第一章:予期せぬ繋がり
午前二時。国会議事堂裏手の議員宿舎は、深い眠りについていた。しかし、その静寂を打ち破るかのように、一室のデスクライトが、積み上げられた書類の山をぼんやりと照らしている。眼鏡の奥で、その書類を睨みつけているのは、与党の若手議員、早見拓海だった。
「また、これか……」
早見は、資料の端に記された小さな数字に目を凝らした。防衛省の発表する次期戦闘機開発予算と、クロノス・ディフェンス社への発注額。その間には、常に説明のつかない僅かなズレがあった。数億円、時には数十億円。小さな数字に見えても、その積み重ねは莫大な金額になる。彼はここ数ヶ月、この“見えない予算”の使途を追っていた。
早見は、理想に燃える政治家だった。三十代前半、若くして与党のホープと目され、クリーンな政治を標榜していた。国民の血税が、不透明な形で使われることを許せない。その信念が、彼をこの闇の中へと突き動かしていた。
彼の目の前には、クロノス・ディフェンスに関する資料が散乱していた。日本の主要な防衛産業を牛耳る巨大企業。その名前を聞けば、誰もが日本の安全保障に貢献する優良企業だと答えるだろう。しかし、早見は知っていた。巨額の金が動く場所には、必ずと言っていいほど、怪しい影がつきまとうものだと。
「神崎義人……」
資料の束から、一枚の顔写真が印刷された紙を手に取る。クロノス・ディフェンスの幹部、神崎義人。四十代後半、洗練されたスーツに身を包み、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべている。だが、その瞳の奥には、どこか底知れない冷たさが潜んでいるように感じられた。早見は、神崎が最近、国内外の政財界で急激に影響力を広げていることに不審を抱いていた。
深夜にもかかわらず、早見のスマートフォンが震える。表示されたのは、見慣れない匿名のアドレスだった。怪訝に思いながらも通話ボタンを押すと、ノイズ混じりの低い声が聞こえてきた。
「早見議員、お疲れ様です。貴方が追っている件、興味深い情報があります。」
声の主は、早見が最近接触を試みていたフリージャーナリストの橘梓だった。彼女は大手新聞社の社会部記者で、権力の闇を暴くことに並々ならぬ情熱を燃やすことで知られていた。早見は、彼女ならこの不透明な予算の闇を共に暴いてくれるかもしれないと期待していた。
「橘さんですか。こんな時間に……」
「お邪魔してすみません。ですが、これは急を要します。クロノス・ディフェンスが最近、あるPMCと大規模な契約を結んでいるという情報が入りました。表向きは警備と訓練ですが、規模が異常です。」
PMC。民間軍事会社。早見は身構えた。国家の正規軍とは異なり、法的な制約が緩く、グレーな作戦にも関与することで知られる存在だ。橘はさらに続けた。
「そのPMCの名前は、ブラックウォール・コンサルティング。ご存知ですか?」
早見は、思わず息を呑んだ。ブラックウォール・コンサルティング。その名は、数年前の中東での「誤爆」事件で報じられたことがあった。公式には「事故」とされたが、民間人の犠牲があまりにも多かったため、国際的に大きな非難を浴びた企業だ。
「ブラックウォール……まさか、あれがクロノスと?」
「ええ。しかも、その誤爆事件に関して、匿名で送られてきた内部告発文書があるんです。その文書には、CIAの影がちらついている。」
CIA。アメリカ中央情報局。話は国家レベルの陰謀へと発展しようとしていた。早見はデスクの資料を再度見つめた。見えない予算、神崎義人、そして今、ブラックウォールとCIA。点と点が、恐ろしい線で繋がり始めていた。
その頃、東京都内にある公安部の秘密拠点は、早見の部屋とは対照的に、常に薄明かりに照らされ、静かな緊張感に包まれていた。公安刑事、黒田剛は、モニターに映し出されたテキストログを凝視していた。
「……やはり、繋がったか。」
黒田は、テーブルに置かれた冷え切ったコーヒーに手を伸ばし、一口飲んだ。彼の目は、疲労の色を帯びながらも、鋭い光を放っている。五十代後半、長年公安の特殊事案捜査に身を捧げてきたベテラン刑事である。
彼が追っているのは、神崎義人とクロノス・ディフェンスの動向だ。数年前から、クロノスが裏で政界に多額の献金をしたり、怪しいルートで情報が流れていることを察知していた。しかし、決定的な証拠が掴めず、長らく膠着状態にあった。
そこに浮上したのが、ブラックウォール・コンサルティングの名だった。黒田は、そのPMCが単なる警備会社ではないことを知っていた。彼らの活動は、国際的な紛争地帯の裏側で常に血生臭いものと結びついていた。そして、その活動には常に、ある国の影がつきまとっていた。
「アメリカ大使館の動きが活発化している。特に、サラ・コリンズの動きに注意しろ。」
黒田は、隣に座る若手女性隊員、高村綾に指示を出す。高村は元機動隊のSAT(特殊急襲部隊)出身で、優れた身体能力と冷静な判断力を持つ、黒田の片腕とも言える存在だ。
「サラ・コリンズですか。CIAの東アジア担当官。彼女が直接動くとは、相当大きな案件ですね。」高村は、淡々と答える。
「ああ。表向きは諜報活動だが、彼女は実働部隊を動かすことも辞さない。今回の件、ただのビジネスの枠を越えている可能性が高い。」
黒田の脳裏には、数日前に公安内部で囁かれ始めた、ある極秘情報が蘇っていた。それは、米国の「国益」のためならば、同盟国の「国内問題」にすら介入することを厭わないという、CIAの新たな方針に関するものだった。その情報が、クロノスとブラックウォール、そしてサラ・コリンズの動きと結びつき始めた時、黒田の胸には嫌な予感がよぎった。
早見は、橘との電話を終え、再びデスクの資料と向き合っていた。このまま調査を続ければ、自身の政治生命どころか、命すら危うくなるかもしれない。そんな予感が全身を駆け巡った。だが、彼は引き返せなかった。
翌日、早見は国会図書館で過去の防衛関連資料を漁っていた。クロノス・ディフェンスが関わった過去の国際共同開発プロジェクト、その予算の使途、そしてそこにブラックウォール・コンサルティングのようなPMCが関与した形跡はないか。
その時だった。早見の視界の端で、一人の男が立ち止まるのが見えた。男は早見をちらりと見て、すぐに視線を逸らしたが、その不自然な動きに早見は違和感を覚えた。スーツ姿だが、どこか周囲の人間とは異なる、研ぎ澄まされた雰囲気をまとっていた。
早見が席を立つと、男もまた、何食わぬ顔で図書館を出て行った。早見は咄嗟に後を追ったが、男はすぐに人混みに紛れ、見失ってしまう。彼は肌で感じた。これは偶然ではない。誰かに監視されている。
その日の夕方、早見は喫茶店で橘梓と会っていた。橘は、早見から提供されたクロノスの内部資料と、自身が集めたブラックウォールに関する情報を突き合わせていた。
「この契約、尋常じゃないわ。訓練や警備のレベルじゃない。まるで、特殊作戦の準備よ。」橘は、深刻な表情で告げた。
「特殊作戦……一体、どこで、何を?」早見はゴクリと唾を飲んだ。
「そこまでは分からない。でも、このブラックウォールの動きには、どう考えてもCIAの影が濃すぎる。特に、サラ・コリンズという人物。彼女の経歴はほとんど公開されてないけど、裏では相当なやり手らしいわ。」
話が深まる中、早見のスマートフォンに、また見慣れない番号から着信があった。今度は音声ではなく、短いテキストメッセージだった。
『貴方の調査は危険だ。これ以上深入りするな。――公安』
メッセージの送信元は公安。早見は動揺した。橘も驚いた表情で早見のスマホを覗き込む。
「公安が、なぜ……」
「私を警告しているのか、それとも協力者なのか……」早見は困惑した。
公安がこの動きを察知しているということは、早見の行動は筒抜けだということだ。しかし、もし彼らが警告しているのなら、なぜ匿名で、しかもこれほど曖昧なメッセージを送ってきたのか。
その夜、早見が議員宿舎に戻ると、部屋の中が荒らされていた。引き出しは開けられ、書類が散乱している。貴重品は無事だったが、早見が調べていたクロノスとブラックウォールの関係を示す一部の資料が消えていた。
「くそっ……!」
早見は怒りに震えた。これは警告ではない。明確な妨害だ。そして、彼は理解した。この戦いは、単なる政治の駆け引きではない。命をかけた、真実を巡る闘いなのだと。
彼はすぐに黒田に連絡を取ろうとしたが、ふと手が止まる。公安内部からの匿名メッセージ。早見の部屋への侵入。黒田が本当に信頼できるのか、一瞬の疑念がよぎった。しかし、彼はすぐにその疑念を振り払った。今、彼が頼れるのは、黒田のような「影」の存在しかいないのだ。
早見は、消えた資料の代わりに、頭の中に刻み込まれた数字と情報を頼りに、再びデスクライトの明かりの下、残された資料を凝視し始めた。この闇の契約の背後には、想像を絶する巨大な力が働いている。それでも、彼は立ち止まるわけにはいかなかった。