いいわけ
屋上での出来事の後、その日の午後――
俺の心には、ずっと引っかかるものが残っていた。
昼のチャイムが鳴った瞬間、焼きそばパンを握りしめて駆け上がった屋上。
そこで待っていたのは――沙羅と、もう一人。ポニーテールにメガネの、あのクールな女子。たしか、遠ヶ崎だったか。
あの時、あの場の空気が、息詰まるように感じた俺は、二人から少し距離を取った。言葉通りに彼女たちから離れたんだ。
それが、あのときの“正解”だと思った。
俺があの輪にいたら、空気を重くするだけ。邪魔になるだけだって。
……でも、それは本当に正解だったのか?
五限目、現国の授業中。
教科書を読む声が教室に響くなか、俺はぼんやりとノートを眺めていた。
窓から差し込む春の陽射しが、白いカーテンの裾をゆらりと揺らしている。
微かに聞こえる鳥の声。
数日前に散った桜の花びらが、風に舞って窓ガラスに張り付いた。
午前中と同じ穏やかすぎる風景だが、今は胸のざわつきを際立たせる。
……沙羅は、たしかに何かを話そうとしていた。
由比も、それを静かに聞いてそれにうなずいていた。
あの瞬間、たしかに“場”はまとまりかけていた気がする。
もし俺があのままそこに残っていたら、和やかな昼休みになっていたんじゃないか――
……なのに、俺は。
……俺は、女、特に同年代の女子との会話が苦手なんだ
小さくつぶやき、机に頬杖をつく。
いや、たぶん同じ年頃の男子の多くがそうだろう。
俺だけじゃない、そう――俺はおかしくない。……はずだ。
女子と一緒にいるのは、昔から得意じゃなかった。
特に中学三年の卒業式以降は……苦手というより、“無理”だった。
話題もよくわからないし、何を考えているのか全く読めない。
そして俺の気持ちも考えずに、笑いながら鋭いナイフのような言葉で俺を傷つけてくる。
俺があの場に居座っていたら、彼女たちは言葉の暴力を振るってきたかもしれない。そして俺も反発し場の空気を壊していただけだ。
だから、あの選択は――間違ってなかった。……そう、自分に言い聞かせる。
でも――
再び自問自答……
胸の奥で、言葉にならない重さが渦を巻いている。
「……くそ、なんだよ、これ……」
自分の気持ちに振り回されて、頭がまとまらない。
俺がいちばん嫌いなやつだ、こういうの。
正しかったのか、間違っていたのか。
もう、自分でもよく分からなかった。
「面ありーっ!」
乾いた音が、道場の板張りに鋭く響いた。
竹刀がぶつかり合い、打ち込み、打ち返し、間合いを詰め、躱し、振り直す。
いつもなら稽古に集中して、頭の中は無になっていくはずだった。
だがこの日は違った。
雑念が拭えない。
気づけば、またあの場面が脳裏にちらついている。
屋上のことだ。
沙羅のとなりにいた、あの遠ヶ崎って子の表情。
俺が立ち上がって離れようとした時、沙羅がちょっとだけ驚いた顔をしたように見えた。
あれは?どんな意味があったのだろうか?
自分の中の言い訳と後悔が、ずっと頭の中でグルグルと押し問答をしてる。
そんなモヤモヤを引きずったまま迎えた、放課後の稽古。
掛かり稽古の時間になると、俺の前に立ったのは、一年の服部だった。
真面目で、負けず嫌いで、剣道に対して誠実すぎるほどの後輩。
全身から“まっすぐ”って言葉が溢れてるようなやつだ。
「お願いします!」
礼儀正しく頭を下げ、背筋をピンッと伸ばして構えに入る。
こっちも無言で構えた。
打ってこい、と目で伝える。
服部は一気に距離を詰めてきた。竹刀がこちらの面を狙う。
受ける。打つ。返す。
面、小手、胴――容赦はしない。
小学校から続けていたという正統派の剣道はまだ荒削りだ。踏み込みも浅い。だが、目だけはいい。
迷いがない。それだけで十分、強い。
一本取っても、服部はすぐに立ち上がる。
「もう一度お願いします!」
その声に、また構える。
道場の隅では、見学している2年や3年がひそひそと話していた。
「無理だろ、岳人先輩に勝てるわけないって」
「でも服部、すごいな……何本やられても下がんねぇ」
……わかってるよ、そんなこと。
こいつに、今の俺を止められるわけがない。
でも、それでも、服部は来る。
「お願いします!」
数回目の打ち合い。
鋭い一撃を読み、竹刀を捌いて俺は一歩前へ――
「面ありっ!」
服部の面を正確に打ち抜く。
竹刀が服部の頭頂部に衝撃を与える。ぐらりとよろめいた服部が、道場の床に膝をつく。
静寂が落ちる。
ゼェゼェと浅い息を繰り返す服部が、それでも俺を見上げて言った。
「……も、もう一度……お願いします……!」
その声を聞いて、俺は……なぜか、苛立ちが湧いた。
自分でも分からない感情だった。
なのに――
「どうせ、勝てねぇんだから。やめとけよ」
言った瞬間、自分の声が耳に痛かった。
道場内が、水を打ったように静かになる。
服部の目が、驚きと戸惑いを滲ませながら、俺を見ていた。
俺は、竹刀を持つ手にぐっと力を込める。
……なに、言ってんだよ俺
「……今の、ちょっとひどくないっすか」
誰かが小さくつぶやく。
「服部、真面目にやってただけじゃん……」
「皇先輩、あんな言い方……」
ざわざわとざわつく周囲。
だけど俺は何も返せなかった。返せる言葉が見つからなかった。
そのとき、足音が近づいてくる。重く、ゆっくりと、でも確かな歩幅で。
声をかけてきたのは、剣道部部長・霧山竜司だった。
「岳人、今日はもう上がれ」
怒鳴るでも、咎めるでもない。
ただ、静かに――突き放すような声だった。
「……はい」
俺は竹刀を納め、黙って頭を下げる。
視線の隅で、服部が黙って立ち上がってるのが見えた。
俺はそのまま、道場を出て、シャワー室へと向かった。
冷たい水で汗を流し終え、ロッカー室を出ると、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。
剣道部員はまだ練習の最中だが、俺は道場にお辞儀だけしてその場を後にする。
春の陽射しが和らぎ、代わりに少しだけ肌寒い風が頬を撫でる。
グラウンドでは野球部が整備作業をしていて、トンボでならされた赤土に乾いた砂埃が舞っていた。
その匂いが鼻に抜けて、なんとなく、一日の終わりを感じさせる。
体育館の裏手からはサッカー部の声が響くが、何を言っているのかは耳に入ってこなかった。
ただ、さっきの自分の言葉だけが、頭の奥に何度も何度も響いていた。
――「どうせ勝てないからやめとけよ」
……あれは、服部に言ったんじゃない。
俺自身に言ったんだ。
逃げてるだけの自分に。
空気を怖がって、女を怖がって、誰かと向き合うのを避けている情けない自分に。
自嘲気味に小さくため息を吐きながら、自転車を押しながら校門へと向かう。
そして、そこで足が止まった。
「……岳人!」
木の影から姿を現したのは、沙羅だった。
制服の上に薄手のカーディガンを羽織り、髪をゆるくひとつに結んでいる。
スクールバッグを肩にかけ、じっと、まっすぐ、俺の顔を見つめていた。
「お前……なんで、ここに?」
俺の問いに、沙羅は少しだけ困ったように笑った。
「うん、早く陸上部が終わったんだ。道場の電気もついていたし、岳人が来るかなと思って……待ってた」
言いながら、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。
「……帰ろっか、一緒に」
「……いや、俺用事あるから」
沙羅は慌てて言葉をつけたす。
「私も一緒に……」
その返事を聞かずに自転車のペダルに力を入れて俺はこぎ出す。
後ろで沙羅の呼ぶ声が聞こえたが、そのまま振り切るように自転車をこいでいく。
この時、沙羅は一瞬追いかける様子を見せたがすぐに立ち止まった。
彼女のシルエットが校門と共にどんどん小さくなる。
「俺、最低だ……」