自宅の庭で
夜の空気は澄んでいて、草木の香りがほんのりと漂っていた。
俺は自宅の庭で、竹刀を握りしめ、ただひたすらに素振りを繰り返していた。
「……ふっ、ふっ」
生徒会の二十六億円の話、剣道のスランプ。
そして、これからのこと——。
考えたって答えは出ない。
それでも、手を動かしていないと落ち着かなかった。
額から流れる汗が、そして手のひらの汗が、竹刀の柄を湿らせる。
そんな時だった。
ふと視界の端に、何かが動いた。
「ん?」
反射的に顔を向けると、隣の家との境界にある塀の上に、何かがぴょこっと覗いていた。
猫かと思った瞬間——それが“人の頭”だと気づき、心臓が飛び跳ねた。
「うおっ!?」
思わず竹刀を取り落としてしまう。
すると、その影がくすっと笑った。
「失礼だな。僕の顔を見てそんなに驚くなんて!」
驚かせた張本人は、隣に住む——妙義沙羅だった。
彼女はいたずらっぽく笑いながら、塀の上にちょこんと座った。
「……いきなり生首だけ出てたら誰でもビビるわ!」
怒鳴る俺に、沙羅は小さく肩をすくめた。
「だってさ、あんまり一生懸命に素振りしてるから、声かけづらかったんだもん」
その言葉に、少しだけ笑みがこぼれた。
けど、沙羅の目は、どこか心配そうだった。
「別に……いつものことだろ。剣道部だしな」
竹刀を拾い上げ、再び素振りを始める。
その様子を沙羅はしばらく見ていた——
「……無理してない?」
不意に沙羅が声をかけてきた。
その問いかけに、胸がドキリとする。
「してねぇよ」
短く、そう返す。
夜風が二人の間をすり抜ける。
再びの沈黙の後、沙羅はふと口を開く。
「ねぇ、岳人」
「ん?」
「生徒会に、連れてかれたって、本当?」
俺は一瞬だけ迷ったけど、正直に答えた。
「ああ……生徒会の会計?補佐に入ることになった」
言葉を選びながら、ゆっくりと話す。
「まあ、剣道だけじゃなくて、ちょっと違う世界を見てみるのも悪くないかなって。……それに、生徒会長、結構面白い奴だったしな」
そして、付け加える。
「でも別に、無理やりじゃない。……生徒会を手伝うのも、一つの選択肢だって思ったんだ」
俺は、竹刀を下ろして、正面から彼女を見た。
剣道部は俺の居場所だと思っている。
でも、それだけじゃないかもしれない。
そんな風に思い始めていた。
沙羅は、黙ったまま俺をじっと見つめていた。
それから、小さく唇を尖らせる。
「……ふーん」
その微妙な間。
少し拗ねたような声色に、俺は首をかしげた。
「……それにしても、あれだよね」
沙羅が不意に言う。
「生徒会って、あの二十六億円の管理とかもやるんでしょ?……すごいよね」
わざとらしく軽い調子だったけど、その声には僅かに棘があった。
「うん。俺も聞いたときびっくりしたけどな、まぁ、意外とちゃんとしているし、なんとかなるだろ?」
そう答えると、沙羅はぷいと顔を背けた。
「……ちゃんとしてるのは、わかってるけどさ」
「ん?」
「なんかムカつくんだよね……」
沙羅がぽつりと呟いた。
「……生徒会長。なんで、岳人を巻き込んでいるのさ?」
俺は、少し驚きながら沙羅を見た。
「……心配してくれてるのか?」
からかうように言うと、沙羅は顔を赤くして怒鳴った。
「ち、ちがうし!!」
「違うのかよ」
「そ、そりゃ……ちょっとは心配だけど!でも!でも!」
「でも……そんなの……」
小さな声。
握りしめた拳が、震えていた。
「なんで……岳人がそんなの引き受けなきゃいけないの。剣道、だって……今、辛いんでしょ?」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「——だからこそ、だよ」
俺は竹刀を肩に担ぎながら、空を見上げた。
「剣道だけに囚われてたら、たぶんもっと潰れてた。……生徒会のことも、やるからには本気でやる。そしたら、きっと何か見えるかもしれない……見えないかもしれないけどな!」
自分でも、半分は強がりだとわかっている。
でも、前に進まなきゃ、何も変わらない。
それは1年前もそうだった。
そんな俺の決意を、沙羅は——信じられないという顔で見ていた。
「……そんなの、違う」
絞り出すような声だった。
「違うでしょ……岳人は、剣道が好きで、ずっと頑張ってきたじゃん。なのに……なんでそんなふうに、諦めたみたいな顔するの……」
「諦めたわけじゃ——」
「じゃあなんでっ!!」
沙羅が叫んだ。
「……岳人が、なんか遠くに行っちゃうみたいで、ヤだ!」
「……は?」
そして——
「……もう、知らない!」
そういうと、沙羅はぴょんと塀から飛び降りた。
「岳人のばか!」
「……沙羅」
走り去る小さな背中を、俺は呼び止めることができなかった。
ただ、汗に濡れた竹刀を握りしめ、じっとその後ろ姿を見つめるだけだった。




