06 : たまにはおまえの、腕のなかで。2
噂に振り回されるなよ、とヒヨリに言われたが、そんなに簡単に忘れることなどできやしない。火のないところに煙は立たないのだから、一片の可能性を否定することはできなかった。なにか起きようとしているのかもしれない。
そうしていつまでも気にするレンに、「らしくない」と鼻で笑いながらヒヨリは触れてきて、レンを誤魔化すかのように朝を迎えさせた。
「ほだされた……のか」
いつでもヒヨリには敵わない。
隣で眠っているヒヨリを一頻り眺めたのち、レンは身支度を整えると寝室を出た。朝食にはまだ早い時間で、レン自身ももう少し眠っていたいところだったが、噂のことであるとかヒヨリのことであるとか、いろいろと考えていると眠っていられないので剣を握ることにしたのだ。
「あら、お早いですね、レンさま。おはようございます」
侍女筆頭のシュナを含めた使用人たちは動き出している時間だったので、剣を持って庭に出ようとしたところでシュナと顔を合わせた。
「おはよう、シュナ」
「出仕なさるのですか? 確か明後日までお休みをいただいていると、わたしは窺いましたよ」
「出仕はしないけど、身体を動かしたくて」
「あら……それはヒョーリさまが残念がられます。ヒョーリさまが起きられるまでおそばにいらっしゃってくださいな」
「だが……」
「たまの休みなのです。ゆっくりなさってください。ヒョーリさまも、レンさまがお帰りになられるまで仕事漬けでございました。労わってくださいまし」
さあさあ、と強引に背中を押され、持っていた愛剣をシュナに奪われてしまった。悪意がないからこういうときは困る。ヒヨリに続いてシュナも強敵だ。
「シュナ、待て、わたしは」
「ああ、ヒョーリ奥さまですわ。ほらご覧なさいまし、レンさま。レンさまを捜しておられるようですよ」
「ええ?」
注意を逸らされるかのように、シュナに前方をきちんと見るよう促される。
ヒヨリが、寝起き姿のまま、髪も整えることなく、寝間着に上着を軽く羽織っただけの状態で、きょろきょろしながらこちらに向かってきていた。レンが寝台を抜け出しても滅多に気づかないくせに、珍しいこともあるものだ。
「レン……レン?」
おまけに、シュナが言うように、ヒヨリはレンを捜している。
「ヒヨリ」
捜されているというのが思いのほか嬉しくて、胸がほっこりして、レンはヒヨリを呼んだ。ヒヨリはすぐに気づいて、ほっとしたような顔を見せると駆け寄ってくる。
「おまえ、相変わらず体力あるな」
「鍛え方が違う」
「……男として情けなくなるからそれ以上言うなよ」
「回復力の違いか」
「言うなって言ってるだろ」
夜の事情に半眼したヒヨリに笑いつつ、シュナに「部屋にお戻りくださいませ」と言われてふたり揃って来た道を戻ることになった。
「朝食はお運びいたします。せっかくの休日を無駄にしないでくださいな」
気遣いというよりも、自分たちの仕事の都合を押しつけられている感は否めないが、確かに休日は貴重だ。たまには帯剣しない日々を過ごしてもいいかもしれない。
「ヒヨリ、わたしがいない間、仕事漬けだったって」
「ん? ああ、おまえも報告書の流し読みくらいはしておけ。今年は去年ほどの収穫を見込めない調査も出てるし、その対応策を考える必要がある」
「そうか……休みの間に領地内を見回ったほうがいいな」
領地管理をヒヨリに任せるようになって四年、最初の頃は家宰ドゥーグにそのほとんどを教わっていたヒヨリも、もともと文官であることが幸いして今では立派な領主さまだ。その能力はレンよりもある。任せて正解だった、というよりも、任せるべきだったのだ、と最近は殊に思う。
「見回るならおれもつき合う。最近、籠もりっ放しだったからな」
「なら、シュナに頼んでお弁当を作ってもらって、出先で食べよう。うん、それがいい」
「まあ、おまえと出かけるのも久しぶりだしな……弁当じゃなくても、外食でもいいぞ。領民の懐が温まる」
「そうだな。では、さっそく準備に入るか」
「待てこら、今日の話じゃないぞ」
「へ?」
今日の話をしていたつもりだったのだが、レンの腰に腕を回してきたヒヨリは、明日の話だ、と言った。
「今日はゆっくり、だ。ほら、掴まれ」
促されて、いつものように抱き上げられる。持ち運ばれることにはヒヨリですっかり慣れてしまったレンだ。
「おまえ、ほとんど眠ってないだろ。眠らせてやろうとおれが夕べ頑張ったのに」
「ちゃんと眠った」
「はいはい」
体力勝負ならレンのほうが勝る、のだが、飄々としているヒヨリがたまに勝ることがある。
敵わないなぁと、つくづく思うこの頃だ。
「おれが眠い。もう少し、寝台にいろ」
くあ、っと欠伸をしたヒヨリにうつされて、レンまで欠伸が出てしまう。目尻の涙を唇で拭われ、くすぐったさに身を捩ればヒヨリが意地悪気に笑った。
「こうしておれの腕の中にいれば、おまえは武将でいられないな」
「う……」
「おれに惚れたおまえの負けだ。おとなしく言うことを聞け」
慣れてしまったこの位置、この目線、この力強さ、そしてぬくもり。
「たまには、おまえの腕の中で、おれを眠らせろ」
どうしてこのひとは、とレンは唇を噛む。
その眼差しも、その声も、その仕草も、すべてレンを魅了してやまない。婚姻を結んで四年が経つというのに、こればかりは変わらないから不思議だ。
ヒヨリが好きだなぁ、と思ったことを呟けば、「は? 当然だろうが」とヒヨリは飄々と答える。おれが欲しいか、とヒヨリに問われ、欲しい、と即答したレンを、ヒヨリはこれまで疑ったことがない。
夫婦となればこういうものなのか、レンにはわからないけれども、ヒヨリに愛されている今をいつも幸福に思った。