夜の窓越しに
近所の雑貨屋で沙羅との話しが中途半端に終わったその夜にこと、玄関が少し騒がしいのに気がついた。風呂上がり、まだ髪を拭いていた時だった。二階の自室から階下を覗き込むと、俺の母親と誰かが話している。見れば、沙羅の母親だった。
「……沙羅ちゃんはうちに泊まればいいのに。うちの子も、久しぶりにうちでおしゃべりしたいと思うわよ」
俺の母親んの言葉に、沙羅の母親は困ったように笑っていた。
「私もそう言ったんだけど……お年頃なのか、どうしても自分の家にいたいって言い張ってね。」
そして俺の母親に家を空ける旨を、沙羅が一人残るので気にかけて欲しい旨を伝える。
「義父は今夜にも、というわけじゃないのだけど……念のため、夫と一緒に向かうことにしたの。とりあえず明日の午後には戻るつもり」
「分かったわ。気にしておくから、安心して行ってらっしゃい」
「助かるわ……ほんと、ありがとう」
そんな会話のあと、沙羅の母が足早に玄関を出ていく。
二階から聞いていた俺に、俺の母親が声を上げる。
「あんたも聞いたでしょ! 沙羅ちゃんの顔、寝る前に一回見てきなさい!」
「……ああ、分かったよ」
自室に戻りタオルをベッドに投げて椅子にかけると、窓際に歩み寄り、レバーを下げて窓を開けた。
むわっとした空気が肌にまとわりつく。湿度が高い。雲は低く速く、空の色は墨のように重たい。ニュースでは今夜から明け方にかけて、強い低気圧が通過するという話だった。
遠くの空が、かすかに光る。まだ音は聞こえない。
そんな夜の空気の中で、俺の頭に渦巻いているのは——沙羅のことばかりだった。
(……あのとき、俺は何を言おうとした?)
「思ってるに決まってんだろ……あいつと付き合うとか、俺が気にならないわけないだろ」
夕方、雑貨屋の前でのあのやり取り、それを沙羅に伝える前に沙羅の母親が来て、終わってしまった。あのまま話が続いていたら、俺たちは少しでも前に進めていたのだろうか。
(考えても分かんねぇ)
だったら、直接沙羅に話しかけるしかない。俺は窓枠に手をかけて、隣の家のほうを見やる。沙羅の部屋、あのカーテンの向こう。
風に乗って流れる雲の隙間から、月がほんの一瞬だけ顔を出した。
俺は深呼吸して、声を張り上げた。
「沙羅〜!」
夜の静けさに響く声。周囲の家には寝ている家庭もある時間だというのは分かっているけど、そんなこと気にしていられなかった。
……しばらくして、カーテンが少し揺れた。
中に人がいるのは、間違いない。
(……無視か?)
もう一度、今度は少し控えめに呼びかける。
「おい、沙羅。起きてるんだろ?」
すると、ようやくゆっくりとカーテンと窓が開かれ、沙羅の顔が現れた。寝巻きのまま、髪が少し乱れている。
「……何?」
「何じゃねぇよ。お前、今夜、留守番なんだろ? おばさんからも聞いた。ちょっと気になっただけだ」
「……あっそう。じゃあもう、用は済んだ?」
そう言って、沙羅はカーテンを閉めようとする。その瞬間、俺の中の何かが騒いだ。
「……なあ、夕方の話の続きだけどさ——」
「もういい。放っといてよ」
沙羅の声は鋭く、冷たかった。その一言に、俺は思わず言葉を詰まらせる。
(……マジで拗ねてる?)
心の中で呟きながら、ため息をつく。窓枠に肘を乗せ、沙羅の顔をまっすぐに見た。
「お前さ、俺が何かしたか?」
言ってからすぐに思う、違う。俺はこんなことが言いたかったんじゃない。
沙羅の顔に、驚きが一瞬だけ走る。でも、すぐに目を逸らして、小さく首を振った。
「……別に、何も」
「じゃあ、なんでそんなに俺を避けるんだよ」
言葉が、やっぱり素直に出てこない。言いたいことと、口から出る言葉がズレていく。そうじゃない、俺は——
「お前が何考えてるのか、分かんねぇんだよ」
その言葉に、沙羅はしばらく黙っていた。強まる風が、家の外壁を叩く音を連れてくる。
沈黙の後、ぽつりと、沙羅が呟いた。
「……分かんなくていいよ」
そして、そのまま静かに窓とカーテンが閉められた。
俺はしばらく、そのカーテンを見つめていた。
(……何やってるんだろ、俺)
もう一度、空を見上げた。黒く濁った夜空の端に、稲光が走っていた。




