ダークホース
翌朝六時半。既に太陽はのぼり、住宅街にヒヨドリのさえずりが跳ね中、俺は剣道部の朝稽古を前倒しで済ませ、汗の塩気の上に微かにミントの香りが残るボディシートで首筋を拭きながら昇降口をくぐる。濡れた髪をタオルごしに乱雑に払い、何気なく顔を上げた途端――薄桃色の影が視界に飛び込んできた。
「おはよ、ガクト!」
弾ける声とともに沙羅が駆け寄る。日焼けした脛を朝露が艶めかせ、髪はハーフアップでまとめたらしく、揺れるリボンからフローラルシャンプーの匂いがふわりと漂った。いつものように俺の前に来て、上目遣いにどこか緊張した笑みを見せる。
「いよいよ今日だね。……緊張してる?」
「俺より、お前の方がワクワクしてる顔だろ」
「へへっ、バレた? でもね、僕、ガクトの戦いちゃんと見届けるから!」
「セコンドなんだから当たり前だろ。」
満面の笑みに胸の奥がくすぐったく疼き、思わず目を逸らした――その刹那、背後からヒールの爪先がタイルを叩く乾いた音。
「あらあら…朝から仲睦まじいことですね」
振り向けば、白いレースのパラソルを肩に携えた服部千奈が立っている。薄い紅を引いた唇が皮肉げに歪み、その傍らでは兄・真蔵が腕を組み、落ち着いた視線をこちらへ向けていた。夏空色のジャージの前を無造作に開き、Tシャツの胸元には“FIGHT & LOVE”のプリント。笑う角度でアルファベットが波打つ。
「皇先輩。決勝で俺に斬り伏せられる、その覚悟はできていますか?」
服部が唇の端を吊り上げる。沙羅は眉根を寄せ、にじり寄りながら言い返した。
「戦う覚悟ならガクトだけじゃなく、僕もできてるよ!」
「あら、沙羅先輩も勇ましいですね」
千奈が扇子で口元を隠しながら話す。
「でも優勝をするのは結局、うちの兄……“本物”だけですよ。なので是非、華を添えて頂けると嬉しいです」
乾いた嘲笑が石畳に散り、湿った朝風がそれをかき消した。俺は千奈の視線を真正面から受け止め、短く息を吐く。
「決勝で会おう。それまでは負けるんじゃないぞ。」
「当然です」
自信ありげに答える服部。
「あ、それと…おい、服部妹!」
「千奈です!」
「お前、中学校サボるなよ!」
「今日はちゃんとお休み届を出しました!」
顔を真っ赤にさせながら反論する千奈。中学生らしさが垣間見えた気がした。
そう話した直後、低いドスンという足音が近づき、校舎の影が一気に暗くなった。2メートルを優に超える巨躯、無骨なジャージ姿――アンドー先輩だ。鋭い鼾のような呼気を漏らし、鮮やかな薔薇色のスポンジソードを肩に担ぐと、単語を叩きつける。
「オレ オマエノ ライバル」
響く一言に廊下の空気が震えた。真蔵でさえ一瞬目を見開き、千奈はパラソルをたたむ手を止める。アンドー先輩は表情ひとつ変えず立ち去り、その後ろ姿を見送る誰もが言葉を失った――まるで巨大船が濃霧に消えるように。




