発達ぶりを示す。
「雲高が下がっています」
「ああ」
ヘリ間の交信周波数で、佐久が彦根と調整している。
ますます重く、低く垂れ込め始めた雲は毛羽立っている。気流が乱れていた。
様子見でこのまま飛行するようだ。時々、ちぎれた小さな雲を、アパッチは突き抜ける。
「スコーピオン、リクエスト・ウツノミヤ・ウェザー・フォーキャスト」
(スコーピオンへ、宇都宮飛行場周辺の気象予報を要求する)
「ラジャー」
誓は、宇都宮飛行場の気象予報を呼び出す。
更新された気象予報に目を通す。
「レイテスト・ウツノミヤ・ウェザー・フォーキャスト」
(最新の宇都宮気象予報)
「ゴー・アヘッド」
(どうぞ)
誓は淡々と気象予報を読み上げる。
風向320度、風速10ノット。並雨、もや。視程6キロ・・・
読み上げながら同時に経路付近の土浦飛行場、百里飛行場の気象データを呼び出す。
付近の霞ヶ浦湖で発生する霧に包まれやすい土浦飛行場は、3000メートルとかなり視程が低い。
佐久たちが行っている、有視界飛行方式と呼ばれる、パイロットの判断で飛行する方法では飛べない。
「・・・アンド、ツチウラ・コントロールゾーン、IMC」
(尚、土浦飛行場の管制圏は計器気象状態です)
途中経路の筑波は土浦飛行場に近い。
筑波周辺も決して天気がいいとは言えないだろう。既に視界に筑波山は見えていたが、山は中腹から雲に覆われていた。
佐久と相談し、飛行経路から筑波を外した。
風が強くなっているのを感じる。機体が少しずつブランコのように左右しているのを感じた。
雨粒は大きく、ぼとりぼとりとガラスを叩く。
時々、民間と思しきヘリコプターが遠くに飛んでいるのが見えた。
春雨なら、濡れていこう、と、昔の歌謡曲を思い出して誓は人知れず苦笑いした。
――今は夏なのに。
佐久機の影が遥か下の常総と呼ばれる地域に落ちる。雨音だけが聴覚に響く。
無音ではないコックピットの静寂。
いくつか設定されたチェックポイント上空を、佐久機は精確に通過する。
雨の無音の中に、操縦桿を握る佐久の手だけが生きている。
ほつれた雲の天井が間近に見える。雨はここから落ちるのだ。
静かで、美しいフライトだった。
雨はまだ降り続いている。
玄関を出ると、誓はダークブラウンの傘を拡げた。
ブラウスの袖が濡れることも、サンダルの足許が水浸しになることも不快だが仕方がない。
午後のフライトの後、シミュレーターでの訓練をして今日は終わった。今から飲み会だ。
夕方になり、薄くなってきた雨雲の合間に、深い青の空が所々覗いている。
雨自体も、小雨になってしとしとといった感じになっていた。
スカートの中がスースーして、誓はどうにも落ち着かない気分になる。
半そでの麻の詰襟ブラウスに、デニムのミニスカートという格好は、あやめの強い勧めによるものだった。
ビンタの件の話をしたときに、あやめが憤慨して、どうにか佐久に思い知らせてやろうと言い出したのだ。
「ビンタとか本当にひどいと思う。谷川を女だと思ってないじゃん」
それで何故か、女らしい格好をすれば佐久も手を上げづらくなるのではないかという結論になり、こうなった訳だ。
実に下らないと思いつつ、何故か従ってしまった。
「あんたは胸はあるんだから、ブラウスのボタンは閉じたほうが逆にエロい」
ミニスカートに抵抗感を感じなかったわけではないが、確かに佐久がどう反応するのかは見てみたかった。
兵舎から出ると、むっと雨の湿った臭いが鼻を突いた。水溜りを避けながら、アスファルトの中を歩き出す。
ひゅうひゅうと風が吹くたびに、むき出しの脚が気になる。
どうせ何の反応もしないだろう、誓は思い直した。
*
――あいつは何のつもりだ。
佐久がまず抱いた印象は強い疑問だった。
前の飲み会のときはジーンズにTシャツだったのに、いきなりミニスカートを履いてくるとは何が起きたのだろう。
日光に当たらない色をした、むき出しの生脚。大人しいサンダルとは対照的だ。
生成りのブラウスは胸元が張り詰めて、少し苦しげにも見える。
飲み会で和光駅前に集合したメンバーの中でも、それはひときわ目を引いた。
「やべぇ可愛い」
ニヤニヤする彦根の顔を見て、佐久は一瞬このエロオヤジが、と苛立つ。
童顔に、髪の毛をゆるく編んでお下げにした誓は、どう見ても犯罪だった。
身体とバランスがまるで取れていない。それでいてこのスカート丈だ。
清々しいまでに露出したみほのほうが、逆に清潔に見える。
頭の中で警告音が鳴った。
苦々しい顔をしたマヤが唯一の常識的な格好だった。
みほはデニム地の身体にフィットしたワンピースを着ており、やはりスカートの丈は短い。
しかし長身で、強い意志と切れ長の瞳が印象的なみほは、まるでモデルのようでいやらしさは感じさせなかった。
派手なピンク色のスカートにTシャツを着たあやめは、そのまま池袋を歩いていても違和感がない。
私服一つでこんなに違うのだな、と佐久は妙な感心をした。
整備員や佐久が大概ジーンズかハーフパンツにTシャツかポロシャツなのとは対照的だ。
「誓ちゃーん」
彦根がデレデレ顔で誓に近づく。
「どうしちゃったのミニスカなんて履いて」
あやめが何事か彦根に耳打ちをして、くすくすと笑っている。
窮屈そうに誓は俯く。恥ずかしがる位なら履くなよと言いたくなるが、佐久はぐっと堪えた。
彦根と言葉を交わす誓が、少し笑った。彼に対しては警戒心が薄いのか、誓は彦根によくなつく。
――お前、彦根さんだって男だぞ。
パイロットの話を聞いては嬉しがる誓に、時々佐久はそう言いたくなるのだ。
少しはにかむ様な誓の笑顔。
佐久に反抗するときのあの表情や、小銃を分解していたときの背中はとても連想できない。
どちらが本当の誓なのだろう。
色のない感情に燃える眼差しが偽りだとは思えない。
あれが本当の誓だとすれば、こんな姿の奥に、刃を隠し持つ誓が恐ろしくなる。
一通りの挨拶の後に乾杯をして飲み会が始まっても、佐久はそれが引っかかって酔えずにいた。
文字通り脳の髄にまで入り込むバディのことを、佐久は何も知らないことに気がついた。
安い酒のアルコール臭が、舌を刺す。
以前よりも誓に対する嫌悪感は減り、見えなかったものも見えるようにはなった。
元々地上部隊を担当していた誓は、空軍の人間にしては抜群にヘリの運用に対する習熟が早い。
戦闘機の運用とは違い、攻撃ヘリは地上部隊の一部分としてみなされる。
空軍所属がこれほどまでに運用を理解しているのが、佐久には意外だった。
海兵隊や陸軍とは、そもそもメンタリティさえ違うのに、誓はもうこの部隊に馴染んでいる。
しかし、依然として誓の姿は霧に包まれている。どこか茫洋として、氷の壁の向こうにいるようだ。
彦根に寄り添って酌をする姿は、まるで毒気もない。
喧嘩などする姿は想像もつかなかった。
柔らかく編んだお下げに、うっすらと化粧の施された顔。
睫毛が彩る黒目がちな瞳が、酒のせいか少し潤んでいる。
控えめな化粧が、少女らしい印象を強くした。
この身体のどこに、あんな殺気を隠していたのだろう。
「ちょっとお、佐久」
急に柔らかな重みがしな垂れかかってくる。
肩に寄りかかった柔らかいものが何なのか、佐久は振り返れない。
横から顔を覗き込むみほの、口元が妖しげに艶めいている。
濡れたような唇に、羽根のような睫毛。日本人離れした造形と鼻筋。
間近で見ても、まるで素人には見えない。
たじろぎながら、佐久は問い返す。
「何ですか」
「こら、飲まんか」
見た目にそぐわない粗野な仕草で、みほはジョッキにビールを注ぐ。
細い指がビール瓶を鷲掴みにしているのが、なんだか変な感じだった。
佐久がビールに口をつけるのを見ると、充血した唇が満足げに歪む。
「気になる?」
佐久の視線の先を見ていたのだろう。誓をちらりと見てから、艶然とみほは微笑む。
ため息をつきながら、かぶりを振った。
冗談じゃない。
「いい大人だからあんまり口出ししたくないけど、あんまり乱暴しないでよ」
小さくても、ハッキリした口調で囁かれた。綺麗に磨かれた爪が佐久の耳朶を引っ張っている。
息が首筋にかかって、どうにも落ち着かない。
みほがいうと、まるで別の意味に聞こえてしまい、佐久は慌てて頭を振った。
彦根の脇の下から頭を出した誓の、無防備な振舞いにまた腹が立った。
自分は今、どんな表情をしているのか、急に気になりだす。
「あの子はね、女の子だからって松本が特に集中して手術したの。傷が見えたらかわいそうだってね。皮膚のつなぎ目の仕上げなんてそりゃあ綺麗なもんよ」
「・・・」
服の下を見たことがないから知りません、とはさすがに言えずに、黙り込む。
数少ない女性のサイボーグである誓は、それ故に手塩にかけて手術されたらしい。
あの冷淡な松本が、と思うと意外だった。実験のデータを取ることだけにしか興味がないと思っていたからだ。
当の本人は、我関せずで飲み会には参加していない。
「事故後の身体から再建するのに、松本はものすごく苦心したんだから。あんまり気安くぶっ叩かないで。ていうか、喧嘩止めなさいよ」
はぁ、すみません、と、みほの体温だけが気になって生返事を返す。
話を聞くと、誓が手術を受ける前は半身不随、身体は滅茶苦茶に破壊されていたというのが、想像もつかなかった。
もっとも、自分も同じような状態からここまで再生したのだから、驚くべきことではないのかもしれない。
「戦争で傷付くのだってイヤなんだから、叩いたり殴ったりなんてしないで頂戴な。勿論あんただってむやみに喧嘩したりしないでよ」
自分達を「製造」するのに、科学者達がどれだけ苦労したのか、みほは語りだす。
誓のビンタ応酬事件と、群馬乱闘事件は既に語り草になっているらしい。
彦根にわき腹を突かれた誓が、きゃあと声を上げる。
それに眉根を寄せていた自分がいることに気付いて、佐久は驚いた。
妬くなよぉー、と彦根がこちらを指差して笑う。
「みほさぁーん、こっちで飲みましょうよー!」
若い整備員がみほを呼び、ようやく彼女が席を立つ。解放されたらしい。
佐久はほっと一息ついた。
「大変ですねぇ」
隣の藤枝が話しかけてきて、ようやく佐久は安心して酒に口を付けた。
藤枝の妻の話や、最近飼った子犬の写真を肴に、話が盛り上がる。
子犬は秋田犬らしい。元々は猟犬だけあって、子犬にして既に逞しく成長しそうな兆しがある。
秋田県にある佐久の家が代々の阿仁マタギで、今でも父親が犬を連れて熊を撃っていると言うと、藤枝はしきりに感心する。
「熊なんか、ああ見えてものすごく足が速いんですよ」
「雪深い中で会っちゃったら逃げられませんねえ」
藤枝とはしばらく犬の話をした。
末の娘が中学に入り、誰も構ってくれなくて犬を可愛がっていると、藤枝が顔をくしゃくしゃにして笑う。
トンペイと名づけられたその秋田犬が、わが子のように可愛いらしい。
それから、藤枝の妻の話になる。
彼女とは部隊の行事で何度か会ったことがあった。
藤枝よりも大分若い印象を受けるが、実際のところは同い年なのだという。
「んで、この前、佐久さんの顔を見るなり、女難の相が出てるって言うんですよ」
「はぁ、女難ですか」
ぽかーんとして返した佐久の後ろを見て、突然藤枝が噴き出す。
これじゃないですか、と指差されて振り向くと、誓がビール瓶を片手に持って立っていた。
片手でバットよろしくビール瓶を掴んでいるその姿は、どちらかというと「凶器」という言葉を連想させる。
「殺すつもりか」
ぽつりと呟いた佐久に、藤枝がまたガハハと笑う。
どうやら仕事上の上下という関わりくらいは認識しているらしい。目はあわせないが、一応ビールくらいは注ぎに来たのだろう。
空いていた佐久の傍に座ると、慣れた手つきで栓を抜く。
誓が畳に膝を付くと、スカートの裾が上がってつい目がそれを追いかけた。
色素の薄い太股が、アルコールのせいかほんのり赤く血色に染まっている。
ぴっちりと脚を閉じている誓も、自覚はしているのだろう。
互いに気まずくなって目をそらす。
ビールを注ぐ誓の目が、わざとらしくグラスを注視している。
「ありがとう」
ぎこちなく礼を言うと、誓はさっと俯く。スカートの裾を掴んだその手に気付く。
やがて、誓が思い切ったように目を合わせる。
「あの・・・煙草、潰れちゃったからお金要らないです」
群馬で買って、そのまま喧嘩で渡し損ねた煙草を、誓はおずおずと差し出す。
ウィンストンを受け取ろうとすると、さっと手を引っ込める。
お陰で煙草の箱が落ちてしまい、佐久は苦笑いした。
どうしたことだ。これではまるで誓ではないみたいだ。
中身だけ入れ替わってしまったのではないかと、本気で疑ってしまう。
「・・・いい、払う」
小銭を財布から出す。いつも一本だけ吸って、残りは喫煙者にあげてしまうウィンストン。
身体を固くした誓は、まるで手篭めにされることを恐れる生娘といった風情だ。
窮屈そうに張り出した胸の、下着の線が目に付く。
誓は黙っている。まるで知らない女の子を前にしているようだった。
こうしおらしくされると、いつものような調子も出ない。
煙草代を受け取ると、誓は急いで立ち上がろうとした。
「飲んでけよ。グラスくらいあるんだろ」
「すみません」
誓が座りなおしたのを見て、瓶を差し出す。
小さい身体をますます小さくして、そこらへんのグラスで、黙ったまま酌を受ける誓。
業を背負うには狭すぎる肩。戦場を見つめるには幼すぎる瞳。人を殺すには小さすぎる手。筋肉の鎧のない肌。
それなのに、時折見せるあの眼差しだけは、刃物の切っ先と同じに光っている。
――ふざけるな。
不意に怒りが湧いた。
女子供を、戦場に放り込んだ誰か。
こんなに頼りない誓を、佐久のサポート役に相応しいと考えた誰か。
いくら最新のサイボーグだといっても、やはり感情までも納得できるわけではない。
何もかもがアンバランスすぎて、佐久はまた精神の平衡を失いそうになる。
喉元までこみ上げてきた混乱を、どうにかして飲み下す。
「ありがとうございます」
グラスに満たされたビールを、一度掲げてから誓は一気に流し込んだ。
顎を上げると、脈の浮いた白い喉が現れる。訳のわからない罪悪感を覚えた。
パイロットになりたかった誓。
頑なに銃の手入れをする誓。
表情も変えずに殴り合いをする誓。
ビンタをしかえす誓。
そして目の前の誓。
一体どれが本当の姿なのか、ますます分からなくなっていく。
そして、あんなに激しく追い詰めた相手なのに、何も言えない自分に混乱する。
もぞもぞと誓が身体を動かす度に、容を変えるスカートの隙間の影。
佐久は無理矢理視線を引き剥がして、ビールを流し込んだ。
少し意地悪な気が起きる。ビールを口に含むと、にやりと笑った。
「お前、どうして、今の実験機がアパッチなのか知ってるか?」
誓は少しボーっとしている。
訓練の合間、休み時間、窓の外を眺めていることが多い。
最近は、いつもよりぼんやりとしている。
格納庫待機室の窓辺に座って、片足を窓枠に乗せ、飛行場の空を眺めている。
外に出たことのないイエ猫が、窓の外を眺めている様に似ていた。
『知ってるか?どうして今の実験機がアパッチなのかを』
ほんの僅かな出来心で、誓にした話。
自らのフリオペでありながら、彦根の傍で笑う誓に、あるいは八つ当たりしたかったのかもしれない。
周りに聞こえないように、ひっそりと内緒話のように囁いた。
佐久自身すらも認めたくない事実であり、未だに佐久の心の奥に居座っている、その理由。
――それに誓がどんな反応をするか、見たかった。
いくらアパッチが優秀な機であろうと、20世紀に開発された機体であることに違いはない。
次世代の戦闘ヘリがいずれは台頭するだろう。
では、なぜ最新の技術を取り込んだその次世代ヘリに合わせて開発をしないのか。
AH―64Xは、所詮実験やデータ取りのための機体に過ぎないからだ。
これ以上の製造も、ましてや本格的な導入も有り得ない。
採取されたデータは、パイロットにいかに効率のよい指揮系統や情報伝達をするかのデータベースになる。
そのために、適当な傷病者をピックアップしてリサイクルした。
結局は、健常なパイロットのためのデータ集め。
これから先、一定数以上にはサイボーグは増えないし、軍も主戦力とはみなしていない。
『お前がいくら次世代でも、その程度だ。本当に次期の主力なら、ベテランのフリオペが付く筈だろうしな』
自分達に、それほどの意味はないのだ。
佐久は暗に、自らの価値に対しても開き直っていた。
それでもおれはおれ自身の為に飛ぶのだ、と思うことでしか乗り越えられなかった。
誓がその時どんな顔をしていたか、佐久ははっきり覚えていない。
その翌日からだろうか、誓はぼんやりとしている時間が少し長くなった。
罪悪感が無かったわけではない。
しかし、これは事実なのだから正当な行いなのだと、佐久は自らに言い聞かせる。
突き放して、傷付け続け、この先に何もないことさえ、薄々理解していた。
人間が理性だけで生きていければ、どれほどに楽なのだろう。
割り当てられるフリオペが、佐久の軍隊内での価値の証明だと思えば、誓が来たことは佐久の自尊心を挫いた。
行き場のない怒り、そして情けなさは当然誓に向けられている。
銃の件で少し和らぎはしたが、根本が解決しない以上感情は鎮められない。
弱さを知ってしまい迂闊にぶつけることも出来ず、自分の中に感情は溢れている。
もどかしかった。
――大尉は命がけでおれを救ったのに、おれはデータ取りのために生きている。
お前は何をしている?
耳をふさいでも、どこからか声が聞こえてくる。
他に選択肢はなかった。
そう言い聞かせても、生と死の問題の前に、その理由はあまりに卑しかった。
他人からの評価や、客観などどうでもいいと、心の底から思うことが出来れば多少は楽なのだろう。
黒部大尉の生きるはずだった空を飛び、生き続けて苦しむことだけが自身の命のはずだ。
「おい、行くぞ」
「はい」
佐久が呼べば誓は付いてくる。
与えられた任務に没頭していれば、多少の間は総てから逃れられるのは誓も一緒らしい。
ナビゲーション訓練など、一通りの動作に対する誓の習熟は早かった。
津軽海峡を挟んだ対ロ情勢は現在悪化している。
このまま練度が上がっていけば、紛争が起きたときに実戦テストも有り得るだろうと彦根は言っていた。
今月末には実際にE787から行う指揮訓練が組まれている。
そのくらいは期待されているらしい。
帽子の紐を顎にかける。手袋や筆記用具などの忘れ物がないか確認し、佐久は部屋を出た。
今日は夕方から夜間にかけて、合同訓練が控えている。
頭皮を流れる汗が、額に垂れて落ちる。
眉を濡らしたそれを、佐久少尉は手袋の甲で拭った。合皮の手袋の中で、掌は蒸れて湿っている。
戦闘服の堅い布地は水気を帯び、肌にごわつく。
鋭敏になった鼻腔に、霧と汗と灯油のような燃料の臭いの入り混じった臭いが満ちる。
月のない夜。
機体から突き出た細長いコックピットは、日の入りと共に視界のない黒に満たされた。
純度の高い闇。絞った液晶ディスプレイの輝きは心許なく、それらは自身の指や腕さえ照らし出さない。
夜を破る光はここにはない。
目を開いて見る闇と、目を閉じた闇が限りなく等しい。
その視覚のない世界に、夏草から立ち上る生気が香る。
山の夜はじっとりと汗ばみ、灯火を消した後の静寂が五感を冒す。
シートに身体を固定するハーネスが無ければ、夜の闇に浮上してしまうだろう。
佐久を包むアパッチという殻は、夜の水底で沈黙し続けている。
全長が18メートルに届こうかという巨体の殻でさえ、山々の合間では小さな小石だった。
長野と群馬の県境に連なるのは、神々の鑿で荒々しく削られた山だった。
威圧的なその壁が、星の光さえ遮る。四方に立ち塞ぐ壁の影は、怪物めいてさえいた。
長野県の山奥、人が踏み入ることさえ少ないこの場所で、何をしているんだろう。
無意識の底から、ふと蘇る疑問。
――夢を見ているようだ。
沈黙したままの無線機が、眠気と浮遊感を誘う。
闇の中に身体が喪失したような気さえする。ゆっくりと瞬き、佐久はあたりを見渡した。
機体の周囲を右往左往する整備員のシルエットは、幻影のように遠い。
闇の中でも彼らの目は赤外線で補われ、僅かな星明かりの中での視界を確保している。
ヘルメットの庇にクリップされた暗視眼鏡は、夜間の作業に欠かせなかった。
佐久と彼ら切り離すのは、厚い装甲。
佐久を守る盾であり、佐久の使う長弓であり、そして佐久の棺桶でさえある。
夜を昼にし、夜陰を隠れ蓑に変える。
闇を拓く――それは活路を拓くことと同意義であり、それはアパッチのテクノロジーの骨子だった。
「マイナス・サーティ」
発進予定時刻30分前を告ぐインターホンに、佐久は「了解」を返す。
アパッチは機体外部から有線接続されていた。
夜間モードに視界を切り替えれば、青みを帯びた世界が広がる。
闇に沈んでいたコックピットの計器類が、細密に姿を現す。
アナログの計器を駆逐した、液晶が並ぶコックピット。細かなボタンが、その隙間を埋める。
コンバット・ブーツの爪先が載ったフットペダルまで、はっきりと視認できた。
視界に刺さるのは、身体の左右と、足の間に割り込んで生えるレバー。
正面を向けば、コックピットガラス越しに整備員の顔や迷彩服の柄が青白く浮かび上がった。
――機体には千里眼と、四方を見通す神通力が元々人の手で与えられている。
鼻先のセンサー類は、暗視や赤外線でパイロットに昼の視界を与え、回転部の軸に設置された鏡餅様のレーダーは敵を見つけ、彼我を見分ける力を持つ。
それらの情報は、本来スコープを通してしか、生身の人間に与えられない。ヘルメットの顎に固定されたスコープは機体に接続され、目許のレンズに情報が投影される。
しかし脳接続を行えば、それさえ必要無かった。
赤く輝く佐久の双眸が闇に瞬く。
バッテリーを積んだ補助電源のトラックが横付けされ、アパッチに電力供給を開始する。
刈り払われた夏草が、機体の放つ高音に震える。
佐久の操作で、エンジンが駆動を始める。
他者の介在しない、機体と佐久だけの世界。
甲高い、エンジンが空気を吸い込む響きが、アパッチの目覚めを告げた。
上がる回転率が、液晶ディスプレイのグラフの棒を伸ばす。
機体内部では自己診断プログラムが作動し、外部では取り付く整備員らが正常な動作を確認する。
それら動作はは機械のように精密で、機械のように迅速な一つの楽章だった。
心拍数がわずかに上がる。
ミサイルの安全ピンが抜かれ、武装が有効にされる間、佐久は両手をコックピット上部の取っ手に掛ける。
誤ってミサイルを作動させないためだ。
その間にも変化する状況を告げるデータが、次々と角膜に投影される。
ただ満ちていくアドレナリンが、湿った呼吸を熱くする。
回転を始めたブレードが、風を切る。
その音は、あたかも鏑矢であった。
タービンの排気温度や、電気系統の状態を示すデータが、コクピットの液晶に浮かぶのを佐久は流し見た。
細かい数値を読まずとも、そのデータが正常であることを読み取れるまでに操作には慣れ親しんでいる。
瞬けば、3Dで立体処理された地形マップに光る敵味方それぞれのアイコンが、刻一刻とアップデートされる。
主に戦術や指揮、機体の位置情報や武装などは脳に、機体の状態などは液晶に表示される。
そう多数の情報を同時に処理できない人間の限界は、人間そのものを変えることにより消えた。
いびつな人工の進化は、命を再び兵器に変えたのだ。
世界を分断した旧き大戦の終末、一瞬の光芒のように消えた人間魚雷のように。
見上げれば、頭上を横切る長いブレードの影が星の光をコマ送りにする。
普段は見えない小さな星までも浮き上がらせる闇。
機体に比して狭く、硬いアパッチの座席。
場違いな、小さなプラネタリウム。
時々その天蓋を、自らの灯す着陸灯で僅かに浮かび上がる旅客機が横切る。
ブレードの生み出す衝撃波が絶えず周囲の空間を共振させるなかで、その音は聞こえない。
地上整備員との交信のため接続されていた、インターホンのワイヤが切断される。
目の前の整備員が両手に持つ不可視光のライトが、交通整理のように振られた。
肉眼では見えなくとも、赤外線ビジョンでは白くハッキリと光が見える。
水平にされていた腕が、垂直に挙げられる。その指示に従い佐久は、操縦桿に力を込めた。
動力系統を司るのはコレクティブとサイクリックと呼ばれる2つの操縦桿と、足元のフットペダルだ。
竹蜻蛉の原理で浮力を生み出すブレードの回転軸を傾けることにより、前後左右への移動を支配するのがサイクリック。
対してコレクティブは4枚のブレードの角度を変えることにより浮力を増減し、上下動を統制する。
汗を吸った手袋の生地越しに、その操縦桿の硬さが伝わる。
無線や武装の操作スイッチが付いた操縦桿はごつく、異様なシフトレバーにも見える。そして、左側のレバーはパワーコントロールを司っていた。
じわりと効かせるようにコレクティブを前に押し、パワーを上げると、機体がググッと動き出す。
やがて、重量の楔を浮力が破ると、接地していたタイヤが地面から離れる軽い振動が伝わった。
機体を浮上させると、今度は機体の方向変換を整備員が指示する。
フットペダルを踏み込むと、周囲の景色が横滑りをし、闇の中に谷が見える。
同時に佐久は、離陸を無線へ吹き込んだ。
「アローヘッド、エアボーン」
先鋭のアパッチに付与されたコールサインに、一瞬誇らしさを覚える。
だがそれも、去る軌跡の中に去り、高速で流れる景色だけがコクピットいっぱいに広がった。
皺の寄ったシーツの合間を縫うように、放たれたアパッチは谷間を飛ぶ。
それは幾多の通信や、電波が飛び交う中に放たれた一本の矢だった。
山岳が作り出す複雑な気流を縫い、重力を推力と浮力で打ち破り続ける。
波間で身を翻す魚のように、機体を傾げて曲がる。
傾いた機体からは、頭上間近に山肌が見えた。
狭い谷間も、せり出した崖も、するりと避けて進む。
身体と機体の調和と、孤独な自由。
視界に合成された地形データは、闇夜を白昼に変える。
目の前に、目標地点までの3Dマップを広げた。
短い警告音と共に、乱気流の発生場所が赤い点滅でマーキングされる。そして、緑色のレーダー不感空域内に設定された飛行ルートはそこを回避していた。
敵側のレーダーからは、地形に遮られて見えない空域だ。
現在地は直線で目標地点より15マイル東だが、飛行経路は迂地形や乱気流を迂回しなければならない。
パワーがあり、しかも一人乗りの佐久機なら突っ切れるだろう。
しかし2分ほど後ろを飛ぶ、お客を乗せたヘリコプター、UH―60の編隊を、危険に晒すわけにはいかない。
左右に燃料タンクを吊り、アパッチに比べればかなり横幅のある印象の機体だが、大柄な見かけに反して鈍重ではない。
その優れた性能に、ブラックホークという名前で長く愛用されている。
谷や山沿いの、風と風がぶつかる場所には乱気流が発生する。潮目と似たようなものだ。
目に見えない渦潮は、いとも簡単にヘリなど呑み込んでしまう。まして、低高度だ。一度崩れた姿勢を取り戻すまでに、山肌に激突してしまう。
風の流れをヘリの外壁に感じながら、佐久は夜の空を泳ぐ。
腹が擦れるほど低く飛ぶには、繊細な操縦が必要だった。
握った操縦桿を調和させ、僅かに傾けながら曲がりくねった谷間を飛ぶ。
ブレードの切っ先が崖に接触しそうなタイトなコースだ。
本来なら戦闘機にエスコートされたE787が今頃、敵の対空レーダーを電波妨害している筈だ。
だが作られた状況の中で、もちろん誓がいるのはシミュレーターの中だった。
続々と送られてくる作戦地域の情報。
先行し、上空で情報を収集する無人偵察機の目を借りれば、手に取るように敵地の現状が見える。
破壊目標の配置は、やはり直前のブリーフィングの時点から変化していた。
彦根と佐久のアパッチは先行し、戦車や装甲車、それにアンテナサイトやレーダーを破壊する。
その後に降下する兵士たちを護衛するのが役目だ。
果てしない真っ暗闇が広がっていた。
空と大地の境界線のほかは、塗りつぶされて何も見えない。レーダーに捕捉されないよう、墨の底を静かに飛び続ける。
廃村を目標に想定し、機動力を利用した強襲を行う。
最初の攻撃目標として指示されているのは、敵空軍の防空レーダー施設や、通信指揮所だった。
それらを強行突破しつつ、目標を奪取する。
無論、実際のように中の人間ごと撃破することは勿論なく、村外れの無人の変電所と倉庫だ。
その様子は無人偵察機「プレデター」から逐一中継され、手に取るように分かる。
安定した吐息で、佐久は仮想の戦場を視た。
データリンクの中で、最後に目標を奪取する味方の装甲車の列は動き出し、それを掩直する後続のアパッチが飛び立ち始める。
目と耳を潰すのが佐久の役目なら、彼らの役割は骨を断つことだった。
反撃を許さないという断固たる意志。それが幾多の実体となって顕現する。
最初の目標に接近すると、攻撃許可が下りる。
そして、佐久は操縦桿を引いた。
機体は跳ね上がる。それは空間の中に出現し、戦場を見下ろした。
高度と情報が生み出す圧倒的アドバンテージ。
6キロメートルの距離を超えてハッキリと認識されたコンクリート小屋のターゲットは、プレデターで視たものと全く同じだ。
本来13キロメートルの射程を持つヘルファイア-Ⅲ型ミサイルの性能からすれば、それはイージー・ターゲットそのものだった。
「ターゲット・インサイト」
開いた目に、コックピットガラスに反射する自身の瞳孔の赤い輝きが映る。
ガン、とミサイル発射の反動が機体を叩く。
一瞬、尾を引く閃光が視界を灼いた。
ミサイルの燃料は熱とガスに変換され、それを距離に変えていく。
輝きは瞬く間に遠ざかり、数秒後に爆発の赤がぱっと広がる。
グローバル・ホークの眼で、佐久は建物が内部から白く膨張する瞬間を見た。
標的を潰したことを報告すると、司令部から了解の報が返ってくる。
直後に鳴った機内の警報が、敵からのレーザー照射を探知したことを告げた。
反射的にフットペダルを蹴り、機体を横滑りさせ、地面に向かって鯨のようにダイブする。
絡みつくレーザー照射を振り払い、束の間重力に従って空気の中を転落する。
フィギュア・スケートのようにスピンしながら上下左右が喪失し、佐久の世界が回天する。
それでも澄んだ水のような意識が乱れることはない。
再び姿勢を取り戻したアパッチは、地上スレスレを矢のように飛んだ。
全ての機動は計算済みで、故に恐怖は存在しない。
変針した佐久は、寸分の遅れもなく次のターゲットへ向かった。
遠くで曳航弾が落ちる。
後続するヘリは全ての明かりを消灯し、浸水のように忍び寄っていく。更に奥の目標に向かって、放たれた矢は飛んでいく。
闇に溶け込む暗い色の群れ。
自らのレーダーで進路上の敵を哨戒する佐久の視界に、時折人間の反応が映る。
味方を示す緑の輝きだった。小隊長クラスが持つ、トランスポンダーと呼ばれる発信器の反応だ。
彼らはアパッチより更に先に潜伏する遊撃部隊だった。
「2ミニッツ・トゥ・セカンド・オブジェクト」
(第二目標まで2分)
淡々とした誓の声に、ミサイルのロックを解除する。
ヘルファイア―Ⅲと呼ばれるそれは、最大射程距離20km。E787や偵察ヘリがレーザーを目標に照射してくれれば、あとは飛んでいく。
たとえ敵が見えなくても自動的にだ。
逆に、ミサイルの搭載カメラの映像を見ながらその飛行をコントロールすることもできた。
並列して飛ぶ彦根が、ちらりとこちらを向いた。
一寸先も見えない新月の闇夜だろうが、デジタル処理された視界ではコックピットさえ鮮明だ。
体がすっと冷たくなるような感じを覚える。
暗い水の中を泳ぐ佐久の肺に、霜が降りる。
技術的には米日軍は先をゆくとはいえ、現実の露日軍が弱いわけではない。それを模する敵役部隊も精鋭だ。
ずっと続くかのような山並を、夜を切り裂いて飛び越していく。
瞬かない電子の目に、あっという間に減ってゆくカウントダウンが映える。
緑の数字は赤になり、0秒へと近づく。
「レーザー・オン、クリア・ファイア」
(レーザー照射、射撃を許可する)
誓の固い声。ロックを解除したミサイルの、発射まであと0.25秒。
一瞬、息を止める。
闇に沈んだコックピット。自分の手さえも見えないその暗さ。
それだけは手動のまま残されている、操縦桿のミサイル発射ボタンを圧した。
「ラジャー、クリア・ファイア」
どこか他人の声のように、自分の声が響いた。
対戦車ミサイル発射の、ぐっと後ろに圧されたような反動。
解き放されたヘルファイアⅢ型ミサイルの、オレンジ色の火焔が噴き出す。
閃光が一瞬コックピットを昼のように明るく染め、佐久の目は自動的に光を絞る。
中心が白くなる程の火焔は、その周辺を稲妻のように森を照らしながら走る。
あとはレーザーの照射された場所、実際には少し離れた場所の敵装甲車に見立てた標的へと飛んでゆく。
一気に速度を増した編隊が、山並みから浮上する。
山肌を駆け上がった佐久の目は、上空から赤外線でマーキングされた敵前線指揮所を捉えた。
数マイル離れていようが、幾重にも戦場をカバーする目から逃れられるはずがない。
沈黙は破られる。
折しも、目標撃破を告げる誓の言葉を裏付けるように、少し離れた森の中で点のように火焔が吹き上がる。
「tally-ho!!」
敵を視認。その声が終わりの始まり。
続けざまにミサイルを放つ。そして、佐久自身もまた一気に戦場への間合いを詰めた。
二つの視界を開く。大地を舐めるように飛ぶミサイルのビジョンが脳に入り込んでくる。
別々の目標へ飛ぶ、二発のミサイルを同時に誘導していた。
目標直前で跳ね上がったミサイルは、ジェットコースターよりもずっと速くターゲットへ突っ込んでいく。
対空戦闘用の装甲車のシルエットが、瞬く間に迫った。それらは現実には設定された無人オブジェクトだったが、射撃の正確さを証明するには十分だった。
力ずくで障害を薙ぎ払うと、いよいよ陣地へと肉薄する。
多角の長方形のシルエットの、装甲車の空包射撃の閃光。
視界中央の円形の照準を、その装甲車に合わせると同時に機関銃で射撃した。
30ミリ機関銃の威力は、実際には掠めただけで手足が吹き飛び、生身の人間はおろか装甲車ですらひとたまりもない。
訓練用のセンサーが反応したのであろう、射撃を受けた装甲車は即座に沈黙する。
気分の高揚もなく、ただ一秒一秒がいやに長く感じられる。
蜂の巣をつついたように、地上を走り回る敵兵の一人一人までもを佐久ははっきりと知覚できる。
「悪いな」
人知れず佐久は呟いた。
ノーズを下げ、牙を剥く佐久と彦根の機体が、地上目標たちに襲いかかる。
元々は学校だった、指揮所屋上に配置された機関銃手を見据えた。
いくら土嚢の掩体の壁があるとしても、ヘリと歩兵の機関銃では差は明らかだった。
その怯えた、まだ若い兵士がひきつった顔でヘリを認め、叫んだのさえ佐久にははっきりと見える。
躊躇いなく、佐久はその機関銃に電子の弾を撃ち込んだ。
周囲を索敵する彦根と、空中でホバリングする作戦ヘリの護衛をする佐久に護衛されて、海兵隊の隊員たちはするするとロープで降下していく。
それは静かで恐ろしい武力の浸入だった。
訓練上では肉片になった機関銃手をよそに、屋上のドアを爆破した海兵隊がその屋内へと滑り込んでいく。
黒い戦闘服に、赤外線ゴーグル、それに短機関銃を携えた兵士が、次々とヘリから下った。
レーダーで増幅された視界は、兵員を降ろして離脱するヘリも、地上担当の海兵隊の掃討も全てを伝えてきた。
ふと、ある一点に意識が引っ張られる。
ヘリのテール側、本来なら死角となるその方位。
森の中に潜んだ兵士の持つ、竹状の筒。
二十世紀後半から使われ続けている、驚異の対戦車ロケット発射器RPG7。
実に単純、レーダー誘導も何もない、目標に向けて撃つだけ。
火薬の力で目標へ飛んでゆくロケット花火だ。
だからこそ、ロックオンのアラームも対レーダーの撹乱も無効なのだ。
未だにホバリングしているヘリが、目の前にはいる。
考えるより早く、佐久は恐るべき機動でターンした。
向き直りながら照準を目標地点に向ける。
それが射界に入ると同時に、機関銃の射撃ボタンを押し込んでいた。
見えない機関銃の弾が、目標に吸い込まれる。
幾重にも重なったヘリの羽音が、地面を震わし夜空を揺さぶる。
「三階、二階制圧」
指揮所を制圧した海兵隊の各班からの報告を、誓が中継する。
一階の窓ガラスを、パラパラと発砲の閃光が突き抜けた。
それを見ながらも、佐久は周囲のレーダー情報に神経を尖らせた。
「一階制圧、目標を捕獲」
周囲で待機していた一機の作戦ヘリが高度を下げ、建物の屋上に接地する。
建物の周りを旋回しながら、佐久は睨みを効かせた。
海兵たちに身体を束縛された一人の中年が、出入り口から現れる。
口には猿轡、ワイヤー手錠で後ろ手にされ、片足を引きずっている。
海兵に引きずられて、目標と思しき人物は襟首を捕まれヘリに連れ込まれる。
仮想敵とはいえご丁寧な扱いだ。ゾッとしない。
作戦ヘリはふわりと浮かび上がり、収穫を載せて凱旋だろう。
全てを破壊された指揮所を、佐久は見下ろした。
あっという間にカタがついた戦闘だった。
佐久は息を大きく吸い込む。
どこからか焦げ臭く、血なまぐさい戦場の空気が感じられた気がした。
低高度で飛びながら、佐久は赤い目でいくさ場を見据えた。
仮想の戦場を、鉄の旋風が通り抜ける。
長居は無用だ。さっさと帰るに越したことはない。
蹂躙した敵地を、佐久は飛び越えた。
*
前日の訓練の評価はそこそこ良かったらしく、佐久はいつもより機嫌がいい。
あやめがドライバーで、彦根が助手席に座り、朝から一路入間へと向かう車の中で、佐久は音楽を聴いていた。
軍のマークのついた、紺色のアコード海兵隊仕様は、出発10分後に絶好調で渋滞に捕まった。
ヘリならばあっという間の和光―入間間だが、下道では2時間もかかる。
いつもなら佐久の機嫌が僅かばかり悪くなるだろうが、今日は眉間に皺も寄っていなかった。
一方の誓はと言うと、昨日の夜が遅かったせいで疲れが抜けない。
今はあやめと彦根の会話を聞いているから起きてはいるが、あと20分もすればきっと眠っているだろう。
「そう!志木駅のマルイ、意外と遊べるんですよ!買い物ならダイエーですけどね」
「何だかんだ言って、池袋まで出るのが地味に面倒だよなぁ。用事なんて近場で済ましたいからさぁ」
「ですよねぇ。あ、こないだの誓のミニスカ、志木駅のマルイで買ったんですよー。みんなびっくりしてましたぁ?」
俺マジでびっくりしちゃったよ、と彦根が後ろ側を振り返る。
いきなり振られた話に、曖昧な笑顔で応えた。
いやー、ギャップがあってぐっと来るねーと、彦根がオッサンの顔をする。
ラジオからは軽快な洋楽が流れ、天気はいい。
強い日差しがガラス越しに降り注ぐのを感じながら、誓はまた外を見た。
最近は訓練が詰まっていたから、たまにはこうのんびりするのも悪くはない。
警察署やカーショップ、スーパー。人々の生活感が間近に感じられる街を車は抜けていく。
いつ戦争が始まるとも分からない状況の国とはとても思えない長閑さだった。
街路樹の落とす柔らかな影。犬の散歩をする主婦。
昨夜の訓練の光景が、まるで幻影に思えた。同じ国、地続きの大地での風景とは思えない。
誓が生きても死んでも、きっとこの人たちは当たり前のように明日を生きるのだと思う。
一体どこで、戦争が行われているのか。遠い国の出来事ではないのかと、錯覚してしまう。
同じ島の北の果てでは、今も銃を手にした兵士が北海道方向を睨んでいるというのに。
車はやがて、住宅街を抜ける道へと入る。
志木駅のマルイの話はまだ続いていた。
佐久はと言うと、腕を組んだままいつのまにか瞳を閉じていた。
朝の光に照らされた横顔には、僅かに疲労が滲んでいる。
見るからに神経質そうな細面に、整って尖った鼻筋。僅かに唇は開き、白い歯が見える。
少し癖のある黒髪の一本一本が、溢れる光で染められていた。
――ちょっとがっかりしたな。
その横顔がきれいだったから、誓はなおさらそう感じた。
佐久は何よりも、ヘリの操縦が好きなのだと思っていた。誓には見えない修羅の道を歩みながらも、操縦にしがみつくほどに。
それでも、人並みに俗っぽいところはあるらしい。
評価を求めて飛んでいるし、自分がデータ収集であることに憤っていた。
あの怒りの熱さも、絶望の冷たさも、錯覚だったのだろうか。
佐久の目で見た戦場に打ち震えたことも、あるいは求めていた確かさがそこにあったことも。
何かに命を削る佐久の必死さに、誓は心を掴まれた。
そうしなければ生きられない必死が、自分と似ていたと思った。
それでもやはり、現実と地続きでなければ生きていけないのだ。
道路の段差に、車ががたんと揺れた。
コードレスイヤホン型のミュージックプレーヤーが、佐久の耳からぽろりと落ちる。
僅かに薄目を開けた佐久は、それでも拾いなおそうとはせず、再び瞼を閉じた。
そのまま、窮屈そうにシートに凭れて寝息を立てる。
こいつは男で、パイロットになれた。自分は女で、パイロットには作って貰えなかった。
そんなどうでもいいことが、未だにしこりになっている。無意味だとは分かっている。
指でトントンと膝を叩き、苛立ちを押さえた。
人間なんてそんなものだ。ささやかなものに囚われて生きていけるのは、幸せな証拠だ。
シートに寄りかかり、目を閉じる。指先は既に熱を帯びている。
瞼の裏に、すぐに夢の景色が移ろい始め、誓は眠りへと墜ちた。
少佐が、ベンチに座っていた。
特徴のある後姿。がっちりした肩。
格納庫の傍、自販機コーナーのベンチの左端で、いつもの微糖コーヒーを飲んでいる。
奇妙なまでに青すぎる空。巨鯨のような輸送機、C―130のプロペラの唸りが、地響きのように響いている。
少佐。
声をかけたくても、声が掛けられない。
すぐ目の前にいるのに、喉に何かが詰まって、声が出ない。
風がそよぐ。こんなに穏やかないい天気の日なのに、身体は強張って突っ張ってばかりだ。
地面から足を引き剥がすようにして、誓は少佐に近付こうとする。
全身の力をこめて、一歩一歩踏み出す。早くしなければ、少佐が行ってしまう。
急に誰かが、誓の手を掴んだ。
体温のない蝋人形のような手。黄色く変色した上に、どす黒い染みがあちこちに広がっている。
振り向くと、ぼろぼろの戦闘服を着た女が、誓を死体の目で見ていた。
分かっている。
それは、自分だった。
「谷川!」
頬に与えられた刺激と、誰かが呼ぶ声で、誓は現実に引きずり戻された。
誓がゆっくりと瞬き、滲んだ視界を押し広げると、佐久はようやく摘んでいた頬の肉を放す。
アコード海兵隊仕様は、まだ道の半ば、住宅街が立ち並ぶ道を走っている。
「うるせぇな」
どうやらうなされていたらしい。
佐久は、口ほどには嫌そうなそぶりは見せず、またシートに寄りかかる。
バックミラー越しに、彦根と目が合う。
「・・・すみません」
「顔色、悪いよ。ちょっと休憩する?」
誓はまた、かぶりをふる。ちょっと疲れているだけです、と言い訳をした。
痺れて震える右手を、そっと握り締める。
温くなったミネラルウォーターのパックの蓋を捻り、口を付けた。
カラカラに渇いた口の中を、水が行き渡ると幾分かは気分も落ち着く。
額に浮かんだ汗を拭った。
あやめは、2車線の道路でふらふらと路側帯を走る老人に「あぶねぇぇぇえ」と言いながら徐行している。
しばらく、車内に沈黙が広がった。ただ黙って窓の外を見送る。
踏み切り。この前まで美容室だった空き店舗。自転車の専門店。コンビニ。いつも通り過ぎるだけの美味しそうな店。
クーラーが効いた車内は涼しいが、外の温度は相当に上がっているだろう。
「あ、犬」
子供が犬を連れているのか、犬が子供をつれているのか分からない、ゴールデンレトリバーの散歩。
ハッハッと息をしながら歩く大きな金色の塊をゆっくりと追い越す。
可愛いなぁ、と、誓を褒めるのと変わらない口調で犬を褒める彦根。
「こんな時間帯に可哀想だ」
起きていたらしい佐久がぼそっと呟く。アスファルトで肉球が焼けてしまうらしい。
「犬、飼ってるんですか」
「飼ってる。今は雑種」
ぶっきらぼうに答えた佐久が、携帯端末をポケットから取り出す。
薄いガラス板に、待ち受け画像がぱっと表示された。
田舎の納屋の軒先、トラクターの前で、タオルを咥えた大型犬がこちらを見ていた。
柴犬を大きくして、毛を長くしたような、立派な犬だった。
「おれのタオル、返してくれなかった」
犬には悪気はなかったのだろう。顔が笑っているように見える。
そして犬を見る佐久の目も、少し穏やかだった。
可愛いですねぇと褒めると、ちょっと得意そうに笑う。名前は「たれお」というのだと教えてくれた。
ネズミ退治のために猫も飼っているらしく、大きな黒いブチ猫の写真が出てくる。
実家は立派な家なのだろう。背景に映る佐久の実家は、立派な門構えをしていた。
写真は畑や田んぼの前で撮られた写真が多かった。
里山を背景に用水路に飛び込んでいる犬の写真。家の佐久の布団を占領する猫。佐久と相撲をする犬。
先ほどまで見ていた悪夢のことなど、すっかり忘れてしまう。
珍しく、佐久の口数が多い。
そういえば、まともに佐久と日常会話をしたのは、これが初めてだった。
しばらくすると会話も終わり、また入間まで静かになったが、車内の雰囲気は軽くなっていた。
入間に近付くにつれ、見知った町並みが近付いてくる。
誓はまた目を閉じた。今度は、夢も見なかった。
空軍の入間基地は、東京に近い埼玉にある。
中央を線路が分断し、敷地の中に踏み切りと駅があるのが大きな特徴だった。
飛行場とそれに付随するターミナルを擁し、ひっきりなしに大型輸送機が飛び交っている。
格納庫がやたらに多く、またその他のビルも立派で整然としていた。
海兵隊の和光基地とはやはり、雰囲気が違う。
歩く人々もどこか、知的で大人しく見えた。
陸海空、そして海兵隊のサイボーグの手術及び検査は、一手に入間基地の専門部隊が担っている。
彦根は今日一日で検査が終わるが、もうすこし複雑な誓と佐久は明日までかかる予定だった。
サイボーグ化手術の程度が違うためだ。
そのため、彦根と佐久、あやめは外来者のための宿泊施設で手続きをしなければならない。
その間に、誓は久々に自分の部屋に戻ることにした。
12時に食堂前で約束をして、別れる。
基地の外れにある女性隊員用の兵舎からは、いつも自転車で通っていた。
現在地からは歩いて5分程度だ。
久々に帰ってきた入間の空気を思いっきり吸い込むと、その土地独特の懐かしい匂いが誓を迎えた。
広い基地の風景は変わっていない。少ししか離れていないのに、ひどく懐かしかった。
強張っていた肩の力が不意に抜けて、誓はほっとする。
頭上を飛んでいく、C―130の巨体を見上げた。
主力戦闘機、F―22Jラプターの離陸直後の爆音が響き渡る。
コワァァァァアア、と空気の中を滑っていく機体の音。
時計を見ると、11時20分。まだ時間がある。
部屋に荷物を置いたら、職場に寄っていこう。
誓は早足で歩き出した。
入間の中のビルの一つ、中央情報警戒隊の隊舎に、誓の職場はある。
アメリカ領日本唯一の、E787を運用する部隊だ。
尤も、本部よりも、シミュレーター訓練と国境警戒任務に当たっている時間のほうが長いのだが。
首から、部隊の人間であることを証明するパスケースを提げる。
5階が誓の職場だった。エレベーターに乗ると、何故か胸が高鳴る。
廊下に差し込む光。事務室。後輩や先輩。変わっていない景色が、扉の向こうにはあった。
「谷川軍曹!」
地上勤務員の伍長が、顔を輝かせる。可愛い後輩の女の子だった。見知った顔が、こちらを向く。
ひととおり挨拶を済ませる。その後に、立て替えられていた集金でいきなり財布が軽くなり、誓はため息をついた。
大して見ることもないのに、NHK料金はどうしてこんなに高いのだろう。
久々に見たフリオペの事務室は、相変わらず整然としている。
現場の中堅である、八甲田2等軍曹の厳しい躾が行き届いているからだ。
10ほどあるデスクの島の書類は整理整頓してバインダーに収納され、期限切れのものはない。
床は毎週木曜日にモップで汚れ落としと水拭きの後、当番制でワックスを掛けていた。
決して大きくない事務室だが、きちんと整理されているためか狭さは感じられない。
仕事は勿論、身なりや礼儀に厳しい八甲田だが、誰も彼を悪くは言わない。
それだけの実績と、何より人望があるからだ。
「よぉ、谷川。海兵隊はどうだ?」
聞きなれた声に振り向くと、そこに当の八甲田がいた。
お疲れ様です、と姿勢を正して敬礼する。
角刈りに、身長は低いがどっしりとした身体。よく焼けた肌。
仕事でしくじって何度も叱責はされたが、誓はやはり彼を信頼していた。
「慣れなくて」
「そうか。ちょっと痩せたんじゃないのか」
苦笑いする誓に、八甲田は何も問わない。恐らくはその苦を察しているのだった。
久々に見る先輩に、妙にジーンとしてしまう。そういえば、と八甲田が思い出したように口を開いた。
「お前、群馬で喧嘩したんだって?さすが鳥海少佐直々の教え子だな」
フリオペを束ねるインテリでありながら、武闘派で知られる上官の名前を出し、八甲田は笑った。
どこから聞いたんですかと答えると、そりゃ知れ渡るわなと返される。
「そういえば、その鳥海少佐は?」
「ああ、ちょっと午前は外してるよ。本部にはいない」
昼休みに帰ってくるけど、待つか?と言われるが、時計を見て断った。
手土産の和光名物「ロングボウ饅頭」を渡し、皆様によろしくお伝えください、と挨拶して辞した。
イカ墨の黒を使った饅頭で、ただ楕円形なのだが、一応アパッチのロングボウ・レーダーを模しているらしい。
入間に来た途端に身体が軽くなり、やはり自分の古巣はここだと誓は実感した。
エレベーターへ向かう足取りも、心なしかスキップ混じりになる。
昼食後から始まった検査は、被験者からすればひたすら眠いだけだった。
脳ドッグ、CTスキャン。接続の精度検査。回路の試験。
ほとんどが、装置に入って寝そべったり座ったりしているだけだからだ。
何を検査しているのかはよく分からないし、内容について理解する必要性はなかった。
ただ、半導体工場のように清潔な部屋で、スキャンされながらガラス越しに観察されるのだけは気が滅入る。
検査用のガウン一枚、便所スリッパで広い医療センターの中を、言われるまま梯子する。
最低限気を使われているのか、さすがにこの中で佐久たちと顔を合わせることはなかった。
ベッドに寝て心電図を取る検査では、10分の間にすっかり寝入ってしまい、看護師に起こされた。
航空従事者の身体検査も兼ねているらしく、深視力・視野・盲点の検査・視力なども計測する。
白と薄い水色を基調とした、あまりに清潔なこの医療センターが誓は嫌いだった。
まるで精密部品の製造検査みたいに感じるからだ。
実際はそうなのだが、やはり感覚としては受け入れがたいものがある。
言われるままにしているうちに今日の検査は終わった。
「バリウムがないだけマシだな!!」
何だか妙な疲れ方をしたと思いながらコンバット・ブーツを履いていると、三十路の彦根が切実な冗談を言っている。
クーラーの効いた部屋にガウン一枚で居たせいか、袖を通した迷彩服が温かく感じられる。
ズボンの裾を折りたたんで仕舞うと、コンバット・ブーツの紐を締めなおし、誓は身なりを整えた。
玄関を出ると、むっと蒸し暑い夏の夕方の湿気が身体を包む。
夕暮れの濃い青に染まった雲が、空一面を覆っている。重く、色の濃い雨雲だった。
入間は街路樹が多く、湿度が増すとその緑の匂いをも鮮明に感じられる。
遠雷の轟きが、かすかに響いている。彦根が空を見上げて呟いた。
「あちゃー、雨かぁ」
「みたいですねぇ」
入間にもクラブはあるのだが、さすがに明日検査を受けるのに飲酒は出来ない。
彦根は、佐久に、「先に帰ってろ」と促す。
「俺、ちょっと用事があるから」
「場所、分かりますか?」
念のために聞くと、彦根は頷く。
大事な用事らしい。その眼差しが、既に笑っていなかった。
じゃあ、と手を挙げて挨拶をした、その背中を誓は見送った。
*
スーパーの袋で二重に包んで、口をきっちり閉じた風呂道具セットの中身を改める。
タオルに、髭剃り、洗顔フォーム、シャンプー。
がさがさと包みを開き、桶を取り出して、袋を逆さにしても、旅行用のボディソープがなかった。
舌打ちをする。
忘れまいと思って机に出しておいたのを、忘れたらしい。
シャバのホテルならいざ知らず、パイプベッドとロッカーしかない簡素な宿泊施設だ。
外見はやたら立派な8階建てで、シティホテル並に見えるのだが、中はやはり軍隊である。部屋は病室と大差ない。
アメニティなんてものが存在するはずも、ない。
売店で買ってくるしかない。売店が閉まっていたら、洗顔フォームで身体を洗うしかないだろう。
おりしも窓ガラスを、降り出した夕立がぽつぽつと叩いていた。
まだ何も脱いでいなかったことだけが幸いだ。
カーテンを開けると、飛行場を見下ろす7階の景色を、忌々しい雨が溶かしている。
支給品の雨合羽を上だけ羽織ると、佐久は急ぎ足でエレベーターへと歩き出した。
自動ドアの正面玄関の向こうは、早くも大粒の雨で霞んでいた。
佐久は、帽子の上からフードを被り、財布を確認すると、場所がうろ覚えの売店へと走り出した。
外へ出た途端、礫のような雨滴がゴアテックスの素材にぶつかりはじめる。
ズボンはあっという間にぐちゃぐちゃに濡れる。コンバット・ブーツの中だけがそう簡単に浸水しないのが救いだった。
水溜りが、佐久の体重が落ちるたびに波を立てる。
雨の中を、佐久は走りぬけた。湿った空気が肺の中に満ちる。
久々に思いっきり走ると、少し体が鈍ったのに気付く。中学校までバイアスロンをやっていた頃とは加速が違っていた。
テスト・パイロットという性格上、フライトのたびに報告書を書かざるを得ない。
そうなると自然、残業も多くなかなか走る時間が取れなかった。
そんな事を考えながら、どうにか一発でたどり着いた売店の軒先へと飛び込む。
雨合羽にびっしょりと乗った雨滴を払い、入り口のフックに引っ掛けてから店の中に入った。
海兵隊が珍しいのか、人影の疎らなコンビニエンスストアの中の空軍兵が、ときどきこちらを見る。
日用品の棚の中から、さっとミニサイズのボディソープを手に取った。
ついでに紙パックの麦茶を手に取り、レジへと向かう。
「・・・で、これが今までの経過です」
レジでEdyを取り出し支払おうとすると、不意に聞きなれた声がした。
反射的に、隣接する休憩コーナーを見る。
コンビニエンスストアの反対側には、ソファの設置されたラウンジがある。その奥はガラス張りで、昼のうちであれば隊員の目を慰めるための微妙な日本庭園が見えるのであろう。
それは面積も小さく、この夕方の暗さでは何かが植えられている位にしか分からなかったが。
一番奥の席で、彦根が誰かと話をしていた。
テーブルを挟んでいる相手は後姿しか見えないのだが、その迷彩服は灰色だった。
レジのおねえちゃんが、袋詰めが終わって「どうぞ」と言うまで、佐久はそれを注視していた。
「あ、」
我に返って袋を受け取る。佐久の声に反応し、彦根が顔を上げた。
ぱっと目が合い、佐久は何だか悪いことをしたような気分になる。
驚いたような彦根の表情は、明らかに笑っていない。
つられて振り向いた空軍の男が、佐久の顔を見た。襟の階級章が覗く。少佐だ。
歳は三十台後半だろうか、皺の刻まれた精悍な顔立ちに、短く刈り込んだオールバックがよく似合う。
切れ上がった目には炯炯とした眼光。どことなく、見た目だけでその厳格さが窺える風貌だった。
「あれがうちのパイロットの佐久です」
平静を繕った彦根の表情が、こちらへ来いとジェスチャーをする。
――少佐。
不意に、誓の寝言を思い出す。うなされながら、入間に来る途中に呼んでいたのも、「少佐」だった。
ネームタグには、鳥海と表記してある。左肩に貼られたパッチは、誓と同じ梟を模したものだ。
「では、谷川が彼にお世話になっているんですね」
「佐久、誓の上官の鳥海少佐だ」
歩み寄ると、鳥海は微笑みながら手を出す。
その左手には、随分長い間使い込まれた結婚指輪が光っている。
それを見て、まさかと思いつつ胸に何ともいえない苦い味が広がった。
――アイツ、ファザコンか。
技術屋の顔をした人間の多い空軍で、明らかに鳥海は軍人の顔立ちをしている。
それが魅力的に見えないこともない。
寝言で呟き、恐らく精神的に縋るほどの仲。
俗っぽい空想が頭を過ぎる。
所詮、誓も女。
そんなことは分かっている。フリオペのプライベートなど、任務の中では問われない。
それでも軽く失望している自分に気付いた。
握られた手を握り返し、簡単な挨拶を済ませる。
「あなたとは話してみたかった」
友好的に見える笑顔。しかし、その威厳はどんな表情でも緩まなかった。勧められて、テーブルを囲んで斜向かいのソファに座る。
「色々とうまくいかないこともあったと聞いている」
「ええ、齟齬は確かに」
隠しても仕方がないのだろう。彦根からトラブルは聞いている筈なのだから。
眉ひとつ動かさず、背筋を伸ばして座る鳥海。
「何せ、軍も経歴も違うのだから齟齬は起こる。私は谷川に、技術と苦労を学ばせに行ったのだよ」
それは、最終的に谷川を育てるためなのだということは、言わずとも伝わった。
若さと過ちを俯瞰する、指揮官の度量が言葉の端々から滲む。
「今は、君の目に谷川はどう見える?」
その鳥海の問いに、沈黙したままの彦根が、ちらりと佐久を見た。
言葉を選びながら、しかし通用しない嘘を排して佐久は答える。雨音が一層強くなった。
「――優秀なフリオペであると思います。正直に言えば、ここまでヘリコプターの運用を習得できるとは思いませんでした」
一呼吸置いてから、ただ、と続ける。
「非常に人格が難しい」
ふむ、と唸った鳥海が眼を伏せる。
心当たりはあるのだろう。鳥海は誓の上司なれば、その過去も確執も全て知っているはずだ。
一歩引いた佐久の表情から何かを察したのか、鳥海がつと佐久の目を見る。無論、その原因は誓一方にあるわけではないと誰もが理解していた。
彦根が組んだ手を握り締める。
「佐久君」
鳥海が、瞬きしない眼差しで見つめていた。
「谷川は、君にブラックホークの時の話をしたそうだね」
ええ、と答えると、鳥海は口を噤む。視線が佐久の表情を探った。
そのあと、ゆっくりと継がれた言葉は、佐久の予想を裏切るものだった。
「ラプターに救われたと、彼女は言っただろう」
静かに、鳥海は続ける。
そのラプターのパイロットの名は、守谷少佐と言った。
事故直後から、同じ基地に駐留していた誓と守谷は面識ができた。
パイロットに焦がれていた誓は、あっという間に守谷と親しくなった。自分を救った翼は、初めて民間機よりも輝いて力強く見えた。
そのパイロットと親交を持つことで心の傷は癒え、またフリオペとパイロットの間にもパイプが出来た。
性的な関係は伴わなくとも、特別な関係だったといえる。
二人の関係は、むしろ父娘に似ていたという。そしてそれは既に、過去形だった。
「・・・少佐は、戦死した」
その後にどうなったのか、鳥海は語らなかった。佐久も聞かなかった。誓が撃墜事件を語ることは出来ても、その後に起こったことを語れなかったのは、あまりに傷が新しく深すぎたからなのだろう。
「・・・それでも、谷川は立ち上がった。彼女の心がどうなのか、私にもその奥を量ることはできないがね。まだフリオペとして彼女は未熟だ。けれど、嘱望される未来はある」
だから、苦しみ抜いてでも成長して貰わなければならない。君との衝突も、最初から分かっていた、と鳥海は閉じた。
その話を聞きながら、佐久は痺れたような手足を感じていた。
墜落を経験した佐久と、死を基点に生きる誓が巡り会ったのは決して偶然ではなかったことを悟った。
誰しもが黙った。航空機の離着陸が途絶えた入間に、ひと時の静寂の帳が降りる。