校長室へ
放課後の校舎に、少し湿った風が吹き抜ける。
梅雨の気配がじわじわと近づいている初夏の午後――俺たちは校舎最上階にある、通称“聖域”へと向かっていた。
「普通の学校って、校長室って1階だよな……?」
思わず俺がつぶやくと、雪乃が欧米人のように両手を広げて答える。
「ええ。でも、うちの校長は“校長室は生徒全員を見渡せる場所にあるべきだ”という持論の持ち主なのよ」
そう、桜が丘高校の校長室は、なぜか4階の一番端――元・視聴覚準備室を改造して使っているのだ。しかも、その改装費はすべて校長のポケットマネー。どこにそんな金があるのかは、誰も知らない。
そんなサンクチュアリへ直談判に向かうメンバーは、生徒会長の雪乃、副会長・錦野、書記のアンドー、会計の宮前、そして会計補佐の俺。
ほかの生徒会メンバーはなぜかお留守番だが、まあ、存在感がないわけではない。たぶん。
1階の生徒会室を出て、皆で階段へ向かっていたその時だった。
「前から来てるの、あれって……」
宮前が指差した先には、陸上部の集団が見えた。先頭には朝比奈祐子先輩。そして、そのすぐ後ろには、ひときわ背の高い男子――篠田・マーク・オブライエン。
北アイルランド人の母と日本人の父の間に生まれ、中学の時に来日した彼は、今や桜が丘高校のスターランナー。英語も日本語もペラペラ。学校中で知らぬ者はいない。
そして、その集団の中には……沙羅の姿もあった。
互いの集団の先頭を歩く“女帝”2人は、ギリギリまで近づき、ぴたりと足を止める。普通の会話をする距離ではないが、まずは朝比奈先輩が顎を軽くしゃくって雪乃に絡んだ。
「なぁに? こんなに揃ってどこ行くのよ?」
雪乃は腰に手を置き、さらりと答える。
「ちょっと、校長室まで。あなたこそ、そんなにゾロゾロとどちらへ?」
「こっちは部の予算のことで教頭室よ」
「まあ、教頭なら話くらいは聞いてくれるでしょうけど」
「校長よりはマシでしょ」
「それは否定できないわね」
その様子に、生徒会・陸上部のメンバーは「またか…」といったあきれ顔を見せる。
言葉の応酬に変な空気が漂い始めたとき、俺が一歩前に出た。
「落ち着いてください。俺たち、26億円の寄付の件で、情報を確かめに行こうとしてるんです。……校長に直接」
朝比奈先輩の眉がピクリと動く。
「は? あの校長に?」
「話、通じると思ってんのか?」
マック――篠田がやや不安げに言う。背は高いが、意外と繊細なのだ。
俺は雪乃を見る。彼女が軽く頷いたのを確認して、続ける。
「生徒会としては、26億円の寄付者に接触したいと思っているんだ。その情報を校長から聞き出す。そこから糸口が見えてくるかもしれないからな……実際、他に手段もないしね」
「……まあ、健闘を祈るよ、皇くん」
朝比奈先輩が続ける。
「実際、このままでは、部活動に集中できない。うちらも動かなきゃと思っていたところだったし……生徒会、期待してるよ!」
そう言いつつ、なぜか俺にウインクしてきた。
「な! 期待してるよな、マック!」
朝比奈がそう言った瞬間、後ろから「♪ちゃらっちゃっちゃっちゃ~」と陸上部員らが口ずさむ。
「やめろって言ってるだろぉぉぉぉ!!!」
マックが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「本当にやめてぇ!」
続けざまにツッコミを入れる姿に、部員たちが笑い出す。
その笑い声に混じって、俺の隣で小さくそわそわしている人間がいた。沙羅だ。
「おい沙羅、お前は?」
「……あー、そのー、だからそのー……」
後ろから朝比奈先輩がにやりと笑って、沙羅の背中を押した。
「行ってらっしゃいな。気になって仕方ないでしょ?」
「ちょ、祐子先輩!? ちがっ……!」
俺は思わず問いかける。
「何でお前こっち来るのさ?」
朝比奈先輩が代わりに答える。
「生徒会がちゃんと仕事をしているかの確認要員だよ! 問題あるのかい?」
「あ……いや……」
沙羅が続ける。
「ガクトがちゃんと働いてるか、ちゃんとできるか見届けてあげるってば!」
「子ども扱いするな!」
「してるわけじゃないし!」
結局、雪乃も朝比奈先輩の提案を受け入れ、沙羅も同行することに。
俺たちは階段を上り始めた。
その最中も言い合いをする俺たちを見て、雪乃は軽く肩をすくめた。
「仲がいいわねぇ……青春って感じ」
「ちょ! そういうのと違うからな!」
「違わないよ! 仲がいいもん!」
言い合いながら4階に到着する。
そして、視界の奥に――あった。
校長室。
廊下の端に構えるその部屋は、まるで異空間だった。
ドアは重厚なマホガニー調。取っ手は真鍮でできていて、無駄に輝いている。ドアの上には金色のプレートで「校長室」と彫られており、横の壁には観葉植物が二本も立てかけられていた。
……妙にいい匂いがする。
「なんだこの空間……空調も違うぞ」
「空調はたぶん個別管理よ」
「うわー、特別感ハンパねぇな……」
俺が呆れていると、雪乃が軽く背筋を伸ばす。
「じゃあ、入るわよ」
コツコツ、とノックの音が廊下に響いた。
一瞬の沈黙。
その後、ドアの奥から柔らかな――しかし、どこか威圧感のある声が聞こえてきた。
「――入りなさい」
俺たちは、互いに小さく頷き合いながら、重たいドアノブに手をかけた。




