次期生徒会長?
その日、校舎の陰は少し長く感じ、風は涼しかった。
体育祭の喧騒が終わり、ひと段落ついた放課後。
俺――皇 岳人は、いつものように剣道部の稽古を途中で抜け出し、ふらりと非常階段に足を運んでいた。
何となく、誰にも会いたくなかった。何となく、面倒なことから逃げたかった。
「……やっぱり来たのね。」
手すりにもたれ、風に黒髪を揺らしていたのは、小早川雪乃。桜が丘高校生徒会長。誰もが一目置く完璧超人にして、誰よりも自由を好む怠け者。その裏の顔を、岳人だけは知っている。
「また逃げてるの?」
「……お前に言われたくねえよ」
肩をすくめて隣に立つと、雪乃は目を細めて笑った。
「じゃあ、そろそろ逃げ道を一つ、塞ごうかしら」
「は?」
雪乃はひと呼吸おいて、さらりと言った。
「次期生徒会長になりなさい、岳人くん」
「……は?」
言葉の意味が頭に届くまで、数秒かかった。岳人は思わず眉をひそめる。
「お前、何言ってんだ?」
「私は本気よ」
雪乃は空を見ながら、淡々と続けた。
「あと少しで任期が終わるわ。選挙はその前にあるし、後任を決めなきゃならない。私としては、あなたが適任だと思ってるの」
「いやいや待て待て、俺は剣道部員だぞ?」
「でも……剣道部で、最近結果が出せなくて焦ってるんでしょう?」
図星を突かれた。言葉に詰まる。
「それなら、新しい舞台に立ってみたら? ね?」
「……別に焦ってねえし」
「嘘ね」
雪乃の声が、冷たいほどに静かだった。顔を向けると、彼女は真っすぐに岳人を見ていた。
「本気で剣道を続けるなら、それでいい。でも、どこかで『もういいや』って思ってる。違う?」
心を読まれたような錯覚。
ここ最近、負けが続いていた。どれだけ稽古しても感覚が戻らず、昔のように竹刀を振る喜びを感じられない日もある。ふとした時に、「もういいかも」と思ってしまう自分がいる。それを認めたくなくて、誰にも言わずにいた。
「……なんで、そんなこと言うんだよ」
「私が見てるからよ」
雪乃は視線を落とさず、静かに言った。
「あなたは、誰かの背中を押せる人。集団を動かす視線と、覚悟を持っている。26億円の時もそう、そして体育祭の黒組をまとめてた時もそう、見ていてそう思ったの」
「……流されてただけだろ」
「それでも引っ張れていたわ。言葉より、行動で示せる人って貴重よ」
風が、髪をさらう。
「岳人くん。剣道だけが道じゃない。私たちはまだ、どんな未来も選べるの。だったら、違う景色を見てみてもいいんじゃない?」
それは、強制ではなかった。ただの“選択肢”として、彼女は差し出していた。
岳人はしばらく黙っていた。視線の先には、夕暮れに染まるグラウンド。いつかこの景色を、剣道の道で見続けていくと思っていた。でも今、その未来がぼやけている。
気づけば、雪乃の言葉が、その輪郭を少しだけはっきりさせていた。
「……考えとく」
岳人はそう言って、非常階段を降りた。雪乃はそれ以上追いかけてこなかった。
帰り道、夕焼けの中、岳人はひとり考え事をしていた。
剣道部の練習を途中で抜けてきたことへの罪悪感と、雪乃の言葉の余韻。それらが心の中でぐるぐると回っていた。
と、坂の下で誰かが待っていた。
沙羅だった。
「やっぱりいた。剣道の道場、途中で抜けてったからさ」
「……尾行かよ」
「べっつに、心配してあげたわけじゃないし」
沙羅はそう言いながら、肩を並べて歩き出す。
「でも、なんか変な顔してた。悩みごと?」
「まあな」
「そっか……岳人って、けっこう悩むタイプだもんね。見かけによらず」
「うるせぇ」
笑い合いながら、歩く速度が揃っていく。
「でもさ、どんな道に行っても、岳人は岳人だからさ。私は……うん、信じてるよ」
そう言った沙羅の横顔は、夕日に照らされていて、思わず見とれてしまった。
その瞳が、雪乃のそれと、どこか重なる。
俺は――どうしたいんだろう?
答えはまだ見つからない。けれど、選べる未来があることだけは、確かに嬉しかった。




