この感情と…
放課後の道場に、竹刀の音が響き渡る。
「面っ! 胴っ!」
掛け声とともに打ち込みを終えた俺は、息を整えながら竹刀を脇に置いた。練習メニューはすでにすべて消化済みで、まだ他の部員は汗を流しながらメニューをこなしている最中だった。
次の練習メニューまで少し時間がある。俺は校内をランニングして身体をほぐすことにした。
道場を出ようとしたそのとき、背後から元気な声が飛んできた。
「皇先輩、ランニングですか!? 僕も一緒にいいっすか!」
駆け寄ってきたのは、剣道部の一年、服部だった。細めの体躯ながらしっかりと鍛えられた筋肉を備え、熱意も技術もある後輩。なにより、諦めの悪さが持ち味だ。
霧山部長に目をやると、無言で手を振って「行ってこい」とサインが返ってくる。
「……ああ、ついてこいよ」
「よっしゃーっす!」
俺と服部は、剣道着のまま校内の外周を走り始めた。普段は声をそろえる全体練習の掛け声を、今日は二人でこなしていく。
「いーち、にー、いちに!」
「ソーレ!」
「いち!」
「ソーレ!」
「に!」
「ソーレ!」
「さん!」
「ソーレ!」
「1,2,3,4!1,2,3,4!桜が丘!剣道部!」
正直、一人じゃ恥ずかしくてできないこのメニュー。服部が一緒なのは助かる。
校舎をぐるりと回り、体育館裏を抜けて、グラウンドの端に差し掛かったときだった。
「……あっ」
俺は思わず足を止めた。
視線の先、グラウンドでは陸上部の練習が行われていた。夕日が差し込む中、トラックの隅でストレッチをする見慣れた姿――沙羅。
短距離チームの練習らしく、男女混合でペアを組んでストレッチをしている。その中で沙羅と組んでいたのは、ひときわ目立つ長身の男子――
「あれ……マック先輩か?」
桜が丘高校陸上部のキャプテン、篠田・マーク・オブライエン。185cmの長身に、ハーフの甘いマスク。陸上部のエースであり、誰にでも気さくに接するナイスガイ。愛称はマック「♪ちゃらっちゃっちゃっちゃ〜」と某ハンバーガーショップのテーマ曲を周囲が歌うと、全力で「やめてぇ!」と恥ずかしがるのが定番だ。
そのマック先輩が沙羅の背中を押して、身体を深く倒している。沙羅は、ほんの少しだけ顔をしかめているようにも見えた。
「ちょ、ちょっと見てくださいよ! あれって……セクハラじゃないっすか!? 妙義、絶対嫌がってますって!」
隣の服部が、むくれた顔で言った。目が真剣だ。いや、むしろ必死。
「……お前、妙義と同じクラスだっけ?」
「はい、別に特別な関係ってわけじゃないですけど……でも、あれはちょっと……クラスメートとして気になりますって!」
服部の頬が少し赤くなっているのを見て、なんとなく俺は黙り込む。
……沙羅は俺の幼なじみ。家族みたいな存在。
だけど、こうして誰か他の男子と距離を縮めている姿を見ると、どうしようもなく胸がざわつく。
この感情は何なのか?
「おーい、何やってんの、君たち?」
その時、ひゅうっと軽やかな口笛と共に、グラウンドの反対側から歩いてくる影があった。
ジャージの襟を立て、水筒を片手に持った長身の女子。
朝比奈祐子――中距離エースであり、マック先輩と並ぶ陸上部の二枚看板。剣道部にもよく顔を出していたことがあり、俺が1年の頃からよくからかわれている姐御肌の先輩だ。
1年前、桜が丘高校に入学したての頃。俺は、まだこの学校に馴染めずにいた。
俺は中学の終わりにトラブルがあり、それが原因で人付き合いが苦手になった。高校でもオタク趣味を隠して、真面目なクラスメートを演じながら、居場所を探していた。そんな俺が唯一「ここなら自分を出せるかもしれない」と感じ、入部したのが剣道部だった。
でも――最初の数週間は、地獄だった。
基礎体力がモノを言う世界。中学時代のテニス部では基本真面目に練習なんてしていなかったし、小学校時代に剣道をかじっていたとはいえ、高校の部活は次元が違った。
そんなある日、道場の外で一人黙々と素振りをしていた俺の背後に、ひょいっと姿を現したのが朝比奈先輩だった――
「へぇ、君、新入生?」
ジャージ姿、髪形はボブ、長身。すらっとした体に、少しつり上がったキリッとした目元。笑うといたずらっぽい顔になる。
そんな女の先輩に俺は本能的に警戒した。
「……はい。皇岳人っていいます」
「あたしは朝比奈祐子。陸上部。ちょいと霧山に用があって来たんだけど……」
少し間を置いたあと……
「君さ――なんでそんな顔して素振りしてんの?」
「え……顔、ですか?」
「そう。『全世界に文句言いたいけど我慢してる顔』って感じ?」
思わず、竹刀を止めてしまった。図星すぎて。
「……あ、いや、そんなつもりは……」
「ふーん? ま、いいや。でもさ、疲れても立ち上がって素振りしてるだけ、君はえらいよ」
その一言が、妙に胸に響いた。
「頑張ってんなーって思ったからさ。」
そう言って、朝比奈先輩は俺の肩をポンと軽く叩き、笑顔で道場の入り口に向かう……
そして、振り返って……
「私頑張っている人嫌いじゃないからさ……応援してるぜ!」
そういって道場に入っていった。
たったそれだけの会話だった。
だけどそれから数日間、俺はその言葉を何度も思い返した。
部活がきつくてやめたくなったときも――朝比奈先輩の「君はえらいよ」って言葉が、ふっと浮かんできた。
それ以降も、朝比奈先輩は何かと顔を出しては、俺をちょこちょことからかってくるようになった。
「がくとくーん、今日も床と仲良し?」「おやおや~きのうより筋肉減ってない?」
そういう言葉にムッとしながらも、どこか嬉しくて。
俺にとって、朝比奈祐子という先輩は――
学校で最初にできた“味方”のひとりだった。
「……朝比奈先輩」
「なに? 二人してグラウンドの端から熱視線って、青春してんの?」
「ち、違いますって!」
「……別に」
俺と服部が同時に否定すると、朝比奈先輩はニヤリと笑った。
「そういう態度が一番怪しいんだよなー。ま、気持ちはわかるけど」
そう言いながら、朝比奈先輩は沙羅の方へ視線をやり――ふっと目を細めた。
「……マックと組まされたの、沙羅ちゃんかぁ。ま、アイツ力加減できないとこあるからな」
「えっ、それ……ほんとに嫌がってるとか?」
服部が慌てて聞くと、朝比奈先輩は「どうだろね」と肩をすくめた。
そして、朝比奈先輩は息を大きく吸い込んだ。
「沙羅ちゃーん!」
朝比奈先輩の声がグラウンドに響く。
その瞬間、ストレッチをしていた沙羅がこちらに気づき、ぱっと笑顔になる。
「がくとー! 服部くんもー!」
軽く手を振る沙羅の笑顔を見て、なんだか胸の奥にひっかかっていたざわつきが、ほんの少しだけやわらいだ気がした。
沙羅と一緒にストレッチをしていたマック先輩もこちらをのぞき見ていたが、朝比奈先輩は……
「マックは練習してろー!」
朝比奈先輩が叫ぶと、待ってましたと言わんばかりに周囲の陸上部員たちが一斉に、
「♪ちゃらっちゃっちゃっちゃ〜〜!」
と例のフレーズを口ずさむ。
「やーめーろーっ! それは本当にやめてぇええぇ!」
マック先輩が頭を抱えて崩れ落ちるようにその場にうずくまり、グラウンドに笑い声があふれた。
沙羅も、お腹を抱えて笑っている。
その様子を見ているだけで、なんだか不思議と安心する。
「……先輩たち、相変わらずですね」
俺が朝比奈先輩に声をかけると、彼女は肩をすくめて水筒を軽く振った。
「まぁ、腐れ縁みたいなもんだからね。あいつ、アホだけど悪いやつじゃないし。……沙羅ちゃんのこと、ちゃんと見てくれてるわよ。もちろん、変な意味じゃなくてね」
ちらりと俺の顔を見て、ニヤリと笑う。
「それとも、ちょっとヤキモチ?」
「……さあ、どうすかね」
わざとそっけなく答えながらも、内心少しだけドキリとした。
「よし、服部! 行くぞ!」
気を取り直して声をかけると、服部は少し名残惜しそうに沙羅の方を見ていたが、はっとして俺に並ぶ。
「え? あっ、はいっ!」
「がんばってねぇ~!」
朝比奈先輩の声に背中を押されるように、俺は再び走り出す。服部も横で全力のストライドを刻んでいる。
夕焼けの中、校舎の外周を回りながら――胸の奥に残っていたもやが、風に溶けていくようだった。
まだよく分からないこの感情に、少しだけ向き合ってみる気持ちになった。




