16 : 居場所がない者たち。
一度、逃走を試みた。モトエが食事を与えるためにレンの首から鳴法石の首飾りを外したその瞬間に、魔力を一気に高めてみたのだ。
結果はあえなく失敗である。
モトエが予想通り剣士で強かったことと、どうやらレンと等しく魔術を操れるらしいことから、レンは立ち上がった瞬間にモトエに頭を押さえられて地面に叩きつけられ、首に短剣を押し当てられたのだ。
「魔力の流れは読める。なにをしようとも、無駄だぞ」
モトエは間違ったことも、傲慢なことも言っていなかった。レンの世話を任されているのも、腕が立つ剣士であると同時に魔術師でもあるからのようだった。
「今なら少しは感じるだろう、おれの魔力が」
「おま、え……っ」
「あんたには及ばないにしても、そこそこおれも魔術師として腕が立つ。それこそ、あんたの国の師団にいてもおかしくはない」
モトエの魔術師としての術は、確かなものだった。鳴法石のせいで弱っているにしても、レンの自由を簡単に奪えてしまえるくらいには、確実な拘束術をレンに使って逃走を呆気なく挫いた。
「さっさと食え。移動するぞ」
「い、どう? どこに……」
モトエに拘束されながら身を起こし、ほぼ無理やり食事を与えられると、せっかく首から離れていた鳴法石がレンの胸元に戻ってくる。
鳴法石の影響には慣れてきたが、慣れたといってもせいぜい意識を保っていられるくらいの状態では、ここがどこかという判断もつかない。視界は常に揺らいでいるし、霞んでいるし、身体は力が入らず、込み上げる吐き気は食事を戻してしまうこともある。その状態に疲れて気を失うように眠っても、疲弊した身体は鳴法石のせいで苦しめられ続けた。休む暇などなく、悪循環だ。
「どこに行くかなんて、あんたが知る必要はない。あんたはおれたちの言うことを聞いていればいい。言っただろ、悪いようにはしない」
悪いようにはしないと言いながら、鳴法石でレンを苦しめるその顔は、やはり太陽の下に曝されても優しそうな風貌だった。
犯罪者には見えない。こんなことをするような人にも見えない。
わからなくなりそうだ。
「おいモトエ、だいじょうぶか」
「ん。ああ、平気だ。今の戦神になら、おれでなくても勝てるからな」
「ならいいが……あんまり傷つけるなよ。今は仕方ないにしても、おれたちは戦神を傷つけたいわけじゃないんだからな」
「ああ、わかってる」
モトエだけではない。レンを挑発して襲ってきた黒ずくめの彼らは、あのときの態度が嘘のように、レンに対して慎重で丁寧だった。とりあえず命を奪われる心配だけはしなくていいようだが、それにしても彼らの目的が掴めない。レンを傷つけたいわけでもないらしいので、レンが逃走を試みるようなことさえしなければ、モトエはとても親切で気遣いがあり、優しく、またその仲間たちにも同じことが言えた。
「おまえ、たちは……いったい、なに者だ」
「もう少ししたら教えてやるよ。今はとにかく先を急ぐからな。道中の危険が減るまでは目を瞑っていろ」
モトエは、その仲間も、自分たちの正体を語ることはなかった。一様に黒ずくめの連中だったが、髪や瞳の色はばらばらで、言葉に訛りのある者や、仕草が貴族っぽい者もいたり、逆に粗野で仲間から叱られる者もいたりして、統一性が見られなかった。
ただ、剣士でもあるものはモトエのほかにふたりだったが、残りのふたりはふつうに魔術師であるようだった。
つまり襲撃者五名は、それぞれが魔術師であった。それも、大国ヴァントルテの術師団分の魔力をたかだか5名が有するほどの、組織として成立していてもおかしくはない実力者揃いだ。
いったいどの国が、これほどの集団を所有しているのか。或いは、どうして見逃していられたのか。
「モトエ、ビーストが徘徊している。おれたちで駆除してくるから、戦神のことは頼んだぞ」
「びーすと? ……ああ、魔獣のことか」
「数が多いんでな。このままだと町を襲いかねない。おまえは戦神と先に行け」
「了解」
一つ、つけ加えると、彼らは年齢層にそれほど大きな幅がない。最も若そうなモトエはレンとそう変わらないだろう外見で、モトエよりも歳上であろう者でも、せいぜいヒヨリより少し歳上だろうか、というくらいだった。
「……おとなしくなったな、戦神」
ふと、モトエに声をかけられる。レンはモトエに背を預けるようにして馬に乗り、移動していたわけだが、気づけばそのモトエとふたりきりだった。
「…………」
「観念したか」
おとなしくなった、のではなく、だいたいの考察を終えたので体力を温存する方向へと意識が働いただけなのだが、余計なことは言わないでおいた。
「……魔獣が、現われた、と」
「この辺りでは珍しくないだろう。おれたちの手を煩わせるような獲物でもない。すぐに片がつく」
「……そう、か」
すぐに、とモトエが言ったように、それから小1時間ほどして黒ずくめたちは戻ってきた。どこか高揚した独特の雰囲気が彼らを包んでいるのは、戦闘の名残だろう。
「もうすぐ町だ。そこで身を綺麗にしたら、また移動する」
「どこ、に」
「さあな。おれたちはどの国にも、どの町にも所属しちゃいない。ただ流れていくだけさ」
「流れ……?」
「ああ、流れる。おれたちにはもう居場所がないからな」
居場所がない、と言ったモトエは、どこを見るともなしに前方を見据え、馬の手綱を操る。
「……、あ」
「ん? どうした」
「アスラン……」
「あすらん? ああ、もしかしてあんたの愛馬か? それなら馬具を外して野に放したが……距離を置いておまえを追いかけてきているな」
大切な愛馬を思い出した。
産まれたときから世話をしている愛馬アスランは、こういうときでもレンに忠実だ。モトエがちらりと振り向いた先には、野生の姿のアスランがいるのだろう。
「あれは、わたしの……大切な、友だち、なんだ」
「友だちか……しかしな、馬具を外すときもそうだったが、随分な気性の馬で、かなり手を焼かされたぞ」
それはそうだ、とレンは小さく笑う。
レンの愛馬アスランは気性が荒い。その背にレンとヒヨリしか受け入れないほど、どこか矜持の高い馬だ。そして、帰れ、と言われて素直に帰る馬でもない。レンが出生を見守ったのに、どういったわけか、レンを妹分だと思っているようなのだ。家に帰るなら、レンも一緒に連れて帰らなければならないとアスランは思っているだろう。
「アスランを、近くに……わたしと一緒、でなければ……アスランは、帰らない」
「随分懐かれているな……まあいい、あんたがそう言うなら、あの馬もおれたちの旅に同行してもらおうか。アスランという名だったな。……アスラン、戦神がお呼びだ」
モトエが馬を止め、手綱を操って後方に身体を向ける。そうするとレンの目にもアスランの姿が見えた。
青毛の美しい愛馬アスランは、レンの姿とモトエの呼びかけに、警戒しつつもゆっくりと足を進めて近づいてきた。
「アスラン……」
なかなか言うことを聞いてくれない身体ではあるが、どうにかこうにか腕を伸ばせば、アスランのほうからその鼻先をレンに近づけて触れさせてくれる。
少し、ホッとした。
「悪いが、あんたをアスランに乗せるわけにはいかない。逃げられるからな」
その可能性に気づかれて、内心で舌打ちする。帰れと言われても素直に帰らないなら、レンさえ背中にいれば帰ろうとする愛馬である。しかしそれよりも、アスランがその忠実さゆえに殺されるようなことがなくてよかったと思う。モトエたちにそういった残虐性がなくて幸いだ。
「とりあえず世話くらいはしてやる。それでいいだろ」
「……ああ」
心の中で、おまえは帰ってもいいんだ、ヒヨリにわたしの無事を伝えてくれ、とアスランに向かって念じてみたが、アスランは離れようとしない。ヒヨリを受け入れるまで時間がかかっていたので、ヒヨリよりもレンが大事だ、と思っているのだろう。
ブルブル鼻を鳴らしたアスランは、それからの道中ずっと、レンとモトエの後ろをついて来た。
宿場らしき町に到着したのは、アスランがすぐ後ろをついて来るようになって三時間ほど経ってからである。レンの感覚で三時間だが、意識が遠のいたり浮上したりしていたので、実際はそれ以上だったのかもしれない。柔らかな寝台に下ろされてから、久しぶりのようなその感覚に、思った以上の時間が経過している可能性を考えた。
「あれから……どれくらい、経った」
「あれから? あんたを連れてきてから、か? そうだな……まあ、あんたは知らなくても問題はない」
はぐらかしたモトエは、宿屋の女将にどう説明したのか、レンを身綺麗にするよう頼んで一度だけそばを離れたが、それは本当に一瞬のことで、レンが女将に鳴法石の首飾りを首から外してくれるよう頼もうとしたその瞬間には、レンが裸であるにも関わらず顔を出した。女将の意識がそれまでレンの体調不良の心配であったのが、一気にモトエの失礼さに向いたため、なし崩しにレンは鳴法石の首飾りをつけたままになってしまった。また女将も、レンが鳴法石によってその状態にあるなど思いもしないだろうから、終始レンの体調を気遣う言葉しか口にしなかった。
「栄養のあるものを食事に出そうね。まったくあんたの兄ちゃんは……」
「おか、み……」
「ああいい、今はゆっくり休みな。こんな状態の妹を連れて、明日にはもう出発らしいじゃないか。ひどい兄ちゃんだね」
レンとモトエは兄妹に見えるらしい。髪の色は違うが、瞳の色はレンもモトエと同じ灰色なので、そこから女将は兄妹だと関連づけたのだろう。
それから女将は、それまでレンに与えられていた食事とは違う、胃の腑に優しそうな食事をモトエに持たせ、さらには翌日の弁当まで用意してくれた。状況が状況でなければ、お人好しで気のいい女将であるが、ろくに話せもしないレンにしてみれば寛大過ぎる女将の態度には項垂れた。いや、察してくれとは言わないが、少しくらい怪訝に思って欲しい。しかし、たとえ女将が気づいたとして、なにができるだろう。モトエたちからレンを救うことなど、女将にはできない。ここで迷惑をかけるより、とにかく身体を労わってくれる女将には感謝すべきだ。
宿場町に一泊した黒ずくめ連中は、再びレンを連れて移動を再開した。どこに向かっているのか、という問いにモトエは「流れるだけ」と答えていたので、おそらく目的地らしい目的地はないのだろう。
また、これは宿場町に一泊したことで判明したのだが、彼らは冒険者組合に登録しているのか、そういった類の依頼を請けて行動しているらしく、路銀には困っていないようだった。魔獣討伐はとくに、北大陸全体の問題であるから、狩った証拠として魔獣の灰を提出すれば、それなりの金銭を得ることができる。稀に魔獣は魔石となるので、売って儲けにすることもあれば、魔具に加工して自分たちが使用することもあった。
「法石は天然の石だが、魔石は魔獣からしか生み出されないからな。ああそうだ、魔獣ってのは、エヌ・ヴェムトではビーストと呼ばれる。おれたちのなかにもエヌ・ヴェムト出身の奴がいるから、たまにビーストと呼んでいる」
魔獣がビーストと呼ばれることくらい知っている。そもそもエヌ・ヴェムト国は、大国ヴァントルテに続く大きな国であるから、その国での通称を知らないレンではない。
それに、レンにとってエヌ・ヴェムト国は、思い入れも深い。
エヌ・ヴェムト国、かの国にいるというヒヨリの半身は、ヒヨリとレンの身に起きたことを、どう捉え考えていることだろう。
ヒヨリは半身を頼っただろうか。できれば頼って欲しい。レンを救出するためでなく、その心を護るために、半身の許で心を穏やかに保っていて欲しい。それはレンにはできなかったことだ。レンは、自身の半身を護るどころか、その意味すら理解できず、失ってから漸くその存在を思い知った。あの日、あのとき、潰えた未来を前に生きる意味を見い出せなくなったレンのように、ヒヨリにはそんな想いをさせたくない。
「レンドルア……ヒヨリ……」
失うことの大きさと深さを知っているから、ヒヨリには健やかにいて欲しい。
「なんだ……あんたはやっぱり、準じたのではなかったのか」
「? なんの……ことだ」
「『影』だよ」
背中のモトエが、声色を落とし、馬の足を止めた。山道に入る直前のことで、モトエが止まったことと、モトエの言葉に、ほかの黒ずくめの仲間たちも馬の足を止めて振り向いた。
レンは自身に集まった視線に、まさか、と瞠目する。
「おまえ、たち……」
モトエを含めた五名の黒ずくめたちは、一様に魔術師だ。モトエのように剣士でもある魔術師もいるが、どちらにせよここにいる黒ずくめ五名は魔術師に変わりはない。それも、ひとりひとりがかなりの魔力を持つ実力者で、術師団に、その長にいても不思議ではない者たちだ。
「そうだ。おれは……おれたちは、おまえと同じ『影』にされた魔術師だよ」
レンは、もとより顔色は最悪であったが、彼らの正体を聞いてさらに血の気が引く思いをした。




