仔猫と、最後の静かな海
●Scene-14. 2049.08.22. 10:14am. 一○年前 湘南 民家
小龍が、海沿いの粗末な民家で目を覚ましたのは、それから一週間後のことだった。
左の腕があたたかかった。
甘い、いい匂いがする。
鼻先に、ふわふわと猫の毛のようなものが触れて、くすぐったくて、小龍は目を覚ました。
大きな猫を抱いて、横になっていた。
いや。
小龍の腕枕でスヤスヤと眠るのは、猫ではなく、女の子だった。
小龍は混乱して、声をあげることはおろか、身じろぎもできなかった。
血なまぐさい謀略の船上から荒れる海へダイブして、目覚めると小さな女の子と添い寝しているという体験は、あまりないに違いない。
これは夢だ、と思った。
夢に違いないと、思った。
「んふう」
幸せそうな寝息をひとつ。
幼女はコロンと転がって、小龍の胸にすがりつく。
びっしりと密集した睫毛と、ちょっと半開きになったピンクの唇が愛らしかった。
小龍は、その寝顔を見つめながら、既視感を感じていた。
自分が、まだ幼かった頃、本部の温室でいつも居眠りをしている女性がいた。
そこに行けば、ぽかぽかの陽光が差し込む白いガーデンチェアにもたれて、彼女が眠っていた。
――チュンメイ……。
レッド・クロイツ総督の一人娘、皇春美だった。
彼女はいつも優しくて、温室の花々の中で春風のようにやわらかく微笑んでいた。
「あら、起きた?」
両腕いっぱいに洗濯物を抱えた女が、ベランダから入ってきて、小龍の側に歩み寄った。
「あー。また、ニナったら、いっしょに寝てる……。ごめんね、シャオロン。腕、痺れてるでしょ?」
自分の名前を呼ばれて、小龍は怪訝な顔になった。
女性は、クスッと笑う。
「もう、覚えてないかな?」
「……チュンメイ?」
小龍は、かすれた声で言った。
春美は、笑顔でうなずいた。
「一誠が、海岸で広東語でうわごとを言う少年を拾ってきたの。驚いたわ。再会できたのは嬉しいけど、こんな形じゃあね……。なにがあったかは、言いたくなければ言わなくてもいいわ。とにかく、回復するまで、ここにいらっしゃい」
昔と変わらぬ、優しい心遣いだった。
「ファランは……いっしょじゃなかった?」
小龍がためらいがちに訊くと、春美は、一瞬、戸惑ったような目をしたが、すぐに首を横に振った。
「ファランにもなにかあったのね……。でも、流れ着いたのは、あなただけだったわ」
小龍は大きく息をついた。
腕の中の女の子が身じろいで、パチッと大きな目を開けた。
春美に、そっくりだった。
「あー。おきたー!」
両手をバンザイするように伸ばして、幼女はちょこんと座り込んだ。
「おはよう。いっぱい、ねたね~」
小さな体をねじ曲げて、小龍の顔を覗き込む。
それが、まだ四歳だったニナとの出会いだった。
春美とニナのいる暮らしは、小龍にとって夢の世界のようだった。
照りつける夏の日差しと潮の匂い。
ニナと海岸に出て、砂の城を造ったり流木を拾ったりした。
ときどき、綺麗な貝が拾えることもあった。
夕方になると春美が呼びに来て、三人で手を繋いで帰った。
まるで、楽園のようだった。
あの日、本当は自分は死んでいて、さまよえる魂が楽園の夢を見続けているのではないかとさえ思った。
でも、それは即座に否定した。
ピュア・チャイルドとしてこの世に生を受けてからずっと、レッド・クロイツのために生きてきた。
初めて人を殺したのが、六歳のときだ。
人殺しは、天国へは行けやしないことを、小龍は知っていた。




