成層圏の刹那
●Scene-16. 2059.06.15. 04:20pm. ススキノ 雑居ビル三階
戒無は、うっすらと目を開けた。
目の前に、心配そうな顔があった。
懐かしい、記憶の中に生きる女性の顔だった。
「チュン……メイ……?」
「良かった。気が付いた」
春美と生き写しの少女が、安心したように笑った。
「ニナか……。面倒かけたな」
戒無は、心配して一睡もしていない様子の少女の頬を、そっと撫でた。
「ううん。でも、ちょっと哀しくなった。戒無の体、傷だらけなんだもん。もし、わたしを護るためなら、もうムチャしないで」
「ばかだな。俺は、誰かのために命を張るような、おめでたい真似はしねーよ」
「……うそばっかり」
少女は、指先で涙を拭った。
「チュンメイって……かあさま? わたし、かあさまに似てるの?」
ためらいがちに、ニナは訊く。
春美の写真は、一枚も残っていなかった。
「ああ。とてもよく似てきた。チュンメイは、名前の通り、春風みたいな女性だったよ。彼女がいなかったら、俺は人の心を失っていたかもしれない」
「ひとの、こころ……」
噛みしめるように、ニナはつぶやいた。
「なれるかな、わたしも、かあさまみたいに、そんなふうに誰かを……」
戒無は微笑んだ。
「なれるさ。おまえは、ジランとピュア・チャイルドの架け橋なんだから」
「うん」
そのとき、ドアがノックされた。
「はい?」
ニナが応えると、シャナがドアを開けた。
戒無の様子を見て、シャナもホッとしたようだった。
「良かった……戒無……」
「ああ」
シャナは、思いだしたように後ろを振り返った。
来客を告げに来たのだ。
シャナがドアを大きく開くと、そこには、死にそうな顔をした寿理が立っていた。
「ごめんなさい……。アタシ、顔を出せたギリじゃないのわかってるけど……。でも……」
ニナは、パッと身を翻し、寿理のもとへ飛んで行った。
「寿理さん! 良かった。いなくなっちゃって、どうしようって、わたし……」
寿理は、照れたように苦笑いする。
「おばかさんね。あんたがアタシなんかの心配することないのよ」
「戒無、今、目を覚ましたところなの。もう、大丈夫だと思う」
ニナは寿理を室内に招き入れた。
寿理は、少しためらって部屋に入った。
戒無の横になっているベッドの脇で、ガバッと土下座する。
「戒無さん。アタシ、覚悟決めました。もう、戒無さんの邪魔しませんから、側にいさせてください」
額を床にこすりつけるほど深く頭を下げて、寿理は言った。
「寿三郎」
「……その名前で呼ばれても我慢します」
「はは……いてっ」
半身を起こした戒無は、傷の痛みに顔をしかめる。
心配そうな女の子たちの視線が、戒無に集まった。
可愛い女の子たちに心配される自分は、これで案外、幸せモンかも、と不謹慎にも思った。
戒無は、シャナに視線を移した。
シャナは眼顔でうなずき、そっとニナを促す。
「ニナ。ありがとうな。おまえは、なにも心配すんな」
戒無は、ニナに笑いかけた。
「戒無……」
「大丈夫だ」
「うん。じゃあ、ごはん用意するから……」
「おお」
ふわっと笑ってニナは部屋を出ていく。
寿理に話があることを察した自然な態度だった。
「かなわないなぁ。……賢い子たちですね」
二人を見送って、寿理がつぶやいた。
床にペタンと座り込んだままだ。
「だな」
戒無は、うなずいた。
「寿三郎」
「はい」
寿理は、戒無に向き直った。
「あの場面に出くわして、あえて戻ってくるってことは、俺がどんな人間かわかってるんだな?」
寿理の瞳が、かすかにこわばった。
ゾクリとするような艶のある表情になって、戒無を試すように言う。
「二十二人……でしたね」
戒無は、目を細めた。
それは、あの教会で戒無が殺した人数だった。
世に知られれば、指弾され極刑は免れない大量殺戮者だ。
「数を数える余裕があったってわけだ」
寿理は、うなずいた。
「アイファンのことを調べていたのか?」
「ええ。でも、図書館のサーバーでも、ガードが堅すぎてお手上げでした」
戒無は、少し考えてから、慎重に切り出した。
「バベル・ハザード……知ってるか?」
寿理は、かすかに首をかしげる。
「二年前、中東の国がひとつ壊滅した、史上最悪の伝染病汚染でしたよね?」
「あれは、迫害されていた少数民族が、石油利権を餌に大国と結んで仕組んだ民族紛争だ」
「民族紛争? 仕組まれた伝染病汚染ってことですか? それが……バベル・ハザードの真相? でも、どうして戒無さんがそんなこと?」
戒無は、寿理から視線をそらした。
「俺が……。いや。俺とファランが、あの国を焼き払った。国境を封鎖し、何百万という民間人を閉じこめ、なんの罪もない子供や、女性を焼き殺した」
ゴクリと、寿理のノドが鳴った。
「二年前は仲良しだったんですか? あのファランと」
「東亜細亜連合も、レッド・クロイツも、己の利権を云々している場合じゃなかった。あのときは、もっとも効率的に、事態を終息できる人材が派遣された。それだけのことだ」
寿理は、動揺を鎮めるようにパチパチと目をしばたき、髪をかき上げた。
「な、なんか、凄いんですね、戒無さんたら……。やっぱ、水道工事なんか向いてないじゃないですかぁ」
「本当に、そう思うのか?」
戒無は、寿理を睨み付ける。
寿理は、うつむいた。
「いえ。アタシは、ケーキ作ってる戒無さんのほうが好きです」
戒無は、破顔した。
「だったら、見てないで手伝えよ。泡立てるのが一苦労なんだ……」
寿理はクスッと笑った。
戒無も笑った。
そして、不意に言った。
「何者かが、この国に、再び、バベル・ハザードを起こそうとしている」
寿理は笑顔を凍り付かせた。
急に大事なことを思いだして、息せき切って戒無に伝える。
「アイファンは……、ファランといっしょにいます。アタシ、見たんです。あの男が、アイファンを護るとこ……」
戒無も、お台場のカジノの前で花狼と遭遇したとき、リムジンの中から小さな手が見えたことを思いだした。
そして、教会での子供の泣き声……。
「んな場所で、活劇やってる場合かよ……あいつ……」
流れ弾が当たるまでもなく、爆風で飛ばされた木っ端が当たっただけでも愛芳は感染源になる。
「アイファンの懸賞金の出所、調べたか?」
「情報が錯綜してて、よくわかりませんでした。でも、これって、相当、趣味の悪い人が仕組んでますよね……。人間が嫌いっていうか……人を人とも思わないっていうか……」
寿理の感想は、とても素直なだけに、的を射ているような気がした。
戒無は、眉根を寄せると、難しい顔で考え込んだ。




