冷たいシャワーと夕日
「聞いてよ!僕、この一年で10センチも伸びたんだよ!」
「俺は10キロ痩せたんだぜ」
そう言いかけて言葉を飲み込む。
土手の芝生の上で胸を張る沙羅。肩までの黒髪が風に揺れて、小さなイルカの髪飾りが控えめに光る。
妙義 沙羅。
一つ年下で、俺の家の隣に住んでいる幼なじみだ。
物心つく前から一緒に過ごし、小学校を卒業するまでは、ほぼ毎日顔を合わせていた。親同士も仲が良く、お互いの家を行き来しては、ゲームしたりお菓子食べたり、ケンカしたり、笑ったりしていた。
でも、中学に上がると彼女は運動部に入り、部活三昧。俺もテニス部に入って、だんだんすれ違うようになった。
特に中学後半なんて、顔を合わせることすらほとんどなくなっていた。
……最後にまともに話したのは、もう一年くらい前か。
そんな沙羅が、今は俺の目の前で自信満々に笑っている。
背は150センチくらいまで伸びていて、肩のラインも少し丸みを帯び、ほんのり日焼けした肌も健在。
でも、幼さが抜けて、確かに“女の子”になっていた。
「ほほぉ、それはすごいな」
そう言いながら、視線は胸元に落ちる。
成長といえば……やっぱり、気になるポイントではある。沙羅も、女の子だし。
これはある意味女性に対するマナーでもある。俺の尊敬するアニメのハードボイルドキャラ“冴馬諒”も言っていた。
「……ちょっと、どこ見てんのさ!」
ジト目で睨まれた。頬を赤くして、ぷくっとふくれる沙羅。
……あれ? この反応、なんだかすごく懐かしい。
「別に。成長っていろんな意味があるんだろ、ってな」
「……もうっ、岳人のばか!」
言葉を投げてから、沙羅はふと表情を変える。
「あのね。岳人の卒業式の時の話しなんだけど……」
そのタイミングで、土手の上からポニーテールの女子が手を振って沙羅を呼ぶ。
「沙羅ー!遅刻するよー!」
沙羅は一瞬だけ真剣な表情になったものの、すぐに笑顔に戻って、土手の上の女子に手を振る。そして俺を振りかえり……・
「じゃあ、行くね!」
駆け上がろうとしたその時、もう一度こちらを振り返った。
「岳人、これからまたよろしくね!」
そしてにっこりと微笑んだ。
その笑顔に不意を打たれた俺は少し動揺する。
「あ、お、おう……こっちこそ」
気の抜けた返事しかできない。
そして沙羅は芝生の斜面を軽やかに駆け上がっていった。
沙羅を見送った後、俺は倒れていた自転車のハンドルを握って立て直す。
……が。
「パンクしてやがる……」
その日、俺はなんだか心軽やかに過ごすことが出来た。
やはり懐かしい幼なじみ、沙羅と元の関係を少しだけ取り戻すことが出来たからかもしれない。別に仲違いしたり喧嘩をした訳ではないけど、人との距離っていうのは意識しないと離れていく。
――それを、俺はあらためて感じていた。。
その日の放課後。
俺は剣道部の稽古に励んでいた。
竹刀を握り、掛け声と足音が響く道場に身を委ねる。打ち込み、踏み込み、構え直し。
掛かり稽古では目の前の相手を“斬る”ことだけに集中する。部員を一通り相手にしたが全員を“斬った”ことにする。
うん、鍛錬は俺を裏切らない!
──練習が終わる頃には、体から湯気が立ちのぼっていた。
練習直後、特に掛かり稽古の後は多くの部員は道場の床にぶっ倒れて動かない。
俺は稽古で流した汗を流すため、真っ先に道場の隅にあるシャワー室に向かう。
そしてシャワーの蛇口をひねる。
「冷てっ……マジかよ……」
氷と感じるような水を浴びた瞬間、意識が一瞬飛びそうになる。
4月とはいえ、まだ肌寒さが残っているのだが、ここは未だにお湯が出ない。都立高校ゆえにこればかりは仕方ない。
シャワーの水音に包まれていたそのときドアの向こうから声がした。
「皇先輩!1年の女子が呼んでますけどー!」
男の声がする。剣道部の後輩だ。
「……なにさぁ?」
タオルだけを腰に巻いたまま、のそのそと扉を開けて顔を出すと、疲れて道場の床に座り込んでいる部員から声が上がる。
「ちょっと先輩!何か着てくださいよ!」
「それセクハラですってばー!」
数人の女子部員は非難の声と悲鳴を上げながらも、しっかりこっちを見ている。
「分かった分かった、訴えるときは慰謝料ちょっと割り引いてくれよ」
「そーいう問題じゃないですってばー!」
ワーワー騒ぐ女子部員たちを適当にあしらいながら、おれを呼んでいるという“1年の女子”を確認しようと道場の入り口に向かう。
「……な〜にやってるんだか」
少しトーンの低い声で非難の声が上がる。
そこには制服姿の沙羅が立っていた。
そよ風に揺れる髪、整えられた制服。少しぬれた髪、そして夕陽に染まりはじめた頬。
その姿に、つい口元がゆるむ──のを我慢して言葉を投げる。
「なんだ、まさか……一緒にシャワーでも浴びに来たのか?」
「ばっかじゃないのっ!もう浴びてきたわよ!」
沙羅は顔を赤くした。
そして、拳をギュッと握り、視線を逸らして小さな声で言った。
「……だってさ、こうしてちゃんと話すの、一年ぶりなんだよ?」
「一緒に……話しながら帰っちゃダメ?」
うつむき気味で、片足をぷらぷらさせる沙羅。
その無防備そうな姿、でも計算のない、ありのままの彼女だった。
「お、おま……っ」
不意を突かれ、思わず口を手で覆う俺。
直後、道場の中から女子部員たちの歓声が上がる。
「きゃ~~~!!!」
「ひゅーひゅー!」
「今の絶対告白だよね!?」
騒ぎを聞きつけて、剣道部の部長・霧山竜司が現れる。身長180センチ超え、筋肉の塊。声も顔もインパクト大。
「岳人!神聖な道場で何という格好をしているんだ!後輩に示しがつかんだろ!」
「ハイハイ、承知しました〜」
左手をヒラヒラふり沙羅をそのまま置いてシャワー室に戻ろうとする。
沙羅の表情が一瞬うつむいた。
その刹那、小学校のときいつも一緒に遊んでいた沙羅を思い出す。
「……待ってろ」
沙羅の顔がぱっと明るくなる。
「……わかった!」
女子部員たちは再び騒然とし、
「ぎゃー!今のやばっ!」
「映画かっての!!」
霧山は霧山で、
「岳人ぉぉぉ!!!」と叫びながら突っ込んでくる。
だが俺は、軽やかに身をかわし扉を閉じた。
──その日、本当に久しぶりに、沙羅と一緒に帰った。
並んで歩く帰り道。沙羅は、この一年で身長が10センチも伸びた話をした。
うん、大事な事だからね。
そして中学時代に陸上部で大会に出て、いい記録が出たことも話す。
「そういえば……高校でも陸上、やってんのか?」
「うん。ちゃんと入ったよ。次の大会、応援来てよね?」
1年でもうレギュラーかよ、さすがだね。昔から足だけは速かったからな。
そして、朝のあの瞬間と同じように、沙羅は少し真面目な顔になる。
「あのね……岳人の中学の卒業式の時の“あれ”。」
「……ああ、あれか。あれがどうしたんだ?」
沙羅は口の中で何かゴニョゴニョする。
そして……
「笑ったりして……ごめん、いや、ごめんなさいっ!」
勢いよく頭を下げる沙羅。耳まで真っ赤になっている。
正直、あの時のことは少し引っかかっていたけど、沙羅が悪いわけじゃない。
「ああ、頭を上げろよ。あんなの、もう昔のことだろ」
「……本当に、許してくれるの?」
「ああ。許すも何も、忘れてたくらいだしな」
沙羅は安堵の表情を浮かべて、心からほっとしたように笑った。
──一年も前のことを、ずっと気にしてたんだな。
二人の間に、柔らかな空気が流れる。
夕焼けが色を濃くする河川敷の土手の上。
パンクした自転車を押しながら、俺は沙羅と並んで歩いていく。
まるで、止まっていた時間がゆっくりと動き出したみたいだった。
一年前の春に置いてきた何かが、ようやく手の中に戻ってきた気がした。