張り出された宿命
七月、梅雨の名残がまだ校舎の隅々に潜んでいる。廊下に据え付けられた古い換気扇が、湿った空気を押し出すたびに金属がぎい、と悲鳴を上げた。柔らかな晴れ間から差し込む光は曇ったガラスを通って蒸し暑さを増幅し、ワックスで磨かれた床からは甘い薬剤の匂いが立ち上る。遠くの教室では扇風機がうなる低い重奏と、教師が黒板を叩くチョークの乾いた音が重なり、まさに“夏前”と呼ぶにふさわしい騒がしさだった。
その廊下の一角。掲示板に貼られた一枚の大判用紙の前に、人だかりが渦を巻いていた。紙面に並ぶ四十八の名前と、シードを示す太線。それは桜が丘高校“大スポーツチャンバラ大会”トーナメント表――今、校内で最もホットな話題の中心だ。
俺――皇ガクトは、湿ったシャツの襟を片手で仰ぎながら人波をかき分ける。途端に、涼しげな声が背後から響いた。
「なんか、夏の甲子園のトーナメント表みたいですね」
眼鏡の奥で黒曜石の瞳をきらりと光らせ、遠ヶ崎由比が俺の脇に立つ。彼女の髪は汗を帯びた首筋に貼りついているが、ポニーテールの結び目は乱れない。続いて、イルカの髪留めを揺らしながら妙義沙羅が軽やかに駆け寄り、手を軽く振った。
「ねぇ、ガクトはもう見たの?」
「いや、これからだ」
「そっか、僕たちもこれからだよ」
他愛ないやり取りを交わし、三人で掲示板に目を向ける。右上、墨痕鮮やかな題字――『最強は誰だ!? 大スポーツチャンバラ大会』――は生徒会書記・アンドー先輩の筆になるものだ。弧を描く太い払い、紙面を貫く鋭い止め。書道室に漂う墨の深い香りまで想起させる見事な筆致だ。
「ん?」
俺は眉を寄せた。題字の真下、やけにポップなサインペン書体が踊っている。
『命短し恋せよ!乙女&少年!意中のあの人に告白するチャンスを生徒会はご用意します。ご相談は生徒会まで♡』
沙羅が目を丸くした。
「なにこれ! どういう意味? ガクトも一応生徒会でしょ?」
「知らん……」
「生徒会の『さしみのツマ』とは皇先輩のことですね」
由比が小声で毒を滴らせる。俺はむっと肩をすくめ、話題を強引に対戦表へ戻した。
「そんなことより対戦表だ。俺の相手は……」
視線を巡らせた、その時だった。
「まぢかよぉぉ!!」
廊下に悲鳴が木霊する。振り向くと、クラスメートの佐々木が目を剥いてこちらを指差していた。細身の体を震わせ、汗に濡れた前髪が額に貼りついている。
「お前! 皇! トーナメント表はお前が仕組んだろ!」
怒声とともに掴みかかる彼を、俺はひょいと身を捻ってかわした。背後の掲示板に体をぶつけた佐々木が唸る。
「あん? なんのことだよ?」
俺が訊くと、彼は震える指で表を示す。一回戦第一試合――『佐々木 VS 皇』。
「ご愁傷様!」と沙羅が悪びれなく笑い、佐々木は「くっそぉぉお!」と悔しさを吐き散らす。彼の肩越しに改めてトーナメント表を眺めた俺は、ふと己の位置に違和感を覚えた。
「俺、シードじゃないじゃん……」
四十八名中、ところどころに設けられたシード枠。しかし俺の名はなぜか一回戦から。視線を下へ滑らせると、注意書きが小さく踊る。
『トーナメント組み合わせは生徒会長の独断と偏見で厳選しております。』
「相撲協会の取り組みかよ……」
ため息とともに、対戦予定を確認する。初戦は佐々木。勝てば二回戦はシード選手、高坂万丈――フェンシング部主将にして、都大会三位の実力者。三回戦は、おそらくスポーツチャンバラ同好会の新田芳樹。準決勝以降は読めないが、対角線のブロック最終試合に服部真蔵が控えている。雪乃会長の思惑は明白だ――俺と服部を決勝までぶつけない布陣。笑みが喉奥からこぼれた。
「ん? これ……アンドーって、アンドー先輩か?」
Cブロック中央に、達筆な筆名そのままの“アンドー”が鎮座している。生徒会書記がなぜ――考え込む俺の背で、沙羅が腕を組んだ。
「どお? 勝てそう?」
「わからない、皆強そうだ……」
「フフフ、それ、謙遜になっていないよ!」
沙羅は鼻を鳴らす。由比が眼鏡を押し上げ、感情の読めない微笑を浮かべた。
「皇先輩、命短し恋せよ、らしいですよ。優勝者には“ご褒美”があるとかないとか」
「雪乃が流した噂か……」
俺は首筋を撫で、汗と共に覚悟を握りしめる。まだ湿り気の残る夏の始まり。扇風機の生ぬるい風が、トーナメント表をぱさりと揺らした。紙の震えはまるで、これから始まる熱戦と、青春の行く末を告げる前奏曲のようだ。
決めた。まずは佐々木だ。次いで高坂、そして――服部。剣道を捨てなかった俺の魂と、沙羅への想い、そのすべてを発泡ウレタンに託して振り抜く。遠くの体育館からホイッスルが鳴り、蝉の声がそれに重なる。湿度も雑音も、不安も――すべて刀身に塗り込め明日に備える。
遠ヶ崎由比の声が、澄んだベルのように響いた。
「皇先輩、じゃあまた放課後。囲碁将棋部でトーナメントの“解析”しておきますので」
「お、おう……」
沙羅は小さく笑い、俺の背をぽんと叩いた。
「大丈夫、僕は信じてるから!」
彼女の掌に宿る温もりが、湿った空気を溶かして心臓へ染み込む。俺は深く頷き、トーナメント表を最後にもう一度見上げた。墨色の“最強は誰だ!?”が、陽光を受けた汗の匂いとともに空間で滲む。その下で小さく輝くサインペンの文句――“命短し恋せよ”――は、どこかいたずらに笑っているようだった。




