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ぐちゃぐちゃな家

作者: 黒木メイ

 フルタイムの仕事を始めて三ヶ月。ようやく慣れてきた頃、わりと大きめの失敗をしてしまった。それまで特に問題を起こさずやってきた分、ここにきての失敗は自分でもショックだった。何より、上司からの視線がキツかった。目は口程に物を言うとはよく言ったもので、口では気にしないでと言っていたもののその目に浮かんだ落胆は明らかだった。

 せっかく築き上げた信頼が揺らいだ気がして不安に襲われる。――――明日からはもっと気をつけて何とか挽回しないと。


 仕事のことばかり考えていると、いつの間にか自宅に到着した。

 リビングの明かりが窓から漏れている。おそらく、小学二年生の娘がそこにいるのだろう。


 玄関の扉を開けるとまず目に入ってきたのは脱ぎ捨てられた娘の靴だった。元々沈んでいた気分がさらに落ちる。自分の靴を揃えるついでに娘の靴を隣に並べた。


 手を洗って、娘がいるだろうリビングへと向かう。

 部屋の中に入って絶句した。

 リビングの入口には投げ捨てられたランドセル。床には散らばった紙切れ。それも未だ娘の手によって量産されているらしい。娘がハサミで折り紙を切る度に、パラパラと床に色とりどりの紙の切れ端が落ちていく。


 綺麗だったフローリングが紙切れで埋まっていく。

 ぼーっとその様子を見つめていた。

 娘は私が帰ってきたことに全く気づく様子はない。


 チョキチョキとハサミの音だけが響き、パラパラと床がカラフルになっていく。

 苛立ちは蓄積され、とうとうピークに達した。


 娘の背後に立ち、怒りに任せて叱りつけようと口を開いた。

 けれど、娘が作っている物が目に入り、口を閉ざす。言い様のない気持ちが込み上げてきて唇を噛んだ。


 娘に気づかれないように、静かにリビングを出る。

 そのまま家を出た。握った拳と噛んだ唇から力を抜いた。

 幸いなことに娘はあんなに近づいても気づいていないようだった。とても集中しているのだろう。


 私は近くのスーパーに駆けこんだ。

 節約の為買い物は一週間に一度だけ、できるだけ健康の為に手料理をする。

 それが私のルールだったが、今日はそのルールを自分から破るつもりだ。


 普段買うことは無い弁当コーナーに真っすぐに向かう。

 そして、目に入った弁当に手を伸ばそうとした。


「もうちょっと待った方がいいわよ」


 隣からいきなり声をかけられ、止まった。驚いて顔を上げる。年配の女性がフフフと笑い、コソッと囁いた。


「後五分で割引シールが貼られるの。待った方がお得よ」


 戸惑いながらも素直に待つことにする。本当に五分後に店員が現れて割引シールを貼りだした。


「半額」


 驚きながらも弁当を手にする。人数分確保した後、さっき教えてくれた女性と目があった。女性はカゴの中の弁当を見て満足そうに微笑んだ。私はその女性に頭を下げた。


 目的の物を買ったからとレジに向かおうとして足を止める。唐突に思いついてデザートコーナーに足を向けた。

 甘いものが好きな夫と娘。でも、普段は市販の物を買うことは無い。休みの日に私が手作りで作っている。――――でも、今日は買っちゃえ。

 夫と娘の好きそうなデザートを選んでカゴに入れる。


 そして、自宅へと戻った。帰宅するのは二度目。自分の靴を娘の靴の横に揃える。

 ――――あれ? 靴を買ったのっていつだっけ? サイズ大丈夫かな?

 今更ながら娘の靴のサイズが気になり始めた。後で確認しないと……と忘れないようスマホのメモ帳に入力した。


 リビングは相変わらずぐちゃぐちゃだった。むしろ、さっき見た時より酷い状態だ。

 けれど、不思議と不快な気持ちにはならなかった。


 娘も私が帰ってきたことに気づいたようで慌てて片付けを始めた。

 私は何も言わずに持って帰ってきた買い物袋の中身を片付け始める。娘はちらちらと私の方を見ながら急いで片付けていた。


 そして、宿題を始める。やっぱりまだ終わっていなかったのか……と思いつつも何も言わずにお風呂の準備をする。

 娘の宿題が終わるタイミングで夫が帰ってきた。夫は娘の姿を見てギョッとする。そして、私の様子をちらりと伺ってきた。

 いつもなら娘がこんな時間まで宿題をしていたら私がイライラしているからだろう。

 ――――そんなに私は普段イライラしていたのか。

 娘と夫の反応から普段私がどれだけ余裕がなかったのかがうかがえる。


 何とも言えない複雑な気持ち。けれど、それを顔には出さずに私は何食わぬ顔をして娘に声をかけた。

「渡さないの?」


 娘が驚いた表情を浮かべ、いそいそとさっきまで夢中になって作っていたモノを取り出す。娘はそわそわとした様子で夫の前まで行き、手にしたモノを差し出す。


 夫は不思議そうな顔をしながらも受け取り、そのプレゼントを見て勢いよく顔を上げた。

 どうやら思い出したらしい……今日が父の日だということを。

 私もすっかり忘れていたが、今日は父の日だ。


 娘は帰宅後、夫にプレゼントする為に、一生懸命『父の顔』を制作していたのだ。

 娘が作った『夫の笑顔』と同じように夫が心底嬉しそうな笑顔を浮かべる。娘もその反応を見て嬉しそうに微笑んでいる。


 自然と私の口角も上がっていた。

 夫が娘からのプレゼントを飾るとこまで見守り、二人に夕飯だと声をかけた。

 二人は各々片付けをすませると腰かける。


 私が買ってきた弁当をテーブルに並べると、二人とも驚いたような顔をして固まった。

 その反応があまりにも似ていて笑いを堪えるのが大変だった。


「たまにはいいでしょ?」

「ああ」

「うん!」


 健康やバランスを考えた夕食ではない。けれど、二人とも嫌そうな顔はせずに食べている。食べ終わって、夫が物足りなさそうな顔をしているのを見て……私はほくそ笑みながら食後のデザートを出した。


「え?!」

「いいのか?!」

「父の日だからね」


 目を輝かせてデザートに手を伸ばす二人。夫は満足そうな顔でごちそうさまをした後、聞きづらそうな顔で尋ねてきた。


「もしかして体調悪かった?」

「いいえ。ただ……たまにはこういうのもいいかと思って」

「そうか。……おまえが気にしないなら、たまにはこういうのもいいと思うぞ。も、もちろんいつもの手作りの料理も最高だ! ただ、毎日働いて家事をこなすのは大変だろう? だから、こういう休息日みたいなのを作るのはどうかなって……一緒にゆっくり食べる時間を取れるし」

「私もママのご飯好きだけど。たまにはこういうのも食べたいな!」


 娘もうんうんと頷く。確かに、と私も頷く。

 時間と体力に余裕ができた分、私も座って二人とゆっくり食事ができた。食事の時間にこうして二人が笑顔を浮かべているのを見たのは、多分私が働き始めるより前だったと思う。

 ――――それだけ余裕がなかったね。


 娘が寝た後、夫が話しかけてきた。きっと、いつもと違う私を心配しているのだろう。

 そんな夫に苦笑をしながら頭を下げた。


 最近の自分の言動について謝る。

 フルタイムで働き始めてから余裕をなくして夫に八つ当たりをしたこと。

 二人に気を使わせていたこと。


 夫は驚いた顔で、けれどどこかホッとした顔で言った。

「俺も、ゴメン。俺の稼ぎがもっと多ければおまえがこんなに負担をかけずにすんだ。俺がもっと気の利いたことを言えていればおまえが無理をすることもなかっただろう。……なあ、これはあくまで提案なんだけど、来月からでもパートにしてみたらどうかな?」


 え……と驚く私に夫が慌てて言う。

「来月から昇進が決まったから給料も上がるんだ。もちろん、決めるのはおまえだ。ただ、無理はしないでほしい。……覚えてるか? 結婚した当初俺達が思い描いていた理想の『家族』のこと」


「『笑顔溢れる家族』……」


 夫がそうだ、と頷く。

 夫に言われるまですっかり忘れていた。


 思い出したと同時に今までの自分を反省する。お金や家族の健康が大事なのは今も変わりないが、それ以上に大事なものをすっかり忘れていた。自分を追い詰めて、家族に当たり散らして、皆の笑顔を奪っていたら何の意味もない。


「あの子とあなたに感謝しなくちゃね」

「え?」

「大事なことに気づかせてくれてありがとう」


 ギュッと夫に抱きつく、夫はいきなりのことに驚いたようで、あわあわしながらも……腕を回してくれた。――――こうするのもいつぶりだろう。ああ、こんなにこの人の腕の中はあったかかったんだ。


 翌朝、学校へと向かう娘に声をかける。

「いってらっしゃい……のぎゅー!」

「ふふ、いってきますのぎゅー!」


 娘は満面の笑みを浮かべて家を出て行った。

 家の中は夫と娘が脱ぎ散らかした服が散乱し、食べたままの食器がある。

 以前の私なら朝からイライラしていたことだろう。


 けれど、今の私はさほど気にはならない。もちろん、元々の性分というものがあるので多少気にはなるが、手を抜くことを覚えた私は自分の気持ちをコントロールできるようになった。

 来月からはパートが始まるし、もっと心の余裕を持つことができるだろう。


 ぐちゃぐちゃな家でもかまわない。笑顔が溢れる家なら、それが私の理想の家族なのだから。

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