14 : 自由と束縛。
エンリの護衛を兼ねているときは、イチヒトの朝は早い。夜間の睡眠を浅く済ませているので、夜明けの空気を感じると必然的に覚醒するのだ。
早起きしたところで得をすることはないのだが、王子であるエンリの世話をする者がいない今のような場合、イチヒトにその役目が回ってくるため、得をすることはなくても早く起きておくに越したことはない。
「……おや」
未だ深い眠りにあるエンリの寝顔を確認してから身支度を整えて部屋を出ると、侍女と言うには質素な町娘のような女性が、待ち構えていたかのように佇んでいた。
「ライド=シュナ・アクラムと申します。おはようございます、魔術師さま」
「ああ……あなたがヒヨリの道中を護衛してくださった方ですか。おはようございます、エンリ殿下が魔術師のイチヒトです。以後憶えおきください」
きっちりと腰を折った女性、シュナというアレクノ公爵家の侍女につられたわけではないが、イチヒトもきっちりと腰を折って頭を下げる。
シュナのことは昨夜ヒヨリから名前だけ聞かされていた。イチヒトたちと話している間、シュナは冒険者組合のほうで情報を集めていたらしく、その場にいなかったのだ。
「お話はヒョーリさまより、伺っております。このたびは、わがあるじレンドルア奪還のご助力に、感謝いたします」
「勿体ないお言葉です。わたしのほうこそ、頼りない弟ですが、よろしくお願いします」
考えてみれば、イチヒトは幼くしてヒヨリと引き離され、家族であって家族ではなかった。こうして弟の嫁ぎ先の人間と、しかも向こうからすれば異国で、こんな挨拶をすることになるとは思わなかった。ヒヨリが国を出たいと思っていたことは知っているが、実際にそれが叶うだろうとは思っていなかったからだろう。万に一つ、国を出られたとして、そのときは自分が手を貸して出奔したときだとずっと思っていた。魔術師として生計を立てているイチヒトがヒヨリを匿いながら、漸く家族として一緒に過ごせるようになるのだと、そんな淡い夢のようなものを想像していた。
「ヒョーリは……弟は、そちらで健やかに過ごしていましたか?」
「はい。わがあるじは、ヒョーリさまをとても深く、愛しておりますゆえ。かくいうわたくし共も、ご立派な領主であられるヒョーリさまを、お慕い申しております」
弟は、両親の愛と国の欲に板挟みにされて、国から出られないと思っていた。けれどもそれは、たったひとりの少女の出現で、なにもかも覆された。
今イチヒトが迎えている現実は、過去に予想すらしていなかった未来だ。
「こんなことを訊くのはいかがなものかと思いますが……ヒョーリはそちらで幸せを得られているでしょうか?」
「わたくし如きがお答えしてよいものではございませんが、わたくしの目には、そのように見えております」
「……そうですか」
いつかヒヨリから聞くことがあるだろうか。今は絶賛不幸中だというヒヨリが、心のそこから幸せそうに笑う姿を、見ることができるだろうか。
「わたくしのほうからも、よろしいでしょうか」
「なんでしょう」
「わがあるじの許にヒョーリさまを遣わしくださり、真にありがとうございます」
姿勢の美しい侍女は、再びきっちりと腰を折る。挨拶のときよりも長いそれは、心からの言葉だった。イチヒトが「顔を上げてください」と言うまで、シュナという侍女は頭を下げたままだった。
「あなたにそれを言わせる弟であることを、誇りに思います」
微笑んで礼を述べれば、シュナもはんなりと微笑んでくれた。
どうやら弟は、ヒヨリは、イチヒトが想像していた以上に、アレクノ公爵家で安寧を得られているらしい。それを知ることができただけでも、幸いと言えるだろう。
「ところで、そちらの状況をお訊ねしたいのですが……弟は飛び出してきたようで、まったく現状況が読めないのです。ヴァントルテ国王はなにか判断をくだしたのでしょうか」
「はい、そのことをお話しようと思っていました。わが王は近隣諸国にこのことを知られぬようにと仰せです。わがあるじは戦神、多少の不在は国を揺るがすこともありませんが、長引けばどう転がるとも知れません。内密に動きますので、わが王自らの『影』がわれらに助力してくださります」
戦神の生家の者が曲者であろうことはわかりきっていたが、それにしても簡単にその口から「影」の存在を明らかにされるとは思っていなかった。いや、大国ヴァントルテのすることであるから、一言「影」と言っても、古い風習である「影」とは限らない。ただ言葉だけを残している国なら、ヴァントルテ以外にも存在するのだ。このエヌ・ヴェムト国にも「影」は存在する。
「機密事項であろうとは思いますが、その『影』というのは……」
「わがあるじのような『影』は、さすがにわが国でも、わがあるじとその師のみにございます」
イチヒトが言わんとしたことを察し、また知っていることに対して反応しないところは、さすがはアレクノ公爵家が侍女、というところだろうか。
「では、本来の『影』である方々が、ご助力くださるというわけですか」
「そのように、わが王からお達しがございました」
「こちらはわが国の第三王子、エンリ殿下が筆頭です。わが王にどのように報告したかは不明ですが、必要であれば人員を割いてくださるでしょう。あとは、わたしがどうにかします」
「失礼ですが、イチヒトさまはどれほどの魔術師さまなのでしょう。わたくしはあまり魔術に詳しくなく……不調法で申し訳ございません」
「いいえ。わたしは……そうですね、お見せしたほうが早いでしょう。そのためにも、今は先にわがあるじたちの世話をしましょうか」
ふと視線を廊下の先にある窓に向ける。朝靄が晴れ始めた時刻だ。そろそろエンリが起きるだろう。
「では、わたくしは食事の用意をしてまいります。イチヒトさまには、ヒョーリさまのこともお頼みしてもよろしいでしょうか」
「かまいません。ヒョーリをエンリさまの部屋に連れて行きますので、食事はこちらにお願いします」
「承知しました。ヒョーリさまをお願いいたします」
仕事をきっちりと弁えている侍女シュナは、褒めたくなるほど綺麗な姿勢で頭を下げると、朝食の調達に階下へと向かった。
シュナの姿が見えなくなってから、イチヒトはシュナに頼まれた通りに、隣の部屋にいるヒヨリを起こすべく足を向けた。双子とはいえ、育った環境がまるで違うので、イチヒトは世話をする側にあり、ヒヨリは世話をされる側にいるが、とくに不思議には思わない。イチヒトは一介の魔術師、対してヒヨリは公爵、自由と束縛という、相対する場所に自分たちはいるのだから、当然である。
「ヒョーリ、起きていますか」
部屋に入る合図をしながら扉を開けると、ヒヨリはすでに着替えを終えて寝台に座っていた。いや、もしかしたら眠っていないのかもしれない。
「……ちゃんと眠ったのですか」
問うと、ヒヨリはぼんやりとした眼をイチヒトに向けた。
「眠れると思うのか」
はあ、とため息がこぼれる。ため息で幸せを奪うのはエンリの特権だと思っていたが、妻に盲目的なヒヨリにもその権力があるらしい。
「気持ちが落ち着かないのはわかります。しかし、おまえが万全の状態でなければ、備えられるものも備えられないのですよ」
「……レンがどこにも感じられないのに、眠れるわけがない」
ふい、とヒヨリはイチヒトから視線を逸らす。今すぐにでもここを飛び出して妻を捜したいが、ひとりではなにもできないことを知っているから、それがもどかしくて居心地が悪いのだろう。
ここまで深い愛情を、弟が持っていたことに驚いた。そして、弟をそうまでする戦神に、感謝した。
「ヒョーリ、わたしは彼女を、どう呼べばいいですか」
「? なにが」
「戦神が『影』であることは、知っています」
「……っ」
「昨夜、エンリさまにお訊ねしました。エンリさまは戦神と相対した経験があるのです。その記憶から、戦神の魔力を読みました。彼女は『影』、レンドルアという名は、彼女のものではありませんよね」
イチヒトが知っているということにヒヨリは驚き、寝不足で蒼い顔をさらに悪くしたが、イチヒトがただふつうに、ヒヨリの妻として彼女をどう呼べばよいのかと純粋に問えば、強張らせた身体から少しずつ力を抜いていった。
「……レン」
「レン、と?」
「呼び名はレンだ。あとから、おれが勝手に真名をつけた。魔力を解放させてないおれがつけた真名だから、効力はないだろうが」
「レン、と彼女を呼び、さらには真名を与えたのですね?」
「ほかの誰にも譲りたくなかったんだ」
俯いたヒヨリが、強く拳を握る。
ああ本当に、ここまで弟に愛情を与えた彼女には、感謝し切れない。束縛に苦しみながら生きるしかなかった弟に、焦がれる愛で苦しめる人が現われてくれた。
イチヒトはホッと、息をつく。
弟はきっと、妻を取り戻したら、幸せだと笑ってくれるだろう。
「最初は、変な女だった。いや、女だと気づかなかった。鎧で身を包んでいたし、感触が固かったからな」
「……ヒョーリ、それはレンに失礼です」
「レンの胸を育てたのはおれだ」
「殴りますよ、ヒョーリ」
宣言してから、とりあえず殴っておく。昨夜もそうだったが、ヒヨリから文句はない。言っていいことと悪いことは弁えているが、誰かに惚気たいところもあるのだろう。
「……イチヒト」
「なんですか」
「レンはおれのものなんだ」
自分がレンのものだ、と言わないあたりがヒヨリだろうか。そこは矜持だとしても、そうでなくともきっと、ヒヨリの言うとおりなのだろう。
「どうしようもなく……レンは、おれだけのものなんだ」
それは自由、だろうか。焦がれた自由を得るための、与えられた翼だろうか。
「レンが、いない……おれのレンなのに、なんで……っ」
強いと知っているから、危険は少ないと思っていた、その油断が許せないと、ヒヨリは握った拳で膝を叩く。寝不足で思考がまともに働いていないだろうというのは一目瞭然だったので、イチヒトはそんなヒヨリの傍らに膝をつくと、泣きそうな顔をしているのに泣けないでいる半身を覗き込み、頬を撫でた。
ヒヨリの泣けずにいる姿に、思わずイチヒトのほうが泣きそうになる。
双子は面倒だ。
喜びばかりでなく、悲しみも、じわじわと伝わってくる。
「だいじょうぶ、戻ってきますよ。おまえの帰る場所がレンの許であるなら、レンもおまえの許に必ず帰ってきます。いえ、わたしがそうさせます」
「イチヒト……」
「わたしはエヌ・ヴェムト国でも屈指の魔術師です。わたしという片割れがいることを、誇りに思いなさい」
だいじょうぶ、必ず、取り戻せるから。
イチヒトが力強く微笑み、力なくヒヨリが頷いた、そのときだった。
「イチヒト、ヒョーリ!」
なんの予兆も予告も、合図すらなく部屋の扉が乱暴に開かれ、寝起き直後のエンリが飛び込んできた。イチヒトとヒヨリを大声で呼んでおきながら、その光景を目にして驚いている。
「なんて眼福もいいところだ! おれを昇天させる気か、おまえたち!」
やはりエンリは意味不明な少年王子である。
「……なにか急ぎの用事があるようですが、違うのですか」
「む! そうであった、まずはそれだ。父上から……まあ正確には兄上からだな、返事があったのだ」
ぼさぼさの頭も、寝間着のその姿も、まったく気にした様子なく駆け寄ってきたエンリは、握っていた手紙を差し出してきた。読め、ということらしい。
「よろしいのですか?」
「そのほうが早い」
不敬なことではあるが、エンリがよいと言っているので、遠慮なく手紙の中身を読ませてもらう。
どうやら昨夜飛ばしたエンリの手紙は、予想以上に素早くエヌ・ヴェムト王の許、正確にはエンリの兄である王太子の許に届けられたらしい。王城というより、エンリからの手紙を知るべき人物に向けて小鳥を飛ばしたので、王城ではなく城下にいたらしい王太子の許に届いたのだろう。
手紙には、イチヒトが眉根を顰める内容が簡素に認められていた。
「なんと……」
イチヒトのその様子に、エンリも同調したように舌打ちする。
「……どうした?」
「ヒョーリ、どうやらこれは、一筋縄ではいきませんよ」
「どういうことだ」
軽く考えていたわけでも、適当に考えていたわけでもないが、この事態がどうにも解決に時間がかかりそうだと思うくらいには、厄介なことが手紙には書かれていた。
「レンの誘拐に絡んでいるのは、イファラントだけではないようです」
告げると、ヒヨリは瞠目した。
当然だ。イファラントの王妃が仕向けたことだと、それしか思い当たることがなかったのだから、それ以外のなにが自分たちに絡んでくるというのか、予想もしていなかったのだ。
「むしろこれは……北大陸全体の、問題になるでしょうね」
「……そんなに?」
「六年前までの戦争は、それきりで、終われなかったのでしょう」
そのとたん、顔色を変えたヒヨリが、乱暴に寝台を離れた。
「レンを犠牲にしただけでは気が済まなかったのか!」
「ヒョーリ……」
「レンの命は戦争のために在るんじゃねぇんだぞ! 戦争なんかで……戦争なんかでおれのレンを引っ掻き回すんじゃねぇよっ!」
いつになく乱暴な言葉遣いに、イチヒトも、エンリも、言葉がなかった。
ヒヨリの訴えに間違いなどない。ヒヨリがそう思うのは当たり前だと、思うから、なにも言えなかった。
「もう、いいだろ…っ…レンを、解放しろよ。解放してくれよ」
戦神を盲目的に愛してしまっている弟に、この現実は酷なものだった。




