29 : おまえがおれを呼ぶ世界。
*前半レン視点、後半ヒヨリ視点となっております。
いたたまれなくなって俯いても、言ってしまったことをなかったことにはできない。思ったことを思わなかったことにはできないように、一度根づいてしまったものはなかなか離れていかないものだ。
「そんなこと……」
はあ、とヒヨリがため息をついた。
「最初から、知ってんだよ」
相変わらず体力ばかだな、と呆れの混じった声に、レンはハッと顔を上げる。ヒヨリはとことん呆れた顔をしていた。
「なんで……」
「おまえは聖人か賢者のつもりでいるのか」
「え……」
「それとも神か。ああいや、戦の神だったな、おまえ」
「……な、に」
「感情のねえ生物はいねぇんだよ」
ぴん、とヒヨリの指先が、レンの額を小突いた。思いのほか地味に痛い。
「ひ、ひより?」
「痛いだろ」
「いたい」
「おまえ、生きてんだよ」
「う……ん」
「生きてる限り、感情には振り回される。どんな感情にもな」
憎しみを持っていてもおかしくない、とヒヨリは言わんとしていた。
「おまえが国をどう思っていようが、おまえがおれをイファラントから解放してくれたことに違いはねえ。おれにはそれで充分だ」
その瞳は柔らかく、そして温かく、優しく、レンを見つめる。
「おまえは……おれの命なんだよ」
レンの額を小突いた指先が、レンの輪郭を辿り、両の手のひらが頬を包み込んだ。
「それを、わかれよ」
いとしいひとの綺麗な顔が、涙で滲む。ヒヨリの姿を見ていられなくなるのはいやで涙をこらえようとしたけれども、その先から涙は溢れた。
「ひよ、り……ぃ」
「いつまでも泣いてんじゃねぇよ。泣くのは……おれしかいないときだけにしろ」
レンの涙を隠すように、ヒヨリの腕がレンの身体を抱き寄せる。線は細くとも広い胸にレンは顔を押しつけた。
ヒヨリが、レンのすべてを受け入れてここにいることを選んでくれたのは、もう四年も前のことだったと思い出した。
「おまえが国を憎んでいることには気づいてた。それをどこにも吐き出せずにいたことにも。おまえは、この世界が美しいことを、信じてるんだよな」
今まで空っぽだったとは言わない。レンには大切なものがあった。愛するものがあった。同じくらい憎たらしいものあった。どこにでもいる、ふつうの少女と変わらない思考を持っていた。強大な魔力のせいで冷めた性格ではあったけれども、怒ったり泣いたり、笑ったり、悪戯をして楽しむくらいの感情はある、どこにでもいる人間だった。ふつうに、ふつうに、と愛情を注いで育ててくれたロイス翁に、こればかりは感謝している。
けれども。
だから。
その世界が仮初めでしかないことを知った。
世界は、レンが思うほど、美しくなかった。
残酷で、ひどく醜かった。
それでも、とレンは想い続けた。
「だって……ヒヨリが、いる」
ヒヨリに出逢ったその瞬間、心が、身体が、感情が歓喜した。仮初めでしかないと思っていた世界が、そうではないかもしれない世界になった。
だが、それは。
兄を喰い殺した罪と、その人生を歩む原因となった国への憎しみを、増大させた。
「……レン」
抱きしめてくるヒヨリに、宥められるように背中をぽんぽんと撫でられる。
「おまえの世界がおれなら、おれの世界は、おまえだ」
「ヒヨリ……」
「おまえがおれを呼ぶ世界……産まれてきてよかったと、いつも思う」
だから安心しろ、とヒヨリは言う。
「おまえが憎んでいるものは、憎む気持ちを植えつけさせた、この世の理だ。おれも憎たらしいと思うことがある。むしろおまえが憎いと言ってくれるのを、おれは待ってた。おまえは、もっと憎んで、我儘を言っていいんだよ。それくらいの不条理のなかに、いるんだからな」
今までよく我慢したな、と優しく包み込んでくれるヒヨリに、それ以上、言葉は続かなかった。ただただ、安堵した。
急にくったりとした身体を、ヒヨリは慌てることなく抱き上げた。寝台に預けるのは、再会したばかりの身には恨みがましく感じられたので、寝苦しくないように抱き直して自分がしっかりと寝台に座る。
ヒヨリに全身を預けて意識を失ったレンは、あちこちが骨ばっていて、以前の抱き心地からは遠くなっていた。せっかく肉づきをよくしてやったのに、とんでもないことをされたものだ。
「シュナ、食いもの」
この邸にろくな食材があるとは思えないが、拠点であるようなので、まあ少しは期待できるだろう。シュナに食事を頼むと、有能な侍女はさっと動いてくれた。
「ヒョーリ、こんなときに」
イチヒトには文句を言われたが、その傍らでエンリが腹を鳴らしたので、顔を引き攣らせていた。
「少しは緊張してくださいよ、エンリさま」
「仕方あるまい。戦神に魔力を分けただけでなく、治癒術まで使ったのだ。疲れない代わりに腹が減るのだ」
「……シュナどのにエンリさまの分も頼みましょう」
イチヒトは宙に魔力を放り、近くにあった小石にその機能を付属させると、地下牢を出て行ったシュナに飛ばした。相変わらず器用な魔術の使い方をする奴だ。
「さて……これからどうしますか?」
ここに残る、と言ったイチヒトは、同じく残る意志があるエンリではなく、レンを取り戻せればあとはどうでもいいヒヨリに首を傾げる。
どうするか、その判断をするのは自分ではないが、と思いながら、ヒヨリはレンの寝顔を見つめる。
「レンは、利用されると言った。自分は道具だと言った。それならここから離れるのが妥当だと思う」
「……けれど、そうしたくはない?」
さすが双子の片割れだ。ヒヨリの思いを、確実に汲み取ってくれる。
「宰相がレンになにをさせたいのか、気になる」
「わたしもそれは気になります。レンの話を聞いた今では、もしかしたら復讐かとは思いますが」
「だとして、なにに? 黒の集団が狙っているのは、自分たちをそうした人間であって、ほかには害がないぞ。それをどうやって利用するんだ」
「レンですよ」
「レン?」
「レンは国を憎んでしまった。そのレンを黒の集団は拉致したのですから、彼らの目標物は大きくなります」
「統率性のない奴らが、レンに協力するのか?」
「もはやしているでしょう」
「は?」
自分と似たくさい顔が、いやそうに歪んだ。
「黒の集団が狙っているものはなんですか?」
「自分たちをそうした連中、だろ?」
「それらはどこにありますか」
「どこって……各国に」
北大陸に存在する国のどこにでも、黒の集団は現われる。暗躍する彼らの狙いは、自分たちを『影』にした貴族だ。
「気づきませんか、ヒョーリ。各国に現われる彼らは、確実に、奪っているのですよ」
「……人の命を?」
「ええ、そうです。それがいくら悪党の命であれ、命は命。そして奪われていくその命は、国に、必要とされていたものです」
悪党の命を必要にする国など、と思ったのは一瞬だった。
「そうです。その命は、己れの利欲と、そして国の利益を考える人たちのものでもあります」
真に国のためであったかと問うて、そうだ、とその者たちは答えるだろう。なぜならこの北大陸は、つい六年ほど前まで、戦に塗れていたのだ。戦に疲弊していたのだ。勝つために、生き残るために、禁忌とされたすべに縋ったその者たちは、『影』を作ることができるくらいの地位にあったからこそ、禁忌の意味を無視したのである。いや、無視できるくらいに、その当時は追い込まれていたのかもしれない。
「多少なりとも国のためを思って行動したものたちの命は、国にとって軽いものではありません。各国が彼らを追うのは、北大陸の情勢を、再び混乱に陥れないためです」
黒の集団に属するひとりひとりに、その意志はなくとも、集団となった彼らの行動は北大陸全土を混乱に陥れるものであり、それは戦争に等しいものにする。
「愚劣なことをした連中は、だから、護られるわけか」
「だから、彼らを保護するのです。彼らは戦争に翻弄された、犠牲者なのですから」
「それですべてが丸く収まるってのか」
「収まらないでしょう。しかし、このままでもいられないのです。それが各国の出した答えです」
イチヒトは黒の集団に共感する部分があると言って、残ると決めた。イチヒトがそうだから、エンリもまた残ると決めた。自分よりも葛藤があるだろうふたりを睨むように見つめながら、だが、とヒヨリは唇を噛む。
「そうだとしても、宰相はどうやってレンを利用する気なんだ」
「わかりません。ですが、宰相にとってレンが黒の集団側にいることは、好都合なことでしょう」
「モトエはどうなる。モトエは、宰相の弟だぞ」
「死んだことにされていた彼もまた、或いは宰相の駒なのかもしれませんね」
「……っ、誰が道具になってやるものか」
宰相の企みを暴く。ヒヨリにとって、国や世界は、レンに関わることでまとわりつくものでしかないが、宰相のそれはレンを利用するもので、邪見にしていられない。
イチヒトやエンリのようにヒヨリは考えられないが、レンをむざむざ利用されてたまるかという怒りは、結果的にふたりと同じ行動となるだろう。
「決まったな。おれたちはこれから、彼らの内側から、護りに入るとしよう」
言うやいなや、エンリは姿勢よく立ち上がった。
「一つ、言っておこう。ヒョーリ」
「……なんだ」
「戦神さえ取り戻せればよいおまえは、だがしかし、見落としている」
「見落とし?」
「その安寧は国、世界があってこそのものだ。人々がいて、漸く世界は世界と名乗れるように」
ぐさりと胸に刺さる言葉だった。
「……滅べばいいなんて思ってない」
「なら、よい。イチヒトがいるこの世界を滅ぼされてはかなわんからな」
自分よりかなり歳下の子どもにそんなことを言われて、情けなさに歯噛みした。
確かに、ヒヨリの世界はレンを軸にしている。だが、それだけで生きていける場所ではない。
「壊すなら、この世の理にしておく」
「そうしてくれ。ただし、秩序は壊してくれるな。治すのが大変だからな」
「……理も治せるものか?」
「さてな……記された理なら、書き直せばよいと思うぞ」
簡単に言ってくれるエンリは、年齢に不相応な笑みを浮かべていた。
「ああ、そうだな、おまえはそうするがよい、ヒョーリ」
「は?」
「記された理を壊せ」
意味がわかるような、わからないようなことを言われて、ヒヨリは顔をしかめた。
「言葉の意味、わかってるか?」
「もちろんだ。記された理はこの世に多く存在するからな」
「それがなんなのか、わかるってのか」
「多くは知らん。だが、ろくでもないことだけはわかる」
「なんだそれ」
「だから『影』が生み出されたのだと、そう言えばわかるか?」
ああなるほど、と難しいことを今度は難しく考えてくれたエンリに、ヒヨリはため息をついた。
「記された理なら、確かに、書き直せるだろうな」
その力がヒヨリにあるかどうかはともかく、レンのためにできることはすべてに全力を尽くすつもりだ。こればかりは言われるまでもない。
「話が随分と壮大になっていますが、まずは現状を考えてください。危険と隣り合わせになっているこの現状は、笑っていられるものではありませんよ」
イチヒトに促されて、忘れてはならないこの現状を、ヒヨリは改めて見渡した。




