春美《チュンメイ》
●Scene-15. 2049.09.30. 03:25am. 一○年前 湘南 民家
楽園の夢は長くは続かなかった。
砂の城は、一瞬の波で跡形もなく崩れ去ってしまうのだ。
驟雨の夜、夜警の仕事をしている一誠が家を出た後、いつものように布団を敷いて、小龍、ニナ、春美と、川の字になって眠りについた。
明日、雨が上がったら、また海に行こうね、とニナと約束していた。
その未明。
裏通りに面した勝手口のドアが、ドン、と鳴った。
外から、誰かが体当たりをしたような音だった。
ハッと目を覚まし、様子を見に出ようと起きだした小龍を、春美が制した。
「危ないわ。私が見てくるから……」
小龍は、そっと首を横に振った。
「大丈夫。素手でも、相手がジランなら負けないから」
一瞬、哀しげな顔になった春美を残して小龍は勝手口へ急いだ。
ドア越しに気配を探る。
誰かがドアにもたれて座り込んでいるようだった。
荒い息づかいが聞こえる。
そして、かすかなうめき声。
「一誠さん?」
思い切って、小龍は声をかけてみた。
「ああ……。小龍か……。すまないな。ここに寄るつもりじゃなかったんだが……。最後に、一目、あいつらに会いたくてな……」
小龍は、勝手口の鍵を開けた。
ドアを開け、素早く周囲の気配を確認すると、腹から血を流している男を引っ張って、室内に倒れ込んだ。
「誰にやられたの?」
キッチンのタオルを無造作に取り、腹の傷に押しつけながら小龍は訊いた。
「レッド・クロイツの追っ手だ」
ピクンと、小龍の手がこわばる。
「俺のせい?」
一誠は、かぶりを振った。
「いや。私たちはずっと、追われているんだよ。春美をさらって逃げたときから……」
一誠の腹の傷からはドクドクと出血していた。
小龍の押さえたタオルが、ぐっしょりと濡れている。
すぐにきちんとした手当をしなければ命に関わる状態だった。
「一誠?」
声を聞きつけて、春美がパジャマ姿のまま出てきた。
大けがをした夫を見て、声にならない悲鳴を上げ、すぐさま夫にすがりついた。
春美の白いパジャマが、みるみる赤く染まっていく。
「チュンメイ、ここ、押さえてて。タオルは替えちゃだめだよ」
大出血のときは、当てているガーゼやタオルを頻繁に交換してはいけない。
新しい布が、どんどん血を吸うからだ。
小龍は、一誠の上着の内側、脇のあたりに釣っていたホルスターから、小さなブローニングを抜き出した。
「なにするの? シャオロン。ここは、日本なのよ!」
マガジンの装弾数を確認し、スライドを引いて薬室に弾を送り込む。
「平和は、闘って勝ち取るものだと、産まれたときから教わってきた。もちろん、間違ってるのはわかってる。だけど、俺には、これしかやり方がわからない」
「シャオロン……」
「一誠さん。銃を持っているのに撃たない勇気は素晴らしいと思います。でも、やつらには通用しない……」
一誠が苦しげな声で言った。
「おまえは……組織には死んだと思われている。縁を切るチャンスだ……。チュンメイと、ニナを連れて、逃げてくれ……頼む……」
這いずるように、小龍のほうに腕を伸ばし、一誠は、少年に哀願する。
小龍は迷った。
「あなたを置いて、チュンメイが逃げるとは思えない。所在は、もう連絡されてるだろうけど、今の追っ手を殲滅すれば時間はかせげる」
小龍は立ち上がった。
「チュンメイ、俺が出たら鍵をかけるんだ。窓から離れて、バリケードをたてて、そこでじっとしてるといい。すぐ、終わるから」
「追っ手は、レッド・クロイツのピュア・チャイルドだぞ! わかってるのか?」
小龍は、戸口の前で肩越しに振り返った。
「俺も、レッド・クロイツのピュア・チャイルドだよ、一誠さん。それに……。大切な人に置いてかれるのは、もう、嫌なんだ……」
勝手口のドアを開けた。
激しい雨が降り込んできて、追っ手の気配も、一誠が流した血も、かき消されている。
この様子だと、多分、銃声も周囲へは聞こえないだろう。
外へ出て、後ろ手にドアを閉めた。
顔に肩に、突き刺さるような雨が降っている。
楽園の扉を、死守するのだと心に誓った。
裏路地に出た。
両側を塀に囲まれた長さ五十メートルほどの路地だった。
そこには、人っ子一人歩いていない。
車も通らない。
雨で視界が悪く、動くものの気配すら感じ取れないほど、閉ざされた空間だった。
通りの前方に、黒いコートを着込んだ男が二人、現れた。
後ろにも、一人。
小龍の白いTシャツは、ぐっしょりと濡れそぼり、体に張り付いている。
まだ、線の細い少年だった。
その、膝下丈のハーフパンツから伸びる細い足が、タン! と地面を蹴った。
小龍は、塀を蹴って空中で宙返りをした。
その動きに反応して、男たちは銃を乱射する。
少年が宙を舞ったあたりで、雨に遮られ、男たちは目標を見失った。
パン! パン! 二人の男が、背後から頼りないほど小さい銃声を聴いたときには、もう終わりだった。
黒いコートの男が二人、後ろから延髄を撃ち抜かれて前にくずおれる。
男が二人、雨の中に倒れ込む瞬間、小龍は、通りの向こうにいた男に、照準した。
真っ正面から頭と心臓に二発。
一瞬で死体がみっつ。
雨の中に鮮血を滲ませていた。
しかし、目に見える敵だけを倒して安心はしない。
急いで、家のほうへとって返した。
ガシャンと、ガラスの割れる音が響いた。
――チュンメイ!
雨の中を疾駆した。
窓から家の中に侵入した男が、小龍に気づいて庭に向かってショットガンの雨を降らせた。
火がついたように、子供が泣き叫んでいた。
しかし、それは、まだニナは生きているという証明だ。
小龍は、庭の茂みから歩み出た。
家の中から、姿が見えるはずだ。
「表の三人は、制圧した」
銃を握った手を下げたまま、言った。
「シャオロンさま……?」
若いエージェントが窓枠に身を寄せ、外の様子をうかがって、声を震わせた。
まるで幽霊でも見たようだった。
「おまえの受けた命令は?」
雨に打たれながら小龍は問う。
「お、お答えできません」
「俺はチュンメイを護る。もし、相反する目的を持っているなら、敵同士だということだ」
瞬間、太い筒先が窓枠から小龍を照準し、バッと散弾が散った。
だが、すでにそこに小龍の姿はない。
窓の下に潜んだ小龍は、ショットガンのポンプアクションの音を合図に、窓際の男の頭に銃をつきつけた。
カラン、と空薬莢が床に転がる音が雨の中に響く。
男は、ピタリと凍り付いたように動きを止めた。
「も、申し訳ありません……。シャオロンさま……。わ、私は……」
小龍は、片手でひらりと窓枠を乗り越え、室内に入った。
男を威嚇したまま、室内を確認する。
ニナがテーブルの天版をこちらに向けたバリケードの向こうで泣いていた。
一誠を抱きしめた春美の肩が震えている。
春美の腕の中の男は、すでに息がないようだった。
小龍は唇を噛みしめた。
「何故、チュンメイやニナまで殺そうとする? これは本当に、皇飛龍の意志なのか?」
「そ、それは……」
小龍は、少し間をおいて尋ねた。
「ファランはどうした?」
「ジーン・クラッシャーM68を浴び、昏睡状態です。放射能被曝による遺伝子破壊と同じで、細胞の更新ができないと聞きました」
ジーン・クラッシャーM68。
あのとき小龍がそれを浴び、花狼が海中に逃げ延びていたならば、立場は逆になっていただろうか……。
「ファランの病状、詳しすぎるな……。どこからの情報だ?」
「う……」
小龍の脳裏に、金色の髪をしたあの男の不敵な表情が蘇った。
「……アイケか……」
ピクリと男の体が緊張する。
「ク……ククク……。第七帝国、バンザイ!」
男は、自分に勝ち目がないのを悟ったのか、ヤケクソでわめいた。
「逃げろ! チュンメイ!」
とっさに、小龍は叫ぶ。
同時に、男の頭を撃ち抜いた。
だが、間に合わなかった。
男は起爆装置を奥歯に仕込んでいた。
男の体に巻き付けてあった爆薬が爆発する。
まるで、アシファ・ナスルの自爆戦法と同じだ。
それとも、これはアイケの、小龍に対するメッセージか……。
ニナを抱いて、チュンメイの手を引き、窓から雨の降りしきる外へ転がり出た。
爆風と轟音がわき上がり、窓から炎の舌が吹き出す。
ニナを全身で護って地に伏した。
「っきしょー……」
腕を突っ張って半身を起こし、抱いた少女の無事を確認した。
腰のあたりに重みを感じて身をよじる。
春美が、ニナと小龍を庇うように覆い被さっていた。
「チュンメイ!」
「ごめんね……。失敗しちゃった……。私、ピュア・チャイルドのくせに、遅くて……」
春美の背中が、大きく抉れていた。
おびただしい出血が、雨で流されて行く。
言葉を失っている小龍に、泣き笑いのような表情で春美は言った。
「ごめ……。私のわがままに巻き込んで……。シャオロン。ニナを抗争の中へ連れていかないで……。お願い……ニナを、護って、ね……」
春美は、眠るような表情で逝った。
その身に受けた苦痛を推し量ることができないほど、安らかな、慈愛に満ちた死に顔だった。
小龍は、しばし茫然と春美の表情を眺めていた。
助けられると思った。
護り通せると信じていた。
自分には、それだけの力があるのだと自惚れていた。
けれども、それは子供の傲りだったのだ。
花狼を失い、今、また、春美をも失った。
大切にしたいものは、決して掴みきることのできない砂粒のように、指の隙間からこぼれ落ちて行く。
「かあさま……。かあさま……。かあさま……」
動かなくなった母にすがって、ニナが泣いていた。
泣かせたくなかったのに。
親子三人、ひっそりと平和に暮らさせてあげたかったのに。
災いを呼び寄せたのは、自分だと思った。
ニナの平和をうち砕いたのは、自分だと思った。
だから、なんとしてもこの子だけは……。
「ニナ……。お爺さまのところへ、連れてってあげるよ」
「かあさまも、とうさまもいっしょに?」
涙にうるんだ無垢な瞳が、小龍を責めているようだった。
小龍は、浅くうなずいた。
「ニナ……!」
ギュッと、小さなぬくもりを抱きしめた。
あまりに強く抱きしめたので、ニナは苦しげにイヤイヤをした。
けれども小龍は、力の加減をすることができなかった。
少女を抱きしめたまま、生まれて初めて、子供のように泣きじゃくった。
ニナは、泣き出した小龍に驚いて、小さな手でポンポンと彼の背中を叩いた。
優しく小龍の頭を撫でて、少し舌足らずな口調で、言った。
「なきむしのかみさま、なきむしのかみさま、ニナちゃんがポイポイしてあげますね。いっぱいないたら、しあわせになれますように」
手を握ったり開いたりしながら、ポイポイと小龍の頭から泣き虫の神様を放り出す仕草をする。
そして、きゅうっと、ありったけの力で小龍の頭を抱きしめた。
雨の中、ニナは日向の匂いがした。
優しい楽園の匂いだった。
小龍は、ニナを抱いて立ち上がった。
――さよなら。あなたが好きだったよ……。チュンメイ……。
少年の日の惜別は、うち砕かれた楽園の夢とともにいつも小龍の胸にあった。
ニナを連れて冬宮の屋敷を訪ねてからもずっと、護ることのできなかった女性への深い想いは、彼の心の奥底から消えることはなかった。




