05 : たまにはおまえの、腕のなかで。1
レンは、ヒヨリが読書している姿を見るのが、とても好きだ。文字を追う空色の瞳、紙を捲る長い指、意識のすべてを一冊の本に集中させ、静寂の中にただひとり存在するヒヨリは、レンをとても安心させる。
邪魔をしたくはないけれども、つい呼びかけてしまうのは、もはやレンにとって癖になってしまっていた。
「ヒヨリ……」
ヒヨリは自分の名前があまり好きではないと言う。嫌いなわけではないのだが、だからといって好きになれる名前ではないのだそうだ。
レンは、ヒヨリそのものが好きだから、ヒヨリという名ももちろん好きだ。
「……おまえな。連呼すんなって、言ってるだろ。おまえくらい魔力が強い奴がおれの名をきっちり発音したら、せっかくの守護結界が壊れるだろうが」
「壊れても直せる」
「まあおまえなら簡単に直すだろうな。面倒だが」
あまり呼ぶなと言うくせに、うっかり口に出してしまったときでも、ヒヨリはレンに振り向いてくれる。気づかないなんてことは、滅多にない。
「そもそも、そんなに呼ばれたら、読書もまともにできないだろ。おれはゆっくり静かに読みたいんだよ」
「うん、ごめん、もう邪魔しない」
「それはもう五回も聞いた」
もう呼ぶなよ、とヒヨリに念押しされ、ヒヨリは読書に戻る。レンもまた、先ほどまでそうしていたようにヒヨリを眺めた。
ヒヨリは祖国イファラントにいた頃から、時間さえあればどんな書物にでも目を通していたそうだ。あまり読書はしないレンからしたら、その集中力には驚かせられる。その集中力を剣術方面にも活かせたらよかったのだろうが、生憎と相性が悪かった。からっきし、というほどでもないが、レンと手合せをしたら五分もしないで剣を放り投げるくらいの実力だ。それでも筋としては悪くないだろう。レンは規格外だとよく言われる。そのレンと比べたら、の話であるから、ヒヨリの剣術は本人との相性の問題だけだ。どちらかを選べ、と言われてレンが剣術を取るように、ヒヨリは読書のほうを優先させるだけのことだ。
この家に、アレクノ公爵家に嫁いできてからのヒヨリは、イファラントにいた頃と変わらず時間を見つけては読書している。ほとんどは邸の書庫で、だからたまに黴臭くなっているのだが、一冊にとても時間をかけるので場所は問わない。常にその傍らには書物がある。レンが常に帯剣しているように、ヒヨリはなにかしらの書物を携帯していた。
今、ヒヨリがゆっくりと文字を追っている書物は、レンが赴いた先で購入した古書だ。なんでも読むヒヨリのために、考古学を中心に集めてある。それでも市井に大量に出回っている類いのものであるから、王城内書庫や国立図書館のものに比べれば内容は劣る。滑稽に思えるような部分もあるだろうが、ヒヨリが一冊にかける時間はどんなものでも変わらないので、ヒヨリの手に渡ることになった書物は本懐を遂げるだろう。その指先に触れてもらえることを幸福に思え、などとレンはたまに思う。
「……西に行くことがあるのか」
ふと、邪魔をするなと言っていたはずのヒヨリが、書物から目を逸らすことなく、おそらくレンに向かって問うてきた。
「決まったわけではないが、いずれは行くだろう」
「いつ?」
「冬月の初め……来月か。状況によってはその前にもう一度東に行くだろう」
東地区の書物を集めたから、では今度は西の、とそういえばヒヨリは言っていた。待ち切れないのだろうか、とレンは首を傾げたが、ヒヨリはそういうわけではなさそうだ。
「おまえでなければならないのか」
と、書物から目を離したヒヨリが、空色の双眸を真っ直ぐレンに向けてきた。
「……六年前の戦争の後始末は、わたしが一任されている」
「なんでおまえなんだ」
いったいどうしたのか、六年前の戦争に関わる任務はレンにとっていつものことなのに、ヒヨリの表情がいつになく険しい。
「わたしでなければならない理由は、ヒヨリもよく知っている」
「おまえの力か」
「わたしは影だ。影は、現身であってはならない」
なにもおかしなところはない。不思議なことはない。そう思って言ったのだが、そのとたんにヒヨリは乱暴な手つきで書物を閉じた。ぱん、という音が、いやに部屋に響く。
「……ヒヨリ?」
「鎧が壊れていた」
「? ああ、修理に出している。明日には戻ってくるが」
「この三年、いや、四年か、おまえをその地に送り出し、その帰りを迎えているが、鎧が壊れた状態でおまえが帰ってきたのは初めてだ」
「……そうだったか?」
よく憶えているな、と暢気に思う。
最低限の身を護る鎧の手入れは欠かさないレンだが、だからといって傷の具合まで憶えているわけではない。六年前の戦争時から使用しているものなので、そもそも細かな傷は多いし、今ヒヨリが気にしているのだろう留め具の破損も、これまでに幾度となくあったことだ。修理のたび微細な新調がされているとはいえ、基礎や土台が変わっていないレンの鎧は、年期が入っていると言えるだろう。
「おれになにか言うことがあるだろ」
そう言われて、レンは寝転がっていた長椅子から、上体を起こした。
ヒヨリに嘘をつくことはできない。できないから、言葉にしないで黙っていることが多い。それでも、ヒヨリがそれに気づいてしまったら、嘘は言えないから正直に話すことにしている。だいたいにして、ヒヨリに隠しごとなどできないレンだ。隠しても無意味だから、隠さないようになったと言ったほうが正しい。
「鎧に、相手の剣が当たった。いつものことだ」
「いつもの……鎧を過信するなと、あれほど言ったのに」
「過信していたわけではない。思った以上にできる相手だっただけだ」
「油断したわけか」
「そういう……、そうなるのか」
東の地でのことを思い返してみて、始末書もののことはやっていないと思うのだが、それはレンのなかだけのことだ。ヒヨリには個人的な始末書を提出しなければならないことが多い。
「鎧の破損にはいつ気づいた?」
「帰ってきてから、だな。壊れるほどの打撃を受けた感じはなかったから、道中の装着時には気にならなかった」
「……おまえは魔術も過信している」
「過信できるほどの魔力がある」
「嫌味か」
「皮肉だ」
レンは唇を歪め、長椅子に正しく座る。正しく座ってもレンの身体には大きい長椅子なので、身体の半分は埋もれていた。
「……レン」
レンの態度をどう見たのか、ヒヨリが呼んだ。呼ばれて答えないわけにはいかず、ちらりとヒヨリを見る。膝を叩いていた。ここにおいで、という合図だ。
「レン」
もう一度呼ばれて、レンは躊躇いながらも椅子を離れ、ヒヨリのそばに行った。近くに立つと、手を掴まれて引っ張られる。とすん、とヒヨリの膝にレンは座ることになった。ヒヨリとの距離が断然近くなって、少しだけ胸がどきどきする。
「レン、なにを隠している」
「……なにも隠してない」
「なにを黙っている」
「それは……」
ヒヨリに詮索されて、困ることなどなにもない。ただ、言うに阻まれることは一つだけある。
ヒヨリの祖国、イファラントのこと。
「約束を反故にする気か」
「しない」
「なら、話せ。なにかあっただろう、おまえ」
話してもいいのだろうか、と迷ったのは、レン自身に確証がないことと、いつになくヒヨリが真面目に怒っているからだろう。怒っているヒヨリを見るのも好きであるレンだが、昼間に登城したときにもそれは見ているので、さすがに立て続けに怒られるのは精神的にきつい。ヒヨリには嫌われたくないのだ。
「……いやな話を聞いた」
「話?」
「噂とも言うかもしれない。イファラントが、ヒヨリを取り戻そうとしている、と」
聞きかじっただけのそれをヒヨリに伝えるのはどうかとも思ったが、ヒヨリに黙っていることといったら、東の地で聞いたそれだけだ。あまり気にしなくていい噂ではあるが、無視できないものではある。
「おれは戻る気なんかないぞ」
「だが王妃は、今でも再三、ヒヨリに帰国を求めてくる」
「だとしても。おれはもう二度と、自らの意志で、イファラントに戻ろうとは思わない」
ヒヨリは、イファラント国王妃の甥で、王妃にいたく気に入られていた。執着のようなものまで持っていて、自身が産んだ王女か、或いはその娘とヒヨリを婚姻させようとしたくらいに、ヒヨリを手許に置いておきたかった人だった。だからレンとの婚姻には、もっとも強い反対を見せ、イファラント国王も王妃に従った。けっきょくはヴァントルテ国王のほうが発言は強かったので、イファラント国王夫妻は最後まで反対していただけではあったが、一月に何通もの手紙がヒヨリに届けられるようになった。そのすべて、帰国しろ、という内容のものだ。
さまざまな条件を提示してヒヨリを優遇するような帰国命令だが、ヒヨリは一度もそれに従ったことがない。従えば最後、今度こそ国から出られないよう縛りつけられるであろうから、今は手紙が来ても無視している。幸いなのは、ヴァントルテ国王を通した公式的な手紙ではないことだ。ヴァントルテ国王が推奨し成立した婚姻を覆すような内容であると、そういう自覚は持っているようなのだ。こちらが断るための丁寧な返信をしなくていい分、向こうも遠慮がないというのが困るところではある。
「そんな噂をいちいち気にするのか。今まで気にしてなかっただろうが」
「そうだが……なぜ東の地の者がそんな話をしているのか、わからないんだ」
「イファラントまでの通行路があるからだろ」
「だがわたしは言われたぞ。捨てられたそうだな、バケモノ、と」
東の地で聞き、そして言われたことを思いだすと、悲しくなる。バケモノであることは認めるが、冗談でもヒヨリに捨てられたなどという言葉は聞きたくないものだ。
ぴくりと、ヒヨリの眉がひそめられたことに、喜んでいいだろうか。
「随分な噂を流してくれたものだな、あちらも」
「今まで個人的な手紙だけでの要請だったのに、その噂だ。わたしに揺さぶりをかけて襲撃するのはかまわないが、ヒヨリに無体を強いるのだけは避けたい」
「ばか、自分の身を護れ。おれのことはその次でいい」
「それはいやだ。わたしはヒヨリから離れたくないし、ヒヨリのそばにいたい」
もし噂が噂でなくなったら、と東の地でずっと考えていた。
手紙だけなら無視していいが、そこに行動が伴ってきたのなら、無視することはできない。ヒヨリは今やヴァントルテの国民であるし、レンの伴侶だ。アレクノ公爵家を継いでいる身でもある。ただの執着であれば諦めるのを待つこともできただろうが、手紙を送りつけられ続けて四年、今は噂まで流れるようになってきたことを考えると、諦めるのを待つというもっとも安全な選択は、もはや有効的ではない。
『おれの失敗は、イファラント国王妃が想像以上にヒョーリに執着していることを、早々に見抜けなかったことだな。ヒョーリはもっとも権力から遠い場所にいたというのに』
ヴァントルテ国王は、以前そんなことを言って、なにかあれば協力しよう、とレンとヒヨリに約束してくれた。ヒヨリは権力を嫌うが、このことばかりは公爵の権力を使うと納得してくれている。
「噂で済めば心配もいらないが……これだけは言っておくぞ、レン」
「……なんだ」
「なにがあってもおれはイファラントに戻らない。いいか、なにがあっても、だ」
「わたしはヒヨリを信じている。わたしが案じているのは……」
「ああ、おれの身だろ。けど安心しろ。たとえイファラントに赴くことがあっても、それはおれの意志ではないし、おれが帰る場所は、おまえのところしかないからな」
たまに、思う。
ヒヨリはレンに対して、想いを語ることがない。けれども、想いを語っているような言葉を並べることがある。その言葉の意味を、ヒヨリが理解しているのかよくわからない。またそれを、想いを語っている、と思っていいのか、レンには判断がつかない。
想ってくれていることは、触れてきてくれる手のひらから感じられるのに、直接的な言葉をもらったことがないせいか、不安になってしまう。
「ほ、本当に、わたしを、選んでくれるか」
「選ばせるように努力したのはおまえだ。それに……おれはおまえが思っているほど、不誠実なつもりはない」
こうして触れるしな、と言いながら、目尻や頬にヒヨリからの口づけが贈られてくる。嬉しさに胸が震えた。