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流血

それから、数日が経った。


 屋上でのあの出来事――由比と沙羅の間に割って入るでもなく、ただ静かに距離を取った自分の行動が、頭の片隅にずっと引っかかっていた。


 けれどそのモヤモヤは、時間とともに、少しずつ――本当に少しずつ、剣道の鍛錬の中で薄らいでいった。


 春期大会が目前に迫っていたというのもある。

 俺は部活に加えて、自主練も本格化させていた。


 朝は夜明け前に起きてランニング。

 学校から帰ってきたら庭でひたすら竹刀を振る。

 夕飯のあとには、胴着を着込んで公園へ。

 人気の少ないその場所で、イメージトレーニング――いわゆる、シャドーボクシングのような一人稽古に励む。


 夜風を斬るように竹刀を振り、目の前に浮かぶ“敵”に向かって打ち込む。


 「面!胴!小手っ!」


 素足に芝生の感触が心地よい。

 額を伝う汗が顎を滑り落ち、道着の襟元を濡らした。


 ……考えすぎるのは、俺の悪い癖だ。

 余計な感情は、こうして体を動かせば、少しずつだけど、消えていく気がする。


 そうして、俺の生活は一年前と同じ――「鍛錬」だけに戻るはずだった。


 ……が、そうは問屋が卸さなかった。


 原因は、妙義沙羅だ。


 ある朝、玄関の扉を開けた俺の前に、制服姿の沙羅が立っていた。


「おはよう、岳人!一緒に行こ!」


 軽やかな声と笑顔。


 俺は一瞬たじろぎながらも、「……いや、俺、自転車だから」とだけ言って、自転車を押し出す。


 が、次の日も、またその次の日も、沙羅は変わらぬテンションで家の前に現れた。


「おはようっ!」


 どれだけ避けても、必ず「また明日ね!」と笑顔で手を振る。

 俺の親と、沙羅の親が揃って立ち話をしていたりすると、ますます無下にはできず……俺は仕方なく、家から少し離れたところまでは、彼女と歩いていく羽目になっていた。


 そして、道が分かれるとき、俺は毎回、こう言う。


「悪い、今日は寄るとこあるから」

「俺、朝練あるし」

「……昨日の筋肉痛がまだ抜けなくて、自転車で行く」


 もちろん全部嘘だ。でも、沙羅はそれに文句を言わない。

 ただ少し寂しそうに笑って、手を振る。


 ……それが、逆に堪えるんだ。


 それだけじゃない。


 学校でも、沙羅は俺を避けるどころか、どんどん詰め寄ってきた。


 昼休み、俺が教室で静かにパンを食べていると――


「岳人〜〜〜!」と廊下から叫びながら突撃してくる。


 授業の合間の短い休み時間にも、教室の後ろのドアからひょっこり顔を出して、「ねぇねぇ、今日の体育って、何やるの?」とか話しかけてくる。


 さらに体育の授業中。

 校庭の隅で100m走の準備をしているとき、校舎の二階の窓から身を乗り出して、笑顔で手を振ってきた。


「がーくーとー!こっち見てー!」


 周囲のクラスメートがざわつく中、俺は見なかったことにして黙々とスタートラインに立った。


 そんな調子だから、昼休みや放課後も、当然のように押しかけてくる。


 俺が静かにしたい時でも、容赦なく。


 その度に俺は適当にあしらっていたが、最近はもう、完全に日常の一部になってきている。


 まるで「山崎ちゃんは 遊びたい」のヒロインのように沙羅はめげない。





 その日も、沙羅は変わらず俺の教室にやって来た。


 チャイムが鳴ってすぐ、廊下に響くあの元気な声。


「皇先輩、いませんかー?」


 クラスの何人かがちらりと視線を向ける。

 けれど、もうそれに驚く者はいなかった。

 ここ数日、彼女が昼休みに現れるのは日常になっていた。


「購買部行ったよー」


 沙羅の呼びかけに、窓際にいた鈴木智子が、やや投げやりに応じる。

 スマホをいじりながら、飴を口に入れつつ、表情は特に変えずに。


「ありがとうございますっ」


 沙羅がペコリと頭を下げ、踵を返して教室を出ようとした——そのときだった。


「おい、ちょっと待てよ」


 教室の後方から、ねちっこい声が飛んだ。


「……お前、1年だろ? なんで2年の教室に来てんだよ?」


 声の主は、佐々木。

 あの、細身でひょろ長く、そしてどこかいつも卑屈そうな男。

 今では目立たなくなったが、かつて俺をパシらせようとしたこともある、どうしようもない小悪党。


「あ、あの……皇先輩に、お昼……」


 沙羅が答えかけたその言葉を、佐々木は遮った。


「へぇ〜……皇の知り合い、ねぇ……」


 ニヤついた顔で、沙羅の体を上から下まで舐めるように見つめる。


「なんだ、意外と……いいじゃん、お前」


 沙羅がぴくりと肩をすくめる。鈴木が立ち上がった。


「佐々木、やめなよ。怖がってるじゃん、見てわかんないの?」


「うるせぇよギャル。てめぇには聞いてねぇっつってんだよ」


 佐々木の口調が荒くなる。鈴木が一歩引くと、佐々木は勝ち誇ったように笑い、さらに沙羅ににじり寄る。


「なぁなぁ、うちの部室、冷蔵庫あんだぜ?コーラとかあるしさ。そっちで一緒に昼食おうぜ?」


 沙羅が慌てて言葉を探す。


「えっと、僕、次の授業の準備が……あるから……」


「まぁまぁ、準備なんかあとでいいだろ?」


 と、教室の外から新たな影が二つ現れる。


「おーい、佐々木、なんかあったのか?」


「ん?いや、ちょっと可愛い子見つけたから、昼誘ってただけだよなぁ?」


 佐々木が沙羅の肩に手を回す。沙羅が小さく震える。


「ちょっと……離して……」


 仲間のひとりが笑いながら言う。


「うっわ、可愛い声〜。マジ部室連れてこーぜ?」


 もう一人が、悪ノリで囁く。


「帰りたくねぇとか言ってたら、コーラで手ぇ打つか?」


 教室の空気が、一気に濁った。


「……皇くんに知らせなきゃ!」


 教室の隅で成り行きを見ていた五郎丸が、眼鏡を押さえてそっと立ち上がり、そっと教室を後にする。


 その背中を、佐々木たちは気にも留めなかった。


「じゃ、部室いこうぜ。な?」


 沙羅の腕を取り教室を出る佐々木。


 廊下に引っ張り出された形になった沙羅は反射的に逃げようと身をよじった。


「いや、ほんとに、やめてください……!」


 ――その時だった。


 佐々木が沙羅の肩を引き戻し、廊下のガラス窓に押し付けるようにした、その瞬間。


「くっ……!」


 ガシャッ!


 鋭い音とともに、窓ガラスが砕け散った。


 沙羅の頭が当たり、ガラスの一部が割れたのだ。


「うわっ!? おい、お前、やりすぎだろ!」


「ち、違っ……俺じゃねぇよ!」


「マジかよ、ガラス割ったぞ!?」


 ざわめきが教室中に広がる。鈴木が青ざめた顔で叫ぶ。


 そして、沙羅の顔から、赤い血が流れ始めていた――。

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