第15話
小鳥は木から下り周りを見渡した。
「ここどこだろう……」
逃げるのに夢中で、今自分のいる場所さえ分からない。
もとより小川を起点に行動していたので小鳥の土地勘は心もとない。
「どうしよう」
どちらの方角に行ったものか。
しかし、下手に動いてまた追いかけられたら今の足では逃げきれない。
左足がズキズキと痛み、ぽすんと小鳥は木の根近くに腰を下ろした。
左足以外にも体中が悲鳴を上げていてしばらく動けそうにない。
あたりを見渡せば、木々が紅葉しはじめている。
そういえば、おばばさまがあの森の光を見たあと「これから実りの季節になる」と言っていたか。
木々が風でざわめいた。
潮騒の音に似ているなと小鳥はふと思った。
山で育ったので海に行ったことは片手で数えるほどしかなく、それも数年前の家族旅行が最後だが海の打ち寄せる音は記憶にあった。
目を閉じて森の音を感じる。
小鳥はそうしていると不思議に心が落ち着いてきた。
森の落ち葉のじゅうたんに寝転ぶ。
埋まるように身を縮める。
今はただ休みたかった。
頬には落ち葉のかさかさとした感触、少し湿った腐葉土の匂いがする。
地面につけた耳には大地の息づく生命の音が聞こえような気がした。
森の一部分になったみたいだと小鳥は感じた。
小鳥は、胎児のように体を丸める。
森に対する恐怖心は消え去っていた。
このまま朽ちて土になり、それが大地の糧となって新しい命を生み出す。
小鳥は泣いていた。
悲しかったわけではない。
暖かい涙が伝う感覚に自分は大地ではなく、個の生物だと感じる。
それが堪らなく切なくて嬉しかった。
かさり、と大地を踏む音がした。
驚いて小鳥が起き上がる。
あの獣たちが戻ってきたのだろうか。
相手も小鳥が気がついたのを知ったらしい、今までは気配を消していたのだろう。
伝わってくる音から足取りがしっかりしたものに変わった。
がざがざと目の前の茂みが動く。
その存在が小鳥の目の前に現れて息をのんだ。
―――――――大きい
先ほど、追いかけられた獣たちよりも一回り以上大きい。
いや、体躯の大きさよりもそれの風格に圧倒される。
銀色の毛並み、オオカミのように尖った鼻、そして瞳が右目が灰色がかったアイスブルー、左が茶色だった。
それは堂々とした足取りで進むと、小鳥から距離少し開けて小鳥を見つめた。
小鳥が手を伸ばしても届かない距離、そして相手からすると一気に食らいつくには十分な距離だ。
しかし、小鳥は恐怖は感じなかった。
相手から感じる気は、先ほどの獣たちの獲物を見る目ではなく純粋な興味。
そして、その生命力みなぎる様に圧倒されていたのもある。
しばらく一人と一匹は見つめあっていた。
小鳥はこの強く美しい生き物に魅入っていた。
相手のほうも小鳥のことをじっと見つめる。
小鳥はすっと相手に手を伸ばした。
頭には噛まれるかもしれないという危機感もなく、ただ子供が興味あるものに触れようとする衝動だった。
その行動によって沈黙が崩れ、一瞬緊張が走ったが相手も歩み寄り小鳥の手に鼻をくっつけた。
小鳥の手に暖かく湿った感触がした。
小鳥が微笑む。
「私は小鳥。あなたは?」
ナマエハナイ
それは人間が発する言葉ではなかった。
直接頭の中に響いてくる。
小鳥はそれも不思議とは思わなかった。
彼が返事をしてくれたことがうれしい。
「どうして?」
ヨブモノガ イナイ
「あなたは一人ぼっちなの?」
ヒトリ カンガエタコトモナカッタ ウマレタトキカラ ジブンシカイナカッタ
頭に直接入ってくる言葉と感情に一抹の寂しさを感じて小鳥はなんだか悲しくなった。
「じゃあ、私がつけたらダメかな?」
思わず小鳥が言うと、彼は少し驚いたようだった。
ナマエ?
「名前がなかったこれからもずっと誰も読んでくれないでしょ」
ソウダナ
そう言って彼は承諾してくれた。
小鳥は嬉しくなる。
両手を伸ばし彼の顔に触れた。
少し毛は固く生き物の暖かさを感じる。
色が異なる両目を見つめた。
「っ!!」
その瞬間、周りの音や景色が隔絶され彼との意識が一体になった。
――――――走っている
小鳥の脳裏に力づよく森を走り抜ける『自分』
五感が研ぎ澄まされ森の多くのことを四本の足で駆けながら感じた。
森の風景が流れるように通り過ぎる。
―――――速い、速い
これは自分の意識ではなく彼の意識だ、と小鳥は気づいた。
視線の先には角の生えた鹿のような動物、近くまで来た『私』に気づき逃げるが『私』のほうがはやい。
相手の喉笛にかみついた。
口に感じる血の鉄の味。
それを引き倒し食らう。
その身の筋肉の躍動、鹿の流れる血潮。
小鳥はそれが怖いとか気持ち悪いとか感じない。
一体となった意識はその糧を得て歓喜する。
――――――他を圧する生命力みなぎる体躯、そして孤高の精神
そう『私』の名前は――――――――
「ロウラン」
小鳥は『彼』の名前を放った。