09 : 可能性ではない、可能なこと。
*ヒヨリ(ヒョーリ)視点です。
後半少し、ロイス翁の視点となっています。
どこを見渡しても見つからないレンの姿に焦り始めたヒヨリに、一度邸に戻れとロイス翁が言った。町の食堂に行っているかもしれないと思ってそちらに赴いてもレンの姿がないのだから、邸に戻っていてもおかしくはないというのだ。
「レンはおれとの約束を破らない」
「だとしても、ことを決めるには早計だ。とにかく邸に戻れ」
レンが、ヒヨリとの約束だけは絶対に護ることくらい、領地の者ならば皆が知っている。ロイス翁ですら、知っていることだ。そのロイス翁が、レンはヒヨリとの約束を破った、と遠回しでも言うはずがないので、最悪の場合を考えたヒヨリは蒼褪めた。
「連れ去られた……のか。まさか、レンが」
「ヒョーリよ、決めつけるにはまだ早いと」
「レンがおれとの約束を破るなんてあり得ない。なにか不測の事態が……レンが負けるなんて、そんなこと……」
ハッとして、懐の鳴魔石を服の上から握る。
「やはり誰かが……レンのそれを、知っている」
「鳴法石が使われたとは断言できん」
「それ以外にレンが連れ去られるものか」
レンが聞いたという噂でしかない話は、狙いはヒヨリだが、レンを標的にしていたものだった。レンを内側から攻撃するものだ。ゆえに、刺客かなにかに襲われるとしたらヒヨリではなく、レンのほうだった。しかしレンは強い。鎧がなくとも、魔力と剣才は確かなものだ。襲われても返り討ちにできる。
それなのに、襲われたのだろうレンが、どこにもいない。争われただろう形跡すら残っていない。
となれば、襲われてもレンが剣を抜くことが不可能だったという事態が起きたと、考えるのがふつうだ。
「いったい誰が……なぜレンのそれを」
ぎり、とヒヨリは奥歯を噛みしめる。
レンは、いったいどうしたわけか、鳴法石という装飾具としての役割しかない法石に酔う。レンの魔力が鳴法石と相性が悪いということらしいが、鳴法石はそもそも産出量が少なく、貴族でも手に入れるのが難しいほど、高価というよりは希少なものとしての扱いを受けている。なかなか出回らない法石のため、鳴法石がレンに害をなす機会はそう多くない。むしろない。意図的に誰かが仕組まなければ、起きない事態と言える。
レンの鎧は、ほとんど起きないだろうという事態に備えて、鳴法石に拮抗する鳴魔石を砕いて混ぜ合わされたものだ。ロイス翁が言っていたように、「影」としてのレンが鎧のほかにその事態を回避するものを持たなかったのは、鳴法石がなす危険性がほぼなかったせいでもある。
ヒヨリは先日壊れた鎧を見ているが、その想定をしていなかったわけではないので、鳴魔石の必要性は感じていた。だから今日、漸くロイス翁から手に入れることができたわけだが、どうやら遅かったらしい。
鳴法石が希少であるように、拮抗する鳴魔石も希少なものゆえ、時間がかかったのは仕方ないとはいえ、役に立って欲しかったときに役立たせられなかったのは、とてもではないが悔しくてならなかった。
「ヒョーリ、早計だ。早まった考えに至るな」
「レンがどこにもいないんだぞ。おまけにあんたは、おれになにか気配を感じていたはずだ。それが消えて、レンも消えたのなら、鳴法石がレンに使われて連れ去られたと考えるのが妥当だろ」
苛々としながら早口に伸べれば、否定はできないのだろうロイス翁は、苦々しく顔を歪める。
「妥当な線ではあるが……これヒョーリ、どこに行く」
「レンを捜しに行く」
「手がかりも宛てもないのに、闇雲に動くものでない」
「狙いはおれなのに、レンが連れ去られたんだぞ!」
「……というと、ヒョーリよ、やはりイファラントの仕業であると言うか」
捜す当てなどないのに馬を動かしたヒヨリの前を、回り込んだロイス翁が止めてじっと見つめてくる。ヒヨリとイファラント王妃のことはロイス翁も知るところなので、それ以外に考えられるか、とヒヨリが言えば、ロイス翁はしばし沈黙したのち深く息を吐き出した。
「おまえさんが狙いだとして、連れ去られたのがおまえさんでなくてよかったと、言おうかのう」
「! レンだったらいいって言うのか」
「むろん」
「な……っ」
とたんに逆上しそうになったヒヨリだが、そういう意味ではない、と言うロイス翁に宥められる。
「おまえさんになにかあってみろ、あれがどうなるか……わしは想像もしたくない」
いつもの茶化すような言い方ではなく、真剣なロイス翁の声に、なんとなく言いたいことがわかった。
「……レンは強い」
「そうだ。だから、恐ろしいのだ」
ヴァントルテが戦神、と呼ばれているのは、なにも六年前の戦争に大きく貢献し英雄的だからというわけではない。レンは本当に、戦の神だ。負けを知らない。戦うことを本能とし、戦いに安らぎを求めることすらある。踏み違えば狂い神となる、そんな恐ろしい闇をも抱えている。
ヒヨリに惚れ、ヒヨリが欲しいと言い、ヒヨリだけがすべてだというレンが、ヒヨリを失えばどうなるか。
さすがにヒヨリも、想像に難しくない。
「その点から言えば、攫われたのがレンであって、幸いだだろう。この歳になって末世だなど、わしは思いたくないぞ」
「それは……だが」
「おまえさんの気持ちはわかる。だがレンであるからこそ、手立ても多くある」
「……どうすればいい」
「まずは邸に一度戻れ。わしも行こう。或いはレンが帰ってくるかもしれん。確かに鳴法石には酔うが、あれの魔力と剣才は疑うところがないからのう」
とりあえず落ち着け、と言われたが、レンが連れ去られるなどという事態は想定していなかったヒヨリとしては、今すぐにでもレンを追いたい。
「おまえさんにこの現状を打破できる特別な伝手があるというなら、すぐにでも動いてかまわんが……引き籠りのおまえさんが、そんなものを持っとるとは思えん。ここは王陛下に報告を入れるべきだ」
ヒヨリに剣才はない。レンのように魔力を自然に使えるわけでもない。むしろ戦いの場においてレンの邪魔になるような存在だ。
けれども。
「特別な……」
「なんだ?」
恨みがましくも思う、好きにはなれない名が、ヒヨリにはある。それを使えば、レンを捜し出すことも助けることもできる。
「……イチヒトがいれば」
可能性ではない、可能なことだ。
ここでヴァントルテ国王にレンが連れ去られたと報告すれば、ヴァントルテ国王は協力を惜しまず、全力でレンを見つけ出し助けてくれるだろう。だがそれを待っていられるヒヨリではない。自分を欲しいと真正面からぶつかってきたレンを、自分の目の前で身を護る鎧を脱ぎ捨てるレンを、この手でなんとしても助けたい。いや、助けるのだ。
レンはヒヨリのもので、ほかの誰のものでもない。自分以外の誰かが、レンを好き勝手にするなど許せない。
もともとおとなしくしていられる性格ではないヒヨリは、確かに読書好きの引き籠りではあるが、それだけではないのだ。
「イチヒトのところに行く」
「いちひと? 誰のことだ」
「イチヒトならおれの名を……真名を解放できる」
「ヒョーリ? おい」
「ロイス翁、おれはこれからエヌ・ヴェムト国に行く。シュナに伝えてくれ。準備を整え次第、おれに合流しろと」
「なにを言っておる、ヒョーリよ。エヌ・ヴェムトなど……なんの関係があるのだ」
「イチヒトがいる」
今までレンにしか打ち明けたことのない話がある。レンが自身のことを打ち明けてくれたように、ヒヨリも対等に打ち明けた話だ。ヒヨリがレンに語ったことは、祖国イファラントでは禁句であったけれども、イファラントを離れレンの夫となった今、レンには知っておいてもらう必要があったのだ。ヒヨリがイファラントを出て行きたかった理由が、そこに起因しているがゆえに。
「ロイス翁、頼んだぞ」
「お、これ、ヒョーリ! 説明せんか、それだけではさっぱり意味がわからん!」
「あんたにはあとで説明する。それよりも今は先を急がないと」
鐙を蹴り、隙を突いてロイス翁の横を走り抜けたヒヨリは、振り向くことなく全力で馬を東南へと向けた。その気になればロイス翁が止めに入ることはわかっていたが、ヒヨリの妙に自信に満ちた双眸を見たのか、ロイス翁が追ってくることはなかった。
ヒヨリにしてやられたロイス翁が、
「やはりヒョーリの名には、それなりに意味があったか……」
とひとり心地に呟いた声は、ヒヨリに届くことはなかった。
ロイス翁は、上位にある貴族が本当の名、真名を隠す古い習慣があると、文献を読んで知っていた。とくに魔術師を排出する上位貴族には、その傾向が強くあり、今でもその習慣が残っていると聞く。真名を隠す方法はそれぞれ異なり、名を二つ持つ場合もあれば、ヒヨリのように発音できないよう仕組まれていることがある。
ヒヨリの名を聞いた瞬間から、ロイス翁はどうやっても「ヒョーリ」としか発音できなかったが、レンがヒヨリをふつうに呼んでいる姿を見て、ヒヨリが真名を持つ者であり、そこになにかしらの意味があるのだろうと思っていた。どうやらそれは間違いではない。
「イチヒト……はて、それはヒョーリのなんであろうな」
真名を解放できる、とヒヨリは口走っていた。イチヒトがいれば、と言っていた。
ということは、ヒヨリが真名を持つ意味は、真名が隠されている意味は、あの妙に自信に満ちた空色の双眸が解き明かすことだろう。剣才のない、体力も筋力も人より劣るヒヨリが、あそこまで自信を持ち出すくらいだ。
「ここは一つ、イファラント王妃が執着を見せる婿どのの真を、見ねばならぬか」
ロイス翁自身、曲者だ、とヒヨリに思われているが、それはおまえだ、と思っている。あっさりとレンの懐に入り、堂々とレンが自分のものだと言うヒヨリが、只者とはどうしても思えなかったのだ。
いい機会だ、と思ってはいけないが、これを機にヒヨリを見極める必要があるだろう。ロイス翁はヒヨリに言ったように、「影」であるレンがヒヨリの前ではただの小娘になることを、正直喜んでよいものかわからない。レンはロイス翁が手塩にかけて育てた「影」だ。その才能、技術を、この国のためにも失えないのである。
「さて……ではわしも、久しぶりに『影』として、動くかのう」
まずはヒヨリの伝言をアレクノ公爵家に届け、その後ヴァントルテ国王へ報告に行こう。
早々に決めると、ロイス翁はアレクノ公爵家へ馬を向けた。レンを他国にひとりで行かせることに不安はあるが、その不安を払拭するためにも侍女筆頭たるシュナにこのことを伝え、道中の安全を確保せねばならない。今すぐ動き出せば、武術に通ずるところが一片もないヒヨリに彼女たちなら追いつくだろう。ヒヨリのことはアレクノ公爵家の者たちに任せてだいじょうぶだ。アレクノ公爵家に仕える者たちは、レンを「あるじ」にしているだけあって、なかなかの腕前を持っている。ヒヨリの道中は安全が確保されるだろう。
「わしは陛下の側から、動けばよい」
うむうむ、とひとり頷きながら、ロイス翁は馬を走らせた。