31 : 名無しの集団。
モトエは、部屋を移動することなく、本当にイチヒトが訪れるのを待っていたかのように玄関脇の応接間にいた。空きっぱなしの扉を叩き、訪れを知らせたら、ぐったりと身を預けていた寝椅子から身体を起こして気だるげにイチヒトを視界に捉える。
「来たか」
「長話になるのでしょう?」
「王子たちはどうした。あんたひとりか」
「そちらこそ。先ほどより魔力の濃度が下がりましたね。おひとりですか」
「いや、上にひとり、地下牢にもひとりいる」
魔力の気配から上の階にひとりくらいいそうだとは思っていたが、地下牢とは、おそらくエンリやイチヒトが今もいるあの場所だろうが、自分たちのもの以外のなにも感じなかった。
「ヒョーリたちのところに……それは」
「安心しろ。地下牢にいる奴は、状態が悪くてたまに魔力を封じておく必要があるだけで、そこにいる間は非力なもんだからな。あれの魔力は感じられなくて当然だ」
「……状態が悪い?」
「ああそうだ、あんた、治癒系の魔術使えねぇか?」
明日の天気を訊いてくるような口ぶりで発せられた言葉に、イチヒトは眉を顰めながらモトエのほうへと歩を進める。
「治癒術が必要なほど、状態の悪いお方がいるのですか?」
「『影』にもいろいろいるもんでねぇ」
まあ今すぐどうこうってほど困っちゃいないが、と笑うからには、実際にそれほど困っていないのだろう。
「あんたの同情をもらいたいわけでもねぇしな」
「では初めから話さなければよいでしょう」
「あんたは使えるのかと思っただけさ。おれたち『影』は使えないんでね」
「え……?」
初めて知る情報だ、とイチヒトは正直に驚く。
「もともと適性の問題もあるのですが……違うのですか?」
先ほどエンリがレンに施した治癒術は、魔術とも違うが法術とも違い、しかしどちらとも言える力で、使用者を選ぶものだ。適性がなければ治癒術は扱えず、適性を持つ者も少ない。
エンリが治癒術の習得を可能としたのは、幼い頃に一度、成長していない身体に無茶をさせて魔力を枯渇させたことが原因で、それはどうやらレンとの力比べの結果のようだが、そのことで魔力だけでなく肉体的にも変異を起こしたためだ。レンのおかげで、とエンリは言っていたが、その通りなのである。
「おれたちの適性は、言うなれば『影』だ。いくら魔力が膨大だろうと、使えねぇもんはあるんだよ」
「それは……困るではありませんか」
「なに当たり前なことを……だから『影』は衰退し、今じゃこうして、おれたちみてぇに無理やり生み出されてんだろうが」
モトエの言うとおりだ。「影」はいつしか衰退し、今では廃れた風習であり、禁忌とされたがゆえにモトエのような存在が生み出された。神殿が糾弾し禁忌とされたから衰退したと思われた「影」だが、治癒術が使えないせいだったのかもしれない。
「『影』は、まったく治癒術が使えないのですか」
「使えてりゃあ今頃クグイはもだえ苦しんじゃいねぇな」
「……どういうことですか」
「適性はあれど相性は最悪、とでも言やぁわかるか」
憎々しい嘲笑を浮かべたモトエは、口は笑っているが、それ以上に目が憎悪を語っている。本当に彼らは「復讐者」なのだと、改めて思う。
「あんたさ、おれたちが徒党を組んでる理由、思いつくか?」
「はい?」
「なんで集団になってるか、だよ」
「……同じ憎しみを抱えているからでしょう」
「それ以前の話だ」
「以前の?」
「あんたら、もうちょっと調べたほうがいいぜ? おれたちが自然に集団化したと思ってんのかよ?」
瞬間的に、モトエが言いたいことを理解できた。頭の隅で、もしや、と考えていたから、即座に組み上げられて成立したのだ。
「繋がっているのですか、あなた方を生み出した者たちは」
戦争に勝つための道具、それだけで彼ら「影」は生み出された。それは各国にそれぞれ、少なくともひとりは、手を染めた所業の結果だ。祖国が勝利するために、禁を犯した者たちは、考えだけは繋がっていたと言える。
けれども、繋がっていたのはその考えだけでは、ないのだろう。
「おれたちは自然に集ったわけじゃねぇよ」
そういうことだ。黒の集団は、それぞれの想いから自然に集団化したわけではなく、初めからそういう集団として存在していたのだ。
「あなた方はいったい……」
「黒の集団。あんたらがそう呼んでんだから、そうなんだろ。おれたちには必要のねぇ名称だがな」
名無しの集団。
よくあることだ。権力を持つ者は、自分よりさらに上の権力からの制裁を恐れ、保身のために身分だけでなくさまざまなものを隠す。そうしてその者たちは、互いに互いを知らぬまま、目的だけが統一された集団に身を置く。ゆえに集団はただの集団であり、名前など必要ない。形態など作る必要もない。組織図も要らない。
黒の集団に統率性が見られないのは、そういった集団であったがゆえの、おそらくは名残と言えるだろう。
「……皮肉なものですね、とでも言いましょうか。あなた方を生み出した者たちは、戦争終結を目的としたようなのですから」
「おれたち『影』同士を戦わせることで、な。まあ要領としては悪くねぇだろ。国からたったひとり犠牲を出すだけで、体面的には平和になるんだからな」
「正確にはふたり、ですよ」
「……『影』はひとりでなるもんじゃねぇからな」
クッと、咽喉を鳴らしてモトエは笑う。その笑い方の、なんと寂しいことか。
「あなた方を作り出した者たちの目的は、途中で崩れ去ったのですか」
「まさか。だからレンがいるんだろ」
「……レンが?」
「なんでおれたちが、おれたちを『影』にした連中を追ってんだ?」
「それは……その者たちを憎んでいるからで、あなた方が復讐者だからでしょう?」
「その感情を利用されてんだよ、おれたちは」
これが始まりだ、とモトエは言う。それはつまり、彼ら「影」を作り出した者たちは、今イチヒトがいるこの渦中を作り出すことこそが、目的であったということだ。そしてここに、体面的な、本当の意味での戦争終結が成立する。
「まさか……」
「思い至ったか? そう、そのまさかだ。六年前、単身で大陸全土の戦争を諌めたレンは、その瞬間から、各国が生み出した『影』の標的になったんだよ。逆を言えば、レンの標的は復讐に身を乗り出してくる『影』に定められた。レンを中心に、貴族どもは国ぐるみで戦争という名の盤上遊戯を始めたってわけだ」
水面下での、誰も知らない戦争が、ひっそりと幕を開けた瞬間。
だが、モトエの言うことが確かなら、ではなぜモトエらに囚われたレンは、今もまだ無事な姿で、そしてヒヨリの許へと返されたのか。
「あなた方の目的はなんですか」
「ただの復讐者だ、と言っただろ」
「レンをどうこうするつもりはないと?」
「おれたちは好きで『影』になったわけじゃねぇからな」
「影」にされた者たちは、真の意味で、被害者であり犠牲者だ。彼らを生み出した者たちの思惑がどう転がっていようとも、犠牲となった彼らに、その意志が添うことはなかったのだろう。
「……あなた方は、これからどこへ向かおうとしているのですか」
「復讐を果たす。だがレンは、おれたちがもらった。遊ばれてやるつもりはない」
「復讐はなにも残りませんよ」
「だとしても。おれたちが味わった喪失感は、もう二度と、癒されることははい。なにも残らなくて当然だ」
彼らを生み出した者たちの目的は、彼らがレンとの争いを避ける方針を持ったことから、あっさり瓦解したと言えよう。レンが彼らに囚われることさえなければ、或いは再び開戦していたかもしれない戦争は、レンが囚われることで防ぐことができた。
これを、喜ぶべきか否か。
いや、けっきょく水面下で動いていたことで、表には出てくることなく消滅した計画であり、知っていようが知らずにいようが、現実は変わらない。
「……レンが言っていました。宰相閣下が、レンが囚われたことを、利用するだろうと。あなたはどう思いますか」
「ノクティスか……」
「あなたの復讐対象だと思いましたが、どうしますか」
「……あんた、なにか勘違いしてんな」
「勘違い?」
「今となってはノクティスを恨んじゃいるが、おれの復讐対象はノクティスじゃねぇぞ」
「……そうなのですか?」
驚きはしないが、ではモトエは誰を憎むのか、イチヒトには考えつかない。いや、モトエという人間をよく知っているわけではないのだから、それは当然だが、モトエが「影」であることを考えれば、範囲は狭められる。先々代公爵でも、宰相でもないのなら、では誰がモトエを「影」にしたのか。
「あんた、ちゃんと調べたか?」
「……そもそもあなた方の情報は、それほど多くないのですよ。全体を把握するどころか、人物さえも特定していないのですから」
「はあ……なるほど、上手く隠蔽されてるみたいだな」
「隠蔽……確かに、言われてみれば意図を感じなくもありませんが」
事実は隠されれば暴くことができる。だが、存在しない事実を暴くことはできない。
黒の集団は、「影」であること、その復讐者となっていること、くらいしか情報がない。それは、彼らを生み出した貴族が、今もなお上手く事実を隠蔽していることに繋がる。禁忌を犯したのだからそれを隠蔽するのは当然だとしても、黒の集団が動き始めた年数を考えれば、構成人数すらも把握できないというのは、なにかしらの意図があると考えるのが筋だろう。
そこでふと、イチヒトは閃く。
「あなたがわたしやエンリさまを素直に邸に招いたのは……多くに存在を知らせるため、ですか?」
だとしたら、かなり危険な綱渡りだろう。ここにエンリが呼んだエヌ・ヴェムト国の援軍は辿り着けないだろうが、それでも、それは時間の問題となり、明日には周囲一帯をエヌ・ヴェムトの援軍が囲むことになってもおかしくはない。
「意図してそうしたわけじゃねぇが……それがノクティスの企みかもしれんが……まあ概ねそれらを含んじゃいるな」
「宰相が……ほかにもなにかあると?」
「地下牢にひとりいるって言っただろ。あいつ、引き取ってくんねぇかな」
「え……?」
ふと、モトエの顔に陰りが出る。ふと逸らされた視線は、先ほど感じられた寂しさがあった。
「死なせたくねぇんだよ」
それは、同胞を想う心だった。
「……それほどまでに状態が悪い、と?」
「おれたちの側にいてもおかしくはねぇって言ったあんただから、連れてきたんだよ」
正直な気持ちでモトエたちのところへ来たわけではなかったのだけれども、モトエらの気持ちがわからなくもないイチヒトだ。モトエは、イチヒトのそれをわかってくれた、のだろう。
「わたしを招いてくださったのは、存在を多くに知らせるとともに、苦しんでいる同胞を助けたいがため、ですか」
「あれは実験体だったからなぁ……もう長くねぇだろって、ほかの連中は言うんだわ。でも、だからって、放っておけねぇだろ。あいつだって、なりたくて『影』になったわけじゃねぇんだ。考えてみりゃ、あいつが一番の犠牲者だ。おれたちは復讐のために動いちゃいるが、あいつは復讐する相手に、とことん痛めつけられたからな。復讐よりなにより、恐怖が先立つ。部屋の隅で、いっつも丸くなって怯えてんだ。楽に死なせてやろうってほかの連中は言う。おれもそうしたほうがもういっそいいのかとも思ったが、あんたが来た。おれたちの気持ちがわかるってんなら、あいつ、引き取ってくんねぇか。それで、生きられるようなら、その手助けしてやってくんねぇか。あいつは復讐なんかできねぇよう、叩き込まれてるから、その辺は安心していいからよ」
長く、長く語ったモトエには、同胞を想う心しか、今はなかった。
「よいのですか。わたしに、預けて」
「あんたがおれの気持ちを理解できねえってんなら、話はここまでだ。おれと、あとひとり上に残ってんのは、地下牢のあいつを殺すためだしな」
「な……」
「あんたらにレンを返すのも、レンがおれたちの存在を知ったからだ。おれたちに同胞意識を持ったレンは、もうおれたちの敵じゃねえ」
もう用は済んだのだと、モトエは言う。
「いつかレンが、国のために、あなた方を追うかもしれませんよ?」
「それはない」
レンは敵にならない、それを断言したモトエは確証を持っているようで、揺るぎもしない。
「さて、それであんたは、あいつを引き取ってくれんのか? くれねぇなら、おれはあいつを殺してさっさとここから立ち去るが」
「待ってください。逃げるのですか」
「レンは返してやる。だからいいだろ」
「しかし……」
「レンを攫ったのも、その旦那を仲間に誘ったのも、心理作戦だと言えばわかるか? あれらはもうおれたちの敵じゃねえんだ。一緒に来ねぇなら、なら手だけは出すなよってだけだ」
寝椅子からゆっくり立ち上がったモトエは、身体のあちこちを伸ばしながら「どうすんだ」と訊いてくる。ここでイチヒトが「否」と言えば、おそらくモトエは地下牢にいるという苦しむ同胞を殺しに行くだろう。イチヒトが「是」と答えても、レンとヒヨリへの用を済ませたモトエは、さっさと逃げるだろう。
イチヒトは彼らの行動を止めたい。だが、そのためには今のイチヒトに、そしてエンリに、モトエに勝てるだけの力もなければ交渉の材料もない。いや、交渉の材料はあるが、苦しんでいる同胞を殺すというモトエに対し、圧倒的に時間が足りない。
「……申し訳ありません、エンリさま」
「なんだ?」
彼らをみすみす逃がすのではない。彼らの復讐を止めたいのも確かだ。けれどもこの場は、救いが求められた命を優先すべきだ。イチヒトが、彼らと同じ運命を辿っていたかもしれないのなら、なおさら。
「引き取ります。命だけでなく、生活も保障しましょう。ただ、わたしは治癒術を心得ていません。確かな人の許へ預けることになるでしょう。そうなれば、あなた方が送り込む間諜としての役割は、まったく機能しませんよ」
「言っただろ。あいつは復讐心より恐怖が先立つ。間諜になんかなれるかよ。んなもん期待しちゃいねぇよ。ただ、死なせたくねぇだけだ」
「今はその言葉を信じましょう」
「ああそれから、あいつにおれたちのことを自供させようとすんなよ。そんな無体な真似すりゃあ、おれたち全員で、あんたの国を滅ぼしてやる」
信憑性のある言葉は、黒の集団のこれまでの行動を鑑みれば、疑いようがない。彼らの目的はあくまで復讐であり、関係のないものには手も出さないのだ。そして、目的のもの以外にはまったく警戒する必要のない集団でもある。「影」であるゆえに持つ力の大きさは注視すべきだが、恐れるべきは、そんな彼らに復讐されるようなことをすることであり、それは国の中枢にいる者たちに発すべき警告だ。
「……地下牢にいる者の、名は?」
「クグイ。光りも届かない奥の牢にいる。言っておくが、したくて閉じ込めてるわけじゃねぇからな」
「魔力を定期的に封じる必要があるのでしょう? であれば、そういった空間は地下であることが望ましいと、それくらいの知識はあります」
「……なあ」
「なんですか」
「クグイを頼む。血族であればあるほど『影』に失敗はねぇとかされちゃいるが、あれは失敗だったんだ。それでも利用価値があるってんで、あいつは小さい頃から実験を繰り返された。あいつはもう、解放されるべきなんだよ。おれたちからも、その柵からも、世界の理からも」
「……実験、とは?」
「この邸の書斎に、クグイが受けた実験の報告書がある。それを読め。内容なんぞ、口にもしたくねえ」
忌々しげに舌打ちしたモトエは、それからイチヒトに無防備にも背を向け、隣接した部屋のほうへと歩いて行く。
「モトエ」
「……なんだ」
「復讐からはなにも生まれない。エンリさまのお言葉を、忘れないでください。わたしはあなた方を止めます」
「勝手にしろ」
隣室に姿を消していくモトエを、最後まで追いかけるか否か迷いながらも、イチヒトは助けるべき命を考えて、地下牢に戻るべく踵を返した。




