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23 : この生き難い世界で。





 この先、もしかしたら走れば、或いはイチヒトの魔術を使って移動すれば、黒の集団には早々に追いつけるかもしれない。

 山に続く道の手前で立ち止まり、ここでエヌ・ヴェムトの王太子を待とうかと、そう話をしていたときだ。


「! お下がりください、皆さま」


 シュナがなにかを覚り、そしてイチヒトもその気配を掴んでエンリを背後に庇うと、生い茂る木々の間から黒ずくめの男がひとり、ふらっと姿を見せた。外套の頭巾を深く被って顔を隠していたその男は、イチヒトたちに気づくと立ち止まった。


「……なんだ、追いついたのか」


 その発言から、ぴりりと、空気が緊張する。

 黒ずくめの男は、柔らかな仕草で外套の頭巾を取り払った。そのとたんに感じた魔力は、黒ずくめの正体を確信させる。

 イチヒトは少々緊張を押しながら、じっくりとその男を見つめた。イチヒトの隣では、シュナに庇われたヒヨリが、なぜか僅かに目を見開いている。


「ヒョーリ?」


 どうしたというのか、ヒヨリを庇うシュナの顔色も、幾分か悪い。


「……レン」


 ヒヨリがそう呟いたとき、イチヒトたちと同様にこちらの様子をじっとりと窺い見ていた男は、小首を傾げた。


「手勢が少ないな」


 表情のないその男は、イチヒトの目からみてもかなり若い。いや、おそらくイチヒトやヒヨリと、そう歳は変わらないだろう。手勢が、と言いながら、素早く周辺を魔術で索敵するあたり、経験値は男が上回りそうだ。


「似たような顔が二つ……片方はアレクノ家に嫁入りした戦神の旦那だが、そちらさんは……ふぅん、どうやら訳ありだな」


 ハッとする。急なことで顔を隠し損ねていた。


「なるほど、レンはこれを隠したかったわけか」


 レン、と男の口から直接出たことで、ヒヨリがその勢いのまま一歩踏み出す。


「おまえがレンを連れ去ったのか」


 慎重に、どうすればいいのかを考えながら、溢れ出す激情を抑えるかのような問いかけだ。


「ちょうどいい。おれは今から戦神の旦那を招待しようと思っていたんだ」


 ヒヨリの問いには答えず、男は淡々と言葉を並べ、こちらに近づいてくる。警戒して後退すれば、当然だが男はまた立ち止まった。


「……招待を受けないのか?」

「質問に答えろ。レンは、おまえが連れ去ったのか」

「答える必要のある問いか? わかっていることを一から十まで説明させたところで、なんの意味もないぞ」


 男の言うことはもっともだ。

 だが、男から感じられる魔力は、今この場では、イチヒトでも太刀打ちできるかわからないほど、大きい。つまり、勝てる確証が持てない以上、あまり意味を成さない時間稼ぎだ。

 こんな経験は初めてだ。自分より勝る魔術師には多く出逢ったつもりだが、それだけの経験を得たつもりだが、相対する魔術師に得体の知れなさを感じたことは一度もない。手合せしてみたい好奇心と、同時に身が震えるほどの畏怖を感じたことなど、さすがにイチヒトも経験がなかった。

 これが、もはや生み出されぬとされた、「影」の魔術師。

 なるほど、エンリが言うように、こちらには戦力がまるで足らない。

 自分だけでもなんとかなると思っていたのは、それはイチヒトの思い上がりだったようだ。

 情けない。


「イチヒト。イチヒト、おい」

「……は、エンリさま」


 小声で話しかけてきたエンリに、イチヒトはちらりと視線を下げる。


「珍しいことをしてくれるな。なにを竦む。こちらの戦力はおまえだけではないのだぞ。おれも、おまえほどではないが魔術師だ。忘れるな」


 ぽん、とエンリに背を撫でられる。場違いな慰め方に呆気に取られそうになったが、確かにエンリの言うとおりだった。

 自分ひとりでこの場にいるわけではない。ここにはエンリだけでなく、ここなら真名を解放しても問題はない弟がいるのだ。もし攻撃されるようなことがあっても、し返すだけの力はある。


 はあ、とイチヒトは息をついた。


「率直に申し上げます。そちらにいる戦神を、返していただけないでしょうか」


 思い出せ、彼らは罪人になってしまったが、その罪は国が背負わなければならないものだ。彼らの悪意、殺意は、常に局所的な方向にあって、今イチヒトたちに向けられているわけではない。


「返して、か……さてそれは、どこに返せということかな」

「……はい?」


 意味深な返事に、うっかり惑わされそうになる。しかし、男はべつに難しいことを言っているわけではない。返してほしい、という呼びかけに、どこへ、と返してきただけなのだ。


「レンはおれのものだ。おれに返せ」


 ヒヨリが声を抑えつつ男を威嚇する。ヒヨリを見やった男は、薄く笑った。


「ああ、それならかまわん。ただし、あんたも来てもらうぞ」


 あっさりときたかと思いきや、男は堂々とヒヨリの拉致まで宣言した。


「どういう意味だ?」


 ヒヨリは怪訝そうに問う。イチヒトもエンリも、心情はヒヨリと同じだ。

 男の思惑が、いや黒の集団の思惑がわからない。


「イファラントにまで追いかけられたくないんで、一度は諦めたことだがな。レンはどうしてもあんたがいいようだから、仕方ない、イファラントに追いかけられてやる。まあ損ばかりだが、べつに苦しいわけではない」

「意味がわからない。どういうことだ」

「おれたちの仲間にならないか、と誘っている」

「は……?」


 男からの勧誘は意外なものだった。


「まあ、おれたちはだだの復讐者だが、それでも変わらないものを知っている。どれだけ理不尽に溢れていても、欲に塗れていても、簡単に願いは叶わないということを知っている。だから、それなら、誰にも振り回されない自由のなかで、生きると決めた。もちろん復讐は果たすが、な」


 おれたちはバケモノだからよ、と薄く笑った男は肩を竦めた。その複雑な発言に、口を出したのはエンリだった。


「復讐に意味はないと知っているか」

「あ?」

「心の傷が、それだけで癒えるわけがないことを、知っているか」


 エンリの静かな問いかけに、どうやら意味は通じたらしい男が、灰色の双眸を細めた。


「言われるまでもない。それでも、おれたちは復讐する」

「わが国が、おまえたちが憎む者を罰すると約束してもか」

「そこにおれたちの自由はないからな」

「わが国は、そこまで愚かではない」

「おれたちを生み出した時点で愚かだろうが」

「贖罪すらも許さぬか」

「それで済むことだと思ってんのかよ?」


 ははっ、と男は笑い、エンリの表情はいっそう険しくなる。


「許せと言われて、許せると思うのか。そんな軽いものだったら、今頃おれたちは、こことは違う場所にいただろうさ」

「……許せとは言わん。いや、言えん。だが、己れを許してやれと、言うことはできる」

「はん、余計なお世話だね。おれたちが抱えたのは、代替えさえない巨大な喪失感だ。もう二度と、埋まることはねえ」


 男の灰色の双眸に、はっきりとした怨嗟が、深い悲しみが、渦巻くようにして浮かび上がる。男のその想いがまったくわからなかったらよかったのに、自分が男のようになっていたかもしれないと思うと、イチヒトは男の言葉を否定できなかった。


 たとえばもし、ヒヨリが死んだら、それが自分のせいだったら、イチヒトも男と同じ喪失感に絶望しただろう。

 国を、世界を、怨むだろう。

 その不幸を回避することができたイチヒトは、その時点で、もはや幸福な者だ。

 これは他人ごとではない。


 どうやら思い違いをしていたらしい。


 はあ、とイチヒトは息を吐く。


「……わたしを」


 イチヒトは一歩、男の前に進み出た。


「わたしを、招いてください」


 するりと出てきた心に、男が僅かに瞠目した。同じようにエンリも、そしてヒヨリも、イチヒトの急な態度に目を瞬かせていた。


「……。おれが誘ってんのは、レンの旦那だが?」

「わたしとヒョーリは、御覧の通り双子です。そして、わたしが魔術師であるように、ヒョーリもまた封じられた魔術師……あなたは、ヒョーリを失ったわたしだったかもしれません」

「……『影』にさせられなかった双子か、おまえたちは」

「奇跡的にも。ですが、それでも、その可能性を隠すために、わたしとヒョーリは産まれたときから離れて暮らし、わたしの存在は秘され、またヒョーリは魔力を封じられました。つまり、わたしとヒョーリの双子には、『影』にされる可能性がまだあるのです」


 包み隠さず男に話したのは、ヒヨリという弟を、失いたくないからで。

 今ある自分を、失いたくないからで。

 手にした大切なものを、かけがえのない想いを、失いたくないからで。


「こんな世界を、わたしも、憎んでしまいたくなります。怨んで、滅ぼしたくなります」


 この世界は、いや、魔力の真理に気づいてしまったこの大陸で、イチヒトのように双子として産まれてきた者たちは、どうしたって生き難い。それはずっと感じていたことだ。


「イチヒト、おまえ……」

「ヒョーリ、わたしはね、おまえと競い合うように育ちたかったと、一緒にいたかったと、過去を振り向くたびに思うのですよ」

「……そんなこと、できるわけないだろ。できないだろ。おれは……おれたちは、互いを失いたくないんだから」

「そうです。だから彼は、わたしの可能性の一つなのです。わたしは彼らを否定できません。むしろ……わたしは彼らの側に在りたいと思います」


 いつも遠巻きにしていたけれども、考えないようにしていたけれども、一度だって「影」という存在を忘れたことはない。ヒヨリが自分の許に訪れるたび、その元気な姿を見るたび、次はいつ逢えるかということよりも、無事に生きてくれているだろうかと、常に不安だった。


 ひどく生き難いこの世界で、イチヒトは、エンリに真名を奪われることさえなければ、望んで男のほうへと歩みを寄せていただろう。


「可能性に怯えるわたしを、黒の集団へ招いてくださいませんか」

「……あんたから嘘は感じられないが、いきなりなんだ?」

「わたしは初めからあなた方に敵意を向けてはいませんよ。ですがそれは、穏便に話を進めたいからではありません。もちろんレンは返して欲しいと思っています。しかしそれも、ヒョーリのためです。国のためではありません。レンは……彼女は、大切な弟の、かけがえのない存在なのです」


 奪われる恐怖を知っている。奪われるかもしれない不安を知っている。男のように喪失感を味わっていないにしても、いつか、このままではいずれ、絶望に身を焦がすことになるかもしれない。

 男のようになりたくないと、イチヒトは思う。思うから、男のような存在を増やしてもいけないのだと、わかる。


「あんたがおれたちの側につくのはかまわん。だが……それはどうするつもりだ?」


 男が「それ」と称したのは、ぐっと顎を引いたエンリだ。


「そいつは、おれたちに復讐をやめさせようとした。あんたはどうなんだ」

「復讐には加担できません。ですが……わたしたちのような存在を、もうこれ以上、増やしたくはないのです」

「……おれたちだって、おれたちみたいな存在を増やしたくはねぇさ」

「わたしがそちら側へ行くことは、認められないことですか」

「……いいや」

「ならわたしを、招いてください」

「あんたは国を捨てられるのか」


 ふっと、イチヒトは笑う。男から感じた魔力はもう、恐ろしいものでもなんでもなかった。


「そもそもわたしは国についている魔術師ではありません」

「ほう?」

「わたしはエンリさまの魔術師。エンリさまの手足となり、導く者です」

「エンリさま、ね……エンリ・ウェリエスか、そいつは」

「王子づきの魔術師では役不足ですか?」

「体裁が悪くなるんじゃないのか」

「『影』を生み出したことを罪と言う方々が、あなた方の許へ導かれても、不思議ではないでしょう」


 疑うように、伺うように、ゆっくりとイチヒトやエンリを見やった男は、最後に短く息をつくとこちらに背を向けた。


「ついて来い。ただし、余計なものはここに残せ。ついて来させたら、問答無用で殺してやる」


 そう言って、男はさっさと木々の間へと姿を隠した。

 イチヒトは複雑そうな顔をしているエンリに目礼すると、ヒヨリも促して男のあとを追うことにする。


「シュナさん、あなたは残ってください」

「わたしが通じている『影』が邪魔だとおっしゃるのでしたら、ご心配は無用です。わたしはレンさまの侍女、宰相閣下の『耳目』ではありません」

「ではそのように」


 心得ている、というシュナに頷き、ぱちん、と指を鳴らすと、男を追うための結界を張って山に踏み込んだ。







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