月のしずくのおまじない
休憩室に明るい笑い声が響く。
私が働く会社は、小さいけれど楽しく人間関係が良好な会社だ。
女性は私を含めて三人、みんな二十代というのもあって休憩のお茶の時間はどうしても華やかになってしまう。
「ねぇ、知ってる?今この占い流行ってるんだってー」
私に仕事を教えてくれる、二つ年上の玲子さんが言った。私たちは、食い入るように若い女性向きの雑誌を見る。一番年上の加奈さんが雑誌を奪いとるようにして、表紙を確認した。
「やだ、これ先月のじゃない。玲子ちゃんは本当におっちょこちょいよね」
私は、彼女たちの華やかな笑い声につられて笑った。
加奈さんも玲子さんも、うちの会社に出入りする営業の人たちからは美人だと評判の女性だ。加奈さんは、出入りの業者や営業の人も真っ青なほど話術に長けていて、仕事ができる女性としては他の社員から一目置かれる存在で、玲子さんにしても、快活で積極的、女性として男性を惹きつけるような力があって、男性なら一目で彼女を好きになるんじゃないかと思うような雰囲気を持っていた。いえるのは、二人とも私が持ち合わせていないもの全て持ちあわせた女性だった。
それに比べ私はというと、おとなしく積極的に人と関わることもなく、容姿においてはどこにでもいる若い娘といった感じだった。大輪の二つの華の下に咲かせてもらっているたんぽぽ、それが私。
「若い娘が集まると賑やかだなぁ……」
そういって、営業の山本さんが休憩室に入ってきた。
「山本さんこそ、いつもそういいながら私たちのお菓子をくすねていくくせに」玲子さんが早速やり返した。人を楽しませる会話の一つもできない私はなんてつまらない女なんだろうとこっそり思った。
私は、山本さんに恋心を抱いていた。
丸いめがねをかけて優しそうな顔をしている人なのに、営業の仕事はいつもトップという会社の花形だった。加奈さんや玲子さんが、もし私と同じように山本さんに恋心を抱いていたのなら、私の願いは到底叶うはずもないもないし、ひっそり咲いているたんぽぽに山本さんが好きになるとも思わなかった。だから人知れず、私はただ山本さんがひょこっと現れる偶然だけを喜んでいた。
これが片思いというヤツなんだろうな~と私は思った。
「てん子ちゃんだけは、いい子だなぁ」
山本さんだけが、私を「てん子」と呼ぶ。それは私の名前が「典子」だから。
それはまだ私が入社したての頃、タイムカードがうまく印字されなくて何度も抜き差しをしていた私を、山本さんが見かねて声をかけた時のことだった。
「薄くても上からボールペンでなぞっちゃえば大丈夫だから。君の名前は、典子っていうんだ。じゃあ親しみを込めてこれからはてん子って呼んであげよう」
それが、私が山本さんを意識し始めたきっかけになった。
山本さんが私を呼ぶ「てん子」という声だけで、私は心臓の鼓動を早くさせ、顔を赤らめた。同時に、そんな小さなことで顔が赤くなる自分がとても恥ずかしかった。
「ちょっと、うちの会社のかわいい存在をからかっちゃダメ!」と、加奈さんが山本さんを休憩室の外に押しやった。
うらやましい、あんな風にふざけて山本さんの体に触れることができるなんて。私がもし加奈さんや玲子さんが持つような美貌や能力があったなら、私はこんなに引っ込み思案で消極的になることはなかったのに……。
休憩が終わる時に、テーブルの上に置かれた雑誌を私が片付けた。先月号の雑誌の表紙には、「彼をふりむかせることができるおまじない特集!」と書かれていた。
そのタイトルに思わず私は目を奪われ、次の瞬間には加奈さんに「この雑誌もし廃棄するようなら頂いてもかまいませんか?」と尋ねていた。
加奈さんが「何か興味あるようなのあったの?」と聞いたので、私はとっさに大きな見出しになっている「これからは資格」という文字を指さしていた。
「典子さんはまだまだこれからだもんね~。いいよ、先月号のだから持って帰っちゃっても」と返事をくれた。
その夜、私は一人で暮らすアパートに戻って雑誌を開いた。
いろいろな方法が載っていたけれど、私は人に気づかれることなくできるようなものを探し読んだ。
「月のしずくのおまじない」と書かれた項目があった。
小さな小瓶にスポイトで水を三滴集める。集める水は、月が水面に写った部分の水であること。集めた水は、好きな人にかける。そうすると、水をかけられた相手はあなたに夢中になることでしょう。
こんなんで本当に山本さんが私のことを好きになるんだろうか?
まるで高校生がやるおまじないのように思ったけれど、どうせ一人の時間をもてあましている事だし、おまじないが本当に効くのかどうか試してみるのもいいかな、と思った。
翌日、私は小指程の大きさの小さなビンとスポイトを買ってきた。一日1滴ずつ、会社の残業が終わってからいけばいい。三日後にどうなるのか、そんなことを考えるとわくわくした。
最初の1滴は、会社のすぐ近くにある公園の小さな池。水面に移る月は、とてもきれいだった。スポイトの先を入れると水が揺れて、私の心まで揺れていくような気になった。ビンの底には、水が1滴落ちた。おまじないが叶う叶わないを別にしても、私の心はドキドキした。
その翌日には、駅の近くにある噴水の水をすくった。人に見られると怪しく思われるのが嫌で、家に帰るための電車を五回程見送った。あと1滴、たんぽぽの私がこれで山本さんの大輪の花になれたら……。
最後の水辺は簡単に思い浮かばなかったのもあって、華やかな休憩時間に一つの話題として尋ねてみることにした。
「あの……、夜の水辺の写真をとりたいなと思っているんですけど、会社の近くにないでしょうか?」
「典子さん、写真やるの?!」と玲子さんがさっそく話しに食いついてきた。
「あ、いえ、何かきれいな写真をとってみたいな~と思ったんですけど、この辺りはあまり水辺がないのかなぁと思って……」
「うーん、駅の反対側ならあるわよ。確か菖蒲を植えてるような池があったと思うけど。でもね、あそこは夜はすごく暗いし、不審者がでるとか噂があったから止めた方がいいよ」と、加奈さんが言った。
そこへ営業の山本さんが、いつもの調子で休憩室に入ってきた。
「ん?なに?みんなで夜どっか行くの?」
ああっ、山本さんには聞かれたくないな……と思ったのもつかの間、玲子さんが私が写真を取るために夜の水辺の場所を探しているとあっさり言ってしまった。
「てん子ちゃん、写真やるのか~」
小さな声で、「あ……いえ、じゃなくて……」と言うが誰も聞いている様子はなく、後は加奈さん、玲子さん、山本さんの三人が話を勝手に進めていた。加奈さんと玲子さんは、女の子が夜いける場所として、駅から来ると会社よりもさらに遠くになる場所の公園の水遊び場を教えてくれた。休憩時間が終わり、私たちが片付けを始めると山本さんがお菓子をとりに私の横を通りすぎた。
「駅の反対側にある菖蒲の池はいいよ」とこっそり私に耳打ちをした。
山本さんの息が私の耳に軽くかかったことで、私は今日の夜に駅の反対側にある菖蒲の池に行くことを決めた。
残業が終わり、会社をでた時には10時をまわっていた。
早く家に帰って御飯にありつきたいところだったのだが、今日は最後の1滴だから、たとえ仕事が遅く終わっても菖蒲の池に行きたかった。
駅の反対側を五分ほど歩くと、民家が急に少なくなり、明かりが乏しくなっていた。 人もほとんど歩いていなかったので、急に怖くなって足早に菖蒲の池に向かった。
夜の月明かりに照らされて、菖蒲の池はとても美しく見えた。
菖蒲の花が咲いていて、月の光とあいまって幻想的な風景を作り出していた。
私は、加奈さんや玲子さんが言う場所ではなく、山本さんが私の耳に囁いてくれたこの場所を選んで良かった、まさに最後の1滴に相応しい場所だと思った……のだった。
最後の1滴をかがんで池からすくいとり、立ち上がるわずかな動作の間に、草を踏む音が聞こえた。私はすぐに幻想的な気分から、暗闇の中にいる自分がいるという現実に引き戻された。
急に怖くなり、とにかく走って灯りがあるところまで戻ろうと後ろに向きかえり走り出そうとした時に、ドンと人の胸にぶつかった。
「あっ……」
月のしずくを入れた小瓶が、私がぶつかった相手にかかってしまった。
暗くて相手の顔がよく見えなかったけれど、とにかく怖くて私は走り出した。
私のすぐ後ろからくる足音も一緒に走ってきた。わずか数秒のことだったが、私の頭の中は、加奈さんや玲子さんが言った水場になんで行かなかったのだろうという後悔の嵐が吹き荒れていた。
後ろからくる足音と「はぁはぁ……」という息遣いの主が、私の両肩を掴んだ。
私も足音の主の手と必死に戦った。
手の大きさから、その主は男性なのがわかった。
力強い腕は私を後ろから羽交い絞めにして、押し倒した。
男は私に馬乗りになり、私は自分の体を抱くようにしてガクガクと震えていた。
男も私も息が荒く、私はこれから自分がどうなるのかという恐怖で泣き始めていた。
こんなことになるなんて、こんな暗い所にこんな時間に来た自分は、なんて馬鹿なんだろう。
私は泣きながら小さく呟いた。
「やまもとさん……」
「何だい、てん子」男の声が小さく笑いながら答えた。
私は何が一体どうなっているのか困惑しつつも、心臓が凍りついていくのがわかった。
「てん子は、いつもいい子だと思っていたのに…。他の擦れた女とは違ういい子だと思っていたのに、いい子はこんな夜遅くに一人で出歩いちゃいけないんだよ」
そう言うと長く大きな手が私の首にまわり、ゆっくりと力を込めてきた。
ああ、こんなことになるなんて……、月のしずくのおまじないが効くのは本当だったんだ……。