第五章:地下聖戦(アンダーグラウンド・ウォー)
首都圏外郭放水路の巨大な入口が、漆黒の闇の口を開けていた。普段は静寂に包まれるこの場所が、今夜、血塗られた戦場の様相を呈しようとしていた。黒田剛は、公安の信頼できる精鋭チームを率い、重装備でその深淵へと足を踏み入れた。彼の隣には、冷静な眼差しで銃を構える高村綾がいた。
「目標は、PXFのデータ奪取と、彼らの排除。自衛隊の陽動が始まったら、奴らは確実に動く。その隙を突く。」黒田の声が、湿った空気に吸い込まれる。
チームの通信機から、微かなノイズ混じりの声が届く。「こちら、外郭放水路南側。自衛隊部隊の展開を確認。大規模なテロリスト掃討作戦と発表されています。」
自衛隊特殊作戦群(SOG)の藤堂慎一郎隊長が、上層部の指示通りに動いている。それがPXFへの陽動であることを知りながら、自らの信念と任務の間で葛藤しているだろう。黒田は、藤堂に感謝するとともに、彼の苦悩を察した。
PXFの潜伏先は、放水路の最深部にクロノスが秘密裏に改修した隠蔽区画だ。そこへ向かうには、広大な調圧水槽を横断する必要があった。無数の巨大なコンクリートの柱が林立し、上部の工業用照明がぼんやりと影を落とす。その陰影が、予測不可能な死角を生み出していた。
「展開!」黒田の指示で、チームは柱の影に身を潜めながら前進する。足元の水たまりが、彼らのわずかな動きを水面に映し出す。
その時、闇の中から閃光が走り、乾いた銃声が響いた。
「敵襲!左前方、柱の影!」高村が叫ぶ。
PXFだ。彼らは既に、自衛隊の陽動に乗じて、外郭放水路からの撤収準備を進めていたのだ。PXFの指揮官「ファントム」は、鋭い眼光で公安チームの動きを捉えていた。隣には、冷たい笑みを浮かべた爆破工作員「ヴァイパー」が、不気味な装置を構えている。
「日本の警察か。無駄な真似を。」ファントムが低く呟くと、ヴァイパーが手元の端末を操作した。次の瞬間、複数の柱の根元で爆発が起こり、水槽内の一部が水煙に包まれた。
「くそっ!罠だ!」黒田は叫ぶ。「散開しろ!」
調圧水槽内は、たちまち銃弾が飛び交う戦場と化した。柱を盾にした激しい銃撃戦。公安チームは、PXFの予測不能な動きと、ヴァイパーによる地形を利用した爆破工作に苦戦を強いられた。水面を滑るように動く敵の影、反響する銃声が、空間全体を狂わせる。
時を同じくして、首都圏外郭放水路の地上入り口付近では、早見拓海と報道記者の橘梓が、黒田からの連絡を待っていた。橘は、ビデオカメラを構え、いつ何時でもシャッターを切れるように準備を整えている。早見の表情は固い。彼が手にするデータディスクには、クロノス、CIA、そして日本の政治家たちが関与した陰謀の全てが詰まっていた。
早見のスマートフォンが震える。黒田からの短いメッセージだった。『突入。交戦中。チャンスを逃すな。』
「橘さん!黒田さんたちが突入しました!今がチャンスです!」早見は叫んだ。
「分かりました!」橘は迷わず早見と行動を共にした。彼女もまた、この戦いの重要性を理解していた。
彼らが施設入口へと急ぐ途中、一台の黒塗りのバンが猛スピードで彼らに向かってきた。中から飛び出してきたのは、CIA東アジア担当官のサラ・コリンズと、彼女に雇われたクロノスの工作員たちだった。
「早見議員、止まりなさい!それ以上、国家の機密を弄ぶのは許さない!」サラの声が響く。
「国家の機密だと?これは、国家を裏切る行為だ!」早見はディスクを強く握りしめた。
クロノスの工作員が、早見と橘に襲いかかる。橘は、カメラを構えながら、決死の覚悟でそれを撮影しようとする。早見は、咄嗟に橘を庇い、通路の陰に飛び込んだ。彼は、非力な政治家ではあったが、この情報を守るためには、どんな危険も顧みるつもりだった。
その時、もう一台の車両が到着し、中からリード大尉率いるアメリカ特殊部隊「ゴースト・ホーク」が展開した。スナイパーの「スケアクロウ」が、早見と橘を狙い、銃を構える。
サラ・コリンズはリードに指示を出す。「彼らを拘束し、ディスクを回収しろ。PXFのデータも全てだ。絶対に外部に漏らすな!」
事態は、早見の想像を遥かに超えて複雑化していた。地下では公安とPXFが、地上ではCIAとクロノスの工作員、そして米特殊部隊が早見と橘を追う。
調圧水槽の内部では、激しい戦闘が続いていた。黒田の公安チームは、PXFの巧妙な罠と、ファントムの容赦ない指揮に追い詰められていた。
「ヴァイパー!柱の接続部を狙え!奴らを分断しろ!」ファントムが叫ぶ。
ヴァイパーは、柱と柱の隙間に爆弾を仕掛け、起爆させた。轟音と共に、コンクリートの破片が飛び散り、通路が寸断される。公安チームは分断され、高村綾が孤立する。
「高村!無事か!」黒田が叫ぶ。
「大丈夫です!班長!しかし、奴らの動きが速すぎる!」高村は、柱の陰に身を隠しながら応戦する。
その混乱の中、リード大尉率いるゴースト・ホークが、放水路の別ルートから侵入してきた。彼らの目的は、PXFが回収したデータの奪取と、全証拠の抹消だった。米国の国益のためならば、同盟国の警察であろうと容赦はしない。
「目標、PXFのデータ。抵抗する者は排除する。」リード大尉の声が、無線で響く。
PXFと公安の交戦の真っただ中に、ゴースト・ホークが突入したことで、戦場は完全に三つ巴の混沌と化した。
「アメリカ特殊部隊だと!?なぜここに!」ファントムが動揺する。
ゴースト・ホークは、圧倒的な火力と練度で、PXFと公安の両方に攻撃を仕掛けた。スケアクロウの正確な狙撃が、PXFの隊員を次々と倒していく。
黒田は、状況を瞬時に判断した。ゴースト・ホークの目的はデータだ。そして、おそらく彼らはPXFのデータだけでなく、黒田たちが確保しようとしている証拠も狙っている。
「高村!聞こえるか!PXFの指揮官、ファントムを狙え!奴がデータを持っているはずだ!」
「了解!」高村は、銃撃をかいくぐり、ファントムへと接近する。
ファントムは、ゴースト・ホークと公安の板挟みとなり、追い詰められていく。ヴァイパーは、時間稼ぎのために、残りの爆弾を無差別に設置し、起爆させた。轟音と水しぶきが、地下空間を揺るがす。
その爆発音を聞き、早見は決意を固めた。今が、最後のチャンスだ。
「橘さん、ここで待っていてください!私がディスクを回収します!」
「早見議員!危険です!」橘が叫ぶが、早見は既に走り出していた。
サラ・コリンズとゴースト・ホークは、地下で交戦中のPXFと公安の動向に集中しており、早見たちの動きは手薄になっていた。早見は、混乱に乗じて、爆発で開いたわずかな隙間から、地下へと続く非常階段を駆け降りた。
地下深く、崩落しかけた通路を進むと、そこはPXFの秘密基地の残骸だった。血痕が飛び散り、戦闘の激しさを物語っている。そこには、ファントムが残した最後のデータディスクが転がっていた。それは、介入作戦の全貌と、関与した全ての人物の名前が記された、決定的な証拠だった。
早見がディスクを拾い上げた瞬間、背後から冷たい殺気が迫った。リード大尉だ。彼は、公安とPXFの交戦を抜け出し、この隠蔽区画へと到達していたのだ。
「それを渡せ、日本の政治家。」リード大尉が銃を構える。
早見は、その場に立ち尽くす。武器を持たない彼に、為す術はない。
その時、頭上から複数の影が舞い降りてきた。日本の自衛隊特殊作戦群だ。藤堂慎一郎隊長が、数名の精鋭を率いて、この極秘区画へと奇襲をかけてきたのだ。彼らは、藤堂の直感と、加納恵の情報分析能力によって、この場所と事態の異常性を察知し、上層部の命令を無視して独断で行動を起こしたのだ。
「そこまでだ、リード大尉。」藤堂が冷厳な声で告げる。
リード大尉は、舌打ちをした。「まさか、自衛隊まで来るとはな。これでは、計画が狂う。」
自衛隊とゴースト・ホークの間で、一触即発の睨み合いが続く。
その隙を突き、早見はディスクを強く握りしめ、来た道を駆け戻った。
「黒田さん!ディスクは私が持っています!回収しました!」早見の叫び声が、通信機を通して地下に響き渡る。
黒田は、早見の声に希望を見出した。彼らは、PXFの残党を制圧し、リード大尉率いるゴースト・ホークと対峙していた。
「リード大尉。これ以上は、日本の主権を侵害する行為だ。速やかに投降しろ。」黒田は銃を構えながら告げる。
「冗談を。貴様らが何を知っている?これは、貴様らの国のためでもあるのだぞ。」リード大尉は冷笑した。
その時、地下のいたるところで、PXFのヴァイパーが仕掛けた爆弾が、時間差で連鎖的に爆発を始めた。通路が崩落し、水槽に亀裂が入り、濁流が押し寄せる。外郭放水路そのものが、制御不能な状況に陥り始めたのだ。
「くそっ!ヴァイパーめ!」ファントムが無線で叫ぶ。「総員、緊急脱出!」
「これは、ヴァイパーの最後の抵抗だ!脱出経路が封鎖される!」高村が叫ぶ。
黒田は決断した。「早見議員と橘記者を優先しろ!データは絶対に外部に出すんだ!」
公安チームと、ファントム率いるPXFの残党、そしてリード大尉のゴースト・ホークが、崩壊寸前の地下施設から脱出を試みる。その中で、黒田とリード大尉、ファントムの間で、最後の直接対決が繰り広げられた。
激しい戦闘の末、黒田はファントムを負傷させ、データディスクの完全な確保に成功。リード大尉もまた、任務の失敗を悟り、残りの隊員を連れて撤退した。
首都圏外郭放水路の地上入口では、橘梓が必死にカメラを回していた。崩壊する地下施設から、泥と血にまみれた早見と黒田の姿が現れた時、橘はシャッターを切り続けた。
早見は、その手にあるデータディスクを、橘に渡した。「橘さん。これが、全ての証拠です。日本の政治の闇、軍事企業の陰謀、そしてCIAとPMCが関与した、全ての真実がここに。」
橘は、そのディスクをしっかりと握りしめた。彼女の目には、正義を求める炎が宿っていた。
早見と黒田、そして橘の命がけの行動は、すぐさまメディアを通じて世界中に報じられた。クロノス・ディフェンスの株価は暴落し、神崎義人は逮捕された。サラ・コリンズは本国に召還され、そのキャリアは事実上終わりを告げた。ブラックウォール・コンサルティングは国際的な非難に晒され、その活動を停止せざるを得なくなった。
しかし、全てが解決したわけではなかった。介入作戦の犠牲となったカザール共和国の混乱は続き、日本の政治の奥深くには、まだ陰謀の影が残っていた。そして、この戦いで、多くの公安の隊員が犠牲となり、黒田の心には深い傷が残った。藤堂隊長率いる自衛隊特殊作戦群もまた、非公式な作戦を実行したことで、その存在意義と任務の在り方を問われることになった。
早見拓海は、この一連の事件の告発者として、政治家生命を失うかもしれない。しかし、彼は後悔していなかった。彼の行動が、日本の政治の膿を出し、国民に真実を伝える一歩となったのだ。
夜明けが訪れ、東京の空が白み始めていた。しかし、その光はまだ朧げで、影の戦いはこれからも続いていくことを示唆していた。早見は、静かに橘を見つめた。「私たちは、これから、本当の戦いを始めなければならない。」