種まき
東京湾岸の静かな夜。潮風が高層マンションの壁をなでるように吹きつけ、レースのカーテンが微かに揺れていた。
服部千奈は、自室のベッドの上に腰掛けて、携帯電話を静かに耳に当てた。ディスプレイには「小早川雪乃」の文字。数秒のコールの後、落ち着いた声が応答した。
「はい、小早川です」
「夜分に失礼致します。服部千奈と申します。兄と沙羅先輩のデートの際にはお世話になりました」
「あら、服部くんの妹さんね。直接、お電話とは……どんなご用件かしら?」
雪乃の声には、わずかな警戒がにじんでいた。あの日、沙羅と服部のデートを尾行した際に、ガクト、千奈、雪乃の三人は連絡先を交換していたとはいえ、不意の電話にはそれなりの緊張が走る。
「実は、うちの兄が先日のデートから大きく進展しまして……沙羅先輩と交際を始めるようなんです」
「……何ですって!?沙羅さんが、服部くんと? そんなはず……」
電話の向こうから聞こえる雪乃の声は、静かに動揺を含んでいた。小さくブツブツと何かを呟いているのがわかる。
「ごめんなさい。兄の口から直接聞いたわけではないんです」
「そ、そうなの? じゃあ……誤認という可能性もあるのね」
「ええ、十分に。でも兄ったら、きょうやたらとテンションが高くて……おそらく、交際となったのではないかと」
千奈の声には確信とわずかな揺らぎが混ざる。
「それで、沙羅さんと服部くんが交際したことを、なぜ私に?」
雪乃の問いに、千奈は一呼吸おいて答える。
「あの日、三人で尾行した仲ですし……それにもう一人の、皇先輩。あの方が沙羅先輩に好意を抱いていたのではないかと、思いまして」
雪乃はその言葉にしばし沈黙した。
「……あなた、何か良からぬことを考えているわね?」
千奈は少しだけ微笑みながら、声の調子を落とさずに返す。
「いえ、そんなことは。ただ……兄のことが心配で。もし我が兄が、皇先輩の好いている女性を奪ったとなった場合、同じ剣道部に所属している兄が、皇先輩に……いじめられたりしないかと」
「あなた、ガクトくんを舐めすぎてるわね。彼はそんなこと、絶対にしないわ」
「どうして言い切れるんです? 私は中学校時代の皇先輩のことを知っています。あまり評判の良くなかった部活に……」
「私はその頃の彼を知らない。でも、今の彼を1年以上見てきた。彼がそんなことで人を傷つけるような人間じゃないって、私は知っています」
雪乃の声は凛として、揺るぎがなかった。
「あなたが何を考えていようと、良からぬ試みは……大事なお兄さんにも影響すること、覚えておいて」
「それって……脅迫ですか?」
「いいえ、警告よ」
「では、私はこれからお風呂があるので失礼致しますね」
その言葉を最後に、雪乃の電話は切れた。
ディスプレイの表示が暗転するのを見つめながら、千奈はにっこりと笑った。
「さすがは桜が丘高校の生徒会長……思い通りには動いてくれそうもありませんね。でも……これで、種は蒔けました」
独り言のようにささやくと、千奈はリビングへと向かった。
リビングには、ソファに横たわる兄・真蔵の姿。無防備に寝息を立てている。
「お兄ちゃん?……あらあら、寝てしまいましたか…風邪をひいてしまいますよ…」
千奈は兄にブランケットをそっと掛け、兄の頭を自分の膝にのせる。そして優しく髪を撫でた。わずかに反応する兄。
「んにゃ…」
そんな兄の寝顔をのぞき込みながら髪を撫で続ける千奈。
「ふふふ……大丈夫ですよ、お兄ちゃん。きっと……沙羅先輩は振り返ってくれますから……」
夜の窓の向こうでは、街の灯りが瞬きながら、夜風に滲んでいた。




