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俺思う、ゆえに俺あり!  作者: ミスター小町
恋のライバル編
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月が綺麗ですね

 夜風が生ぬるく、でもどこか心地よい。蝉の声が遠くで細く鳴きはじめた。

 俺は河川敷の舗装された道を、自転車でのんびりと走っていた。スマホで流しているのは、昔好きだったロボットアニメの主題歌。思わず口ずさんでしまう。


「♪風を切って~夢を運ぶ~あの雲に、手が届くまで~」


 誰もいない暗い道だ。歌ったって怒られることはない。ペダルのリズムに歌を重ねながら、今夜ばかりは心も少し軽い。


 家の角を曲がると――ふと、自宅前の塀に人影があることに気づいた。


「……遅いぞ!」


 声の主は沙羅だった。白いTシャツに黒いハーフパンツ、キャップをかぶって、うちの外壁に片足を立てて寄りかかっていた。


「おお、沙羅か」


「『おお、沙羅か』じゃないよ!」


 やや怒気まじりの声に、思わず苦笑いが漏れる。ブレーキを握り、自宅の敷地に自転車を止めた俺は、玄関の引き戸を開けて一言。


「ただいまー。庭で少し話すから、気にしないでー」


「はーい」


 母親の間の抜けた返事を背中に受けながら、庭にまわる。沙羅も無言でついてくる。


 庭の照明は点けない。代わりに、縁側の近くに置いてある赤い缶の蓋を開け、強力な蚊取り線香に火を点ける。立ちのぼる煙が、暗闇に赤くゆらめいた。


「うげ……僕その匂い、苦手なんだよね〜」


「お前の前世は蚊だったんだな」


「なにぉぉっ!」


 ぶんっと手が飛んできたので、俺は笑いながらひょいとかわす。沙羅は肩をすくめて、縁側に腰を下ろした。


 俺は物干し場の近くに立てかけてあった素振り用の木刀を手に取り、軽く構える。沙羅に危ないからと手で下がるように合図を送ると、素直に一歩引いて、片膝を立てて肘を乗せながらじっと見ている。


 「シュッ……シュッ……」


 吐き出す息と共に振る。木刀が空を切る音が、小さく夜気を震わせる。


 これが、いつもの俺たちの風景だった。


 二百本ほど振ったあと、肩の力を抜いて大きく息を吐く。すると、待ってましたとばかりに、沙羅がスポーツドリンクを差し出してきた。


「ん……」


「ああ、サンキュ」


 ペットボトルを受け取り、一口飲んでから空を仰ぐ。


 雲一つない夜空に、丸くて大きな月が浮かんでいた。星の瞬きすら隠すほどの、完璧な満月。


「月が……綺麗だな」


 俺が呟くと、すぐ横から突っ込みが飛んだ。


「何それ!告白?」


「え?」


「なに?冗談だって!」


 笑う沙羅を、俺は真正面から見つめた。


 目が合った瞬間、沙羅の笑顔がぴたりと止まり、じわじわと顔が赤くなっていく。


「え?なに?冗談だって言ったじゃん!?」


 慌てる沙羅に、俺は木刀を背中に背負い、視線をもう一度月に向けた。


「……月が綺麗ですね、か……」


 そう呟きながら、沙羅の隣に腰を下ろす。彼女も俺と同じように月を見上げていた。


「これってさ、英語教師してた夏目漱石がさ、『I love you』を“あいしている”って訳した生徒に『日本人はそんなこと言わない。月が綺麗ですね、って訳しておきなさい』って言ったって話があるんだ」


「へぇ、そうなんだ?夏目漱石って名前しか知らなかったよ」


 沙羅の横顔が、どこか神妙だった。俺は少しだけ視線を落とす。


「俺さ、この漱石の考え方、すごく分かる気がするんだ。“好き”とか“愛してる”とか、心の中にあるうちは大事にできるけど、口に出した瞬間、どっかに行ってしまいそうで……」


 沙羅は少しだけ首をかしげた。


「……つまり、何が言いたいかっていうと、俺は沙羅みたいに真っすぐ物事をぶつけたり、受け止めたりするのが苦手なんだ」


「……知ってるよ?」


 驚いたような、あきれたような目で、沙羅があっさりと言う。


「ふー……」


 俺は小さくため息を吐いた。言葉にするのが、こんなにも難しいなんて。

 それでも、伝えなくては。


 だから、俺はもう一度沙羅と向き合った。


「沙羅」


「なに?」


「――月が、綺麗ですね」


「?」


 一瞬の沈黙。沙羅はぽかんとした顔をしていた。

 そして――


「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!!」


 俺は頭を抱えて、その場にうずくまった。声が裏返りそうになるのを必死に堪えながら、地面に顔を押し付ける。


 その様子を見て、沙羅が数秒遅れて顔を真っ赤に染める。


「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええええ!?」


 ふたりの叫び声が夜空に響いた。


 ガラッと音を立てて引き戸が開いた。


「ちょっとあんたたち!ご近所迷惑だよ!!」


「かーさん、ごめん!」


「おばさん、ごめんなさい!」


 俺と沙羅が、まったく同じタイミングで謝った。


 母はあきれたように首を振りながら「ほんとにもう……」とつぶやき、戸を閉めた。


 静けさが戻った庭に、しばしの沈黙。沙羅が、ぽつりと口を開いた。


「……あの、ガクト。つまり……そういうこと?」


「ああ……」


 耳まで真っ赤にしながら、俺はうなずく。


 沙羅は黙ったまま、ふいに吹き出した。


「あはははは……!」


「なんだよ……」


「だって、ガクトらしいって思ったんだ!」


「俺は俺だしな」


 俺がちょっと膨れて言うと、沙羅が立ち上がり、すっと俺の前に立った。


 そのまま、腰をかがめ、俺の顔の高さに目を合わせて、目を閉じた。


「ん……」


「えっ」


 慌てて周囲を見渡す。家の窓、街灯、月――


 ……覚悟を決めろ。


 俺は沙羅の肩をそっと掴み、目を閉じる。


 そして、俺たちは――初めてのキスを交わした。

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