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VERTIGO  作者: 東 砂騎
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CRASH/BOGGY

1945年8月、太平洋戦争終結後、ソ連軍占守島上陸。

兵力と物量に勝るソ連軍は激戦の末に北海道を占領し、アメリカは青森でこれを迎え撃った。

膠着と混迷の末、日本は分断と戦争の時代を迎える。

米ソの対立に、津軽海峡は最も緊迫した海域と化し、幾度の衝突が波濤を血に染めた。

時代は過ぎ、兵器は進化を遂げ、ソヴィエトはロシアになり、科学は発展する。

そして21世紀半ば、IPS細胞の活用と機械工学の発展により、人類は遂に人工の体を完成させるまでに至った。

しかし、津軽海峡に残る国境線は依然として、第二次世界大戦後から変わらずにいる。


INTRODUCTION PHASE:CRASH



佐久 一存かずまさ 海兵隊曹長


「オリオン61、ディクレア・エマージェンシー!」

(オリオン61、緊急事態を宣言する)


風の音だけが、ごうごうとガラスの向こうを滑っていく。

ぐるりと座席を包む青空から降り注ぐのは、夏の午後の日差し。

ヘルメットのバイザーを降ろしてもなお、佐久は眩しさを感じて目を細めた。

トビウオに似た、二人乗りの小さな練習機は、今本当にトビウオと同じ状態で飛んでいる。


「アイ・セイ・アゲイン、フレームアウト!」


くぐもった荒い息遣いの中に、教官の緊迫した音声が響く。

航空機のエンジン停止を意味するその言葉が、まるで嘘のように素通りしていく。

推進力を失った機体は、グライダー状態で空を滑り落ちていた。

甲高いエンジン音の消えた、異様な無音の中で、佐久の脇の下を流れる汗。

後部座席の教官、黒部大尉が、必死で機体の安定を保とうと闘っている。

主翼、尾翼、垂直尾翼のそれぞれ後部にある舵を動かせば、例えグライダー状態でもある程度の操縦は効く。

机上の教育で教わったそれを、佐久はまさに体感していた。

通常の操縦時よりもやや遅れた反応の、ゆるやかな旋回。

それとともに、高度3000フィート(900メートル)から見下ろした地平線が斜めに変化する。

――里山の合間、田園がキラキラと陽光に輝いて美しい。

見上げると、空の鮮やかな青に、すっと刷いたような美しい雲。

指先の血管は痺れるように熱くて冷たいのに、そんな事を感じている自分が不思議だ。

こぉ、こぉ、と、きつく口元を覆う酸素マスクから漏れる呼吸音を聞きながら、佐久はそんな事を考えた。


「アキタタワー、オリオン61、ナウ、オーバー・ユゼ。リクエスト・エマージェンシー・ランディング」

(秋田管制塔へオリオン61、現在湯瀬上空。緊急着陸を要求する)

「オリオン61、エマージェンシー・ランディング・アプルーヴド」

(オリオン61、緊急着陸を許可します)


海軍秋田基地の管制官の、掠れてはいるが少なくともパニックではない声がノイズ混じりに飛び込んでくる。

ガタガタと伝わるのは、風に吹かれた機体の振動。


「2700!・・・2600フィート!」


高度を示す計器は刻々と、その数字を減らしていく。

山の肌はその分だけ、近づいてくる。飛び去っていく木々の葉。

心の底の透明な冷たさで、その景色を見送る。

何も感じていないのか、全ての感情が許容量を振り切っているだけなのか。

どちらなのかも分からないまま、佐久はただ周囲の風景を、見つめ続ける。

近づいてくる航空機はいないか。下から上昇してくる航空機はいないか。

機影を探す。

地上に落ちる、自分の機の影が、山を舐める。

2500・・・2000フィート・・・

意味もなく握った操縦桿は、今も手袋越しに無情な沈黙を続けるだけだ。

風が吹いている。

翼がガタガタと音を立てた。一瞬、感じた異常な振動に、ぞわっと神経が逆立つ。

振動が一気に機体全部を揺さぶる。

――その時、不意に強烈な力が機体を翻した。

持ち上げられた片翼が、機体を傾ける。エンジンの止まった機体には強すぎる乱気流に、重力が左側に偏った。

重力の変化に、体を固定するハーネスが食い込む。

新幹線の轟音にも似た、風の強い音が機体全てを飲み込む。


「クソッ」


妙にはっきりと、黒部の罵る声が聞こえた。

天と地が混ざり合うような感覚が、視界を揺さぶる。

翼がぎしぎしときしむ。コックピットいっぱいに、垂直になった地平線が広がる。

それもただの一瞬で、瞬きをする前に天地は逆転した。

地面が天にある。空が足の下にある。

肺が詰まって、喉で呼吸が止まる。

頭に浮かんだのは、たった一つの言葉だった。

――もうだめかもしれない。

目に見えない乱気流は、飛行機を容易く吹き飛ばす。

足許が抜けるような感覚を、全身で感じる。

コックピット中に鳴り響く、対地接近警報のアラームを聞いた気がした。


PULL UP PULL UP


無意味な人工音声が上昇を指示していた。

コントロールを失った機体は、風に翻弄されながら一気に高度を失っていく。


「佐久!ベイルアウト準備!!」


怒鳴り声が聞こえる。

緊急脱出を命じる教官の声。

内臓がふわふわと浮くような感覚がこみ上げてくる。妙に世界が眩しい。

――生きている。まだ、生きている。

強く感じたのは、残り少ない命のリミットが、すぐそこにあるということ。

ゆっくりと機体が回転して、また斜めの地平線がせりあがってきた。機体が水平になる瞬間を狙わなければ、ベイルアウトは成功しない。


まだだ・・・まだ・・・


佐久自身なのか、それとも教官の声なのか、機体が水平になる瞬間をじりじりと待つ。

コックピットがふわふわと水平に近づく。目の前には、避けられない山。

山肌に突き刺さるように迫っていく機首。佐久の名前を叫ぶ教官。

凄まじい重力で、腕を押さえつけられているようだ。

佐久は、渾身の力をこめて、緊急脱出のレバーに手を伸ばした。



谷川 せい 空軍伍長

血溜まりの表面に、比重の異なるオイルが粒になって浮かんでいる。

幾粒も、幾万粒も、揺れながら血の流れに乗っている。

その中に混じり、焦げた小さな薬莢や、細かな金属片が浮遊していた。

遅すぎたヘリコプターの羽音が、その血と油の海を共振に粟立てる。

血液をかき集めたいのは山々だが、今はそんなことをしている場合ではなかった。

オイルは、谷川伍長の抉れた皮膚の下から止めどなく流れ落ちている。それに目をくれることもなく、全体重を両腕に落とした。

膝をつき、垂直の方向へ掌を押し込む。掌のしたの肉体の質量が、その度に体重を拒む。

激しい呼吸に乾いた喉の奥から、その肉体の名前を呼んだ。

アンモニア臭い、硝煙に濁った夜陰に呼ぶ声が消える度、呼気が白く立ち昇る。

床に横たわった身体の、肋骨の合間のまさに心臓の直上、重ねた掌の一点へと重力を加える。

血に赤く濡れてはいるが、元々は同じく灰色の迷彩服を着ているその長躯の、筋肉の感触が掌を押し返す。

その度に、谷川伍長の露出した人工筋肉の破れ目からオイルが飛ぶ。

左肱を掠った小銃弾は皮膚と人工筋肉を抉り、その奥に隠れていた強化プラスチック骨格とオイルのチューブまでもを破損させていた。

そこからまた、混ざり合った血液とオイルが流れる。

灰色の迷彩服は濃い赤と、黒ずみに染まり、左腕全体が痺れて遠かった。

それでも、心臓を目掛けて圧を加え続ける。

伸ばした腕に体重が掛かる度、神経が金槌で殴られたような痛みが走る。呻き声の漏れる唇に、汗の苦い味が何度も流れ込んだ。

戻ってくる。野戦衛生の教範通りに処置すれば、戻ってこない筈がない。

その確信だけが、心臓マッサージを続けさせる。

窓の外から差し込む強力なヘリコプターのサーチライトが、廊下一面に散らばるコンクリとガラスの細片を光らせる。

一瞬廊下を舐めたストロボの陰影に落ちるのは、溶けたガラスのような穴だらけのヘルメット、そしてオイルと、大きな血溜まり。

床についた膝から、迷彩服が血液を吸い上げてあっという間にグチャグチャになる。

体重をかける度、血溜まりに波紋が広がった。

命をつなぐ。

それだけを念じながら、呼吸の止まった肉体に体重をかける。

煩わしい髪の毛が顔に落ちるのも、滝のように噴き出す脂汗にも構うことはなかった。

心臓マッサージは、確かに心臓を充分にポンプさせていた。

目の前の身体の、幾つも上半身を貫通した穴からは加圧の度に血液が湧いていたし、青白く黄ばんだ唇の合間には血の泡が浮かんでいた。

だから、止める訳にはいかない。今止めれば、本当に死んでしまう。

あらぬ方向を見た榛色の瞳は白濁を始めたが、それでも優しさと厳しさを備えたその顔立ちは変わらない。

白髪交じりの短髪。地上より数倍の重力に太くなった首。

数十年の鍛錬の結晶した肉体。そこに無二の魂を呼び戻す。

血液が温度を失っていき、痙攣していたブーツの爪先が動きを止めてから時間が経った。

流れ出した血液に比例するように、顔からは体温の色が失せ、まるで黄ばんだ蝋人形のようだ。

その冷えきった唇に、口をつけて息を吹き込む。額を抑えて押し上げた顎には、筋肉の硬直の兆しが見られた。

顎に当てた指先に脈を感じないのは、きっと痺れのせいだった。

また心臓の直上に、掌を重ねる。ふと気付くと、呼気と汗とが蒸発して白く自身を包んでいた。

目の前の肉体が失っていく体温が、自身を伝って蒸散していくような錯覚を視る。

腕を這い上がる金属質な苦痛が、現実を醜く歪めた。

脈の中を毒が流れているような痛みに、動くたびに呻き声が漏れる。

自身の肉体の限界と、目の前の冷たい肉体が軋む音が憎く、叫び声を挙げた。

もう止めろ。そう叫ぶのは、誰なのだろう。

気が付けば、目の前に人影があった。味方の迷彩服を着ているが、そんなことはどうでもいい。

その人影が、衛生兵以上の救護のスペシャリストである救難員のワッペンをしていても、止めろという声には従えなかった。


「何やってるんだ!」


どうして、救難員がそんな歪んだ表情をしているのか理解できなかった。まだ、助けられる。死ぬはずがない。


「手伝って下さい」


かすれた声でそう請うと、救難員が一瞬硬直する。

確認するように屈んで脈をとった救難員は、息を吐いてから言い聞かせるように告げた。


「もう諦めろ」

「今ならまだ」


腕をつかんだ救難員を跳ね除ける。

怒気を孕んだ口調で、救難員が叫ぶ。


「あんたまで死ぬぞ!」

「あんた『まで』?誰も死なない!」


制止に構わず、また体重をかけた。オイルが滴って、ふたりの肉体に黒を広げていく。

到着した二人目の救難員に気づいたのは、パンパンに鍛えられた腕で羽交い締めにされてからだった。

そのまま引きずり離されて、また叫び声を挙げる。

この世のものとは思えない、獣の咆哮だった。強烈な叫びに、肺が収縮して鼓膜が痛む。

暴れる溺者にそうするように、救難員はチョーク・スリーパーを掛け始める。

そして、救難員は谷川伍長の耳元で叱咤した。


「もう死んでるんだ!!」


認めるわけにはいかなかった。

彼の命が終わるとともに、また自分の生も終わるのだと思った。

肱の内側で首を締められて、視界が赤く染まっていく。それを払うように、力任せに腕を振り回し続けた。

視界が狭まっていき、思考が遠くなる。


お願い、少佐を助けて。


その言葉が、どこまで救難員に聞こえていたのかは分からない。


盲目の闇に、滲んだ涙が落ちた。




生きよ堕ちよ、

その正当な手順の外に、真に人間を救い得る

便利な近道が有り得るだろうか。


――坂口安吾 『堕落論』


〈VERTIGO〉1ST PHASE:BOGGY


それは、まるで見知らぬ南洋の祭祀のようだった。

腰周りには水筒や弾薬ポーチをいくつも携え、身の丈の半分はある小銃を手に走る男たち。

一歩一歩駆ける度にヘルメットをカチャカチャと鳴らし、蓑のように草を纏っている。

肌にじわりと暖かい日差しと、のどかな昼の時間に突如現れた異様。

罵られているのにピクリともせず、殉教者のような無表情でひたすら苦痛の道に耐え続ける。

くすんだ緑の迷彩服は元の色が分からないほど泥に覆われ、動く度に土が剥がれた。

顔料を練りこんだ油脂で黒く塗られた顔からは、次々と吹き出る汗が濁って落ちる。

頬骨が出るほど痩せこけ、瞳だけが油を塗ったようにぎらぎらと光る。その濁りきった黒い色は、もはや何も映さない。

迷彩服を汗で湿らせた彼らが、臭気を残しながら去っていくのを黙って見送った。

残滓を除けば彼らが幻に見えるほど、平穏な昼休みが戻ってくる。

遠くからかすかに響くのは「柵」の外側を走るトラックの音。近くを走る幹線道路にひっきりなしに行き交っているのだ。

突き当りの向こう、鉄柵のあちら側には、普通の日常が構築されている。

そして「こちら側」にあるのは、軍隊として再構築された世界。

関東に配置された海兵隊および陸軍の、輸送の要として設置された「朝霞飛行場」を擁する和光基地の、これが毎日だ。

埼玉と東京外縁に跨る、広大な基地。様々な庁舎が設置され、指揮の要衝となっている。

大学かと見まごうほどの建造物が並ぶ様は、小さな建物が犇く外側とは一線を画していた。

広い車道の両脇には銀杏や桜などが並び、道行く軍人たちに陰を恵んでいる。

ひとり道を歩く谷川軍曹――谷川 せいは、若葉の眩しさに目を細めた。

正装である制服姿の者、戦闘服姿の者、昼休みにはいろんな人種が道を歩く。

外界と隔絶された世界の中で、彼らは彼らの日常を作っていた。

誓は道を歩き続ける。ブリーフケースを片手に、時々「佐官」と呼ばれる高級幹部に敬礼をしながら、道を歩く。

道行く人が時々誓に目を留める。

海兵隊と陸軍の基地で、空軍の迷彩服を着ているものは多いとはいえないからだ。

それも一瞬で、すぐに忘れ去ってしまうのだが。

しばらく歩くと、基地内でありながら柵に囲まれた場所にぶつかる。和光基地内には、さらに警備の厳重な区画がある。

箱庭ともいえるその一角は分厚く高いコンクリート・ブロックで囲まれ、中の様子を窺い知ることはできない。

複数箇所の出入り口を通過するには身分証明書と専用のパスの提示が必要で、実弾を装填した銃を持つ兵士が常時そこを警備していた。

それだけではなく、ジャーマン・シェパードを携えた兵士が常に塀沿いを巡回している。

ただ一箇所開放されたゲートは航空機用の出入り口で、飛行場に直結している。

ここには扉はないが、常時複数台の監視カメラが周囲を睥睨していた。ーー基本的に安全を保証されることが前提の基地の中で、である。

1機が数十億と言われる戦闘機の格納庫でさえ、区画を囲うものはないのだ。

通常、武器・弾薬庫やレーダー施設などを除き基本的にブロックのない軍の基地において、この場所は誓にさえ威圧的な印象を与えた。

ずっと塀沿いに歩きながら、3人、2人と連なる海兵隊員とすれ違う。

紺色をベースに、引き裂いた跡のように黒と濃紺を重ねた迷彩服。

軍隊の中で飛び抜けて気の荒いと言われる彼らを流し見ながら歩く。まだ幼さが感じられる兵卒から飄々とした下士官まで、面立ちは様々だ。

それでも、彼らは一様に海兵隊員の顔をしている。まるで、共通の遺伝を継いでいるかのように。

その彼らに、空軍の自分はどう見えているのだろう。

誓の着る、灰色の濃淡をピクセル状に重ねた迷彩服は、春の日射しに白っぽく浮かびあがる。

関東一円を覆う高気圧が、基地内に暖かい春風を呼ぶ。濃い草緑に揺れる沢山のタンポポに、誓は目を細めた。

規則正しく碁盤に設計された基地と、真っ直ぐに整備された道、白い建造物。その合間の草地だけが、軍隊らしくない自然の造形を保っている。

道端の草地は、殺伐とした基地内に小さく季節を運んでくる。昼休みの気だるさに浸りながら、誓はその傍を歩いた。

その先に、コンクリート・ブロックの切れ目に設置されたセキュリティ・ゲートが見えてくる。

民間人の見学はもちろん、議員でさえ理由なしには入れない場所。

ーー飛行開発実験団、略称ADEXg。

和光基地に設置された、陸海空軍を統べる統合軍直轄の部隊。

厚い機密の壁に阻まれたその場所で、次世代の高度な技術は生まれる。

胸ポケットには、誓がそこに勤務する一員であることを証明するパスが入っていた。

ゲートに近づくと、兵士のヘルメットの庇の下の目がこちらを捉える。ぼーっと周囲を見渡すかのような彼らの瞳は、それでいて絶えず異常を探るレーダーだった。

肉眼のX線ゲートが、それとなく誓の爪先から顔までを通過するのを探知する。

車両の突破を防ぐために、いつでもそこには巨大な棘を備えた移動式の障害物が設置されていた。


「どうも」


一等兵に軽く目礼をすると、パスと身分証明書を提示する。胸に縫い付けられたネームに視線が走った。

氏名階級、そして顔写真を確認した兵士がもう一度誓の顔を見た。

顎に目立つ黒子がある。小鼻が赤く、黒目がちな、まだ十代らしさを残す顔。


「お疲れ様です」


おざなりな敬礼をした兵士に、おざなりな敬礼を返すと、誓はゲートを通過する。

そして、壁ひとつを隔てて守られている世界に足を踏み入れた。

ここに来てから数日が経ったが、未だにこの風景には慣れない。

3階程度の、飾り気も全くない白塗りの建造物が続く風景は軍隊的であると言えるだろう。

だが、合間に存在するコンクリート壁の建造物はそれらを軽く凌駕するほどに大きく、窓もないその様は周囲を圧迫するようだった。

高さは5階にも届くだろうか。正方形に近く、備えられたシャッターは閉ざされている。

灰色のコンクリは筋状に黒ずみ、廃虚を思わせる。似たような施設がそこかしこに点在していた。

新型戦車や航空電子機器の実験を行っているのだというが、当事者でない限りどこになにがあるのかは把握できない。

箱庭のなかに漂う独特の閉鎖感と非現実感は、悪趣味なシュルレアリスムの絵画に入ったような感覚を呼び覚ます。

道を歩きながら、海軍の少佐とすれ違う。彼は白衣の技術者と連れ立っていた。

向かいには軍事企業のロゴが入ったツナギを着た技師。だらしない格好の科学者は大学からの出向だろうか。

高級な指揮官と、彼らを気にするでもない技師や科学者の混在する風景は、一種独特の空気を作り出していた。

塀の外と内で変わらないのは、風とタンポポだけだ。

そのまま飛行場に向かって歩み続けると、航空機セクションになる。

飛行場エリアに走る道に沿って、かまぼこ状の格納庫がいくつも連なるのが特徴的だった。

アリーナひとつ分はある格納庫は日射しに光り、カーブした屋根から立ち昇る熱が空気を歪めている。

その上空で風に乗るカラスが、塀や格納庫に歪められた風の動きを忠実にトレスしていた。

風洞実験だ。誓は小さく呟く。

ちょうど道路の中央を飛行場に向け、牽引車に曳航された偵察ヘリコプターが向かう。

川魚のような、丸みを帯びてすらりとしたフォルムはOHー1だ。川崎重工が開発し、陸軍で運用されている現在も尚改修が行われている。

ブラックの陸軍塗装を施されてはいるが、機体はすんなりとした優しげな印象を与えた。

それを見送り、誓は周囲と同じく無個性な建造物に入る。

今時軍隊にしかないリノリウムの床が、よく磨かれて廊下の景色を映していた。

ふと、誓はそこに珍しく漂う土と汗の臭いを感じ取った。湿った土の塊がぽろぽろとそこかしこに落ちている。

生の土の臭いと、薄まってもムッと湿り気を残す汗の臭いが混じり、見えない軌跡を残していた。

それを追いかけると、階段を上がり、廊下の中程に行き当たる。パイロットの更衣室だ。

入り口には、表面に乾いた泥と湿った泥がこびりついたナイロンのバッグが置かれている。膨らみが大きいのはヘルメットバッグだからだ。

数枚のワッペンが貼られ、それはNATO軍の多国籍訓練参加や大規模演習参加などの持ち主の戦歴を示していたが、それも今は泥にまみれている。

時計を見れば、まだ10分ほど時間があった。掃除用具入れから箒を取り出し、誓はとりあえず廊下を掃き始める。

この部隊に出向して数日、誓が関わったパイロットは彦根という名の中尉のみだ。鞄に貼り付けられたワッペンには、「K.SAK」という刺繍がされている。

誓のセクションにはふたりのパイロットがいると聞いていた。恐らくはこの鞄の持ち主なのだろう。

見たことのないワッペンに、つい箒を持つ手を止めて見入ってしまう。

弾痕の穿たれたトランプがあしらわれたワッペンには、周囲に「13th NATO Joint Aviation Training ALASKA:AH-64D JOKER FORMATION」と記されている。

洒落たデザインのものや、アラビア語が記されたもの、ヨーロッパの国々の名前が入っているものなど、ヘルメットバッグはワッペンに異国を旅した記憶を留めていた。


「いいなぁ」


ぽそりと呟きが漏れた。こんな狭い塀の中にいながらも、パイロットには空を自在に越えてゆける力がある。

もちろん、それは揚力と重力、推進力と抵抗力の物理法則の合成にすぎないのだが、誓には人類本来の絶対不可能を打ち破る果てなき夢のシンボルに思われた。

空へ憧れた人間にとって、飛行は単なる事象を超え、まるで力強い魔法のように映る。ベルヌーイの定理を初めとするいくつもの物理現象を結晶して、空に奇跡は起こるのだ。

土の塊をちりとりに集めながら、誓は窓の外を見た。滑走路に接近し、ギリギリに降下をするオン・ショート・ファイナルのCー2輸送機が建物の向こうに消えていく。

後に残る甲高いタービン音。巨鯨のように丸みを帯びた機体のCー2輸送機は、和光を本拠地に活動しているため日中はひっきりなしに飛んでいる。

その合間を縫うように、人員輸送ヘリコプターが離着陸を繰り返していた。

ついぼーっとしそうになるのに気付き、誓は掃除を再開した。

ちりとりに集めた土をゴミ箱に捨てていると、階段を登る足音に気付く。

ゴツンゴツンと響く重い足音は、丈夫で靴底の厚いコンバット・ブーツの響きだ。

その音がする方を向くと、ちょうど階段を上がってきた男と目が合った。

ここ数日ですっかり記憶した栗毛の短髪。よく日に焼けた肌に、くしゃっと笑うとできる目尻の皺。


「おー、誓ちゃん!もうあいつと会った?」


彦根中尉だった。

海兵隊所属のパイロットで、誓はもう既に世話になっている。


「この鞄の方ですか?」


問い返すと、そうそう、と調子良く返事がくる。

何だよあいつ、と舌打ちした彦根が更衣室を覗き込むが、そこにも「あいつ」は居ないようだった。

格納庫かな、と呟いた彦根が誓に苦笑を投げかける。


「ちょっとクセのある奴だけど、まぁあんまり気にしないでいいから」


はぁ、とあいまいに相槌を打った誓に、彦根はまた笑う。

窓から差し込んでくる光が、その笑顔を明るく照らした。それが、彼自身の温かみをも感じさせる。

敵にとっては地獄の使者と言われる戦闘ヘリコプターのパイロットにはまるで見えない。

じゃー格納庫行きますか、と指示する彦根に誓は従った。

訓練から帰還したパイロットについていろいろと喋る彦根に相槌を打ちながら、階段を下る。

そして格納庫に入った途端、誓は異変に気づいた。

おおよそバレーコート4面はある格納庫が、狭く感じる。昨日までここにあったのは、戦闘ヘリコプター1機だけであった。

それが今日は、2機に増えている。同じ紺色の迷彩の、同じ機種。

――美しいものだけが空を飛べる。

そう言ったのは誰だっただろう。機体を見ながら、ふと思う。

確かに、21世紀も20年を終えた今、空を飾るのは美しい翼たちだった。

スマートに、美しく航空機たちは進化していく。1マイルでも長く、そして安全に。

軍用機でさえ、それは例外ではなかった。

機体の前に立った誓は、黙ったまま機体を見ていた。

格納庫の中で整備を受けるそれは、圧倒的な存在感と迫力を纏っていた。

それは王者の風格とも言えるものだ。

AH-64D、通称ロングボウ・アパッチ。

テクノロジーの粋を集めて開発された、現在の主力の戦闘ヘリコプターだ。

ヘリコプターというものの基本構造自体はどんなに進化しても同じではある。

本体を吊り下げるように生えるのは、機体上部のメイン・ローターと呼ばれる回転翼。

軸から生える数枚のブレード(羽根)が回転し、揚力を生み出す。

そして、尾部に据えられているのは、テール・ローター。

もう一つの回転翼だが、こちらはテール先端に設置され、上部のメイン・ローターよりもかなり小さい。

取り付け方向も垂直に向かっている。

メイン・ローターの回転によって機体が回るのを、反対側から力を加えることにより防ぎ、機首の向きを制御する。

多くのヘリコプターと変わらない原理で飛ぶが、誓の目の前にあるのはまるで違った生き物に見えた。

進化し、多様化したヘリの中でも、この機体は一つの頂点に立っている。

巨躯でありながら、削ぎに削がれた機体。

シャチのように、引き締まったごついフォルム。左右にはアビオニクス・ベイと呼ばれる庇のような出っ張りがあり、逞しい印象を更に強くする。

胴体の両脇から伸びた長方形の翼にはミサイルポッドなどが吊られており、その精緻な歯牙を誇っていた。

多面体の細長い胴体に据えられたコックピットには、本来前後に並べて席が設計されていた。

が、この機体には一人分の座席しかない。

胴体の下には、タイヤの付いた脚。前部のふたつの脚の間には機関銃が提げられている。

反対に、胴体の上には回転翼の軸であるローター。そこから伸びる四枚のブレード。

ローターの上部に据えられているのは、鏡餅と渾名される、本体より数倍高価なレーダー。

その渾名の通り、潰れた円形をしている。

長方形のエンジンは、背中の両側に据えられて、まるで鍛え上げられた水泳選手の背筋のようだ。


「きれい」


谷川軍曹は、ただただその正面から機体に見入った。

全ての一部一部が、個体の機能のために結晶化している。

完全な逞しさ。そして容赦のない容貌。

強いものは美しい。強いからこそ、美しい。

それを守るように、機体のあちこちに整備員が取り付いていた。

彼らは一心不乱にそれぞれの持ち場を守っている。

オレンジ色のプラスティックのヘルメットを被った整備員たちは、どれも全国の整備部隊から選抜された生え抜きと聞いている。

この機体は、特別なのだ。

本来アメリカで開発・製造されたアパッチであるが、現在は日本国内の数社がライセンス生産をしている。

そのうちの一社が、実験的にある機体を作った。

全国に2機しかない、試験機。それが目の前の機体だった。

気を着けて見れば、迷彩服を着た整備員に、白衣の人間や、灰色のつなぎを着た整備員が混じっている。

この基地の中に敷地を持つ、持内もてない重工の社員たちだ。

アビオニクス(航空機器)の軍納入トップシェアを誇る持内重工の、軍の下の研究所だった。

ADEXgの刺繍が入った帽子を目深に被りなおした誓は、大きく息を吸い込んだ。

飛行開発実験団、Air Development and Experience Groupの略称、ADEXg。

陸軍、海軍、空軍、そして統合軍。

現在のアメリカ領日本には、四つの軍隊が存在している。

統合軍隷下に航空機の審査、実験や開発を行う航空部があり、飛行開発実験団はその一部だ。

誓は空軍の軍曹として、畑違いのここへ出向してきたのだ。

どくん、と心音が高まった。頬に赤味が差したのを感じる。

不安が胸を刺すような感じと、心が膨らんでいく感じを同時に得る。

うまくやっていけるだろうか。今まで前例のない実験。

今になって、違う色の戦闘服を着ている自分がやけに気になる。

空軍のグレーの迷彩服が、統合軍航空部の紺色の迷彩の中で妙に浮いているような気がしてしまう。

邪魔にならないように遠巻きにしている誓は、ふとこちらを見る若い男性に気付いた。

無遠慮に、誓が腕に貼ったパッチを見ている。その視線は、友好的とは言えない気がした。

首には少尉の階級章。よく見ると、胸にパイロットの証であるウィング・マークもある。

とっさに「お疲れ様です」と敬礼すると、遂にこちらを真っ直ぐに見据えた。


「あんたか、入間から来た空軍の軍曹は」

「はい」


答えた誓に、眉根を寄せる男。痩躯の長身だ。それに面長で、全体的に無骨な印象を与える。

訓練から戻ったばかりだからだろう、うっすらと無精髭を浮かべ、疲労のせいか削げた頬が一段と目立つ。

毛穴に詰まった泥や汚れが、顔色を一層暗くさせた。近づくと、煙と汗の混じった臭いがする。

それでも、どことなく中東的な趣のある顔立ちに、すっと通った鼻筋は人目を引く。

削ぎ落としたようにシャープな顔立ちが、内側から緊張感と精悍さを漂わせる。

切れ長の瞳が、海外派兵に従事したことを証明する誓のパッチを舐めた。

なんとなく緊張感が漂う。あまり快くは思われていないようだった。それはきっと、誓の容姿にも起因するのだろう。

155cmの身長に、童顔を絵に描いたような顔立ち。結った黒髪と、眉で揃えた前髪が、それを強調する。

頼りなさを感じるのは無理もないが、内心反発を覚える。

それに、いつもそうされるように、男の視線が一度胸で止まった。そこだけはすくすくと成長してしまった、盛り上がった胸。

思いっきり男の顔を見てやると、男が目をそらす。

沈黙が流れた。

そこに、敢えて空気を読まないと思われる彦根の声が割り込む。


「・・・佐久、ちゃんと挨拶くらいしろよ」


男の名は佐久といった。

ようやくどうも、と気のない返事をした佐久に、彦根は困り顔をする。

俺たち、みんな同じ鉄屑じゃねぇかよ、と諭す彦根を映す佐久の瞳が、わずかに赤く光った。

瞼をゆっくりと開けた佐久の目を、誓は真っ直ぐに見た。深い憂いの刻まれた目許。そして、誓を見るこげ茶色の瞳。

なぜ佐久が特別に、少尉としては異例のテスト・パイロットを務めているのか。それはその答えだった。



佐久の瞳孔は、爛々とした赤い輝きを放っている。



高性能な赤外線レンズの装着された人工電子眼が、その眼窩には装着されていた。

軍用の生体工学手術を受けた――つまりサイボーグ化されたその身体、その眼、拡張された脳。

特別な機体のために用意された、特別なパイロット。

表に出れば、間違いなく非人道的として糾弾されるであろうことは想像に難くない。

――パイロットと脳神経直結の機体。

それにより、ヘリのセンサーで得た全ての情報を、自身の感覚であるかのように処理することが可能となる。

視界から得た情報を、脳で判断するタイムラグがそこにはない。

ここに鎮座するアパッチはそのための機体だった。

20世紀末に誕生した原型、ロングボウ・アパッチと形は変わらないが、その中身はほとんど別物といってよい。

そして、そのパイロットもまた、通常の人間とは中身が異なる。

それが佐久であり、また彼のために用意された誓も「純粋な」人間ではなかった。

サングラスを掛けた佐久がそっぽを向く。

誓もようやく、目線を機体に移す。

誓の任務は「フリオペ」として、擬似的に強化されたデータリンク状態を再現することだった。

フリオペ、フライトオペレーターの略であるそれは正式には機上指揮員と呼ばれている。

誓が乗り組むE787という機体は、電子の目と、戦場を覆う通信能力を保持している。

その機から、地上の兵士やヘリ、そして戦闘機に指示を与える役割を担うのがフリオペだ。

通常の人間と中身が異なる。それは、彦根、佐久、誓、誰しもが同じだった。

そうでなければ、そもそもこの場所には来ない。今は限られた場所以外に、居場所はない。

軍用のサイボーグは脳や神経の拡張による負担のため、その身体改造手術の後も一定のダメージを蓄積し続ける。

――寿命はおおよそ60年前後。しかも、細部にわたる体のメンテナンスを受けなければ、生きていくことができない。

莫大な金と、手間のかかる身体。つまりは、軍の庇護下にない限り、生きてはいけない。


それが、軍用サイボーグの宿命だった。


奇妙な緊張感の沈黙。 佐久が誓の瞳を見つめていた数秒間が、長く感じた。

冷たく澄んだ水晶体の奥に、禍々しい赤が光る。それは、燃焼する炭のように熱い色だった。それは明瞭でありながら遠い。

透明な闇の水底の向こうで、冷たい熱を放つアンタレスの瞳の奥を、誓はまっすぐに覗き込んだ。

あらゆる感情を含み、呑み込んだ闇が誓を捉える。抗い見返したその瞳に、引きずりこまれそうになるのを堪えた。

沈黙。質量のある視線がぶつかり、周囲が帯電する。

身長差のある佐久に見下ろされながら、尚も誓は踏みとどまった。

閉じた拳の中に、汗が浮かぶ。壁のような長身の圧迫感が、誓を押し返した。

暫くの対峙のあと、ふいっと佐久が目を逸らす。帽子を被った佐久が整備員に話しかけるのと同時に、誓は肩を叩かれた。


「あいつ、いつ帰ってきたのよ」


たった今起きたばかり、というようなあくび混じりの声に振り向く。

声の主が、声音と違わぬ寝ぼけ眼で誓を見ていた。長い亜麻色の髪の毛が少し乱れている。

御嶽(おんたけ)みほ。生体工学のエキスパートである専属軍医で、苦労せず名前を覚えた人間の一人だ。

その美貌は一際目を引く。一般人のレベルを軽く飛び越えた容姿は、多種多様な人種が集まるADEXgの中でもみほを目立たせていた。

ストンと落ちるストレート・ヘアは日を浴びると金色を帯びる程細く、無造作に団子に束ねた髪でさえたっぷりと艶が乗っている。

細面の中心には、真っ直ぐに通った鼻筋。メスの刃の形をした目を彩るのは絹糸のように柔らかい睫毛で、琥珀色の温かみを持った瞳は生命力に満ちている。

コケティッシュさとセクシーさを併せ持つその美貌は、周囲をドラマの撮影の雰囲気に変えてしまう。

歪みなく伸びた脚と、形良く膨らんだ胸を白衣の下のワンピースから惜しげもなく覗かせ、みほは思いっきり伸びをした。

髪の毛が揺れると、優しい花の香りが格納庫に淡く漂う。


「あー眠い眠い」


熟れたさくらんぼのような唇に、彦根の視線が釘付けになっている。

内心苦笑しながら、誓はそっと彦根から目を逸らした。

最初はみほの美貌とその特別待遇ぶりに驚きもしたが、今となってはそれが普通になっている。

神はみほに美貌と知性という二物と、その代償としてナルコレプシーという体質を与えた。

みほは一日15時間以上の睡眠を必要とし、8時間の仕事時間のうち断続的に3時間は仮眠をとる。

専用折り畳みベッドまでもが完備されているが、それは最初から彼女に与えられた待遇だった。

ベージュのカシミアワンピースと、華奢な鎖骨を飾るダイヤのネックレスは、軍が充分な給与を彼女に与えていることを示していた。

遠巻きにみほを見ていた女性の整備員が、今日もわずかに眉を顰める。

それを全く意に介さず、快晴の笑顔でみほは彦根の方を向いた。


「今日、導入教育って私だっけ」

「そうです」


彦根の返事を聞くと、そっか、そいじゃ一丁やりますか、とみほは肩を回す。

ここ数日、誓はまずは実際の開発の内容や技術に関するレクチャーを受けている。そのどれもが、機密に該当する内容だった。

誓自身が、既に機密中の機密なのだ。

軍がサイボーグ手術を施すのは表向き、傷痍軍人に対する身体機能回復という名目になっている。


「それじゃあ、第1教場借りるから」


春の蝶のようにひらひらと振られた彦根の手が、了解の意を告げる。

タブレットを片手に歩き出したみほの、パンプスの音が格納庫に響いた。その後に残る花の香りを追いながら、誓は歩く。



「あんたもサイボーグなら、もう散々教育は受けてきたでしょう」


格納庫から棟続きの廊下を歩きながら、みほは振り向かずに尋ねた。

それは、今まで新たなサイボーグが誕生し、そしてサイボーグを運用する部隊に度々生体工学の授業を行ってきた経験に基づいた言葉だった。

自らであるサイボーグという定義を知ることもまた、不可欠だからこそ繰り返される。


二十世紀末から急激に発展し、二十一世紀初頭には実用の域に達したサイボーグ技術。

単に欠損した神経・身体の機能補填に留まらず、やがては軍事分野において新たな進化を始める。

人間と機械が融合することにより、兵器は新たな地平線を見た。

そして、現在。

選ばれた傷痍軍人の中から、異能が生まれ、戦場へと送り出されている。


スクリーンに映されたその説明は、予想と違わず幾度も繰り返されたものだった。見た回数では、「軍人の任務とは何か」という教育のスライドショーと同程度と言える。


「ここまでは飽きるくらい見たでしょ」


説明をする側のみほも、飽きたような口調で言った。

画面が写真に切り替わる。ヘリコプターのコックピットに収まった佐久の横顔だった。


「うちの研究よ」


中心に攻撃ヘリとサイボーグを据えて始まった、この部隊の研究内容を説明し始めた。

AH―64D、通称アパッチ・ロングボウと呼ばれる攻撃ヘリコプターは当初から高度な情報処理能力を付与されたヘリコプターだった。

その名に冠されたロングボウという言葉は、戦闘ヘリコプターに革命を起こしたレーダーの名前に由来する。

その最大の強みは、強固な武装でも抜きん出た運動性能でもない。

レーダーによる広範囲・高詳細な情報獲得能力だった。

半径8キロ以内の、百を超える車両や移動目標を探知・捕捉し、敵味方の識別・ターゲットの追尾を行う。

ミサイルを撃てば、自動的にマークした目標に向かい飛んでいく。

湾岸戦争・イラク戦争というふたつの戦でアパッチ・ロングボウの性能はより洗練され、今もなおヘリコプターの頂点に君臨していた。


「ここまでは、普通の人間が操縦するアパッチの話ね」


なぜ、サイボーグのために特別なアパッチが用意されたのか。

佐久や誓は、第二世代と呼ばれる、軍事用に特化したサイボーグだった。

基礎的な運動機能に加え、特殊な情報処理能力が強化されている。

レーダーやデータリンクから送られてくる情報を脳内で直接表示することにより、視力・聴力の限界を超えた情報処理を実現した。

視野の限界と、ディスプレイの狭さから解放された先には、垣根のない世界が広がる。

そしてもう一つ、パイロットのサイボーグ化は同時に複数の無人機を操縦することをも可能にした。


「んで、彦根中尉の機は主に地上指揮官の指揮系統を兼ねる機として、佐久の機は攻撃とUAV(無人航空機)の研究機として開発されてるわけ」

「へぇ」

「実際に国境警備とか演習にも何度か出ているの。まぁ、明日から実際に見てもらうわ」


みほは説明を終える。誓は首を傾げた。

彦根と佐久が何をしているのかは分かった。だが、自分は何のためにここに呼ばれたのだろう。

一瞬迷って聞こうとした瞬間に、誓の顔を見たみほがハッとした。


「そうそう、あんたの任務よね」


軽く言ったみほが指先でレーザーポインターを弄ぶ。

AWACS(エイワックス)――早期警戒機と呼ばれる航空機は、それ自体が高性能なレーダーとなっている。

旅客機を元にした機体にレーダーを設置し、敵機の侵入を探知し、また味方の航空機を誘導、更には地上部隊の動向を指揮官に伝え、又は上空から地上部隊を指揮することもある。


「・・・そうよね?谷川軍曹」

「大体そんな感じです」


地上部隊の情報を広範囲に取得できるアパッチ。そして、上空から戦場の大局をリアルタイムで処理できるエイワックス。

互換性を持たせることにより、より効率的な運用が可能になる。

具体的には、アパッチがデータリンクした地上部隊・UAVの情報をさらにエイワックスが受信し、作戦地域の情報と統合させた上でアパッチに送り返すというものだった。

だが、あまりに広域な情報はかえって余計な情報となるため、エイワックス側でオペレーターが適切な情報を選択する。

そのことにより、相互を補う運用が可能になるのだ。

勿論、そのためにはエイワックスのクルーも第二世代以降のサイボーグであることが必要条件になる。


「それで、そのシステム開発のためにあんたが呼ばれたのよ。こっちにエイワックスのシミュレーターは用意してあるわ」


そこまで言って、みほはふと入り口の方を見た。

その視線の先を追って振り向くと、何時の間にか壁際に彦根が腕を組んで立っている。


「・・・で、まぁ、いずれは攻撃ヘリの部隊も全面的にエイワックスと関わっていくだろうから、パイプ作りも兼ねてね」


そう言って、彦根がふっと笑った。


「何しに来たの?」


プロジェクターを片付けながら、みほが片眉を吊り上げる。彦根の好意を受け流すのには慣れているようだった。


「いやね、そういえばまだ座席に誓ちゃん座らせたことなかったなって」

「ああ、そういうことね。教育終わったから、行っていいわ」


伸長式のスクリーンを片付けようとするみほに、彦根がひょいと手を貸す。板についた紳士ぶりを眺めながら、誓は長机と椅子を畳んだ。

彦根と違い、佐久は友好的な人間ではないようだ。拒絶的な態度と、攻撃的な眼差しを思い出す。

軍歴の中で、当然職場での敵対を経験したこともある。それでどれだけの労力を費やすのかも、当然わかっていた。

ため息が知らぬ間に漏れる。

すぐに終わった片付けの後、彦根に追従した誓は再び格納庫に向かった。

階段を下り、廊下の突き当たりのドアを開けるとそこは格納庫に直結している。ドアを開けた瞬間に変わる空気が誓は好きだった。

シャチのようにスリムな機体が、傾いてきた陽に薄黄色く染まっている。高窓から落ちる西日は、コンクリートから反射して格納庫全体をぼんやりと夕暮れ時の色に染めた。

佐久は居ないようだ。

アパッチには、整備用の足場が横付けされていた。サイズを除けば、工事現場のそれにも似ている。

オレンジのプラスチック製ヘルメットを被った整備員が、その感を強める。

アパッチの背や、足場、出っ張りに取り付いて整備する整備員は、それぞれ甲斐甲斐しく機体の機嫌を伺っていた。


「藤枝さん」


彦根が声をかけると、その中の整備員がひとり振り向いた。

藤枝と呼ばれた1等軍曹は、彦根を認めるとよく焼けた顔で笑った。

スポーツでバランスよく鍛えられた長身は、現場でも一際目を引く。腕捲りの袖から伸びる腕には、筋肉の上に血管が浮いていた。


「ちょっと誓ちゃん、コックピットに乗せますよ」

「大丈夫ですよ」


彦根の口ぶりには、常に整備に対する敬意があった。どこの軍でも、現場の長が実質の統率をするのは同じだ。

彦根に招き寄せられて、誓は機体に歩み寄った。軽く藤枝に頭を下げて、足場にブーツを乗せる。

足場に登ってみて初めて、誓はアパッチの大きさを実感した。

コックピットが高いのだ。足場の上から周囲をみると、足元は整備員の頭よりももっと高い。

落ちたら怪我をするだろう。そう思うと、自然動きが慎重になる。

旅客機をベースにしたエイワックスとは違い、アパッチのコックピットはガルウィングのように、ガラスが上に開くようになっている。

小舟に似たコックピットのスペースに、そろりと足を踏み入れた。

そこの出っ張りは掴まないでね、という指示を聞きながら、誓は身体を収める。

シートに深々と座ると、思わず感嘆の声が漏れた。

硬くゴツいシートは、レーシングカーのものによく似ている。だがコックピットにステアリングはなく、二本の操縦桿が備わっていた。

左側と股の間にそれぞれ配置された操縦桿を恐る恐る触ってみる。

真ん中の操縦桿は、レバーというには随分大きい。握る部分は拳銃のグリップのような形状をしており、手に収めるとさまざまなボタンが付いているのが分かる。

引き金状のものと、親指に当たる部分に配置されているもの等多様だった。

左側はサイドブレーキに似ている。

更に左端にはレバーのようなものが備わっていた。


「あ、操縦桿は右がサイクリック・レバーで左がコレクティブ・ピッチ・レバーね。ボタンはミサイルとかロケットの射撃とか、無線機の送信ボタンだよ。んで、レバーはパワーコントロールね」


コックピットを覗き込んだ彦根が解説した。彦根の顔を見ると、すかさず「後で詳しい操縦は教えるわ」とフォローが入る。

足元にはペダルがあり、これも操縦系統なのだということは何となくわかる。

目の前に液晶ディスプレイが、両脚の間に割り込む形で設置されているが今は何も映していない。

コックピットの中には、目盛りを振ったアナログ計器類はなく、同様の液晶がいくつかあるだけだ。

残った隙間を、たくさんのボタンが整然と埋めている。

唯一のアナログ計器は、球形のコンパスであるジャイロだけだった。

誓は目を転じて、頭上を見上げた。風防ガラスを通して天井の骨組みが見える。コックピットの形状は戦闘機のように尖り、正面を向いていれば視界ほぼ全域が開豁している。

コックピットに収まると、まるで自分が装置の一部になったような気がした。

そこから見る広い景色は、少し不思議な気がする。一体、パイロットはここからどんな景色を見るのだろう。

誓はいつの間にか現れた佐久の視線にも気付かず、じっと目を凝らし、風防ガラスがかつて映した青空の残像を探そうとした。



時刻は6時50分になっていた。

混雑する朝の道が、佐久少尉――佐久 一存(かずまさ)の朝を苛立たせる。毎日のこととはいえ、未だにこの無駄な時間が惜しかった。

和光基地周辺は住宅街のため、当然朝の通勤時には交通渋滞が起きる。

信号に堰き止められた車の列の中で、佐久はステアリングを指先でタップした。

差す朝日が、迷彩服を金色に照らし出す。

ラジオから流れる、女性アナウンサーの明るい声。流行の洋楽。

女性アナウンサーの声が、不意に佐久の記憶を呼び起こす。

その下士官は、入間から来た。

エイワックスのクルー。軍曹。若いが「砂漠の夜明け」作戦での戦歴がある。

そう聞いていたのに、実際に和光基地に来たのは背の低い、まだ子供みたいな女だった。

丸みを帯びた童顔に、大きく円らな瞳。150半ばに満たない身長に、胸だけは立派に備わっている。

眉で切り揃えた黒髪は、一層幼さを強調していた。

しかし態度は胸くらい立派で、佐久を相手にまるで対等のように振舞っている。

空軍の悪い冗談に、佐久の口許は引きつった。

信号が青に変わる。ギアをニュートラルから2速に入れ、クラッチを離す。

いくらサイボーグとはいえ、適性がなければエイワックスのクルーには選抜されないだろう。

そう知っていても尚、頼りなさは消えない。それに、あのいかにも空軍らしい鉄面皮が気に食わなかった。

渋滞はギアを3速に押しとどめる。その苛立ちと、誓の俤が佐久の神経を刺激した。

佐久の乗る、メタリック・ブルーのRX―8は、とろとろと進む。渋滞がなければ数分で着く道のりだ。

缶コーヒーとともに不快感を飲み下すと、大きな溜息が漏れた。

愛車のステアリングの感触、ほのかな消臭剤の香り、心地よいロータリー・エンジンの駆動音がいくらか心を慰めた。

馬が合わない、という言葉がある。誓はきっと、それに該当するに違いない。

ようやく車の列が流れ出し、佐久はギアを変えた。

朝早くから和光基地に到着する輸送機が、最後の直線コースで降下する。巨鯨の腹が頭上を掠めていく。



「おはよう、C―130」


ジェット・エンジンとプロペラを組み合わせたターボ・プロップの重低音を後に残し、建物の向こうに消えていく。

視界に現れる基地の柵沿いに走り、基地ゲートの手前で右ウィンカーを上げた。

外の世界とは一線を画す基地の内部が、ゲートの向こうに広がる。

飛行場に近づくにつれ、灯油が燃えるような臭い、ヘリコプターの羽音が空気に満ちてきた。

駐車場に車を停め、佐久は研究エリアへ向かう。飛行場の朝が始まり、昇っていく陽が格納庫の蒲鉾の屋根を輝かせる。

帽子の庇を持ち上げ、その朝日に目を細めた。

スクーターで出勤した彦根が佐久を追い抜き、クラクションを鳴らした。

芝の匂い。朝日の色。エンジンの音。朝早くから行き交う整備員たち。

事務室に入ると、すでに出勤していた整備員たちに挨拶を返す。

8時きっちりに出勤してくる持内重工の社員たちとは違い、軍人は朝夕の多少の時間外勤務を厭わない。

リノリウムの床が、今日も清掃されて光沢を保っていた。

整理された書棚。オレンジ色の取扱説明書のファイルは揃えられ、期限の切れた書類はシュレッダーにかけられている。

デスクの島の、自席に座る。部屋中に広がる、ドリップのキリマンジャロの香りが鼻腔を擽る。

その中に、嗅ぎなれないムスクの柔軟剤の匂いがふと近付いた。


「おはようございます」


灰色の迷彩服。佐久の、光学器機メーカーのロゴが入ったマグカップをトレーに載せ、艶然と微笑む朱の唇。

コーヒーを置く瞬間、誓の黒い瞳が佐久を見た。

微笑んでいながら、その表情には感情がない。ほんの一瞬で、佐久はそう感じる。

コーヒーの円い水際は透明から黒を増しながら、ゆらゆらと揺れる。

そこに映る自分の顔は波に崩れ、霧散した。

顔を上げると、彦根にコーヒーを運んでいた女の整備員と目が合う。

すらりとした長身の相模――相模あやめ伍長は、佐久にごく自然に微笑んだ。

顎で切り揃えた赤毛が、窓際で光に染まる。

中世的で、どこか美少年めいた顔立ちが綻ぶと、その眩さが心を照らした。


「おーありがと」


カップを受け取った彦根が、美味そうにコーヒーを啜る。

特に親しい訳ではなくとも、あやめには安心感と信頼感がある。同じ女でも、どうしてこうも誓とは違うのだろう。

表面的に女らしくとも、本質的に性的な垣根を感じさせないあやめ。

表面的に性を封じ込めていても、本質的に女を感じさせる誓。

目を細めて、ちらりと誓を覗き見る。

丸みを帯びた尻のラインに、締めたベルトが強調する腰のしなり。斜め後ろからでも見える、豊かに突き出た胸。

向かいのデスクに座る彦根が、佐久の視線の先をちらりと伺って笑う。

男なら、皆感じることは一緒だろう。どれだけ本人が無性的に振舞っても、身体から溢れるセクシャル・アピールは目を引く。

翳りと湿り気のある雰囲気は、誓の実体を遠く霧の向こうに隠しているような気さえした。

視線を引き剥がした佐久は、コーヒーを飲み込んで気分を切り替える。

国防省ネットワーク回線を開き、新着メールをチェックする。

ざっと目を通し、担当の人間を呼ぶ頃には、佐久はもう誓のことを忘れていた。

そうしているうちにあっという間に朝礼の時間になり、佐久は格納庫前の路上に整列した。

蒲鉾型の屋根。剥き出しの鉄筋が構成するアーチ。

矩形に切り取られた朝日が、格納庫の中に流れ込んで来る。

その白さに洗われたアパッチの機体は、静謐さと始まりの予感を伴って佇むのだった。

きっちり等間隔に整列した整備員たちの影が、アスファルトに伸びる。

部隊の指揮官である前森中佐が前に立つと、朝礼が始まる。

今日も一日が始まるのだ。今日の予定や中佐の話を聞き、体操をするという決まった儀式が繰り返される。

それが終わると、間もなく飛行前ブリーフィングが始まる。

研究エリアの滑走路側にブリーフィング・ルームがあり、時間になると、研究エリアに勤務するADEXgのパイロットたちが続々と集まる。

普段は別々の部署で働いているパイロット達が顔を合わせるのは、このブリーフィング・ルームと飛行指揮所と呼ばれる二箇所くらいだ。

折り畳み椅子に座って呻吟するのは、各軍のパイロットたち。

陸・海・空、海兵隊のそれぞれの迷彩服を着たパイロットたちが垣根もなく集まる様子はここの名物風景だった。

戦闘機から偵察機、ヘリコプター、そして無人機のオペレーターまで、ここにはあらゆる種類のパイロットが集まる。

彼らが着席した、8時ちょうどにブリーフィングは始まる。

パイロットの長である空軍の大佐が正面に出ると、全員が起立して敬礼をした。

無事故の願掛けをした神棚がブリーフィング・ルームには設置されており、その下、パイロット達の正面にはスクリーンやホワイトボードがある。

二枚のホワイトボードのうち一枚には、所属機の機体番号が表に記入されている。今日乗る機体番号の欄に、名前のマグネットを動かすようにされていた。

挨拶が終わると、中堅の海軍少佐がブリーフィングを取り仕切る。

まず基地の気象予報士がスクリーンに気象情報を映し出した。

眼鏡をかけたインテリそうな細面は、海兵隊員には稀な面立ちだ。

佐久は彼の説明を手帳のメモに取りながら聞いた。

衛星からの雲の映像、地上から上空への大気の変化、今日一日の風向きと気象の変化。

今日一日は高気圧に覆われ、終日南風が拭く。

ここ数日、安定していた天候は週末まで続くようだ。

気象の次は、各部隊の飛行情報。各部隊がどこの空域を使うのか、事前に調整がされている。

次に他所の部隊から来る航空機の情報が与えられ、それから部隊内の各機の飛行情報に入る。

佐久の今日のフライトは、午後だ。隣で手帳の表紙をボールペンで叩いている彦根は、午前からフライトだった。

太陽にジワジワとうなじを焼かれながら、必要な情報をメモする。

関東地域の地図に蛍光ペンで訓練空域が示され、その上にヘリコプターの機体番号を記入したマグネットが貼られている。

群馬・筑波・埼玉・富士周辺には陸軍、海兵隊、空軍は新潟や茨城沿岸、海軍は千葉県沖に多くマグネットが分布している。

佐久の機を示す青色の「589」は、神奈・湘南の海兵隊演習場に置かれていた。彦根機は筑波の山間である。

最後に、ノータムと呼ばれる航空情報の抜粋が読み上げられる。

航空機に対する注意として各空港・飛行場が発行するものであり、空港の設備の異常や花火大会、気球の打ち上げ等、飛行に影響のあるあらゆる情報を網羅していた。

日々更新されていくそれらの情報の中から、ブリーフィングでは特に重要なものを選んで読み上げる。

海軍少佐は、その他に「埼玉の行田で国賓が出席する行事が予定されているので、県警から会場付近5マイルの飛行場を自粛してくれと要請がきている」と付け加えた。

それが終わると再び挨拶が行われ、ブリーフィングは解散する。

ばらばらと散っていくパイロット達に混じり、佐久達も立ち上がった。

灰色、くすんだ緑、青、紺色のそれぞれの戦闘服のモザイクの中で、佐久はひとり口許を引き締める。

建物を出て、自分達のセクションに帰る途中には、飛行場の駐機場でエンジンの暖機運転が始まっていた。

ストーブの炎が耳元にあるような、強い風の流れの音。どこか木枯らしに似た甲高さがその中に混じる。

航空燃料が燃焼し、成分が近似した灯油と同じにおいが空気に広がった。これが、朝の飛行場の臭いだ。

彦根の機は、尾部を牽引車に引っ張られて路上を後ろ向きで走行していた。

牽引車はゴルフのランドカーにそっくりだが、その馬力はヘリコプターを引っ張っても余裕があるほど強い。


「コーヒー飲んで行こうぜ」


彦根に誘われるまま、路傍に設置された自販機コーナーに寄る。

トタンの屋根があるだけの粗末なものだが、二種類の自販機があるため人気があった。

彦根は朝には甘めのカフェ・ラテを飲む。柔和な表情の彦根に、そのカフェ・ラテはよく似合った。

佐久はいつもの深煎りコーヒーのボタンを押すと、Suicaを読み取り部分にタッチする。基地の中では売店も自販機もICカード対応になり、あまり現金を持ち歩かなくなった。

コーヒーを飲みながら、そういやさぁ、と彦根が口を開く。垂れた眦の奥に、焦げ茶の瞳がチラリと光った。


「お前さぁ、何か誓ちゃんにキツく当たってない?」


缶のプルトップを開けようとした佐久の手が、一瞬止まる。言葉を探す間に、足元を見た。

彦根は、佐久が戦闘ヘリコプターの学生パイロットだった時からの付き合いだ。教官と学生という関係の中でその厳しさも、気持ちを見抜く鋭さも知ってきた。

唇の端が幾度か動き、佐久は低い声で答える。


「おれは、あいつが気に入りません」


ふぅん、と否定するでもなく、彦根は聞き流す。彦根は沈黙で次の言葉を促した。


「戦場で、女の判断が生死を分けるというのは、おれは納得できないです。腹が痛いだの何だので体調が悪くなるやつの指示で、おれは死にたくない」


率直な気持ちだった。

まして、エイワックスが進出するのはミスを許さない状況である。

男女の身体の違いは、生物としての役割を違えていた。彦根は、ふむ、と無言で頷く。

佐久は、コーヒーのプルトップを開けた。一気に半分を飲み干すと、微糖のほろ苦い味わいが広がる。

風が吹いた。航空燃料の臭いと、草の香り、それからどこからか、わずかにムスクの甘い香りがした気がした。


彦根のフライトが始まったあと、佐久は事務室で書類を片付けていた。

ひっきりなしに電話が掛かってくる人事係を横目で見ながら、デスクワークに打ち込む。

斜め前の応接コーナーのテーブルには、先週伊勢基地に行った彦根の手土産が置かれている。

テーブルを囲むソファには誰も座っておらず、ぽつんと置かれたへんば餅が食べられるのを待っていた。

離着陸を繰り返す輸送機の轟音。比較的新しいC―2だ。

ずんぐりむっくりした機体が発生させる音は、離着陸時に飛行場地区の会話に困難をもたらすほどのものだった。

窓ガラスがビリビリと揺れた。掛かってきた電話に、口許を覆いながら大声で答える。

この時ばかりは、舌打ちをしたくなる。

轟音の中で、内線電話が鳴った。片耳を塞ぎながら、大声で「はい内線508番です」と答える。

所属と氏名階級を言わないのは、機密の多い部隊の特性だった。

電話は、午後のフライト関連だった。合同で動く部隊の士官が、最終的な確認をしにきたのだ。

湘南には、上陸訓練を行う浜がある。データリンクの実証も兼ねて、しばしば合同訓練を行うことがあった。

むろん、相手は電話口の人間がどのような身体なのか知りはしない。ただ単に、電子化された実験機アパッチのパイロットだということを知らされている。

相手は、2度行われる上陸訓練の時刻と、事前の調整に変更がないことを告げる。

佐久がそれを復唱すると、相手は「それでは、本日もよろしくお願いします」と丁寧に挨拶をしてから切った。

電話を切り、ふと正面を見ると、誓がいつの間にかソファに座っていた。空軍の制服に着替えている。

紺色のすらりとしたスカート・スーツに、いぶし銀色の装飾が施されたその制服は、警察官のものに雰囲気が似ていた。

上着の襟元には階級章が、左胸には翼の中央に稲妻を模したレーダー・オペレーター徽章が鈍く光っている。

その下に並ぶ、細いリボンのような、矩形のバッヂは賞詞だ。

小さく細切れで、様々な色や縞の模様をしている。

作戦に従事し、または功労を認められた時に与えられるもので、誓の胸にはそれが二段あった。

制服姿だと一端に見えるのだと、妙なことで感心する。その賞詞の多さは、佐久にとって意外だった。

心なしか顔まで変わって見える。

首筋を包むワイシャツの真っ白な襟と、濃紺のネクタイのコントラストが空軍らしい知性さを漂わせた。

ヒールのある黒いパンプスを履き、濃い茶色のストッキングに包まれてきちんと並んでいる脚は、身長の割にすらりと整っている。

人事係との話を聞いていると、セクションのさらに上の本部から准将が面接しにくるらしい。

研究エリアでは大佐や中佐の佐官クラスは珍しくないが、さすがに将になると制服を着用の対応になるだろう。


「だぁーいじょうぶさぁー、普通に愉快なオッサンだったし、若い子が来たから気になるだけだよー」


のんびりした口調で准将をオッサン呼ばわりする人事係の声が、事務室に響く。

それに笑う誓の唇が、演技がかって曲がった。うっすらと化粧を施したのか、朱色の唇にツヤが乗っている。

電話が鳴り、人事係が書類に目を落とす。誓は下を向き、手帳を開いた。そのまま、脚を組もうとゆっくりと片脚を動かす。

片方の腿が持ち上がると、その裏側がスカートの隙間から覗く。

濃紺の暗幕に差し込む光が、濃い色のストッキングに包まれた腿の曲線を描いた。影は変容する。

腿の半ば、消えようとするわずかな光の中に、ストッキングのきわを縁取る黒いレースを認めた。

そして、そのレースの奥の生々しい白さの太腿をも見た。

付きあげるような衝動を覚えて、呼吸とタイピングが止まる。

それを見計らったかのように、つと誓が顔を上げた。一切の表情が失せた、いつもの誓の顔だった。

ふっくらした唇が動く。声もないのに、その動きで言葉が読み取れた。

男が。

そう言った後、浮かんだ表情は男の無様な性にたいする嘲りだった。

侮蔑と、嘲笑が瞳に映る。

佐久の目の前が赤くなったのが、怒りなのか血の潮騒なのか分からなかった。体温が一気に上がり、呼気が詰まる。

誓は優然と脚を揃え、再び手帳をめくり始める。幻なのか本物なのか、あのムスクが鼻先を通り過ぎた。


廊下を歩いていると、後ろからスリッパの足音が追いかけてくる。軍人の履いているコンバット・ブーツの音とは違い、その音は軽くコミカルだ。

このセクションにも当然、大学や研究所の学者、あるいは企業お抱えの技師が出向している。白衣や作業着を着た彼らは、軍隊の掟などどこ吹く風だった。彼らにとっては契約が全てなのだ。

友好的なものもいれば、必要以上に深入りしようとしないものだっている。

振り向けば、眼鏡をかけた中肉中背の女性の技師だった。

いつも誓の顔を見るなりさっと顔を背けてしまう。みほとは対照的な、地味で目立たない雰囲気の女性だった。

軽く会釈をすると、再び誓は前を向いた。

外の景色を映して光る廊下に、足早に歩く自分の影が落ちる。塀の向こうから風に乗って、走る隊列の掛け声が聞こえてきた。

「イチ・イチ・イチ・ニ!」

歩数を数える海兵隊員の声には張りがあり、それが単なる身体的な鍛錬を目的とした駆け足であることを窺わせた。

階段の窓一面に張り付いた実験区画の景色には、相変わらず押し黙った建築物と、晩春の青草。それは、どこかで見た旧軍の実験施設の廃墟を思わせる。

緑が、濃い。

輝度を増した日差しは夏の気配を忍ばせ、白く区切られた光を落とす。遠ざかっていく海兵隊員たちの掛け声。珍しく止んだエンジン音の合間に、遠くを飛ぶセスナ機の羽音が響く。

事務室に入ると、デスクワークで机にかじりつく佐久、それにいつも書類に埋もれて忙しそうな人事係、デスクでフライトマニュアルを調べる彦根といういつもの面々が目に入った。

白衣の下にシルクのブラウスを着たみほが応接コーナーのソファに座り、書類片手にうつらうつらと舟をこいでいた。

とろとろとした光沢のブラウスに、細身のデニムというコーディネートがイチイチ決まるのがみほらしい。

それに苦笑してから、管理の帳簿を相手に仕事に勤しむ器材係に声をかけた。

「お疲れ様です。シミュレーターの鍵、借りていきますね」

目を上げて返事をした器材係を確認すると、誓は壁掛け式の鉄製鍵ボックスから差し込み式の鍵を取り出した。プラスチックの札でナンバリングされたその鍵は、一見自転車の鍵と相違ない。

「誓ちゃん、僕も行くよ」

いきなり、背後から声を掛けられる。いつの間にか背後に立っていたのはひょろひょろとした青年だった。背はあるが肉体はススキのようで、その風貌も清潔とは言いがたい。

軽い癖がかかった赤毛は顔の横を覆うほどに伸び、白衣の下のジーンズは裾が擦り切れている。

「松本さん」

青年は、大学の研究機関に籍を置く科学者だった。二十半ばは過ぎているはずだが、その顔立ちはふつうの大学生に見える。

蛍光オレンジのTシャツにはゴシックで「高速加速回転寿司」という意味不明なロゴが入っていたが、誓は今日も無視した。

松本とはそういう人間だ。極めて優秀な科学者であるが、それ故にユーザー側の誓たちとは異なる人種だった。飲み会には参加せず、堂々とアニメの雑誌を読み、踵の潰れた靴で歩く。

しかし、松本はサイボーグの実運用においては恐らく軍随一のエキスパートだった。

そんな雰囲気を微塵も感じさせないまま、ロボットアニメのマグカップを片手に、誓の後ろを付いてくる。

「まだ脳波の同期、取れていないんでしょ」

「はい」

松本が歩き出すと、ぺったんぺったんというスリッパの音に、佐久が一瞬目を上げた。

佐久の苦手なタイプであることには違いない。しかし、立場の違いが佐久を黙らせていた。

「誓ちゃん、元気してたー?久々に見たらさぁ、雰囲気変わったよね」

何の気もなしに、松本は尋ねてくる。入間に出張してきた松本が帰ってきたのはつい先日だった。部隊に配置されてから、松本と会ったのもそのときだ。

「おかげ様で」

「ふーん。何かと頻繁に会うよねぇ。お払いしてもらってる?」

冗談のような口ぶりだが、松本はこう見えて本気だった。サイボーグの基幹となる機械類の修理は松本が統括している。

最初のサイボーグ手術、そして戦闘での破損を含め、彼からは数度修理を受けていた。

彼の特異な性質に対する免疫は、その中で備わった。

適当に返事をしながら施設の裏口を抜けると、目を刺すような眩しい直射日光が瞳孔を直撃する。付近に設置された喫煙所と駐輪所には、黒々とした影が落ちていた。

その向こうには、アパッチの格納庫。そこに通じる道を半ば塞ぐように、路上に突然コンテナが出現する。

鉄道貨物というよりは地震体験装置に似ていたが、コンテナだけがそこに直で置かれている点では異なる。

白っぽい頑丈な外壁。記号と数字の羅列がそこにペイントされている。

US AIR FORCEという表記が、物々しさを演出していた。

大き目の物置ほどのサイズだが、艶消しの金属の質感が異常な重量感をかもしている。

「いやー、空軍も渋ったね、これには」

どことなく自慢げにコンテナを見上げる松本の口許には、笑みが浮かんでいた。本来、フリオペ用の教育器材だったシミュレーターを「徴用」してきたのだという。

中身は改造が施され、ただの教育器材では当然ない。コンテナに塗装された空軍の表記は、返ってはこない器材に施した最後の嫌味だった。

自転車の鍵に見えるコンテナの鍵を鍵穴に差し、同時に暗証番号ロックを解除する。ドアはまるで宇宙船のものを連想させるほど物々しく分厚い。

自動的に点灯した蛍光灯が、シミュレーター内部を照らし出した。

「・・・いつ見ても、本当にオペレーター席そっくりですね」

唯一外界に通じる出入り口を閉ざすと、そこには人工光で満たされた小部屋が現れる。白い壁。短毛絨毯の青い床。

そして、何よりも目を引くのは壁際に設置されたコンソールと座席だった。

埋め込み式のレーダー・ディスプレイと多数のボタン、そしてカーソル操作用にボールが埋め込まれたコンソール。そして、それに備わった座席はエアラインのもののように、床にスライドで固定されていた。

席には立派な肘置きやヘッドレスト、足置きが付属し、まるでファースト・クラスのもののようだ。

長時間の飛行任務に備え、せめてよいものをと採用したシートだった。それでも、色の濃い灰色はそれが空軍の設備だということを示している。

そして、何よりも奇異なのが頭に被るバイザーだった。ボクサーが被るヘッドギアに似ているが、その外側は樹脂で出来ていた。

中には内張りのクッション。そして、額に当たる部分には外側と同じ素材で出来たアイマスクのようなものが取り付けられている。

それを手に取る。アイマスクは可動式で、額から目を覆う位置へとスライドすることが出来た。

内側には液晶画面。しかし、今は起動しておらず画面は黒いままだ。

室内を見渡すと、内装から照明まで、本物のE787にそっくりだ。閉塞感はあるが、席に座ればまるで機体に乗り組んでいるようだった。

真っ白い手術室の清潔さを幾ばくか和らげる青い床。機械類の発する音と臭い。空調のかすかな作動音。

席のスライドを引き、深々と腰かけるとつい声が漏れる。自分本来の場所に納まった安堵感だった。

「誓ちゃん、なんか人心地ついたね。佐久くんと険悪だもんねー」

「ええ、まぁ」

否定はしなかった。松本はいつだって下らないことには無関心で、それが誓にはありがたかった。

一呼吸するとヘッドセットを被り、システムの電源を入れる。レーダー・ディスプレイの黒い画面にノイズが走り、初期画面にMHIのロゴが浮かび上がった。

バイザーを下ろすと液晶画面が数秒点滅し、虹彩を認証したことを示す字幕が流れる。

「さて」

松本が傍で腕を組み、その様子を見つめていた。誓からその表情は見えないが、恐らく人が変わったように真剣な表情をしているだろう。

人間wi―Fi(ワイファイ)と渾名されるこの脳接続システムは、神経と機械を無線接続するという新技術が基になっている。バイザーから発射される電波を脳内に埋め込まれた受信機が受信し、それを脳神経に伝えるのだ。

それにより一人あたりの処理する情報量は格段に増え、本来戦闘機の管制を主任務にしていたエイワックスの在り方を大きく変えた。

「うくっ」

電気がピリッと脳内を走り、視界が歪む。脳波接続モードに入ったのだ。

歯医者で虫歯を削られているときのような、神経に障る痛みだけはいつまでも慣れなかった。

目の前が暗くなり、ぼんやりと模型のような地形の像が浮かび上がる。

中央に聳える山のなだらかな肩と、裾野に広がる広大な森林は富士の演習場の特徴を備えていた。

訓練用の模擬マップだ。

赤い円錐のアイコンが数箇所で点滅している。マップ内に適当に松本が配置した部隊アイコンだった。

「マップ開設。異常なし、接続度60パーセント」

闇の中に、自分の視点だけが浮かんでいるような感覚。長く接続を続けていると、自身の身体さえ消えたように思える。

70パーセントを越える脳との接続は負担も大きくなるため、実任務従事中を除き時間の制限が設けられていた。

「どう?頭痛は」

「この操作では大丈夫ですね」

新しい器材にも2,3日すれば慣れる。最初は脳波の同期が取れず接続している間中ひどい頭痛がしたものだが、今では何の違和感もなかった。

「じゃあ、パイロット・モードに切り替えてみて」

松本に指示される。パイロット・モードとは、脳接続システムに対応したパイロットとの対人接続用モードだ。

その視界や処理しているデータまでもが手に取るように分かる。

支持されるまま、眼球の運動で画面をスライドさせ、パイロット・モードを選択した。

途端に、脳の中でガラスが割れたような酷い痛みが襲う。とっさに歯を食いしばり耐えた叫びが、荒い呼吸となって漏れた。

やはり訓練用の模擬である、佐久の録画映像が視界いっぱいに広がる。

痛みの中に、コックピットいっぱいの夜空が揺らいだ。

操縦桿を握る佐久の手袋の感触。機体のセンサーからの情報を表示する、右目のスコープのレンズ。コックピットの外に広がる小さなジオラマの街。ブレードが空を切り裂く羽音。風と操縦で変化する重力。それらが、全て膨大な情報となって痛みと共に襲い掛かってくる。

必死に悲鳴を殺しながら、誓はその世界を見渡した。

夜の街は深海のようだ。地を這うビルの点々とした光の密集は、妖しい光を放つ透明な深海魚に見えた。

闇を払ったような幹線道路は、血管のように車を流す。その闇夜に明るい道を佐久は目印に、目的地へ飛ぶ。

神経に障る電流に、目の前の映像は途切れ途切れに乱れた。その不確かな視界の中でさえ、パイロットの世界は美しかった。

白昼夢の世界が、激痛と共にひび割れる。

「い、いたっ・・・」

とうとう堪えきれずに、悲鳴が漏れる。それを聞きつけた松本が、「切って!」と叫んだ。

強制イジェクトを選択すると、視界が真っ赤になる。数秒後、脳接続が抜けたことを示す脱力感と眼球の視界が戻ってきた。

荒くした息は、思い切り数百メートル走った後のように激しい。

ヘッドセットを外すと、汗で前髪がべったりと張り付いていた。

気が付けば松本がいつの間にか、液晶タブレットに先ほどの接続時のデータをダウンロードしている。

その表情は険しく、いつになく曇っていた。

「・・・生身の人間の脳波は難しいね」

額を冷たい机に伏せると、いくらかは心地いい。遠く聴こえる松本の声。

誓は、焦りに胸の内が震えるのを感じた。このままでは、いつまでも役目を全うできない。

存在意義を失うことが怖かった。

数度、接続しても思わしい結果を得ていないことが不安に変わる。

自分の指先が色を失っていくのが分かった。

「うーん・・・脳波の相性は結構いいはずなんだけど」

おかしいな、と首を捻るように零した松本を見上げた。

「あの、RB剤はありませんか」

誓が口にした言葉に、松本が反応する。その目が僅かに見開かれた。

「でもあれは、平時に使うものじゃない」

「脳波の同期を取るときだけでもいいんです」

ぐ、と口ごもった松本をじっと見つめた。その反応は予想の範囲内だった。

さしもの松本も、大きな副作用を伴うRB剤の使用は即決できないらしい。

脳接続は情報の精度も処理速度も遥かに従来のシステムを凌いでいるが、反面クルーの消耗も激しい。

しかし長時間に及ぶ滞空任務では十分な休憩も取れず、戦時においてはその状態が数ヶ月も続く。

脳波を安定させ、疲労感を除くRB剤はそのために開発された。

しかし、常用すれば中毒になり、副作用として倦怠感やホルモン異常を引き起こすある意味麻薬まがいのものだ。

そのため、RB剤の使用は厳しく管理され、平時の訓練で使われることはない。

「あのヒロポン、僕はあんまり使いたくないんだよね。僕もさ、さすがに知り合いがアレでボロボロになるのは見たくない」

その言葉に誓は俯き、首を振った。

佐久の言葉が頭を過ぎる。役立たず。女。

人知れず苦笑する。

RB剤はパイロットに使われることはない。麻薬、医薬品、アルコールなどの影響下での操縦が禁止されているからだ。

「お願いです。はやく脳波の同調を取りたい」

その懇願に目を逸らし、松本は相談してみる、とだけ言った。

松本が渋るのは、恐らくRB剤の副作用ゆえだった。

長期にわたるRB剤の服薬は、生殖機能の低下を引き起こし、将来的に不妊に至る可能性もある。

佐久が呟いた「女が」という言葉はその意味では外れていた。

一度RB剤を服薬すれば、残されていた女性としての機能さえ働かなくなる。

生物としての生殖のためではなく、エイワックスの部品として存在する誓には避けられないことだ。

「もうちょっと様子を見てみようよ。環境が変わったストレスもあるし、慣れるまで訓練とか見てみるといいよ」

やっぱダメダメ、と首を振った松本の顔を誓は見上げた。


液晶のパッドに表示されたチェックリストに目を通し、いくつもの項目を頭の中で確認する間にも、ディスプレイへ汗が落ちる。

頭の中で文章を復唱し、抜けやあいまいな点が無いかどうか確認する佐久の目に、汗が入る。

ヘルメットの中で汗の支流がいくつも筋を作り、髪の毛は水を浴びたように濡れていた。

合皮の滑り止めのついた、手袋の甲で鼻の脇の汗を拭う。

ごしごしと左右にふき取ると、砂粒が肌を擦った。細かい傷に、また吹き出る汗が染みる。

「今ローターの調整をしてますので」

機付長、藤枝の顎からもぽとぽとと汗が滴り落ちている。

彼のオレンジ色のヘルメットは太陽に輝き、迷彩服は汗に濡れてブルーを濃くしていた。

和光基地から訓練のために訪れた群馬県・前橋飛行場の暑さは、東京を凌いでいた。

格納庫全体を熱気が包み、開け放った格納庫の中はめまいを起こすほどの温度だ。

今にも結露しそうな湿度と、コンクリから立ち昇る無風の暑さが身体を包み込んで逃げられない。

耳元とうなじまで頭全体を覆うパイロット用のヘルメットを被った佐久の不快感は、藤枝以上だった。

濃紺のヘルメットは心なしか陽光を集め、さらに熱さを増している気がする。

迷彩服の襟元を緩め、佐久は思わず大きく呼気を吐いた。

全身の毛穴が開ききり、洗濯したばかりの迷彩服は早くも汗をたっぷりと吸い込んでいる。

服の下の手足は、幾筋もの汗を滴らせていた。

「佐久さんは群馬は初めてですかァ」

「ええ」

佐久の様子に気付いた藤枝が、赤銅色の顔にそれでも笑みを浮かべている。

耐えられない暑さにも慣れたというような風情が、彼の従軍歴の長さを物語っていた。

ここは特別ですよォ、と笑い飛ばすその顔に、佐久は「階級より飯の数」という言葉の意味を思い知る。

耐えられないことを耐えるには、感覚が麻痺するまで耐え続けるしかない。

耐えられないことに対する苛立ちや怒りを踏み越えた瞬間、ふと苦労を笑って流せる瞬間が訪れる。

軍隊で飯を食った年数こそが真のキャリアであることは、紛れも無い真実だった。

自分がいつ藤枝のようになれるのか、ふと佐久は瞳を外に向ける。

遠くに広がる街を見下ろす飛行場は、あたかも空中から世界を見るようだ。

広大な土地を切り開いたため、森はそこにはなく、高台の開豁地が広がっている。

前橋飛行場特有の眺めだ。

飛行場の誘導路、その先には陽炎で揺らめく滑走路。芝だけが初夏の日差しに青々と元気に育つ。

エプロンに駐機する大型輸送ヘリ、CH―47は兵士の列を口の中にどんどん吸い込んでいく。

前後二つのローターのついた巨体は、鯨のように灼熱の中に佇んでいた。

機体の最終点検を行う整備員が、その周囲に纏わりつく。

身の回りのものを詰めたダッフルバッグを背負い、ライフルを片手にした兵士たちの列。あるものは小慣れた様子でサングラスをかけ、あるものは水筒の水を飲む。

そうして青森の前線基地へと送られる兵士たちは、ただ孜孜として歩みを進めていた。

その光景の向こうに、遠く街が見えた。

ビルの群れは陽光に縁取られ、マンションや家々はより添い、人々はそこに小さな喜びや悲しみと共に暮らす。

街は生きている。毎日毎日同じように動き、今日も明日も少しずつ変化しながら、まるでいくさなど関係ないという顔をして。

佐久の見つめる先を、ちらりと藤枝が追い、視線がかち合う。「歩兵連隊でしょうね」

「・・・でしょうね」

ロシア領日本と対峙する青森には、近頃本州中の部隊が集められていた。

歴史は未だに、幾度と無く繰り返された泥沼状態の戦闘と停戦の繰り返しの波の中にある。

本当の「矢面」に立つのはいつも、彼ら歩兵だった。

ヘリに乗り込む兵士の中には、まだ子供らしさの抜けない10代の二等兵、一等兵だっている。

――考えていては、キリが無い。

目を逸らした佐久は、僅かに眉根を寄せたまま格納庫の中のヘリを顧みた。

ローターの根元に這い上がった整備兵が、一心にブレードの根元を弄っている。

「もう少し掛かりそうです。調整が終わりましたら、呼びますので」

「それじゃあ、頼みます」

ヘルメットを脱ぐと、べったりと張り付いた髪が幾ばくかは風に触れる。

人心地ついて佐久は格納庫内部を見渡す。

工具の棚や部品に囲まれて佇んでいる二機のアパッチ。

ジャッキアップされた彦根の機体は、機体下部の機関銃の部品の交換を受けていた。

機体の傍らで、何かを話し込む彦根と機付長の顔にもやはり汗が光る。

甲斐甲斐しく機体の世話をする整備員たち。

その傍で、少し遠巻きに機体を見つめる影が目に留まる。

「おい、何しに来た」

反射的に、鞭のような声音を投げつける。

ひとつに結った黒髪がその声に揺れた。目深に被った帽子に、目の表情が見えない。

灰色の迷彩服に包まれた小柄な身体と、不釣合いな胸の丸み。

何食わぬ顔でさっと敬礼した姿が、いかにも下士官然としている。

「お疲れさまです」

嫌な笑みを貼り付けた誓が、怖気づかずに佐久を見た。

「何しにきたか聞いているんだよ。お前らフリオペに現場のことなんか必要ないだろうが」

「自分が誘導する機体を見てはいけませんか」

誓は表情を変えない。目上の士官と渡り合ってきた年季が、表情にはある。

その余裕が、佐久を更に苛立たせた。

群馬での訓練も、そもそも配属されて一ヶ月の誓が参加する必要性など無い。

ようやく部隊のリズムに慣れたばかりで、まだ誓自身と機材のテストを繰り返す日々が続いている。

加えて、脳接続ならば、和光基地のシミュレーターからでも行えるからである。

「邪魔だ。勝手に格納庫に来るな」

「許可は取りました」

あくまで士官に対する態度を保ちながらも、誓の目は反抗的に輝いている。

誓はよく光る大きい瞳で佐久を真っ直ぐに見た。

初めて会ったときからそうだ。

憎悪に似た炎、拒絶の果てしない冷たさをその瞳に宿らせて、佐久を見る。

それが堪らずに疎ましかった。

軍人になるということは、自らの感情をフラットに、しばしば殺してしまうことに他ならない。

怯えて逃げる兵隊や、感情で上官に楯突いて噛み付く兵隊が何の役に立つだろう。

ひたすらに暑くて、頭に上った血が血管を押し拡げる。

「・・・前線に女は邪魔だって言ってんだよ」

足手まといが、目の前で偉そうにしているのが気に入らなかった。

いや、何もかも最初から、気に入らなかったのだ。

ピクリと眉を動かした誓は、それでも黙っている。

目を少し細めて、まるで見下すように佐久を見ている。

やがてゆっくりと、その瞳とは対照的に、感情の無い声で零す。

「私は命令でここにきました。自分の意志ではなく」

――そんなことは分かっている。

海兵隊と空軍という組み合わせも悪いし、戦場に女というのも悪い。

暑い群馬に誓というのが、一番良くない。

こんなに暑いのに、誓の顔は蒼白い。

その目はゆっくりとした瞬きを繰り返し、存外に穏やかな呼吸をしていた。

目尻が吊り上るのを心の外の冷静さで感じながら、佐久は拳を強く握り締めた。締め付けられたような痛みが額を走る。

「テメェ後でちょっと来い」

命令で人命が左右されることは、軍隊では当たり前だ。

死ねというに等しい命令も、時には下される。

それでも。

誓はその命令という言葉に寄りかかってふんぞり返っている。

それが許せない。

命じられた任務がここにいる全ての理由ならば、到底実戦になど踏みとどまれない。

信用できない命綱など、無いほうがマシだ。

邪魔になるだけではない。いざというときに、切れるのだから。

今はシミュレーター訓練中のこの下士官は、いずれ機体との接続に入る。

それまでになんとしても、追い出さなければならない。

豊かさといえるものが減摩しつくした瞳で誓は、三歩先の地面を見ている。

一切の色彩を感じさせない眼差しは、じっと内側からこみ上げる何かを押し殺し、見つめていた。

唇は半ば開き、きっとそこから漏れる息は熱いだろう。

踵を返した後姿を、ふっと視界から外す。

分かっている。仕事に感情を持ち込んでいるのは自分だ。

それは、自分ではどうすることもできない怒りと叫び。

そして分からなかった。この異常な感情の滾りが、どこから沸いてくるのか。

強く瞼を閉じ、頭を左右に振った。ヘリの濃紺だけが、陽光に光っている。

「これだから男は」

ぼそりと、低い声が心臓に突き刺さった。

わざと聞こえるように呟かれた捨て台詞が、耳から佐久の体温を凍りつかせる。ムスクのあの香りが、神経を逆なでした。

男であること。女であること。そのことを、下らないと一笑に付す口調。

聞こえないフリをする整備員たちのために、拳を握り締め、そして留まる。

舌打ちをすると、深く息を吐き出した。鉄筋がむき出しの天井を見上げる。

今はダメだ。今はここで、表情を崩すわけには行かない。

吊り上った目尻のまま、周囲を見渡す。額の汗を拭い、帽子を被りなおした。

「佐久さん、調整終わりました。エンジン回してください」

「はい」

響いた声は、救いだった。藤枝が、液晶パッドを片手に掲げる。

溢れんばかりの光に、ようやく暑さを思い出す。

仕事の頭に切り替えるだけの分別はあるはずだと、心の中で繰り返す。

そうでなければならないなら、そうあるべきだ。

手にヘルメットを持ち、クッションの張られた内部に視線を落とす。

何度乾かしても消えない、つんとする汗の臭いが立ち昇る。

中に薄い生地のインナーを被っても、長い間被るヘルメットには汗の臭いが染み付き消えない。

ぐいとヘルメットに頭を通す。

顎紐のクッションを顎に合わせて、金具を留める。

目を突き刺す白い輝きに、ヘルメットの額に内蔵されているバイザーを下げた。

整備員たちの前で、軍曹と本気で小競り合いした気まずさがちくちくと腹を刺す。

しがらみを断ち切るように、佐久はヘリへと向かった。

その日の午前は、結局上手くいかず調整で終わった。


 灼熱がトタンの壁から、コンクリの地面から、まとわりついてくる。

誓は天を仰ぎ、まぶしさをその瞳に刻んで閉じる。

そこだけが別の細胞のように、腫れ上がって心臓のように脈打つ右頬。

格納庫の合間で、二人だけの時間が流れていた。

「あーー・・・」

嘲笑の形に歪んだ唇をふっと緩める。

ビンタを貰って吹き飛んだ帽子を、ゆっくりと膝を折って拾い上げた。

地面の熱を指先に感じ、目の前で揺れる自分の影が幻のようだ。

灼熱に溶けるアスファルトが、黒々とした汗をかいていた。

そして佐久を見つめ返した自らの瞳が、そのアスファルトのように何も映していないことを知っていた。

切れた唇で、穏やかな声音を紡ぎだした。

「少尉風情が上官風吹かせて偉そうに」

佐久の顔色がさっと赤くなり、鋭く飛んできた掌が、今度は左頬の肉をぶつ。

目の前に迫った掌を避けもせず、誓は目を閉じてその打撃を受け止めた。

幾筋か落ちた髪の毛が、さらりと頬にかかる。

瞳を佐久に向け、その目を見返した。

お前のその目は、武器だと言ったのは誓の恩人だ。

今でも誓はその言葉を信じている。だから、臆さずに佐久を見る。

――お前の心の中にある、本当の思いは何だ。

最も感情が剥き出しになるのは瞳。そこから、佐久の心を引きずり出してやる。

誓は、佐久の瞳の奥、赤い水鏡を見つめた。

鋭い面立ちと眦が、僅かに誓の横に逸れた。

「命令だと?ふざけるな」

「あなたも私も、結局生きるには命令によるしかない。違いますか」

決してそう思っているわけではない言葉を、自分を守るために突きつける。

そしてその言葉が、同時に誓自身の肺に刺さった。

命令だけでは生きてはいけない。信頼こそが命綱であることくらいは、まだキャリアの浅い誓でも嫌というほど知っている。

機上指揮員の言葉が信用されなかったばかりに、失われた命がある。指揮の混乱の犠牲になった兵もいる。

目の前に燃える二つの瞳の憤りの熱さも、心に感じることができる。

けれども、この少尉の横暴を受け入れることは到底不可能だった。

佐久は腰に手を当て、肩を呼吸のたびに上下させている。

その唇の端の肉が、ぴくぴくと震えていた。

歯を食いしばり、まるで何かを堪えているかのように。

ひゅっ、と短く息を吐いた佐久が、今にも噛み付きそうな視線で誓を見つめる。

「命令など無くても、俺は軍隊から貴様を締め出してやる」

「少尉’殿、私はあなたの怒りの捌け口ではありません。研究を妨害する権限もあなたにはありません」

淡々と続ける。ふつふつと滾る感情が、目の前を染めた。

「・・・そして私たちは軍隊なしでは生きていけない。違うか!!」

はらわたの下で煮えくり返った怒りが、片手を勝手に動かした。

自分より20cmは高い頬を、思い切り平手で吹き飛ばす。硬い頬骨の感触が、掌を殴り返す。

虚を突かれた長身が、よろめいてトタンの壁にぶつかった。

瞬いた瞬間、何かが気管を押しつぶし、半ばで呼吸が止まる。

迷彩服の襟元を掴んだ手が、震えながら誓を締め上げる。

コンバット・ブーツを履いた足が、爪先立ちになった。

「貴様がどうほざいてもな、谷川。必要ないんだよ、お前は」

「それはあなたの感情だ」

耳元に蕩ける、囁きに抗った。

熱せられた刃先の瞳が、瞳孔に突き刺さる。

佐久は怒っていた。心の底から。

長い間、何かに怒り続けて、その目はとうとう分別を無くしていた。

「・・・佐久少尉、あなたからは一度たりとして、本当の言葉を聞いていません」

怒りの熱は一瞬にして凍りつき、妙な覚醒感と脱力感が全身に浸透する。

夢を見ているように、空の青さだけが目に沁みた。

不意に、臓腑に小石が落ちたように、ひとつの事実が脳神経を走る。

「私たちは、皆同じ目に遭ってきました。きっとあなたも」

「俺はお前とは違う」

頭痛を堪えるように、佐久が眉根を寄せ、瞳を閉じた。閉じられた瞳を、尚も直視する。

「・・・だからあなたは怒っている。でも、それをぶつける相手は私ではありません」

佐久の唇は、固く結ばれたままだった。

「必要ない。その言葉は、我々が言われ続けた言葉ではなかったのですか」

自らが周囲の、普通の人間から受けた扱いは、忘れるには深く新しすぎる傷だった。

信じられる仲間は今でも少ない。

不意に襟元が緩まり、踵が地に着く。

いくらか青みを取り戻したその目が、誓から逸れる。

「そうだ。だからここで失敗すれば、その言葉通りになるだろう」

眉間を押さえた佐久が、罪の告白に似た低い声で呟く。

汗はその額に流れ、睫をぬらすのに、声は冷え冷えとしている。

「少尉、チャンスをください。あなたの機と接続できる世代の手術を受けたのは私しかいないのです」

誓は、心の底を温める恩師の言葉にすがった。

今だけでもいい。この瞳が、武器であるのなら。

力を込めて、佐久を見据える。

目を逸らしたままの佐久が、黙って背中を向けた。

「少しでも邪魔しやがったら、即殺すからな」

歩き出した佐久が、ぽつりと呟く。

投げつけられた声音は、それでも強い拒否を帯びていた。



佐久の背中を見送った後、虚脱感が一気に体に絡みついた。

血が熱く薄くなった気がして、誓は融けるアスファルトにしゃがみ込む。

視界がさーっとノイズに変わっていくような立ちくらみが、頭に満ちた。

暑さに体中の毛穴から垂れる汗が、地面にぽとりと染みた。

掌に残るのは、真っ黒な中に燻る、佐久の熾き火の温度。

真っ直ぐに見返した瞳から汲めたのは、一瞬で何かを灼いてしまう、怒りだった。

きっと彼は何かを失った。

一切の感情を呑んでしまうほどの火砕流に見舞われて。

――そして全てが燃え尽きても、灼熱は残っている。

指先が氷水に浸かったように、痺れて硬直した。

胸に何かがつかえて、思わず誓は息を呑んだ。

焔だけではない。

極北の、地表より彼方を流れる海流のように、冷え切った暗黒が瞳の奥に揺らいでいた。

光もなく、音もなく、死に限りなく近い世界から流れ出る暗闇。

彼自身でさえ、成す術もなく飲み込まれてしまうような。

佐久の、絶叫を聞いた気がした。

全身を灼かれ、暗闇に凍りつき視界も聴覚も奪われて、理性も感情もなく、ただ断末魔だけを繰り返している。

必死で抗った腕が、掴んでしまった思わぬ深淵。

目の前に広がる飛行場の景色は平穏な日常と変わらないのに、佐久の瞳にはぽっかりと地獄が広がっている。

瞳に過去の景色を映したまま、誓はふらりと立ち上がった。

胸に刺さるのは刃を向けるような眼差し。

そうしなければ生きていけないほど、追い詰められた姿。

見てはいけない感情の迸りを見てしまった罪悪感が、胸に根を広げる。

理解できない相手だった。そして、その理は間違っていた。

それなのに、その言葉はなぜか誓の心に突き刺さる。

今に至るまでの道に、怯え、嘆き、怒り、強くなどなれずに叫んだ日々があったことが何となく分かってしまったから。

生肉を抉った傷口はまだ乾かず、痛みは今も癒えないのだろう。

恐らくは誓と、同じように。

ふらりと立ち上がると、格納庫の窓に、叫んで叫んで叫び疲れて、遂には沈黙してしまった自分の顔が浮かぶ。

その顔がまるで幽霊のようで、誓は顔を背けた。

ぶたれた頬が腫れているのも忘れて、気がつけば走っていた。全てを置き去りにして逃げてしまいたい。

利き手がまた、痺れたようにぶるぶると震える。

お前の目は武器だ、と恩人は言った。

その武器は、虚しいものばかりを刃に映す。

黒い塊が、胸の奥に沈下していく。

短い夏を弔うような、セミの鳴き声が幾重にも響いている。



藤枝に頼まれた、タオル3枚とアイス10本、それにドライアイスの入った袋を両手に、誓は飛行場までの坂道を登る。

「よう、誓ちゃん」

考え込んでいたせいで周りが見えなかったのを引き戻したのは、明るい声だった。

基地のビル施設の合間に設置された自販機コーナーで、見覚えのあるパイロットが小さく手を振っている。

自販機の前でコーラを片手に彦根は、知り合いのパイロットと談笑していたらしい。

その姿に、何となくほっとする。

だが、直後、さっと表情が締まった彦根を見て、誓は頬の腫れを思い出した。

「ちょっと来い、お前。それどうした」

しまった。

大事なことを忘れてしまっていたように、きゅっと腹が縮み上がる。

言い訳しようにもできずに、曖昧な表情をしてしまう。

佐久がビンタを取ったことも、当然彦根は悟っているだろう。

言い訳を許さない厳しい視線が、パイロットとしての彦根の表情を連想させる。

「ちょっと・・・」

何と取り繕うこともできず、言葉を濁す。

パイロットの輪から抜け出した彦根が、小声で尋ねた。

「あいつか。あいつがやったのか」

「・・・些細なことです。大したことではありません」

誓は意識して背筋を伸ばした。

そして、彦根の目を努めてきちんと見つめた。

味方などどこにもいない。自分が自分自身を救わなければ、永遠に立ち上がれなくなる。

自らのために、負け犬ではないことを示さなければならなかった。

それがどんなに惨めな虚勢でも。

他人に求められることで自らの価値を量れば、きっと今の誓は墜ちてしまう。

「誓、お前大丈夫か」

きっと、ただならぬ目つきをしているのだろう。

言葉を失った彦根が、気遣うように尋ねたのは、あまりにも誓が必死に見えたからだろう。

不服従を責めるのではなく、誓をそっと支えているような彦根の口ぶりだった。

力が抜けぬようにと力をこめすぎた拳が、筋を浮かべて強張る。

この人は信用できるんだろうか、と量る自分の浅ましさが、情けなかった。

「なんてことはありません」

急に栓が緩んだように、視界が歪んだ。

慌てて歯を食いしばって堪え、帽子の庇を目深に正す。

女はすぐ泣く。

何度も何度も聞いた蔑みの言葉が、溢れそうな感情を辛うじてせき止めた。

体の表面が熱くて、締めた脇から汗が落ちた。

厳しい訓練、上司からのキツイ指導にも、その都度涙を流したが、仲間のいない孤独はさすがに骨身に応える。

それでも。

誰かに頼っては負けだ。

「お前がなんとも思ってなくてもなぁ・・・」

揺らぎとせめぎ合う、誓の表情から何を察したのか、彦根は黙り込んだ。

「見なかったことにしてください」

縋りつく彦根の言葉を遮った。

目を閉じれば、傷の深さにバラバラになりそうな瞳が、誓の心に刺さっている。

それは彼の内側に向けられていながら、同時に誓を問いただす。

たった一人で誓自身と向き合う向こうにしか、向き合えない瞳。

目を上げれば午後の日差しに、白い建物たちが肌を輝かせている。

ただ暑くて、憂鬱だった。

少し眉根を寄せた彦根が、とうとう黙りこむ。ちらりと時計を見たのは、話を切り上げるためだろう。

「すみません。私、もう行きます」

「あぁ、悪かったな、引き止めて」

軽く会釈をして、彦根の横を通り抜ける。

他にいたパイロットの視線を感じながら、誓は早足で歩き出した。

山肌に作られた前橋基地は、なだらかな傾斜がずっと続く。

頭上の空を、大型の輸送ヘリが横切っていく。

二つの回転翼の、大きなブレードが空気を叩く音がばたばたと響き、建物中の窓ガラスがびりびりと震えた。

飛行場は基地の外れにあり、坂を上った先に設置されている。

そこからしきりに飛び立つヘリが、各々の目的地へ向かう。

それを見上げながら、坂道を登る足取りは重い。

藤枝は見ないふりをしてくれたが、きっと整備員の中では噂になっているだろう。

ヘルメットを被った佐久の頬も、やはり同じように腫れていたのだから。

トラブルを持ち込む空軍の――外部の人間が、良い目で見られるはずが無い。

格納庫の連なりが、近づいてくる。

――感情さえなければ、それでも平気でいられる。

分かっていても、理性は少しも感情を支配できない。無意識に食いしばった奥歯に気付き、深呼吸をした。

開け放たれた格納庫の扉の向こうに、エプロンに出されたアパッチのシルエットが揺らいでいた。

尖ったカマボコのような格納庫の中だけは、黒々とした影が落ちている。火気厳禁の看板。鉄筋の幾何学。その向こうの、飛行場。

ヘリに登って具合を見る整備員の下で、佐久がヘルメットを小脇に彼を見上げている。

エプロンに張った銀色の逃げ水に、逆さのアパッチと佐久の姿が映えて揺らぐ。

静止してしなだれた翅。逆光にくっきりと縁取られるその逞しい曲線。

熱を持った外殻から、陽炎が匂い立つ。

どちらが幻なのか、一瞬分からなくなる。

整備員達はその手前で、マニュアルやら工具やらを引っ張り出して各々の作業をしている。

格納庫に向けてアイスを掲げると、藤枝が笑顔で応えた。

表層の笑顔を浮かべられることに安堵を感じながら、誓は藤枝へと歩き出す。

整備員と交わした視線のうちに、ふと害意を感じ取る。

茶色に染めた髪を束ねた女の二等軍曹が、アイラインで線引きされた目で誓を睨んでいた。

整備班長の中尉が休憩を告げるのと同時に、彼女は誓に近付いてくる。

――今度は何だ。

避けては通れない本日二度目のトラブルが、どうやらやってきたようだった。


女の目は、入間の上官ほども、まして佐久ほども恐ろしくはなかった。覚悟を決めてしまえば、耐えられる類のものだ。

ヒステリックさを帯びた声音も、誓を責める口ぶりも、意のままにならぬ子供を叱る女教師と変わりはない。

レディースよろしく、格納庫の中の物陰に呼び出された誓は、ただ黙って立っていた。

「なんで佐久少尉の頬が腫れてるのよ。あんたまさか上官に手を上げたわけ?」

マジ信じらんない、と根元の黒い茶髪を掻き上げた女の手には、それなりの年齢が出ている。

彦根機のアビオニクス担当の二等軍曹だが、女の世界でそれなりに幅を利かせてきたことが窺える態度だった。

腕組みをして誓の前に立っているが、それはただ順序が崩されたことに対して憤っているだけだった。

底の浅い瞳が、油膜のように底の浅い怒りを浮かべている。

佐久と誓の間に何が起ころうと、女には関係ないのに。

「空軍でどれだけ甘やかされたか知らないけどね・・・」

少尉が軍曹に逆らわれたとあっては、自分にも軍曹は逆らうだろう。

確かに、階級の崩れた軍隊は碌なものではない。

だが、きっと彼女が脅かされたと感じるのは自らの立場だけだ。

群れの序列に敏感な女性からすれば、それは許しがたいことに違いない。

そんなことに執着していられる彼女は、きっと幸せだ。

あの目の傷口の深さも、死に寄り添って生きる苦痛とも無縁で、それらの存在を感じることすらない。

感じる世界の全ては、細々とした日常の連綿であり、そこにある絶望は精々が失恋や失敗程度だ。

「ここは軍隊でしょう。あんた甘ったれてんじゃないわよ」

女の唇が軍隊を語った。

そんなことをいいながら、きっと女は階級とは別の、女の中の序列を作ってきたに違いない。

可笑しくて笑ってしまいそうだ。無意味で、滑稽で、そして彼女は間違っている。彼女はそうせざるを得ないと信じているけれど、きっとそれは些細なことだ。

誓は帽子の庇の下から、佐久にしたように、女の目を見上げた。

ちゃんと知っている。

自分の目にも、佐久と同じ種類の、消せない火焔が揺れているということ。

それは、決して戦わざるものには宿せない灯でもある。

自分の身を燃やしながら宿す炎。

女がその口を閉じた。

――何があったかも知らずにご大層なことをいいながら、軍曹の目に負けているじゃないか。

誓は、引き笑いをした。全てが虚しかった。

口を横に開き、しゃくり上げるように引き笑いをすると、女の表情が明らかな嫌悪に変わる。

理解させようなどという気はなかった。

すべては予想通り。やっぱり大多数の人間からは嫌われて、群れからはじかれる。

それは骨身に応えはするが、命を断ち切るには至らない。そんなことは、もっと大きな喪失の前ではどうでもいいことだった。

片手に残った手の痺れが、まだ少し指先に残っていた。

成果を出し、自らの手で居場所を作り出すしかないのだと、幾度も思い知らされた。

「・・・ふざけんじゃないわよ!」

女の声が上擦った。

その声には未知のものに対する生理的嫌悪感があった。

潜ってきた修羅場の数では、恐らく数も量も誓には敵わないだろう。

死を超えて生き、それでも尚もう一度死んだ経験が、誓から大事なものをごっそりと奪ってしまったのだから。

息を整え、肩をヒクつかせながら謝る。

「すみません」

気の触れた人間を見る目で誓を見る女の目。

――そうか。

とうとう自分の魂は常軌を逸して、人間以外の何かになってしまったのか。

肺腑にひたひたと悲しみが満ちてくる。

指の力が抜け、だらりと手がぶら下がった。

こうやって、すぐにいろいろなものが自分を置き去りにしていく。

少しくらいは彦根と話せるようになったのに、きっとこの女の話でまた振り出しに戻る。

「あんたホントに、あたまおかしいんじゃないの。少尉に逆らうとかありえないし、何笑ってんのよ」

背筋を伸ばす。

負けてはいけない。

哀しくても、理不尽でも、俯いてはいけない。

女がただ虚しいだけの言葉を重ねようとするのだけが、煩わしかった。

少しくらい反撃しようと口を開きかけたとき、不意に後ろから誰かが出てくる。

「マヤさん、何やってるんですか」

やはり海兵隊の整備員だ。

迷彩服にそぐわない人形のような面立ちに、ショート・ボブの赤毛がよく似合う。

自分からはあまり関わってこないが、何かと助けてくれる相模あやめだった。年が近いこともあり、何となく親近感がある。

「相模!あんたは関係ないでしょ」

「マヤさんだって関係ないじゃないですか」

相模の襟には、伍長の階級章。

にも関わらず、マヤさんと呼ばれた二等軍曹に対して逆に圧をかけている。

帽子から零れるショートボブに、猫のような目。赤く膨らんだ唇とはアンバランスな雀斑が少女らしさを引き立てている。

「こいつだって両方頬腫れてますよ!明らかにやられてるじゃないですか」

こいつ呼ばわりしている割にはフレンドリーだなと、誓はどうでもいいことに感心する。

フレンドリーファイアは友軍からの援護射撃ではなく味方撃ちだというどうでもいい格言を思い出す。

女は意外と小柄だったようで、165センチは背のある相模に見下ろされてたじろいでいる。

美人を怒らせると怖いという、浮気して彼女を修羅にさせた同期の言葉が頭をよぎった。

とにかく止めたくて、思わずぽろりとこぼしてしまう。

「やめてください。本当にどうでもいいです」

「どうでもいいって何よ!」

今度は「マヤさん」がすごい勢いで吼える。

一斉に整備員がこちらを向く。

――また悪い意味で注目を浴びてしまった・・・。

目立ちたくない誓の心など、誰も分かってくれない。

「ていうか、関係ないのにおかしくないですかー」

「おかしいのはこの子よ!」

恥ずかしくて死にそうだった。

「男がビンタ二発も食らわせるとかありえないですよ!泣き寝入りしろってんですか」

「ちゃんと、やり返してるからいいって」

ぴくんとマヤの顔が引き攣る。

宥めるつもりで、また墓穴を掘った。

「おい相模!うるせーぞ!!」

たまりかねた、たたき上げの整備班長が一喝する。

気がつけば、佐久が居づらそうな顔でこちらを見ていた。

相模が、やばいというように肩をすくめて、離脱しようとする。

そして一瞬ふりむき、誓を指差した。

「泣くなよ!」

それはどうやら励ましらしかった。あやめは味方になろうとしてくれているようだ。

誓はぽかんとした後、少し笑った。それから、天を仰いで首を回した。

どっと疲れてしまって、膝が妙に重い。

今日一日、ずっと嵐に遭遇していたような気がした。

自分の顔がやつれたのか、青白いのか、藤枝が妙に「大丈夫?」と誓を気遣う。

「大丈夫です」と答える口調に、滲む疲労の重さを自覚した。

「ごめんね、悪いんだけど佐久さんの銃、後で手入れしておいてくれないかな」

「はい」

変わらないように装う言葉に、安堵と後ろめたさを覚える。

アパッチはもう少ししたら訓練へ発進し、攻撃目標へ前進した後一度、前線の補給地点に戻る。

それからもう一度出撃し、飛行場へ帰還するはずだ。

エプロンには、アロー89というコールサインの佐久機。

遠めに見ると、コックピットの座席に小銃が立てかけてある。

戦闘行動中にコックピットに小銃を積載するのは、不時着時の自衛に備えてだった。

両側に出っ張っているアビオニクス・ベイを足場に、佐久はコックピットに乗り込んでいる。

座席に座った後、風防のガラスを閉じると、帽子を脱いでヘルメットを被った。

シートベルトを装着し、ヘルメットの右側にスコープを装着する。スコープは機体に接続されているもので、眼鏡状のレンズが先端に取り付けてあった。

彦根いわく、そのレンズに情報を投影するのだそうだ。つまり、アパッチのパイロットは左右の目で違うものを見ているらしい。

しばらくすると、群がっていた整備員が機体を離れ、同時に機体のあちこちの灯火が灯った。

テールや背中ににチカッチカッ輝く白色や、右舷灯と呼ばれる緑色の輝き、左舷灯の赤。

点滅するそれらの色が、安っぽい照明のようにコンクリに映える。

コックピット左右に位置する整備員が、スタブ・ウイングと呼ばれる武装用の翼にコードを接続した。

機内との通話用インターホンであり、これで整備員と会話できる。

ヘリの前に立つ整備員は、ハンドシグナルを送りはじめる。

その指示に反応してブレードの角度が変わったり、レーダーが動いたりするのが面白かった。

そのままじっと見ると、テールに水平方向に取り付けられた板状の尻尾が上がったり下がったりする。垂直安定板(ホリゾンタル・スタビライザー)というのだそうだ。

しばらくすると、一通りの機能点検が終わる。

ひゅん、という甲高い音が響き始める。飛行場独特の音だ。

エンジンが外気を吸い込むときに発生する音だった。

整備員がピースで天を指差してぐるぐると回すと、佐久もコクピットの中で同じ仕草をした。

さっきまでしな垂れていたブレードは、回転の力でピンと張り、低い羽音が全ての物体を震わす。

回転数を上げる。ややブレードが斜め上に持ち上がる。

回転数を下げる。一瞬一瞬ブレードの羽ばたきが見えるようになる。

アパッチの羽音は、他の機種よりも低く細かい連続音だ。

重機が振動するような、独特のものだった。前世代のヘリコプターの破裂音とは明らかに異なる。

回転数の上げ下げを幾度か繰り返す。

十分に計器やエンジンの点検を済ますと、機体とエプロンの差込口に接続されていたアースが外された。

整備員がインターホンのコードを外し、車輪止め(チョーク)を払う。

電源を入れていた彦根機の無線から、管制塔と佐久機の交信が漏れる。


「マエバシタワー、アロー・エイト・ナイナー、リクエスト・タクシー・トゥ・ランウェイ」

(前橋管制塔へアロー89、滑走路への地上走行を要求します)

「アロー・エイト・ナイナー、マエバシタワー、ランウェイ・ワン・ツー、ウインド・ワン・ツー・ゼロ、アット・ファイブ。キューエヌエイチ、トゥー・ナイナー・エイト・ワン、テンパーチャー・スリー・ファイブ」

(アロー89へ前橋管制塔、滑走路12、風向120度5ノット、高度計規制値2981、気温35度)

地上走行(タキシング)開始時に通報される気象データの次に、管制塔からの指示が告げられる。

「ホールド・ショート・オブ・ランウェイ・ワン・ツー、フォー・デパーチャー・トラフィック」

(離陸機のため、滑走路手前で待機してください。)

低く掠れた、骨の髄に共振する佐久の声。

増した回転数に、エンジンの音が昂ぶる。

総重量は8トンを越す機体が、右タイヤ、左タイヤの順に、少しよろめきながら宙に浮く。

最後にふわりと、後輪がコンクリートを離れた。

紺色をベースにした塗装は、有機的な突起の組み合わせである機体を更に逞しく見せる。

本体から後ろに伸びるテールは、筋骨を陽光に誇らしげに晒している。

芝の間に何本も敷かれた、滑走路へと連なる誘導路の一本に、佐久の機は進む。

ヘリの間近では、服が肌に張り付くくらいの凄まじい風圧を喰らうが、ある距離を離れると急に消えてしまう。

それはヘリの音も一緒らしく、滑走路の直前で停まったヘリの羽音が、急に小さくなる。

先行機の偵察ヘリが滑走路から離陸し、佐久の機に滑走路の進入許可が降りる。

先に離陸した機との感覚が十分に開くと、今度は離陸許可が下りた。

「アロー・エイト・ナイナー、ウインド・ワン・ワン・ゼロ・アット・ファイブ、ランウェイ・ワン・ツー、クリアード・フォー・テイクオフ」

(アロー89、風向110度、風速5ノット、滑走路12、離陸支障ありません)

風に合わせて、微妙に舵を動かし、空中で静止していた機体がふうっと動き出す。やや鼻先を下に向けている機体が、空気の流れに押し出される。

主に揚力を作り出すメイン・ローターの回転面はやや傾げ、その分増した後ろへの空気の流れが推進力となる。

最初はゆっくりと、次第に力強く。

やや前傾した機体が、空に飛び込んでいく。

機影は見る間に小さくなる。あっというまに、上昇しきって、次第に空に消えていってしまう。

全てを断ち切って上昇していく機体を見上げながら、気付かぬうちに、誓は羨望を覚えていた。

その力強さ。その翼。誓が望んで得られなかったもの。

二度と得られない、空。佐久はそれを持っていて、どうあがいても誓はそれを得られない。

瞳孔を焼く太陽に、誓は目を細めた。地上に誓を残して、アパッチの羽音は消えていく。俯けば落ちた影が、飛べない誓を笑うかのように足許から伸びていた。


風の瀑布に、砂塵の旋風が巻き上がる。アパッチから同心円状に吹き降ろす風は、泥の激流を作り出していた。

コックピットの中の無風が嘘のようだ。そこだけ透明な殻に包まれ、埃ひとつ動かない。

周囲では台風のさなかの人々のように、身を屈める整備員達がその風圧に耐えていた。

接地し、エンジンを切らないまま燃料を補給するホット・リフューエル。

丘と草むらの間の僅かな開闊地に、汗まみれの整備員が動き回っていた。

コックピットから見えない斜め後方に、小型のタンクローリーが停まり、給油をしているはずだ。

周囲に生えた草はヘリから放射状に、風圧でぺっちゃんこになっている。白い波濤がくさむらに浮かんだ。

給油の間にも、正面に据えられた液晶のディスプレイで、佐久は機体の状況を確認する。

ヘルメットに覆われた頭部の奥、脳神経が電波でデータリンク直通になっており、ディスプレイの切り替えにも手で操作する必要がない。彦根いわく人間ブルー・トゥースだ。

エンジン状態やコンピューターの自動診断プログラムの状況を次々に切り替える。

ふと、今朝彦根と交わした言葉を思い出した。


お前も昨日、飲みに来れば良かったのに。

下士官クラブでよぉ、あやめと誓と藤枝さんで飲んだんだけど。


朝一発目のジョギングで、汗に透けるに透けたランニングTシャツを脱ぎながら彦根は言う。

おれ、誘われてないんですけど、と答えると、彦根はそうだっけ、と笑った。

柴犬のような笑顔に似つかわしくない、隆起した上腕二等筋が、着替えのTシャツを被ると波打つ。

こう見えてやることはやる彦根に一抹の不安感を覚えて、ただそうですかと答えた。


脆いぞ、あいつは。


彦根はそう呟いて、Tシャツに袖を通した。ズボンに裾を入れる。そして続けた。


なんていうか、あいつには帰還兵独特の雰囲気がある。


空軍の、それも空中指揮機のクルーですよ。PTSDになるような銃撃戦の経験なんてある筈がないじゃないですか。


問い返した佐久を、息を吐いて彦根は見た。


何があったかは知らん。ただあいつの目は、なんていうかただの空軍軍曹じゃない。

あと、お前、エイワックスのクルーってかなり精神的にハードだぞ。


ジャケットの釦を留めながら、彦根は鏡を覗き込む。

顎に手をやり、髭の剃り残しをチェックした。


可哀想な奴だよ。

あやめに飲まされて、酔って、意識が朦朧としたときに、俺のほうによっかかって来たよ。

全身預ける感じでさぁ、肩に頭なんか乗せてさ・・・もうほとんど落ちかかっててさ。

何だか子供みたいに丸まって、俺にくっつくんだもの。

あやめなんか妙な顔しちゃってさ。


ちくりとした苛立ちに、佐久は僅かに眉を顰めた。

無言で、ズボンのベルトを締める。


まぁ本人に言うなよ。


ふと、佐久は我に返った。目の前で、給油終了のハンドシグナルを整備員が送っている。

ぱっと目を上げて、目の前の液晶を見る。所定の量まで燃料が補給されたことを、ディスプレイは表示していた。

ちらりと視界の端に映るのは、コックピットのシートに立てかけられている小銃。

隅々までピカピカに磨き上げられた小銃が、青光りを放っている。


搭乗前、藤枝に手渡された小銃を受け取ったとき、埃一つない小銃に佐久は目を剥いた。

銃に残っていた、ライトを括ったときに使ったテープの跡は完全に除去され、べたつきすらもない。

部品と部品のつなぎ目の隙間まで、汚れの一つも見えなかった。

複雑なかみ合わせで形成されている小銃の部品全てを、ここまで磨き上げるには相当な時間がかかる。

撃ち殻を排出するためのスライドをカチャリと親指で開放した。

弾薬を装填し、内部で火薬を爆発させ、その衝撃で弾頭を飛ばすための薬室が現れる。

この部分は埃や砂が入り込みやすく、なおかつ複雑な凹凸のため掃除がしづらい。

手入れを怠ければすぐにジャリジャリとスライドが引っかかるのだ。

二、三度スライドを往復させる。

うっすらと油の引かれた銃特有の滑らかな動作。

再び開放した薬室を陽光にかざして覗き込むと、油膜が覆った金属の肌が光る。

昨日までポツポツと浮かんでいた赤錆も、すべて金属ブラシで磨き落とされていた。

小銃の製造番号に入り込んだ細かな砂も、除去されて本来の色合いを取り戻している。

完全に分解し、汚れを除いて磨いた上で油を塗らなければこうはならない。

ねじ頭一つ、そのスクリューの溝にさえ、埃ひとつ残っていない。

恐らくは楊枝や錆び落とし、綿棒まで使ったに違いない。

嫌味らしさすら感じる、誓らしい執念深さだった。

引き金を引くと、軽い衝撃と共にガシャンと撃鉄が落ちた。


整備員が機体から離れると、ブレードの回転率を上げた。

湯が沸騰するような、甲高いタービン音が増す。

計器のデータを角膜に映しながら、前線指揮所を呼び出した。

「スピア、アロー・エイト・ナイナー、レディ」

(スピアへアロー89、離陸準備完了)

スピアと名づけられた前線指揮所が、データを転送してくるのを受信する。

半透明のルートマップが、自動的に左半分の視界に広がった。

3Dで形成された山の尾根の連なりの合間を、ルートを示す矢印が這っている。

偵察ヘリから送られた、目標の部隊の映像がルートマップの上に広がった。

白黒に処理された映像に、立方体の影がポツポツと散らばっている。

「アロー・エイト・ナイナー、スピア、リポート・エアボーン、アンド・チャーリー」

(アロー89へスピア、離陸及びポイント・チャーリー通過を報告せよ)

「アロー・エイト・ナイナー」

了解代わりの自機のコールサインを吹き込む。

エンジンが唸りを上げ、ブレードの描く円周に影が落ちる。

地面に掛かっていた重量が消え、ブレードから発生する揚力が機体を吊るし上げ始めた。

砂埃の瀑布が視界を砂嵐の色に染める。

ゆらりとタイヤが地面を蹴り、軽い衝撃とともに機体の重みが宙に浮く。ブレードから吹き降ろす風が地面から跳ねかえり、安定した揚力を与えた。

上昇すると、目の前の木々から、山の峰、そして空へと視界が変化していく。


「・・・アンド、チェンジ・トゥ・モード・スリー」

(なお、モード3へ変更する)


脳の中心をヒビが走り、脳波が頭蓋骨を抜けた。

アパッチ・ロングボウがロングボウたる所以の、ミリ波レーダーの電磁波が拡がったのだ。

歯を食いしばっても息が漏れる。

ぼうっと頭の中に像が浮かび、やがて鮮明に結ばれる。

レーダーと脳神経を接続した瞬間の、頭が割れるようなこの感覚は、いつになっても不快だった。

視界が360度に広がり、まるでグレースケールの小さなジオラマを見下ろしているようだ。

等高線でスキャンされた山々。その合間に、緑に彩色された影が点在していた。

敵部隊のレーダーの死角となる部分だ。電波を発射し、その反射で航空機の存在を知るレーダーの原理上、山の陰は避けられない死角だった。

唯一それを単体でカバーするのは、航空機搭載のレーダーくらいだろう。それ故に、強力なレーダーを搭載するエイワックスは作戦上重要なキーとなる。

佐久は瞬いた。レーダーの死角が、往くべき路となる。

今回の訓練での任務は、空挺降下する部隊に先行して、敵の防空施設を破壊することだ。

現在の脳神経接続レベル3は、現在の佐久の情報処理量の最高レベルだった。

本部から送られるデータと、レーダーのデータを合成すれば、戦場をたちどころに掌握できてしまう。反面、脳への負担も大きい。

手に握った操縦桿を軽く前に倒すと、機体が前に傾く。

くいと機体が鼻を下げ、視界に森が映った。

右手で機体の水平の左右前後の動きを、左手で上下動を、フットペダルで中心を軸にした横方向の回転をコントロールする。

殆ど力は入れていなかった。フットペダルも左右の操縦桿も、その操作は繊細なものだ。

今日もいつもの操縦だった。それは、力を加えるというより舵を調和させると言ったほうが正しい。

様々な方向へ働こうとする力を、同時に調整するのだ。

加えて、アパッチに搭載されたコンピューターは、自動的に機体を安定させる。空中で停止するという難しい技を長時間難なく続けられるのはそのお陰だった。

操作が全てダイレクトに影響する前世代のヘリよりは、ずっと操縦が楽だ。

山の木々の上を滑るように動き出したヘリの、細かな振動、エンジンのわずかな変化を感じるように、そっと操縦桿を握る。

自分の脳内で処理する機体の状態と、四肢から感じ取るヘリの状態の一致が心地よい。

目を開いて、目の前のものを見る。

山の合間から立ち昇る霧に、ふっとコックピットが飲まれ、視界が白くなる。

機体越しに、千切れた低い雲に触れることもできる。

機体左右の、ミサイル等の武装を吊るスタブ・ウイングが、霧を裂いてしっとりと濡れる。

瞳の中に、機体の中の世界を見る。

尾根を越すたびに、エンジンの出力の微細な変化すら感じることもできる。

計器の数字を読まなくても、視界に捉えるだけで異常の有無を知ることができる。

黒っぽいまでに濃い緑、山と山の挟間を縫う沢、森に潜む兵士を越えて、放たれた矢のようにアパッチは跳ぶ。

薄く霞んだ地平線、その向こうに見える町の屋根の連なり、どこまでも行けそうな気がした。

本来二人乗り、複座のアパッチを、単座に改造したこの機体を気に入っている。

誰もここにはいない。ただアパッチに拡大した自分の身体イメージを、思うままに操る開放感。

煩わしいものを振り払い、淡々と目の前のことをこなす心地よさ。

視界に点滅する三角が、往くべき進路を表示する。

ただそれにしたがって、ふわふわと空気の中を泳いでいく。

谷の合間を飛べば、日光に当たって山肌を這い上がる風がブレードに触れた。

暑い群馬とはいえ、山間の朝はまだ肌寒い。

機体を傾け、切り立った頂の横を旋回する。頂上の観測兵が、こちらを見下ろすのが一瞬見えた。

歩けば丸一日以上の待機地点に、あっという間に迫る。

岩を削る川の上を飛べば、水の上の空気の流れに機体が少し振れた。

ヘリから吹き降ろす風に揺れる、夏草の鮮やかさ。

草が覆う丘の斜面に、風で裏返った草の白い波が渡る。

ここが待機に指定されたポイント・チャーリーだ。

到着をマイクに吹き込むと、すぐに司令部からの了解が帰ってくる。

ローターの天辺に乗ったロングボウ・レーダーを丘の背から出せば、姿を隠したまま敵の情報を収集できる。

向かいの山の麓、広い道に連なる装甲車、車両の列をレーダーははっきり映し出す。

知らず知らずのうち、口元が歪んだ。

銃を持った兵士の影さえも、鮮明に認めることができる。

白黒処理に加えて、脅威の高い敵は赤色で表示される。佐久の機は、偵察部隊が捉えた指揮官車両すらも把握していた。

前線の一点を突く。その突破口から、後続の部隊が敵戦線を崩すはずだ。

まずは戦車と装甲車を潰す。あとは機銃で、装甲を持たない車両を始末してやればいい。

最新鋭とは言えないアパッチだが、パイロットの身体的な限界を超越した技術により、圧倒的なアドバンテージを誇っている。

すべてのミッションは、自分たちサイボーグがこれから認められるかどうかの試金石だ。

生きる権利をもぎ取るチャンスが、目の前にある。藁にも等しく、触れれば手を切ってしまう剃刀の刃でもありはするが。

誰に何を言われようと、戦いをやめる気はない。

生存できることが当たり前の人間は、絶対に、手を汚さなければ生きていけない人間のことなど理解はしない。

だから。


佐久は、出力を最高まで上げて、けたたましいブレードの音を遍く響き渡らせながら、機体を急激に上昇させた。

竜巻のように巻き上がった砂塵の中で、佐久の機もまたテールを振り回しながらその姿を現す。

ミサイルポッドの擬似弾から発射されたレーザーに、最初は先頭の車両、二秒後に最後尾の装甲車が捉えられる。

佐久の視界に、「破壊」を示す白い縁取りの点滅が光った。

顎を下げ、陸を駆け下りる。

木々の葉に触れ、風を巻き起こしながら、佐久の機は敵に肉薄する。

向かいの峰の中腹に、チカチカと光った機関銃の閃光に、ほとんど無意識に機関銃を照準した。

機関銃の弾丸の代わりに、赤外線が機関銃手の胴体を貫く。

実戦であったならば、彼の肉体は肉片になって周囲にこびりついているはずだ。


敵がいなければ、自分の価値は証明できない。

真に戦うべき相手は味方。


因果な真実が、一瞬苦く口の中に広がる。

丘を下った勢いをそのまま、合間を縫う道路の車列にかぶった。

強力なアパッチの機関銃の威力の前に、装甲車などはひとたまりもない。

その歯牙に、次々と白い縁取りを増していく車列。


音を上げたほうが負ける。


佐久は、機関銃の射撃ボタンを握り続けていた。

コックピットの孤独と静寂の中に、汗ばんだ息だけが熱く漏れた。



「なんでテメーがいるんだよ」

ひとっ風呂浴びて、一日の汗を流した後のビールに、佐久は口をつけ損ねた。

彦根の横に寄り添うような小さな体。相変わらず協調のきの字さえもない態度。

ブラックのTシャツ一枚に包まれた凶悪な胸。

佐久が突っ立ったままでいると、彦根が「まぁ座れよ」とビールのジョッキを置く。

「じゃあ私、席外しますけど」

「こいつの挑発に乗るな」

立ち上がろうとした誓の腕を、彦根が掴む。

大人しくいう事を聞いて、それに従う誓にまた苛立ちを感じた。

クラブと呼ばれる酒場の中は、筋骨隆々たる兵士たちで満員御礼だった。

テーブルに粗末な椅子と、簡単なつまみにビールしかないが、軍隊内にある限り莫大な売り上げが確保される。

しぶしぶカウンター席に座る後輩パイロットに、たまにはいいじゃねえかよ、と宥める彦根を盾にする誓。

左に歩兵のマッチョ、右に先輩パイロットのマッチョと、むさい席で飲むビールはそれでも美味い。

唯一の女っ気はむすっとした顔でビールを舐めている。関わりたくもなかった。

まだ幼さを残す顔立ちに、大きな瞳。アンバランスな鋭い表情。

長い睫毛が、視線を落とすたびにふわりと揺れる。

ガキだ。

丸みのある頬を見て、そう思う。

「まぁ、まぁ飲めよ。そんなに拗ねるなよ」

彦根がビールを勧める。

黙って彦根にくっつく誓が、小ばかにしたような目で佐久を見た。

いちいち癪に障るが、無視する。

「拗ねてません」

消えていく泡を見ながら、呟いた。

彦根の面倒見のよさに甘えている自分を自覚しながら、また酒を水のように呷る。

Tシャツの袖が張るほどの彦根の腕は、父親のように逞しかった。

誓は人の表情を伺いながら、それでも彦根にはちらりと笑顔を見せる。

ビールのジョッキのふちをなぞる指先は、マニキュアの光沢がたっぷりと乗っている。

知らぬ間に、舌打ちをした。こいつがいると、思考が収束しない。

「お前、ソッチ系だっけ」

女が嫌いなのは、要するにアッチの気があるからかということらしい。

違いますよ、と佐久は手を振る。

飲みにいけばキャバクラにも行くし、あやめやマヤに不快を感じたことはなかった。

付き合った女もいたし、もてないわけではない。

「気に入らないのはこいつだけです」

「お互い様じゃないんですかー」

あくまで言い返す誓が、つんと横を向いた。

互いに認める気もなく、かといって関わらないわけにはいかない。

だからこそ腹が立つ。

「しょうがねえ奴らだな」

彦根が呆れて肩を竦める。

海兵隊(マリーン)が佐久少尉みたいな人ばっかりじゃなくって良かったです」

「調子に乗るなよ。殺すぞ」

「殺せばいいじゃないですか」

意外にも誓は静かな、暗い目で佐久を見る。

冷静、というよりは、淀み倦んだ目で。佐久は彦根に、バカ、と乱暴にひっぱたかれた。

「おめーは何がそんなに気に入らないんだよ」

「全部です。女の癖に」

誓の頬がぴくりと引きつる。

「・・・男の癖に」

封じ込めた怨嗟の深さを滲ませる声。単純な性差を超えた、何かどうしようもないものへの恨みがずしりと重い。

黙ってそれを聞く彦根が、ジョッキに口をつけた。

小さく呟いた言葉が、誓の口の中で溶けて消える。

呟いた本人にも聞き取れないほど小さい誓の声。

押し殺してきたものが、まるで誓自身に訴えかけているかのように。

感情は生き続ける。執念深く、何度殺しても死なない。

誓が何を抱えているのかは知らないが、自分と同じようにどうしようもないものを背負っている。

ますます気が滅入った。

その脆さは、やがて人に共振するような気がした。

ジョッキの柄を握り締めすぎた、誓の指が白い。

「あたしだって、男に生まれてパイロットになりたかった」

その低い声は、喧騒の中にはっきりと響いた。カウンターにジョッキを静かに置いた音が、何故か耳に残る。

一瞬、噛み付くような怒りの表情を浮かべて、誓は正面を見ていた。

いつもとは違う、すべてをむき出しにした感情。

――一瞬佐久は見とれる。身を焦がすカタストロフィーが、その瞳を輝かせていたから。

その赤々とした炎のような光。一瞬、瞳がうるみの膜で覆われたように見えた。

しかしそれを隠すように誓はそっぽを向き、表情は一瞬で消え去る。

身を固くした誓は、ばつが悪そうに俯いた。

「バカか」

思わず、そんな言葉が口を突く。

誓は顔を上げない。額に手を当てて、祈るように目を閉じている。

――捨てちまえよ。

喉元まで出掛かったその言葉が、何かに引っかかって消える。

言えなかった。

空に固執し、戦闘機パイロットの夢を絶たれながらも、こんな体でヘリパイにしがみついている自分。

手は、いずれ血に染まるだろう。だから、言えなかった。

自分と同じ生き方を強要することは、誰にもできないし、するつもりもなかった。

佐久も、彦根も黙り込む。ずっとそうして、酒を飲んでいた。

抱え続けるものの重さを知りながら、しかし佐久は思う。


みんなみんな、捨てちまえ。


苛立ったもどかしさが、心の中でそう叫ぶ。

反抗するくらいの根性があるのなら。

――佐久は、それが不可能だと知っている。

いつの間にか酔っていた誓が、項垂れて泡の消えたビールを見つめている。

半分閉ざされた、光の差さない瞳。粟立った肌は、冴えた白い色をしていた。幾度か動いた唇には逡巡が浮かび、しばらくの間喧騒だけが流れた。

やがて、誓は搾り出すように呟く。

「私は、少尉、パイロットという職業には感謝しているのです。あなたと形は違っても」

その言葉は平坦で、誰に向けられるとも無く発されていた。佐久は口を閉じ、その続きを待つ。

砂漠の夜明け作戦。そう呼ばれた、記憶に新しい大規模な派兵。

中東の混沌。砂の中の流血。その中の一夜。誓の言葉は、過ぎ去ったその時間を巻き戻した。


月の沙漠を はるばると

旅のらくだが 行きました


そこまで歌って、誓は口を噤んだ。その続きを忘れたからだ。

幼い頃の記憶に残る、哀愁を帯びたメロディー。

月が中東の乾いた大地に、青い闇の幕を掛けている。

彼女が乗るのは駱駝ではなく空軍のヘリコプターで、携えるのは金銀のかめではなく実弾を装填した銃であった。

UH―60(ブラックホーク)は広く軍隊で使われている多用途ヘリコプターで、主に人員輸送や救助活動に当てられる。

ずんぐりした胴体と2発のエンジン、機体上方に対照に吊り下げられた燃料タンクのある特徴的シルエットは、軍人なら見慣れたものだった。

人が5、6人乗れるキャビンには、今は誓と、他部隊の見知らぬ陸軍伍長、そしてパイロットをサポートする機上整備員(フライト・エンジニア)しかいない。

拠点基地間の移動に幾度も乗ったそのヘリコプターは、今日もいつもと変わらずに荒れ地を進む。

草木の生えない砂色の大地は乾燥に強張り、朝と夕には緩やかな波のようなコーランの祈りがどこからともなく流れる。

夢にも見たことのない場所、幻想の宵。

見慣れたロクマル――UH―60のキャビンから見る、いつまでも見慣れない風景。

開け放ったキャビンの中で、昼は暑く、夜は寒い中東の気候を痛感する。

パイロットとクルーが被る、暑苦しい航空用ヘルメットがありがたいくらいだ。

砂混じりの風が、大地の表層を毛羽立たせる。

その風の音と、何より聴覚を奪うヘリコプターのブレードの音が、誓の口ずさむ歌をかき消してくれる。

同乗する伍長は、誓の機関拳銃より3倍は長さのある小銃を抱いて、ずっと反対側の景色を眺めていた。

誓の持つの機関拳銃は、元より近接戦闘用だった。

大きさは拳銃を一回り大きくした程度で、水平にしても長さは僅かに身体より余る程度だ。

対して、最長で500メートル、実質300メートルのレンジを想定した陸軍の小銃は、斜めに抱えた兵士の肩口から下腹部まである。

迷彩服の色の違いは、任務の違い。それは武装の違い。

灰色のピクセル迷彩服の襟を立て、誓はまた前を向いた。

既に顔見知りのフライト・エンジニアは、クリップボードを手に、何やらコックピットの様子を観察している。

風は束ねた髪を揺らし、異国の夜は首筋を撫でる。

「砂漠の夜明け」作戦が始まってから、幾日が経ったのかもはやはっきりしない。

石油産出国の情勢不安に米政府は敏感で、こうして戸籍上はアメリカ人の誓も戦争に駆り出されている。

ただし、アメリカ本土からすれば日本というのは微妙な異国なのだろう、と誓はぼんやり考える。

日本という国はアメリカの一部になっても、言語や習慣や生活は変わらない。

好戦的な本土の気風に辟易することも少なくなく、誓は腕に付けたワッペンをちらりと見やった。

サソリをあしらったデザインの「砂漠の夜明け」作戦のパッチは、日本なら歌舞伎や相撲をあしらう本土人の観光気分を思い出させる。

駆逐したアメリカ先住民の部族名を航空機の名前にし、占領した国の芸能をコールサインや部隊エンブレムにするその神経に、未だに多くの「日本人」は迎合できずにいた。

皮肉にも、「砂漠の夜明け」作戦のパッチは、蠍座を意味する誓のTACネームと近似する。

作戦時に用いる渾名のようなTACネームは、ただ単に蠍座だからと上官に決められたものだ。

スコーピオ――天の毒虫は、赤い星を抱く不吉なシンボル。

そのTACネームはややどぎついが、嫌いではなかった。

「砂漠の夜明け」作戦が終わり、さっさと十字軍どものパッチを外せれば一番なのだが。

とりとめもなく、誓はそんなことを考える。

目を閉じたままの闇。汗とかすかな油のにおい。

日本人の汗のにおいだ。パイロットもクルーも、本土人はいない。

ゆらゆらと揺れるキャビンは船のようで、慣れると眠気を誘った。

乾いた唇を舐めると、舌先にざらりとした砂埃が残る。

目を開いて、地平線まで続く広野を見る。月光に青く染まった大地の、砂礫ひとつひとつがぼんやりと光っている。周辺には何の人影も見えない。

1000フィート(300メートル)の高度から見る景色は、方向感覚を逸失しそうな空白だ。

本当にこの国で戦争が行われているのかという疑問さえ生まれる静寂。

自分たちの装填した弾の入った銃だけが、そのリアリティを出す。

芯まで冷えた樹脂と金属が、手袋越しにもその存在感を示した。

高卒フリーターだった頃には、国際線パイロットになって海外に行くのだと疑っていなかった。

それがまさかこんな形で叶うとは。

操縦桿ではなく銃を握り、乗るのはボーイング787や三菱MR―Jでなく、シコルスキーのロクマル。

そうして、ニュースの中の存在だった国を飛んでいるわけだ。


「あと45分でキャンプ・ヘンドリクセンです」


パイロットが、有線通信で機内にアナウンスする。

ヘルメットに接続されたインターホンで機内通話も出来るのだが、誓はほとんどこれを使っていない。

ヘンドリクセン基地は「砂漠の夜明け」作戦の一大拠点となっている航空基地で、誓も普段はここに住んでいた。

周囲には多少の市街地もあるが、女性に対する厳しい戒律が残るイスラム世界に足を踏み込むことはできない。ただでさえ、アメリカに対する感情は良くないのだ。

こうして、空を飛ぶときだけが基地の外の世界の全てだった。

そのどうしようもなさに呆れたその時、ふと誓は斜め前の視界の端に何か小さな光を見た。

ぱぱっと細切れに点滅した光は、そこに一瞬粗末なトラックと人影を照らし出す。

それは強力なストロボの点滅に似ていた。照らし出された人物は何かをこちらに向けていた。

頭より早く、体がインターホンのスイッチを押す。


「光が」


そこまで言った時、破裂音が光を追いかけてきた。


「え」


フライト・エンジニアがキャビンを振り返いた瞬間だった。

それと同時に、誓から見えていた副操縦士の腕が鈍い音と共に膨張して破裂した。副操縦士は、そのことに気付かない。

フライト・エンジニアはそれをもろに被り、ヘルメットや戦闘服が赤黒く染まる。

罵った声は誰のものだったのか。

大量の血液をヘルメットから垂らしながら、フライト・エンジニアはコックピットに首を突っ込んだ。

ヘリがぐらりと傾く。いつの間にか、闇の中でもわかるくらいに機長の身体は奇妙に弛緩し、居眠りをするようにうなだれていた。


ぐおおおおお


獣じみた叫び声が、空気を裂く。気分が悪くなるような血の臭い。

その後の激しい呼吸の合間、インターホンでギチギチと歯軋りが聞こえる。

とっさに副操縦席の操縦桿を掴んだフライト・エンジニアが、機体の姿勢が崩れるのを防ごうとする。その手は、手首から先だけ残った副操縦士の手の上から操縦桿を握っていた。


「掴まれ!」


誓は、未だに何が起きているのか分からない陸軍伍長に叫んだ。

自分の身体を何かが掴んでいる。気が付けば自分で機内の柱を保持していた。

驚くべきことに、副操縦士はまだ正気を失っていなかった。


「メイデイ・メイデイ・メイデイ!」


副操縦士が無線に向かって叫ぶ。

消えた副操縦士の右腕をフライト・エンジニアは補い、彼らは緊急着陸しようとしていた。

コックピットに身体を突っ込んだままのフライト・エンジニア。

パイロットの本能のまま、左手の操縦を続ける副操縦士。

追いかけるような、被弾の音がテールの部分から響く。板金を殴るような音が、髪の毛を逆立てた。


「ウィ・アー・キロ・ファイブ・ワン、ゴーイング・ダウン・・・」


けたたましい警報が鳴り、機体の異常を示すコックピットのコーション・ランプが一斉に点灯した。機体は左右にドリフトしながら高度を下げていく。その度に、内臓の裏側が冷えるような変位が起きた。

地形の小さな起伏の陰影が、ズームアップされてくる。


死ぬのか。


誓は、警報と叫びの入り混じった静寂のなかで、静かに瞬いた。

誰が何を叫んでいるのか、分からない。ただそれは渾然一体となって、神経を這い上がった。

遠い地面に落ちていた影が、間近になってくる。

そして、とうとうタイヤに石がぶつかる衝撃が伝わった。

高速でアプローチしたヘリコプターの機体が、鼻先から大地に突っ込む。

その轟音と衝撃に、誓は口と目を閉じた。

轟音と、衝撃はずっと続いていた気がする。

骨がぶつかりあい、脳が頭蓋骨の中で破裂しそうな位振動する。

手足はただ重力の激変に翻弄され、食いしばった歯がガチガチと音を立てた。

鋼鉄の外板が引き裂かれる、身の毛のよだつような音がバリバリと鼓膜に突き刺さった。

視界は衝撃にぶれ、神経は不能になる。

大きな波の塊に、ひたすら耐え続けた。その中で、まだ生きている。それは夢か現実か判然としない。

砂埃が大量に流れ込み、まるで火砕流のただ中に飲まれたようだ。

一瞬、ゴキュッという有機的な破壊音だけがはっきりと聞こえた。

音は衝撃に、衝撃は音に変移し、やがて平衡感覚を失う。

そして、視界は暗くなった。


誓は、しばらく耳なりと暗闇の中で微睡んでいた。

意識が重く痛く、何か不快な感覚がする。

口の中に砂と血の味がして、幾度も咳をする痛みで誓は徐々に目覚めた。

ぼんやりした視界に、床一面の赤が映る。ぬるりとした感触が頬にこびり付く。

それは血なのだと、誓は理解した。

全身の感覚から、徐々に神経を探り出す。

冷え切って鈍くても、指先はまだ残っているようだ。

ひどく身体がふわふわする。うまく身体が動かない。


「―――」


誰かの呻き声がした。

ゴツン、ゴツンと何かがぶつかる音がする。

無理やり頭を上げると、目の前でコンバット・ブーツの足の裏が痙攣していた。

痙攣するたびにそのゴムのつま先が床にぶつかる。

その足が、フライト・エンジニアのものだと認識するまでに、数秒かかった。

ヘリは強硬着陸したのだ。敵はどこに行ったのだろう?陸軍の伍長は?

渾身の力で首を捻ると、キャビンから這いだすような形で誰かの体が横たわっている。

砂に覆われて白いが、それは陸軍伍長であるようだ。また誓は咳き込む。肺と気管がその度に痛んだ。

現実感のないまま、ようやく這いずるように半身を起こす。

ほの暗い視界には、血の幕で覆われたコックピットと、割れたガラスが映った。

頭をコックピットの計器に突っ込んで事切れている副操縦士。

操縦桿を握ったままのフライト・エンジニアは微かに動き、苦しそうな呻き声を漏らしている。

何かぬるりとしたものを感じて額に手をやると、破損したヘルメットのバイザーの破片が突き刺さっていた。


――助けを求めなければ。


誓は、霞んだ奇妙な冷静さでそう判断した。

映画の中に自分を見ているようで、何も現実がない。

隣の伍長は動かない。彼の首は有り得ない角度で根元から折れていた。

死という冷徹な事実だけが、誓を納得させる。

折れかけた棒のような身体を引きずり、這うようにコックピットに進む。

副操縦士のヘルメットから伸びるケーブルを辿ると、無線機に接続するジャックが見つかる。

血まみれのコックピットにもはや構わず、誓はパイロットのケーブルを引き抜いた。

その手にぬるりと新しい血が付着する。

まだ電気は生きていた。

自らのケーブルを接続すると、操縦桿の無線送信ボタンを押した。まだ、


「レーダー・・・キロ・ファイブ・ワン」

声がかすれ、途切れ途切れに送信する。

すぐさま返ってきた声に、誓は状況を報告した。


「ウィ・ハブ・スリー・KIA、アンド・トゥー・サバイバーズ」


戦死3生存2。その外に、敵からの銃撃を受けたことを告げる。

ヘリを落としたのは、恐ろしく腕のよい敵だった。機関銃の対空射撃はそう当たらない。

あるいは、この機がアンラッキーだったか。

肌がひりひりして、呼吸が苦しい。がくりと落ちた膝が震える。

スリングと呼ばれる吊りベルトで体に提げられていた機関拳銃を握り直した。


誓は捕虜にはなれない。


最悪の場合は、自分の命を処分しなければならなかった。

軍用の改造を受けた、半分人工の身体を持つからだ。その機密を欲する者はどこにでもいる。

引き金を引けるか。自らに問う。

不思議と冷静な心で、誓は目を閉じた。


毎日増える幾多の戦死者のひとりになるのか。

御守りをくれた友達は気に病むだろうか。

母親が軍の使いに掴みかかるかもしれないのが気がかりだった。

こんな日がまさか今日来るとは。


フライト・エンジニアが、咳き込んで意識を取り戻す。

薄目を開いたフライト・エンジニアは、肩で息をしながら、その黒い瞳で誓を見た。

何かを言おうと唇を動かすのを、誓は遮る。

この場でまともに動けるのは誓だけだ。現実感が喪失したことが、神経を冷静に保った。

裸眼で、動かない敵を見つけることは難しい。

機体から離れて救助を待てば、敵に見つからないように思えた。

軋む頭で必死に考える。機体自体も敵からは少なくとも数キロは離れている。墜落した機体を敵はすぐには発見できないだろう。

邪魔な航空ヘルメットを投げ捨て、誓は目に入った血を拭った。

些細な決断の誤りが、遅さが、生死を分かつ。すべては今自分の手のなかにあった。

機体には発煙筒や救急セットがあるはずだ。ぼんやりと残る、講習で受けた記憶を引きずり出す。

まずフライト・エンジニアを機体から降ろそう。優先するべきは生存者の安全だ。

誓は考えを整理した。

フライト・エンジニアを見捨てれば逃げられるかもしれない、という考えを振り払う。

決断できるのはひとりだ。世界には誰もいない。

フライト・エンジニアの腕を掴むと、そこには生者の体温があった。

月光に、そのネームタグが照らされる。

成田。フライト・エンジニアの名前は成田だった。

名前のあるその命は、引っ張り出すとひどく重く、転倒しそうになる。

どうにかして立とうとする成田の肩を支え、誓自身も肩で息をしながら歩き出した。

ヘリから降りると、ザクザクと砂礫が音を立てる。

月面に立つような浮遊感、成田の不安定な体重の中で、必死に自立を保つ。

孤独と、敵の存在感が身体を締め付ける。すぐにでも、敵が迫っているような気がする。

生き延びたい。

その本能の声が、身体を震わせ、呼気を乱す。

墜落していくヘリの中で見た成田の後ろ姿。貸した肩に持った左手には、堅い指輪の感触。

強く誓をつなぎ止めるそれらが、逃避を望む怯えと引き合う。目を上げれば美しい砂漠の月が、冴え冴えと冷たく輝いている。

成田の身体は信じられないほど重かった。

数十メートル離れた場所まで歩くのに、何分もかかる。

汗まみれでようやく成田を降ろすと、その左足の膝から下は不自然な内側に向いていた。

砂漠の夜は凍てつくほどの寒さになる。

成田の負傷は、生命に関わるだろう。負傷が骨折のみだとは思えなかった。

ヘリに戻ると、誓はすぐにキャビン後部の救急セットと発炎筒を見つけた。

陸軍伍長のオーバーと、小銃を剥ぎ取る。それから、操縦士の拳銃。

拳銃は血に濡れていたが、すでに冷たかった。

孤独と戦慄に心が震える。

砂漠は地の果てまで続く。敵と、成田と、誓だけがそこでせめぎ合っている。


無言、静寂。


砂を含んだ風が、コックピットにパラパラとぶつかる。

誓は、風に首筋をすくめた。空気が流れる音だけが響く。死の沈黙が、誓の体温を浚っていこうとする。

その時だった。

堅いものが金属を擦るような音が、誓の耳に届いた。

それは瞬く間に、バーナーのような音に変わる。

誓は思わず、コックピットの風防に張り付いて空を仰いだ。

ガラス越しの割れた満月を、何かが横切った。

誓は、無線がキロ・ファイブ・ワンを呼んでいるのに気付いた。


「こちらラプター隊、ウィリー・トゥー・トゥー・フォーメーション」


無線機に日本語で男の声が入る。ウィリー22フォーメーションと名乗ったその男は、2機編隊のF22ラプターのパイロットだった。

風を切り裂く戦闘機は、全天を震わせる。世界最強の誉を持つ、幾何学的なフォルムの機体。


「キロ・ファイブ・ワンを捜索中。これより救出を支援する、応答せよ」


男の声は落ち着き、力強かった。

それはまるで、命綱そのものだった。

息が詰まる。

それから、失われていた命の感覚が、蘇る。頬に血色が戻るのを感じた。

死のモノクロの世界に、突如として色彩が爆発したように見えた。

誓は震える手で無線機を取った。もどかしい指先は、なかなかうまく掴めない。


「こちらキロ・ファイブ・ワン。ウィリー・トゥー・トゥーを前方に視認。なお、墜落時に付近から敵の射撃を受けた」


誓の声は掠れて、最後は裏返っていた。叫びたいのを必死で留め、誓は熱い脈を感じる。


「ウィリー・トゥー・トゥー了解。頑張れ!救援はすぐに来る。絶望するな」


ラプターが来てくれた。そのことは、誓の命を再び蘇らせた。

発炎筒。

その光は敵からも、味方からも発見されるだろう。

だがしかし、今ならば、ラプターがいる。信ずるに足る、その強い翼。


誓は発炎筒を握った。震える膝で、覚束ない足取りでヘリから転げ落ちた。

命懸けの賭けだった。しかし確信できる。成田の命を救い、自らの命を守ることはできる。

勇気なのか、愚かなのか。誓は、発煙筒の蓋を外した。

肺いっぱいに息を吸い、蓋の着火材で火薬をこする。

瞬く間に、炎が火薬の表面を舐めた。花火のような目を潰す赤いまばゆさが、砂漠の中に強い陰影で誓自身をも照らし出す。

立ち上る煙が浮かび上がり、発炎筒は天に突き刺さる。

気が付けば、叫んでいた。

身体の底から、腹の力いっぱいに、獣のように。

声帯が切れそうな程に、野蛮な生命の迸りを正面のラプターにぶつけた。


ここにいる。


炎の光を全身に浴び、誓は叫びつづけた。

誓の存在自体を、全て声に変えて。

声は闇に吸い込まれ、闇に溶けていく。

それでも、叫ばずにはいられなかった。

叫びに応えるように頭上を通過したウィリー22は、高度を下げて地上近くを飛行する。

数秒後、地上に小さく光が出現する。

ラプターの機銃で、射撃をした敵の車が爆発したのだ。

誓はまた叫んだ。身体が千切れるほどに、魂の限りに。

息を吸い、声と共に吐き出す。顎が限界まで開き、肺はビリビリと震えた。

生きたい。

すべての叫びは、その衝動だった。

やがて発煙筒の輝きは消え、再びラプターの爆音が空間を包む。

そうして、誓はようやく叫ぶのをやめた。


「大丈夫です、私達助かりますよ」


誓は、ただただ黙って息をする成田の目を見た。

ウィリー22から与えられた希望が、誓を再起させる。

彼の足に添え木を当て、包帯でしっかりと縛った。

見上げれば自分たちを守るために、ウィリー22は事故現場上空を旋回している。

月光に白銀に輝くラプターの翼は美しかった。

青白い軌跡を残すメスの刃先が、空を切り裂く。

心が震えるようなパノラマ。

成田の応急処置をしながら、誓はその音を聴き続けていた。

生と死の境目の綻びを、ラプターが再び繕う。

その力強さと確かさが、目頭を熱くする。

不意にこみ上げそうになった熱い塊を、誓は飲み込んだ。



誓の回顧は掠れて途切れていた。その目にはあらゆる感情が燃えていた。

いつの間にか握っていた掌に、佐久は気付く。

「忘れたことはありません。ロクマルの機長も、副操縦士の最期も、そしてラプターが来てくれた瞬間も」

それきり、誓は口を噤む。その経験は言葉で表現するにはあまりに強烈で複雑すぎて、誓自身にも整理できないものだった。

それは佐久にさえ、常軌を逸するほどに空に焦がれ、頑なであり続ける十分な理由に思えた。

語り終えた誓が再び沈黙に落ちる。疲れきったように机に伏せたその首筋が、やがてまどろみに沈んだ。

誓がくたばっている間に、ポツポツと彦根と話をした。

藤枝の奥さんのことや、機体の調子のこと。

何気ない話が少し気まずくて、飲む酒の量が増える。戸惑いが心に影を差す。

男に生まれて、パイロットになりたかった。

誓の語った夢や憧れが、ようやくあの冷めた態度と線で繋がる。

反抗や怒りの感情にさえ、スマートを装う仮面を被せていた誓の、嫉妬と弱さ。そして存在意義への固執。

今まで通り仮面を被っていてくれれば、変わらずに接することができるのに。

弱みを覗いてしまったことで、憎みきることができない。

人は、同じ弱みを持つことで親近感を覚える奇妙な生き物だった。それが佐久を苛立たせる。

気がつけば、ビールの味さえ感じることを忘れていた。

そして、パイロットであり続けなければいけなかった佐久のことなど、誓は知る由もない。

言うつもりもなかった。妙な憐れみなど受けたくない。

後悔などしていないし、負い目なんか感じていない。

そう自分に言い聞かせなければいけなかった。ジョッキを握った手が、気がつけば力んでいる。

誓が来た道が、自らの来た道を思い起こさせた。

酒場の喧騒で会話をするのさえ困難なのに、いつのまにか思考静寂が自分を包んでいる。

すり抜ける兵士が椅子にぶつかり、ようやく誓が顔を上げる。

目を擦り、まだぼんやりしながら頬杖をついた。

軍人なら誰でも着けているような、腕のG―SHOCKを見る。

もう9時を回っていた。

誓が目を合わせずに、「ちょっと電話」と席を立つ。

「おい、ついでに煙草買ってこい。ウィンストン」

ちょっと振り向いた誓が、軽く片手を上げて返事をする。

人ごみの中に押し入る小柄な体が、すぐに消えた。

彦根がビールを流し込み、ジョッキを空ける。

「そうか、今日命日だっけ」

「ええ」

部屋中に充満した煙草の煙は、戦闘服にも染み付いているだろう。

酒や揚げ物の臭いと入り混じったそれは、独特の「クラブ臭」と呼ばれる臭いだ。

人いきれに薄くなった酸素を吸い込み、佐久はビールを二つ注文した。

月に一度しか吸わない煙草は、未だに好きになれないが、臭いには耐性ができている。

佐久にとっては、それは線香と同じ臭いだった。

「まだ、奥さん会ってくれないのか?」

「そうですね。・・・どうしていいか分からないって」

何気ない言葉に、彦根が気遣いをしているのが分かった。

「知香ちゃんは?」

「この前、東京駅の地下で会ったんですけど、随分大人になってました。もう中学生ですから」

いつの間にかうっすらと化粧をするようになっていたこと。

「教官」が見たら怒りそうなミニスカートを履くようになっていたこと。

久々に東京に来た知香に、朝から夕までずっと原宿やら銀座に付き合わされたこと。

そんな話を彦根は苦笑いしながら聞いている。

知香は「教官」の娘だ。

事故当時は小学生だった知香も、いつの間にか中学生になっていた。

その顔立ちは大人び始め、「教官」の面影を残したまま女性に変わりつつある。

「奥さんのこと、なにか言ってた?」

「近くの美容院でネイリストやってるみたいですよ。ほら、あの爪?いじるひと」

その仕事が楽しいらしく、以前より生き生きしているらしい。

一度だけ、頭を下げに行った玄関前での「奥さん」からは想像もできなかった。

白髪混じりの長い髪はボサボサだったし、年齢よりもずっと老けて50代に見えた。

その目は、何を映すこともなく冷えて固まり、喪失に打ちひしがれていた。

写真で見せてもらった、控えめながらも可憐な、若々しい姿とは似ても似つかない。

自分が、彼女をそうしてしまったのだと、激しい動揺を覚えた。

『ママが佐久さんに会わないのは、佐久さんを恨んでないと立ち上がれなくなりそうだからだよ』

コーヒーの氷をストローでかき回しながら、知香が言った言葉。

ママもいい加減彼氏作ればいいのに、と知香が呟いたのは、決して忘れることができない辛さを知っていてのことだった。

なるべくなら、早く母親を支えることができる人が現れて欲しい。

パパもそう思うはずだ、パパは優しいからと、知香は言った。

「遅ぇな、誓」

文句を言いながら、またビールに手を付ける。

――パパは、知香が生まれたとき、知香のためなら死ねるって言ったんだよ。

娘を溺愛していた「教官」のことは、佐久もよく覚えている。

――パパは、佐久さんを命がけで助けようとしたんだよ。それなら、佐久さんだってパパの息子だよ。

もう恨んでいないと、知香は伝えたかったのかもしれない。

恨んでくれたほうが、いっそ楽なのに。

自分を救うために命を捨てた、教官――黒部大尉の娘から聞くには、あまりにも辛い言葉だった。

そして佐久は今も、誰かを恨み、事故の時間の中に生きている。

事故の中に、自分はどんどん取り残されていく。

感情を越えた、事故の事実が、巨大な氷山のように佐久の前に立ちふさがっている。

償えることなど、なにもない。

いつでもそれは黙って、心の中にある。

「知香ちゃん、大人になったなぁ」

「その分、俺は歳を取る一方ですよ」

若者はいつのまに大人になる。そして、旧い者はあっという間に歳を取っていく。

背負う過去の重さに、段々未来への一歩が踏み出せなくなっていく。

こんな佐久の姿を見たら、知香は情けないと叱るだろうか。

彦根が、少し寂しそうに笑った。

「バーカ。お前まだ28だろ」

笑った彦根の目尻に、皺がよった。

最初に会ったときには無かった生え際の白髪が、目に付く。

付き合いも長く、言葉など無くても、互いに何となく考えることが分かるようになった。

横田の攻撃ヘリ教育隊で、教官と学生という立場で出会ってからもう4年が過ぎている。

自分はあれから変わったのだろうか。

知香が変わるように、この先変わっていくのだろうか。

不意に、肌寒さを感じた。自分の内側から、それはやってきた。

鳥肌が立つ。

いつのまにか佐久の心や体や、大事なものを根こそぎ奪っていった有形無形のものが、自分を取り囲んでいるのを感じた。

それは世界であったり時間であったり、とにかく佐久はその中で生きていくしかない。

そいつらは変わらない。

そして、また佐久から色々なものを奪っていく。その中で、佐久は生きて死んでいく。

普段蓋をしていたものが、胸の奥から這い上がってきて、肺を掴む。

気が滅入って目を上げると、棚の上に置かれたテレビが、津軽海峡で起きた民間人の誤射事件の経過を報じる。

「おい、佐久、目が遠いぞ」

「少し酔いました」

飲みすぎたらしい。脈が肺を圧迫していた。

「誓、ホント遅いな」

心配そうに、辺りを彦根が見回した。

その時、笑い声や大声の中に、突然ガラスが割れる音が聞こえた。

怒鳴り声が聞こえて、酒の席を囲んでいた兵士や海兵隊員が、一斉にそちらを向く。

「おーおー、始まった」

仕切りに隠れて見えないが、玄関側での喧嘩らしい。

軍隊で酒場といえば、喧嘩は付き物だ。彦根は関わるつもりも無く、佐久も「またか」と呟いただけだった。

士官にもなって、下らない喧嘩に付き合うつもりはなかった。

怒鳴り声が重なり、事態が続いているのを聞き流す。

子供っぽい口調で兵士が叫んだ。

「空軍は出てけよ!」

「うるせぇな。喧嘩なら表でしてやんよ」

彦根がビールを喉に詰まらせる。

冷静な口調を保ったまま啖呵を切ったのは、間違いなく誓の声だった。

佐久に反抗したときと同じ、冷たい怒りと蔑視のほかには何も感じさせない態度が。

彦根が慌てて席を立つ。

どやどやとざわめきが広がって、やがて面白半分に指笛を吹くものさえ出始めた。

「やるじゃん女」「佐藤、空軍女に負けんなよ」「空軍むかつく」

無責任な野次が飛ぶ。

彦根の後について、建物の前に出たときには、もう始まっていた。

迷彩服の上着は、こんなときでも畳んで地面においてある。

陸軍の兵士の人だかりの中で、誓はいつものように背筋を伸ばして、真っ直ぐに相手を見ていた。

「胸でけぇ」「一発やりてぇ」と、ちらほら聞こえる囁きにも意を介さない。

顔を赤くし、汗で光らせた陸軍の兵士は、舌打ちをしながら誓を睨んでいる。

街灯と、窓から漏れる光で、誓の顔が薄ぼんやりと浮かんで見える。

誓は怯えずに、まっすぐに陸軍の兵士を見据えていた。

芝生の上、軽く片足を踏み出し、拳をゆったりと構えている。

きゅっと体をコンパクトに構えた身のこなしは、確かにしっかりとした軍隊格闘の型だった。

「あのバカ・・・」

彦根が止めようとするのを、誓がちらりと横目で見る。

大丈夫。

唇だけで、そう呟く。

同時に男が、大きなモーションで拳を挙げた。

勢い良く振り下ろされた拳を、すっと一歩だけ引いてかわす。

決して無駄な動きをしない。冷静さを失った、ストリートファイトの男を誓はぎりぎりで見切っている。

酒が入っているとはとても思えない。その挙動に容赦はなく、動作は精確を極めていた。

誓の頭を狙って斜めに振り下ろしたパンチも、前に構えた利き手で柔らかく流した。

今度は蹴りだ。蹴りだされた足を、更に蹴り上げる。

一本の脚ではバランスを取り切れない男は、派手に尻餅をついた。

「佐藤!!バカヤロー負けんな!!」

罵声が飛び交った。

男はカッとなって飛び掛る。体を丸めて体ごと突っ込んできた佐藤のタックルに巻き込まれながらも、誓はその背中に縦に肘を振り下ろした。

ぐえっ、と誓が吐く息は押し殺されていた。喧騒の中心にあってさえ、繕うことをやめていなかった。

心臓周辺への精確な打撃に、誓に覆いかぶさった男は一瞬動きを止める。

その隙に、顎の先を狙った膝が男を捉えた。

膝の一番堅い部分が、顎の骨を打ち抜く。脳にかなりの打撃が加わったはずだった。反射的に、男は呻いて体を丸めた。

誓は顔色一つ変えずに、男の下から這い出す。

それでも、男はまだ闘志を失っていなかった。くさむらを掴む手に、力が篭る。

するりと抜け出した誓が、草を払って立ち上がる。

「重いんだよ」

そう吐き捨てた誓の髪の毛が、解けて散らばる。

肩を少し覆うくらいの、柔らかなウェーブの髪が、さらりと流れた。

男を見下ろす誓の顔には、何の感情もない。

そして、少し油断していた。

「お前ら空軍のせいで、おれらの同期は死んだ!」

その叫び声と、新たな人影が飛び出してくるのは同時だった。

不意を突かれて、もろにタックルを食らった誓の体が佐久の目の前で吹き飛ぶ。

車に撥ねられた人形のように、誓が肩から芝生に激突した。

そのまま男は誓に馬乗りになる。体重は軽く見積もっても80キロを超えるだろう。

Tシャツの襟を掴んだ男が、唾を飛ばしながら誓に何かを怒鳴った。

男の言葉が、誓の動きを止めたのか。誓は抵抗を見せない。

誓は抵抗しない。けれども、その目で男を見据えている。佐久を見るのと、同じ目で。

喧嘩の異常な興奮。男の顔が赤みを増す。

さすがに不味いと思ったのか陸軍の下士官達が動き出した。押しとどめようと足を踏み出した彼らを、佐藤の同期たちが遮る。

同時に、彦根と佐久が顔を見合わせた。

「空軍なんてクソの役にも立ちやしねぇ!お前らの誤爆を、俺たちは食らったんだよ」

そう罵る男の言葉に、誓は静かに目を閉じた。既に戦う姿勢を放棄していた。

それは見当違いの呪詛だ。そして、間違っているということを誰もが分かっている。

それでも、その矛先を求めずにいられない。理性ではなく感情で、理解することだった。

人垣の中で、陸軍の下士官と兵が揉み合う。彦根が一歩踏み込んだ瞬間、男の右手が鞭のようにしなった。

肉を叩く、びしっという音が響く。同時に、誓は殴られた方向に顔を背けた。

佐久は、目の前がカッと赤く染まったのを感じた。

気が付けば、男の背中へ向かって飛び込んでいた。どうしてこんなことになったのだろう、と思いながら、加速した身体ごと突っ込んだ。

それがきっかけとなったかのように、雪崩れ込んだ下士官達が男を取り押さえる。警察の大捕り物のように、誰もが何かを叫んだ。数多の掌が、喧嘩の中心に向かって揉み合う。

たちまち引き剥がされる男。目を閉じたまま、横たわる誓。

自らもまた、周囲に取り押さえられながら、佐久はもがいた。

「やめろ!落ち着けよ」

彦根の声が間近で聞こえる。人垣の間から、虚ろに瞼を開いた誓の顔が見えた。

衛生の赤十字ワッペンをつけた伍長が、誓の顔を覗き込む。その質問にゆっくりと答える誓の唇が僅かに切れていた。

なぜ抵抗しなかった。どうして助けを呼ばなかった。そう叫んでも、喧騒の中に声が消えてしまう。

佐藤の同期たちと、下士官がぶつかり合う。場を治めようと士官が怒鳴る。

そもそも喧嘩の発端が間違っているのなら、この争いは無意味だった。それでも、ぶつかることでしか答えを得られないことを、誓は恐らく是としていた。

佐藤の同期にも、そして佐久にも、無言でありながら頑として折れなかったその横顔が青白い。

人工物の繊細さを内包した脳神経系に異常をきたしたならば、サイボーグは死ぬ。だからこそ、佐久はあの時踏み込んだ。

そのことを思い出し、佐久は自分が誓を助けようとしたことに気付く。

急に、周囲の怒号が大きく聞こえたような気がした。叫びの渦の中で、佐久は呆然としていた。

切り捨てられなかったのは、死に支えられた生という翳りがあまりに似通っていたからだ。

そして受け容れられなかったのは、佐久を見る暗く茫洋とした瞳が痛みを伴う記憶を呼び起こすからだった。

喪失と麻痺の中に留まり続ける者の目。

それは、黒部大尉の妻の目に余りに似ていた。



カシャカシャカシャ

薬室を磨くたびに、ブラシと銃身がぶつかって音を立てる。

西日が差し込む格納庫待機室の中はむっとして暑い。

四畳半の待機室で、パイプ椅子に座って長机に向かう後姿をじっと見つめる。

長机には分解された小銃の部品がきちんと並べられ、ブラシや綿棒で磨き上げられるのを待っていた。

一心に銃を磨く小柄な後姿を、差し込む西日が金色に縁取る。

足許に置かれた工具箱には、エアスプレーや歯科医が使うような金属製のピックまでもがきちんと整頓して収納されていた。

カシャカシャカシャ

持つ角度を変えて、隅に溜まった埃を掻き出す。その都度西日に当てて確かめる。

埃を掻き出すと、それを綿棒で拭き取る。

ビニール袋には、使い終わった綿棒が何本も捨てられていた。


『どうして私を助けたんですか』

そう言いながら、佐久を見た昨夜の誓。

切れた唇を拭う仕草が、粗野でありながら奇妙に馴染んでいた。

駆け寄った佐久から誓は身を引き、怒ったような、怯えたような目で佐久を見た。

『私はあなたにとって、ただ邪魔なだけなのに』

一瞬返す言葉に詰まり、気付けば反射的に平手が飛んでいた。

ビンタが飛んでも、誓は尚も無表情なままだった。

何もかもが空回りして、少しも噛合わない。佐久はまた、強く苛立った。

戦闘服に袖を通して着衣を整える誓は、不貞腐れている。

違う。そんなことを言いたいわけじゃない。

言葉はどんどんバラバラになって、何も伝えられない。

ファスナーを上げようとする誓の右手が、ひどく震えていた。

彦根が佐久の腕を掴む。何を言っても無駄だと、その目は強い制止を含んでいた。

今までに自分の言った言葉が、正しく誓に受け止められていたのだと、佐久は思い知る。

結局、何も言えなかった。

翌朝、藤枝から受け取った銃は、いつもよりずしりと重かった。


無言で待機室の電気を点ける。

一瞬動きを止めた誓は、びくんと肩を震わせた。

それでも、振り返らない。

黙ったまま、再び銃を磨き始める。

「帰ったら頭の検査を受けろ」

意識して、なるべく静かな声でゆっくりと話しかける。

入り口に寄りかかり、腕を組んで、誓の後姿を見つめる。

「別に怪我してません」

「バカ」

眉間を揉んだ。俯くと、一日中着た迷彩服から汗の臭いがした。

チャンスを下さいと言っておきながらこいつは。

「死ぬぞ。お前の頭の中に入ってるのは精密機械なんだよ」

誓は頭を殴られている。

それ故に、かっとなって飛び掛った。

和光に帰れば、みほから説教を食らうのは目に見えている。

黙って頑なに手元を動かし続ける誓の後姿。

「銃なんてどうでもいい。聞いてんのか」

「聞いてます」

意地を張って、謝るに謝れない時があるのも知っている。

横田の攻撃ヘリ教育隊に入った時の、佐久自身がそうだった様に。

頑なに不貞腐れ続け、味方を作ろうとはしなかった。

喧嘩を売られてはぼこぼこにしていたあの頃、彦根がいなければ荒んだままだっただろう。

銃身を静かに置いた誓が、きゅっと手を握る。


「小銃、最後の命綱なんでしょう?」


不時着した佐久が、身を守るために持ちうるのはこの小銃と、拳銃だけだ。

だから、いつでも作動不良が起きないように点検して、磨いている。

――それだけが、今自分に出来ることだから。

頭を強く殴られたような衝撃を受けた。

誓の、言わない言葉が胸を掴んだ。呼吸が苦しくて、不意に熱くなる。

――それだけの価値しかなくても。

どんなに佐久に苛められても、誓は決して任務を手放してはいなかった。

ただ黙って、苦い杯を飲み続けていた。


カシャカシャカシャ


金属のブラシで、今度は細かい部品の錆を落とし始める。

誓の顔は見えなかった。少しだけ、肩が震えているようにも見えた。

決して誓が、佐久を憎んでいるわけではないことに気付く。

本気で恨んでいれば、小銃は汚いままだろうし、ビンタをされたことを大事(おおごと)にしていただろう。

ただ誓は矜持のために、自らを守らなければいけなかった。

「・・・お前の代わりは誰もいないんだろ」

それだけの言葉を発するのに、随分時間が掛かった気がする。

気がつけば手に汗をかいていたし、随分空気を吸い込んだ。

自分は、所詮はどこまでも弱い人間だった。

過ちを認めれば、何もかもが崩れるような恐怖感に囚われた。

本当は、教官の妻の目に似たその目が恐ろしかったのだとは、どうしても言えなかった。

黙って顎を拭う誓は、決して振り返ろうとはしない。

出ていってください、と懇願するように発された声には、滲む熱と震えがあった。

赤い夕日が、窓の外に沈んでいく。

「いいか、検査は受けろ」

それ以上は踏み込めなかった。

銃を磨く音に混じって、スッ、スッ、と短い呼吸音が聞こえたからだ。

湿った吐息が苦しげに響く。手袋の甲で、誓は目頭を抑えていた。

時々、怯えて疲れきった脆弱さを晒すその姿に、本当の誓が透けて見えた気がした。

無言を承諾と受け取って、佐久は踵を返す。

堪えきれない嘔吐するような嗚咽が、その背を追うように響いた。



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