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20 : 存在意義。2





「な……おまえっ」

「油断したな、戦神」


 耳元で囁かれた声に、ぞわりと身が震える。


「あんた、旦那にいくら抱かれても、孕まないだろ」

「は……はあ?」

「当然だ。おれたちみたいなバケモノは、同じバケモノとしか番えない。つまり、同じだけ魔力がある奴じゃないと、子どもができないんだよ」

「……だから、なんだ」

「あんたを抱いて孕ませろ、と頭目に言われた」


 その瞬間、レンは蒼褪めた。

 女だから護ってやる、という言葉に嘘はなかっただろう。それはすでに誰がその役目なのか決められていたから、レンを利用する者たちにとっては大事なことだったのだろう。黒ずくめの連中のなかで、モトエはとくに飛び抜けて魔力があるのだ。レンの相手にはモトエが相応しかった。


「ついでに教えてやる。あんたの旦那をここに招待してもよかったのは、おれたちが、あんたの旦那の正体を知っているからだ」

「え……?」

「ヒョーリ・カンナ=ウェリエス。今はアレクノ=ヒョーリ・カンナか。真名で封じられちゃいるが、相当な魔力の持ち主だ」

「……それ」

「おれたちを嗾けたのはイファラントの王妃だぞ」


 知らないわけがない、とモトエは表情なく言った。


「だからあんたの旦那には価値があった。あんたは旦那のこと一つで、こうも狼狽えるんだからな」


 愕然とする。

 レンとヒヨリは、早過ぎる婚姻を結んだ。それは、双方にその気がなければ子どもができることがないから、という安心材料があったから強行できたことだ。レンが本当の意味での「影」であると知っている者たちは、レンが誰と番おうが次世代を生み出せないことも知っていて、女としての利用価値をあまり見出していなかった。それは伯父たるヴァントルテ国王にも同じことが言えた。だからヴァントルテ国王は、レンとヒョーリの婚姻を推奨したのだ。

 しかし、モトエはヒヨリの正体を知っていた。ヒヨリが真名によってその魔力を封じられていると、誰も知るはずのないことを知っていた。


「なぜ、イファラントの、王妃が……」

「さあな。だが王妃は言っていた。真名で封じられてさえいなければ、あれは『影』になり得ただろう、とな」


 ではかの魔術師のことも知っているのか、と口から出かけて、それはかろうじて声に出さず押し留めた。モトエだけでなくイファラントの王妃も、「なり得ただろう」と言っているだけなのだ。かの魔術師の存在に気づいたわけではない。


「そういうわけだから、おれがあんたを抱くことになった。あまり気は乗らないが、これも復讐の一つだと思えば血も滾る」

「あ……や、やめっ」


 触れてくる手のひらが、腹部や胸を弄り、レンはその恐怖と嫌悪感からどうにか逃れようと手足をばたつかせた。


 しかし。


「てのは、まあ、冗談だ」

「はっ?」

「少しは身の危険を感じたか、戦神」


 ふっと、身体の上から重みが引く。慌てて寝台の端に逃げれば、やはり表情のないモトエがこちらを見ていた。

 状況がさっぱり読めない。


「な、な、なに……っ」

「言っただろう。おれたちはあんたを傷つけるつもりはない。それはあんたの身体だけじゃなくて、心も意味する」

「はっ……?」

「確かに頭目には、誑し込め、と言われたがな。言われたその瞬間に、無理だと断っている。できるわけないだろ。だったらどうしておれたちは行動を共にできるんだ」

「ど、いう……」

「おれたちは愉快犯でも享楽主義の集団でもない、ただの復讐者だ。おれたちをバケモノにした連中を許せないだけだ」


 冗談だ、と言っていたモトエは、今はまったくその気がないらしく、悪ふざけが過ぎたな、と言いながら肩を竦めた。


「だが気をつけろ。あんたは戦神だ。うちの連中にも、狂信的にあんたを想っている奴はいる。おれたち『影』は、あんたを孕ませることができる魔術師だからな。いつそれを利用しようと考えるか、わからない」


 護ってやる、という言葉に、本当に嘘はなかったらしい。


「おま、えは……どうして」

「あ? あんたを抱かないのかって? 悪いが人妻を襲うほど下半身の事情に困っちゃいないんでね。むしろおれは、孕ませる可能性があるあんたを抱きたいとは思わん。後味が悪い」


 趣味ではない、と言われたほうが気は楽だったが、とにかく今はそんな興味などないらしいモトエに、レンはホッとする。まさか本当にそういった危険に自分が曝されるなんて、少しも考えていなかったわけではないけれども、「あり得ない」と否定していただけに焦ってしまった。


「あと、真名を隠すのは、上位貴族によくあることだ。今じゃほとんど廃れた風習だがな。旦那のことを隠したいなら、その辺りのことも考えろ」

「え?」

「やっぱり知らなかったか……真名を持つのは上位の貴族なら当たり前だ、と言っている。あんたの旦那が真名持ちでも不思議じゃない」


 思わず呆けてしまう。

 知らなかった。


「あんたもあるだろ。レンドルア、は表向きの名だと思うが?」

「……わたしは」


 兄のレンドルアに喰われるだけだったレンには、それまで名前がなく、「おい」とか「おまえ」としか呼ばれたことがない。兄が死んで初めて名を与えられたが、それは兄のものであるはずの名だった。

 だから、そんなレンに、ヒヨリが名を与えてくれた。おれとおまえだけが知っていればいい、と言ったヒヨリに、レンは自分だけの名前があることを喜んだ。

 あれが真名に該当するなら、レンには確かに真名がある。ヒヨリにもらった、ヒヨリだけが知る、レンの名だ。


「……その様子だと、真名持ちのようだな。教えてもらおうか」


 ハッと顔を上げる。思った以上にモトエの顔が近くにあった。


「わ……わたしに名はない。レンドルアが死んで、初めて、レンドルアと呼ばれるようになったんだ」

「初めて?」

「言った、だろう。わたしは、喰われる側の『影』だ。名前なんて、与えられているわけないだろう」


 じっとりと見つめてくるモトエは、疑わしそうだ。だがレンにも嘘はない。ヒヨリにもらった名はあれど、それ以外のものなどレンにはないのだ。


「……まあ、そうか。必要な『影』は、喰う側だものな」


 モトエは納得したようだった。ヒヨリからもらった名を奪われずに済んだことにホッとしながら、けれども引き続きモトエの動向にレンは警戒する。

 なんにせよ、彼らの目的が、レンには把握できないのだ。


「あんたは、復讐を考えたこと、ないのか」

「……なにに」

「あんたをそうした奴らに」


 憎いと思ったことはないのか、と問うてくるモトエに、レンは浅く息をつきながら目を逸らした。

 モトエを見ていると、兄が彷彿される。あの日、あのときの、兄の姿がモトエの瞳に映し出されて、見ていられなくなった。


「わたしは、けっきょくのところ、生を望んだ……そのわたしに、愚劣なわたしに、なにを怨めと言うんだ」

「自身を厭うか。さすがだな、戦神。ヴァントルテの教育はどこまでもあんたを従順にしている」

「これはわたしが選んだこと、兄が選んだこと。たとえ拒否権がなくとも、わたしが今その道にあることは、変えられない現実だ」

「それはどうかな」


 まだモトエは近い場所にいる。離れなければ、と咄嗟に思ったが、遅かった。


「あんた、国を憎んでいるよな」


 レンの頤を掴んだモトエの長い指は、強引にレンの顔を正面に向け、そしてその瞳にレンを映した。


「あんたが帰る場所は国じゃない。それが、あんたが国を憎む証拠だ」

「わたしはっ……なにも、怨んでなど」

「なあ、戦神……いや、レンと呼ぼうか」


 ぐっと、さらに近く、モトエの顔が近づく。整った顔立ちには感情などなく、ただその灰色の双眸だけが、レンによく語りかけてくる。


「殺したいほど憎いくせに、羨ましくてならないくせに、そこに愛を見つけて……なんて世の中は理不尽で、苦しくて……いとおしいのだろうな」


 息が、詰まった。


「おれも、世界は美しいと、思うんだ」

「……っ、やめ」

「あんたも、そう思うだろう。なあ、レン?」


 苦しい。

 ああそうだ、苦しい。

 けれど。

 同じくらい、いとしい。


「や…っ…モト、エ」


 唇に噛みついてくるモトエに抗いながら、レンは涙する。


 苦しくてもいとしさを感じる。

 憎いのにいとしさを感じる。

 矛盾する、理不尽な世界を、レンは知っていた。


「楽にしてやるよ、レン」







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