03 : それさえ約束してくれるなら。
必要箇所へ簡潔な報告をして回ったあと、レンは無理やり引っ張ってきたヒヨリが待つ、王城内書庫へと走る。ついて行くことに難色を示していたヒヨリだが、王城内書庫はヒヨリには魅力的だったのだ。そこを上手く利用したレンである。
王城内書庫まで来て、扉を前にすると、やはりそこからヒヨリの気配がする。帰還したばかりのときは気が逸って乱暴に扉を開けてしまったが、ここは少し落ち着いてレンは深呼吸し、ゆっくりと扉を開けた。
「ヒヨリ」
静謐が漂う書庫は、それだけで神聖な気がしてくる。その空気をヒヨリの名を呼んで割ってしまったが、レンのそれだけで崩れるような場所ではない。
ヒヨリを捜して視線を巡らせ、その姿を見つけてレンはしばし呼吸も忘れた。
「ヒヨリ……」
窓際に椅子を寄せ、陽光だけで静かに書物を読むヒヨリは、なぜかとても幻想的だ。夢を見ているのではないか、という、非現実的な美しさがある。
きゅっと、胸がしめつけられた。
そのままヒヨリを見ていたい気持ちと、自分に気づいてほしい気持ちとがせめぎ合い、切なくなってくる。
「ん……ああ、レン」
レンに気づいたヒヨリに、ホッとしたのはたぶん、ヒヨリの視界にしっかりと自分が映っていると安心したからだ。
「終わったのか」
「終わった」
「なら、帰るか」
「いいのか? もう少しここにいてもかまわないぞ」
「おまえにはつまらない場所だろ」
「そうでもない。ヒヨリが綺麗だから、眺めていられる」
「相変わらずだな……」
半眼したヒヨリはレンの行動に呆れたが、持っていた書物を閉じて棚に戻すと、惜しげもなくレンに歩み寄ってきた。
「帰るぞ」
「……いいのか?」
「ここの書物より、おまえが土産に買ってきてくれた本のほうが気になる」
「わたしが買ってきたのは……ここにあるものより陳腐だと思う」
「その価値はおれが決める。ほら、帰るぞ」
来たくもない王城に、レンのためについて来てくれたヒヨリは、本当にヒヨリのためだけについて来てくれていた。
嬉しくて、顔が緩んでしまう。
「ヒヨリ、手」
「ん?」
「手、繋いでいいか?」
「好きにしろ」
「うん」
「……、おまえ」
「うん?」
「だいじょうぶなのか」
さっそくとヒヨリの手を握って書庫を出ると、ヒヨリの気遣わしげな視線が頭上から降ってくる。
「なんのことだ?」
「手」
「て?」
「震えてる」
指摘されて初めて、レンは自分の状態に気づく。思わず苦笑した。
「母上と一緒だったからな。ちょっと緊張したんだろう」
「……まだ怖いのか」
「そんなことはない。ヒヨリが一緒だから、わたしには怖いものなんてなに一つないぞ」
「嘘をつくな」
繋いでいた手がぐっと引っ張られ、足が止められる。立ち止まったヒヨリが、眉間に皺を寄せ、不機嫌も露わに怒っていた。
「おれたちは初めに約束したはずだ。互いに、嘘だけは言わないと」
レンはヒヨリを見上げた。空色の瞳は真っ直ぐレンを見つめ、艶のない灰色の髪がそよ風に遊ばれてヒヨリの顔に影を落とす。
ああ、怒らせてしまった。
怒っているヒヨリも綺麗だ。
わたしのために怒ってくれるヒヨリは、誰よりも凛々しい。
レンは、にっこりと笑った。
「嘘はない。ヒヨリが一緒だから、わたしは怖いものがなくなった」
「……本当か」
「もちろん。ただ……」
「ん?」
「母と、父には、ヒヨリがいてくれないところで逢うのは、とても緊張する」
視線を落とし、それまで自覚すらなかった手の震えを見つめる。手のひらは、ヒヨリが不愉快に思ってもおかしくないほど、汗でじっとりと湿っていた。申し訳なくて手を離そうとしたら、離した先からヒヨリに掴まれて逆戻りする。
「おれはおまえのお……妻だ。おまえを支えるのは、おれの役目だろう」
婚姻を結ぶとき、ヒヨリと約束したことがある。
レンの国、ヴァントルテは、ときには離婚が罪となる国であるから、軽い気持ちで結婚に臨むことはない。婚姻は、一生、死ぬまでのことだから、ヴァントルテでの婚姻適齢期は他国に比べると遅く、それでいくとレンとヒヨリの婚姻は随分と早いもので、少なからず反対の声もあった。国王が推奨した婚姻であったから反対の声は大きくならなかったが、それでも世間一般的な常識として、レンとヒヨリの婚姻は早過ぎた。
それでもレンは、ヒヨリがよかった。ヒヨリ以外の人と、番いたくなかった。
ヒヨリ以外に番うことが考えられなくなったレンは、ヒヨリに自分のすべてを話した。いきなり求婚してきたうえに身の上話までされて、当時のヒヨリは迷惑でしかなかっただろう。だがそれでも、ヒヨリは真摯にレンの話を聞いてくれた。番うならヒヨリしか考えられないというレンの訴えに、半ば呆れながらも頷いてくれた。
『……なら、おまえ、約束しろ』
『やくそく?』
『おれにだけは嘘を言うな』
ヒヨリが提示した条件は、それだけだった。嘘を言わない、それさえ約束してくれるなら、レンが望む婚姻を結ぼうと、ヒヨリは言ってくれた。
『まあ、下心がないわけではない。おれはずっと、この国から出て行きたかった。出て行くことを許されない立場だからこそ、出て行きたいと思っていた。おまえは、おれのそれを叶えてくれる。つまり共犯者だ。おれはこの国さえ出て行けたらそれでいい』
『だが……ヴァントルテは、一度婚姻を結べば、離婚はなかなか許されない。それでもいいのか』
『求婚してきておれしか考えられないとか言うおまえが、それを言うのか?』
『……婚姻が重いものだというのは、理解している』
『おれは、おれが欲しいというおまえを、国を出て行くために信じるしかない。おまえ、本当におれが欲しいか?』
『欲しい』
『なら、おれに嘘を言うな。おれに、嘘のない世界を見せてくれるなら、おれは充分だ』
ヒヨリ自身はあっさりとしたもので、そうと決まってからの行動も早かった。反対するイファラント国王夫妻の言葉も、臣民の言葉も、まるっと無視して翌年にはレンに嫁いできてくれた。
今となっては、その後ヒヨリが自らの身の上を語ってくれたので、イファラントを出て行きたかった理由も、あっさりと婚姻を結んでくれた理由も知っているが、婚姻を結ぶときに互いに決めた「約束」は破棄されていない。
レンにとって、ヒヨリとの約束は、絶対的だ。
レンはヒヨリにだけは嘘を言わない。ヒヨリもレンにだけは嘘を言わない。
「怖くは……なかったんだな」
「緊張しただけだ」
「……わかった」
繋いでいた手が解かれる。嘘は言っていないけれども、ヒヨリには気に喰わない答えだったのかもしれない。
「おいで」
不安に思った瞬間に、ふわりと、身体が宙に浮く。ヒヨリに抱き上げられていた。
「ヒヨリ……」
「ほら、余計な力は抜け」
今日は鎧を身に着けていない。任務完了の報告だけに登城したので、帯剣しているだけだ。その剣も、ヒヨリの両腕におさまると外され、ヒヨリの腰回りへと移動する。ヒヨリは剣を扱えないが、この体勢のとき、いざというときにヒヨリが持っていたほうが安全であるためだ。
レンはほっと全身の力を抜き、ヒヨリの頭にことりと自分の頭を預けた。抱き上げられて漸く視線が同じ高さになるので、いつもそうして、レンはヒヨリの首に両腕を回していた。
「ヒヨリ」
「なんだ」
「こんなところに連れてきて、ごめんな」
「……おまえが働いているところだろ」
「だが、ヒヨリはこの権力が渦巻く場所が、嫌いだ」
「それでも。おまえがいる」
本当に、レンのためだけに登城につき合ってくれたヒヨリに、レンは微笑んだ。
番うことができて幸せだと、この瞬間にいつも思う。




