やきもち
五月の朝。初夏の光が街をやわらかく包み込む。
寝癖を直す時間もなく制服の襟元を整えていたところで、玄関のチャイムが鳴った。
「ピンポーン」
洗面所から飛び出すと、先に出た母さんの声が聞こえた。
「はーい……あら? 沙羅ちゃん? おはよう。今日も元気ね」
マジかよ、来るとは思ってたけど本当に来やがった。
慌てて玄関に出ると、スクールバッグを肩にかけた沙羅が、少しだけそっぽを向きながら立っていた。昨日の夜の、あの騒動の記憶が脳裏をよぎる。
斜面での大乱闘、取っ組み合い、未遂のキス。そして生徒会の乱入――。
俺も沙羅も、ほんのり頬を赤らめて口を開いた。
「お、おう……おはよう」
「あ、あんたこそ……おはよ」
たどたどしい挨拶に、後ろから母さんの追撃が飛んでくる。
「なによあんた達、またケンカでもしたの?」
「いや、ちが……」
「……ちがうし」
声が被って、互いに目をそらした。
「ふーん、まあ気をつけて行ってらっしゃい」
母さんはニヤついたままドアを閉める。絶対誤解してる。でも、今さら否定するのも面倒だった。
俺は自転車を引きながら、沙羅と並んで歩き出す。
空はすっかり青く、街路樹の葉が風にざわめいていた。時折、遠くでカッコウの鳴き声が聞こえてきそうな初夏の雰囲気だ。
実際聞こえるのはカラスの声だけどな……・
沈黙がしばらく続いたあと、俺はポケットの中で手をぎゅっと握りしめて口を開いた。
「なぁ、昨日のことだけどさ……」
沙羅がちらりと横目で俺を見る。無言のまま、ちょっと歩調が落ちた。
「俺、本気だから」
沙羅のまぶたがぴくりと動いた。
数歩分の沈黙。
「……なにが?」
「だから、そういうことだよ。昨日のも、あれもこれも、冗談でやってたわけじゃないってこと」
「ふぅん……」
沙羅は前を見たまま、口元をちょっと膨らませて言った。
「だったら、ちゃんと最後まで言えばいいじゃん。こういう時に限ってはっきりしないくせに」
「は? いや、だから言って――」
「いい。もう由比が来るから」
「え? いやまだ――」
「おっはよー、沙羅! ……あ、皇先輩も」
道の角からひょこっと現れたのは、沙羅の親友、遠ヶ崎由比だった。黒髪ポニーテールに眼鏡、理知的な雰囲気をまとっているが、ツッコミは容赦ない。
「由比~っ!」
沙羅が突然テンションを上げて走り出し、バッグを揺らしながら由比に抱きつく勢いで向かっていく。
俺はぽつんと取り残された形になり、自転車のグリップを握りしめた。
「おい、ちょっと……」
だけど、肩をすくめて自転車にまたがる。
(……まあいいか)
焦らなくていい。昨日で十分、言いたいことは伝わってる。これから、少しずつ積み重ねていけばいい。
俺はペダルを踏んで、二人の横を追い越すときに軽く声をかけた。
「沙羅、先行くぞ」
「勝手に行けば~」
ぶっきらぼうな返事。でもその声色は、なんとなく嬉しそうだった。
背後で、由比の声がひそひそと響く。
「……で、あれ何? 昨日の放課後の空気と今のテンション、だいぶズレてるけど」
「な、なんもないってば!」
「ある顔してる」
由比の突っ込みに、沙羅の声が裏返っていた。
俺は笑いそうになるのをこらえつつ、自転車をこぐ。
そして学校が見えてくる。門の前には、生徒会長・遠ヶ崎雪乃の姿があった。相変わらず姿勢がよく、風紀委員数名を従えてチェックをしている。五月の風が、彼女の黒髪を高く束ねたポニーテールの先を揺らしていた。
「おい」
俺が自転車を押しながら近づいて声をかけると、雪乃は軽くこちらを見て応じた。
「何かしら?」
周囲の目を気にしつつ、俺はそっと自転車を止めて彼女の耳元に近づいた。
「昼休み、非常階段に来てくれ。話したいことがある」
雪乃は目を細め、意味深な笑みを浮かべた。
「……あら? 告白かしら?」
「ちげーよ。二十六億円の話だ」
その言葉に、雪乃の表情が一瞬だけ凍った。ほんのわずかに、目の奥が鋭くなる。
「……分かったわ」
そのやり取りの直後だった。
「な、なに近づいてんのさああああ!!」
沙羅が叫び声と共に、猛スピードで突っ込んでくる。そして勢いよく俺と生徒会長の間に割り込んでくる。
雪乃が愉快そうに笑う。
「あら、やきもちかしら?」
「ちっがーう!! ガクトみたいな粗野なやつに近づいたら、生徒会長が汚れちゃうからだよ!」
「はいはい」
後ろで由比が額を押さえてる。
そんなやりとりの最中、俺は沙羅の手を軽く取った。
「ハイハイ、分かりました~。行きましょうね」
「ちょっ、ちょっと!? 誰が行くなんて言った!!」
「言い訳は校舎でどうぞ」
「うるさい! 触るな馬鹿!!」
言い合いながら、俺たちは昇降口に向かって歩き出す。雪乃と由比の視線を背中に受けながら、俺は少しだけ笑った。




