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無敵のデブ猫トロツキー


●Scene-2. 2059.06.12. 01:25pm. ススキノ 雑居ビル三階


 ススキノの四階建ての雑居ビルの三階に、戒無の経営する何でも屋の事務所があった。

 粗末な雑居ビルの狭いフロアを住居兼事務所に使っている。

 玄関を入ると受付があり、廊下の向かって左のドアが応接室で、右側が居間兼事務所だ。


 事務所の奥の簡易キッチンで、漆黒の長髪をうしろでひとつにくくった戒無が、鼻歌を歌いながらホイッパーをふるっていた。

 ひよこのアップリケがついたパステルカラーのエプロンと、抱えた大きな銀色のボウルが、ステキに似合っている。


 ダイニングの椅子に腰掛け、バターを湯煎にかけて溶かしながら、寿理が恨めしそうに言った。


「もう、戒無さんたら、向いてませんよ、水道工事。もっと楽して儲かる仕事しましょうよ。町の何でも屋さんなんて、ほとんどボランティアじゃないですか。今週なんか、お米も買えないんですよ」


 寿理は、テーブルの上に置かれているシリアルの箱に印刷されたキッドナップ広告を見るともなしに見た。

 誘拐された子供の親などが、懸賞金をかけて子供を捜す広告だった。

 戒無は、悪びれずに言った。


「だから、おまえが上に登れって言っただろ?」

「そういう問題じゃないでしょう! だいたい、さっきの一件で、いくら弁償しなきゃならなくなったと思ってるんですか?」

「ははは……」


 寿理の剣幕に、戒無は情けなく愛想笑いをした。


「七百三十万ですよ! なんで、水道工事に行って、七百三十万円の請求書をつきつけられなきゃならないんですかっ!」

「や。まあ、確かに、おっしゃる通り」

「もう。払えっこないじゃないですかぁ……」


 にゃぁ~ん、と媚びた声で鳴きながら、バターをねだるロシアンブルーのトロツキーが、寿理の膝によじ登った。

 体重七キロのぶた猫のくせに身は軽い。


「しゃーねーから、せっせと小銭でも稼いで来いや。お咲ばーさんから、買い出しの依頼だ。イースト・パセオタウンまで行ってくれ」

「はぁっ?」


 寿理は、形のいい眉を釣り上げる。

 身を乗り出した拍子に、猫が膝から転げ落ちた。


「七百三十万円の借金を抱えてるのに、お駄賃もらって、おつかいですか?」

「買い出しリストはな、そこに貼り付けてあるから」


 冷蔵庫の横に、でかでかとスペースをとって置かれているスチール製のキッチンストッカーを顎で示して、戒無は、のほほんと言った。

 そのストッカーには、色々なメモが磁石でベタベタと貼り付けてある。


「アタシは、やですよ。戒無さんが行けばいいじゃありませんか」

「見りゃわかるだろ? 俺は、ニナんとこのガキどもにケーキ焼く約束してんだよ」


 ニナとシャナは、同じ雑居ビルの一階で、親を失った子供たちの面倒を見ている。

 それもまた、出費がかさむだけのボランティアだ。


「ああぁぁぁ! もぉぉっ!」


 ドン、と足を踏みならして、寿理は仁王立ちになった。


「アタシは、なんって薄幸な女なのっ! こんな、甲斐性なしで、借金大魔王のくせにお気楽で、ケーキばっか作ってるダメな男の側を離れられないなんてっ!」

「ああ、寿三郎、そこの型にオーブンペーパー敷いてくれよ」


 寿理の芝居がかった台詞などまるで聞こえないように、戒無は十八センチのケーキ型を肘で示した。


「その名前で呼ばないで下さい」


 いつものようにきっちり名前を否定しながら、寿理は言われたとおり、ケーキが型にくっつかないようにツルツルのシートをセットした。

 と、その手がピクリと痙攣するように止まった。


「か、かかか、戒無さん……」


 だるまさんがころんだでもしているような不自然な姿勢でストップモーションした寿理が、こわばった声で戒無を呼ぶ。

 視線は床に釘付けだ。


「あ?」


 戒無は、寿理の怯えたような視線をたどって、床に存在するそいつを発見した。

 ダイニングテーブルの下で優雅にくつろぐそいつは、ぬらぬらと光る羽根を持った、五センチは優に越す生命力豊かな昆虫だった。


「ネオ・ヤマト・ゴッキー……」


 寿理は額に脂汗を浮かべ、すがるように戒無を見上げた。


「珍しくもねーだろ? っとけよ」


 こともなげに、戒無は言う。


「でも、アタシ……」


 ふうん、と戒無は鼻を鳴らした。


「んじゃ、このスリッパで踏んづけてもいいわけね?」


 言われて、寿理が戒無の足下を見ると、彼はかわいいウサギさんのボア付きスリッパをはいていた。

 数日前、彼女がプレゼントしたものである。


「ううう~~」


 半べそをかきながら寿理は、手近にあった、雑誌を丸め始めた。

 なにが苦手といって、彼女はゴキブリとキノコが死ぬほど苦手なのである。

 ロボットのようなぎこちない動きで、相手に気配を悟られぬようそっと寿理は腰を下ろしていく。


 と、その寿理の目の前をサッと一陣の風が駆け抜けた。


「ああっ!」


 驚いて寿理が尻餅をつくと、その眼前で、得物を前足で捕まえた太ったロシアンブルーが、ガシガシと右前足で昆虫をいたぶりはじめた。


「やぁよぉ。トロツキー、その手でアタシにさわらないでちょうだいねっ!」


 尻餅をついたまま、じりじりと後ずさって、寿理は泣き声を出した。

 しばらくゴキブリで遊んでいた猫は、くんくんと鼻面を虫に近づけると、パクン、とそれに噛みついた。


「きゃー。あんた、そんなもの食べたらお腹でゴッキーの卵が孵っちゃうわよ! 内臓を食い荒らしちゃうんだからぁぁっ!」


 気も狂わんばかりの悲鳴をあげて、寿理は猫の食事をやめさせようとするが、ゴキブリが怖くて猫を遠巻きにするばかりだ。

 そんな寿理と、血統書つきのはずのトロツキーを見比べて、戒無は平然と言いはなった。


「べつに、卵も消化すんだろ?」

「戒無さんの野蛮人っ! 食料がなくなっても、アタシは絶対、猫鍋は食べませんからねっ!」


 猫鍋という発想の飛躍に、戒無は呆れる。


「てゆーか、おまえのほうが、トロツキーを非常食だと思ってねーか?」

「うう」

「まあ、これだけ太ってりゃ、無理もねーけどな」


 戒無はボウルを置き、食後の毛づくろいをしている猫を、ひょいと抱き上げた。


「おまえ、どこでなに喰って、こんなでかくなったんだ?」


 腕にずっしりと重い、本来は細身な種類のはずの猫の顔を覗き込む。


 急に抱き上げられたことに不満の意を表明するような目で戒無を睨んだ猫は、一瞬の早業で戒無の体を駆け上がり、メキッと彼の顔面を踏んで床に飛び降りた。


「げは」


 体重の良く乗ったストレートを顔面にくらった戒無は、顔を押さえてうずくまる。


 憐憫の表情で、寿理はそれを見守った。

 あきらめて、お咲ばあさんのおつかいに出かけるべく、キッチンストッカーのメモを取りに行く。


 戒無も、顔面を押さえてよろよろと立ち上がり、再びホイッパーでボウルをかき回し始めた。


「そういえば、戒無さん」


 寿理は、メモを片手に、戒無を振り返った。

 長い髪が優雅に翻って、細い肩に優しくまとわりついた。


「チャイニーズ・マフィアの符丁が、新聞の広告に出てましたね」


 戒無のホイッパーを持つ手が、一瞬、ピクリと緊張した。


「調べます?」


 目ざとく彼の動揺を感じ取った寿理は、伺うように戒無を見た。

 戒無は、急に顔をしかめた。


「いてててて」


 左手をぷるぷる振る。


「また、腱鞘炎ですか?」


 寿理は心配そうに言う。


「だったら、電動のホイッパーを使えばいいじゃないですかぁ」


 戒無は、「おー、いて……」と言いながら、いつものお気楽な笑顔に戻った。


「持病はしゃーないとして……。町の便利屋さんには関係ねーよな、そんなもんは……」

「儲け話かなぁ、って思ったんですけど、ヤケドしちゃいますね」


 寿理は、首をすくめ、すっかりクリップボードと化している目の前のキッチンストッカーを、ポンと叩いた。


「便利屋さんといえば、アタシ、この開かずのキッチンストッカー、中でキノコが湧いちゃってるんじゃないかって、気になってるんですけど、なんで開けないんです?」

「鍵をなくしたら、普通、開かねぇだろ?」


 戒無はニベもない。


「だから、便利屋さんだったら自分で開ければ……って」

「まあ、使うものがあったら開けることもあるさ」

「まったく、いいかげんなんだから」


 寿理は呆れたように笑いながら、おつかいに出ていった。

 戒無は、寿理のオレンジの髪を見送って、浅くため息をつく。


 ホイッパーの回転が緩慢になっていた。


 チャイニーズ・マフィアの符丁。

 レッド・クロイツか……?



 ――ファラン……。


 二年前に決別した、あの男のことが思い起こされた。



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― 新着の感想 ―
ネオ・ヤマト・ゴッキー めっしなきゃ! 滅っ! 会話が弾むようなテンポ。美しい(Gではない) 素晴らしいですねぇ。。。
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