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俺思う、ゆえに俺あり!  作者: ミスター小町
26億円の部活動費編
52/113

帰路

 秋山家の屋敷を後にする頃には、午後の日差しがやや傾きはじめていた。古びた鉄製の門の前まで、執事の山岡さんが俺たち三人を見送りに来てくれていた。


 門の前で立ち止まり、深く一礼する山岡さんに、沙羅がふと尋ねた。


「ねえ、あの……奥さんの名前、聞いてもいいですか?」


 一瞬、山岡さんは言葉に詰まったようだった。しかし、すぐにふっと目を細め、どこか懐かしそうに微笑む。


「……清子きよこ様。秋山清子様です」


 その声は、優しさと敬意に満ちていた。


「ありがとうございます……」


 沙羅は小さく頷いたあと、視線を落とし、その名を心の中で何度か反芻しているようだった。




屋敷を後にした俺たちは、しばらく言葉を交わさずに歩いた。

舗装された緩やかな坂道を下っていくと、両脇に並ぶ木々の影が、道路の上に長く伸びていた。時折吹き抜ける初夏の風が、汗ばんだ肌をなでるように通り抜け、遠くからは鳥のさえずりがかすかに聞こえてくる。


 やがて、沙羅がぽつりと呟いた。


「……蔵之介さんのこともすごかったけど、奥さん…清子さんのことを思うと、胸が苦しくなるよね……」


 その声は、さっきまでとは違って落ち着いていたけれど、どこか揺れていた。


 沙羅はいつになく真剣な顔をして、足元を見つめながらゆっくりと歩いていた。


「ずっと蔵之介さんのことを想って、手紙を書き続けて……でも、その想いは届かなかったんだよね。戦争のせいで」


 その言葉に、隣を歩いていた雪乃が静かに相槌を打つ。


「ええ……。清子さんにとって、蔵之助さんは家族を失った中での、たったひとつの希望だったのでしょう。でも、その希望さえも戦火に奪われてしまった……」


 沙羅は立ち止まり、ふっと顔を伏せる。


「それにさ……彼女、演劇部だったんだよね。きっと夢も、未来も、あったはずなのに……全部、戦争に壊されちゃったなんて……」


 拳をぎゅっと握りしめる沙羅。


「戦争って……ほんと、ひどい」


 彼女の声は静かだったが、その胸の奥で渦巻く感情が伝わってきた。


 雪乃もまた、少し目を伏せながら応じた。


「……でも、それが戦争なのよね……」


 諦めにも似た、どこか遠くを見つめるような声音だった。


「怒っても、悔やんでも、過去には戻れない。どんなに願っても、誰も時間を巻き戻すことはできないの……」


 再び、三人の間には沈黙が流れる。


 風に揺れる木々の葉が、かすかな音を立てていた。


 やがて、沙羅がふっと苦笑しながら顔を上げた。


「……ねえ、結局さ。今日ここに来たけど、26億円について、何も進展なかったよね。遺言の内容は分かったけど……来た意味、あったのかな?」


 その瞬間、初夏の風がふわりと三人の間を吹き抜けた。


 雪乃は風に揺れる長い髪を、片手でそっと押さえた。


 沙羅は慌ててスカートの裾を押さえる。


 そんな二人の様子を、少し先で歩いていた俺はふと立ち止まり、振り返った。


 口元に、ほんのわずかだけ笑みを浮かべて言う。


「収穫なら、ちゃんとあったさ」


 不意にそう言われ、二人は同時に顔を上げた。


「え?」


 俺は続ける。


「次の予算会議……少しは自信を持って臨めそうだ」


 雪乃と沙羅は、一瞬きょとんとした顔を見せたが、すぐにどこか安心したように笑みを浮かべた。


「……そっか、ガクトがそう言うなら、そうかもね」


「頼りにしてるわよ、生徒会会計補佐くん」


 俺たちの影が、ゆっくりと長く、坂道の先へと伸びていく。


 見上げると、街並みは夕陽に染まり始めていた。


 金色の光が、今日という一日をやさしく包み込もうとしている。


 秋山蔵之介の想いと、清子の切ない祈り。


 それは確かに、何十年も前の物語だった。


 でもその日、俺たちはその想いのかけらを確かに受け取った気がした。

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