ラキタの法則
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
【ラキタ高校生/昼食編】
昔から、よくあたる。
ケータイを開くと、小さなしろくまが、ヨチヨチと二足歩行で歩いている。
ああ。かわいい、かわいい。かわいいなあ。
しろくまが楽しげに鼻を動かしたり、ポリポリと耳の後ろをかいたりするのをニヤニヤと眺めて、俺はケータイを閉じる。よし。しっかり癒された。
舌の上が、まだじゃりじゃりしているようで、俺はもう一度、ペットボトルのお茶を飲んだ。
「ラキタ。なんで、いまケータイひらいたの」
机を挟んで向かい、弁当を食っていた砂村次郎が箸を止めて言う。
「お行儀わるいよ」
ツヤツヤしたきのこヘアが傾ぐ。おまえの目玉はどこにある? と問いたくなるくらい、前髪が長い。目と同じくらいの場所に、前髪の先端がある。見ているだけでも、うざったい。
でも、言わない。もう高校生になったんだもの。とやかく言うのは、中学で卒業だ。俺って、オトナ。高校生活はクールに決めるのだ。
ジローとは、中一の頃からつるんでいる。高一になった現在でも相変わらずつるんでいる。だからと言って、決して、他に友だちがいないわけではないのだよ。決して。
「しろくまに助けを求めたんだ」
俺は言う。あれ? この言い回しって、クールかしら? と、一瞬疑問に思わないでもなかったが、気にしないことにする。小さいことは気にしない男。それが俺。
「しろくま?」
ジローは眉根を寄せる。が、前髪が長すぎて眉毛なんぞ見えやしない。眉根を寄せた風の仕草をした、が、的確か。
俺は、ケータイをぱかっと開いて、画面をジローに向けた。
「あー、ほんとうだ。しろくまがいる」
ジローは、へらっと笑う。
「それで、しろくまはたすけてくれたの?」
「助けてはくれないが、癒してはくれた」
「それはよかったね」
ジローは頷き、再び箸を動かして、弁当に専念し始めた。俺も、自分の弁当を食べることに専念する。
おそるおそる、おむすびを口に運び、こわごわと咀嚼する。歯が、先程の硬い衝撃を忘れておらず、いつになく慎重になってしまう。
なにも入っていないな。よしよし。ほっと安心して、飲み込む。
さっき食べたおむすびには、小石が入っていた。俺は、それを思いっきり噛み砕いてしまったのだ。歯に衝撃が走り、声にならない悲鳴を上げた。咀嚼途中のごはんが、じゃりじゃりして気持ち悪かったが、ジローの前で吐き出すわけにもいかず、お茶で流し込んだ。
しかし、こんなことは珍しいことでもなんでもない。小石なんて、日常茶飯事だぜ。
へっ。
俺は自嘲気味に笑みを浮かべる。それをジローに目撃され、
「やめてよ。陰気に笑うのは」
などと、倒置法を使った注意を受けた。屈辱。
おむすびの小石。どこにでもある、日常風景である。
だよね? 日常だよね、小石。
これは、おむすびを握った母が悪いわけではない。
愛しい愛しい、目に入れても痛くないくらいにかわいい息子。つまり、俺。その俺が食すおむすびに、小石を入れちゃう親がどこにいる。
小石の原因は、あれだ。うちは、農家から直接、玄米を購入している。これが原因っちゃ、原因かもしれない。
しかし、悪者はどこにも出てこない。
農家から買った玄米を、自ら精米機にかけて白米にするのだが、精米しても取り除けない小石というのはあるものだ。もちろん、精米機が悪いわけではない。こっちは金払って精米してんだから、ちゃんと小石くらい取り除いてくださいよ、と思った時期もあったが、俺はもうオトナだ。米ぼうやくん(精米機の名前である)にも、止むを得ない事情があったのだろう、と察するにとどまる。
わかるよ、米ぼうやくん。努力しても報われないことって、あるよね。完璧な人間なんて、どこにもいないんだ。まあ、米ぼうやくんは、機械だけど。
お米を作った農家の方々が悪いわけでも、もちろんない。稲刈りの時点で小石がほんの少し混じってしまうということも、よくあることだ。その、ほんの少しの小石に、ピンポイントであたってしまう俺が悪いのだ。
つまり、悪いのは、俺の運なのである。
ごはんに混じった小石だけではない。俺が食べるアサリには、十中八九、砂が入っている。そうでなかったら、小さなカニ。シジミも同じだ。十中八九、砂入りだ。
食べ物だけではない。グラウンドでの朝礼の時、俺の肩にだけ鳥のフンが落ちる。
それから、自転車な。俺の自転車のサドルにだけ、鳥のフンが落ちている。そうでなかったら、サドル自体が盗まれている。現在のサドルは三代目だ。
サドルなんか盗んでどうするつもりなんだ。かわいい女子高生のサドルならいざ知らず。むさい男子高生のサドルなんか、誰も必要としないだろう。しかし、その疑問に答えてくれるはずの犯人は、既に逃走してしまった後である。
俺は、立ちこぎで帰宅する時の切なさを、滲んで見えた夕日を、一生忘れない。
で、おむすびだ。
「ジロー、おまえのおむすびには小石が入っているか?」
俺は、ふと思う。ジローのおむすびになら、小石は入っていないのではないか、と。
「え。ラキタ、なに言ってんの。入ってるわけないじゃーん」
へっ。
俺は、息を浅く吐き出して自嘲気味に笑う。ジローにとって「入ってるわけないじゃーん」な事柄は、俺にとっては「入ってないわけないじゃーん」という事柄だ。
ジロー。俺は、心底おまえが羨ましい。
「おまえ、きらい」
「なにー? いきなり」
ジローは、ふわっと軽く訊き返し、弁当を食べ続ける。
「特に、おまえの、苗字の、砂村の、砂の字がきらい。じゃりじゃりしてて最悪」
「なーんだ。やつあたりかよ」
俺は、ジローの弁当のおむすびをひとつ掴んで頬張った。
「あ。なにすんのー」
ジローの間延びした抗議の声を無視し、俺はおむすびを咀嚼する。
「小石なんて入ってないってばー」
ジローは呆れたように俺を見る。
ガッチン。
きたこれ。
じゃりっと歯の奥で擦れる嫌な感触。
へっ。
俺は、またも自嘲気味に笑う。
「入ってる」
「え?」
「入ってるぞ、小石が! ざまあ!」
「えー、なんでー?」
ジローは、信じられない、というふうにパチパチと瞬きを繰り返す。
「こっちが聞きたいわ! なんで入ってんだ、ちくしょー!」
勝ち誇りながら嘆くという器用な技を披露して見せた俺に、ジローはゆるゆると首を振った。
「ラキタって、ほんとうに運がわるいね」
おむすびの法則。
ジローのおむすびには、小石は入っていない。ただし、俺が食べた場合を除く。
【ラキタ高校生/下校編】
昔から、よく落ちる。
「あーあ。ラキタ、だいじょうぶー?」
砂村次郎の声が、頭の上から降ってくる。
「おい。見下してんじゃねーぞ!」
俺は起き上がり、ジローに向かって拳を突き上げた。
「しょうがないじゃん。立ち位置的さー」
ジローは自分の腰に両手をあて、やはり俺を見下している。
「まず、自転車だね。てつだうよ」
ジローは、へらっと笑った。
下校中、自転車ごと水路に落ちた。単純に言うと、そういうことだ。
しかし、こんなことは珍しいことでもなんでもない。水路に落ちることなんて、日常茶飯事だぜ。
へっ。
俺は自嘲気味な笑みを浮かべる。
「あ。またインキに笑ってる」
ジローが俺の顔を見て溜め息を吐いた。
おい。いま現在、溜め息を吐く資格があるのは、全世界で俺だけだ。俺の特権を奪うんじゃないよ。
「ラキタは、せっかく、しあわせな名前をもってるのにね」
ジローは言う。
「名前だけはな」
俺が下から自転車を持ち上げ、ジローが上から引き上げてくれた。俺自身は、自力で這い上がる。
「どろどろになっちゃったね」
ジローが言う。
俺の制服には、水路の底の苔のようなどろどろが、やたらとへばりついていた。緑なのか黒なのか、はっきりせんかい! という感じの奇妙な色をしている、どろどろ。
「いや。今回は、ましなほうじゃないか」
俺が言うと、ジローは、
「ラキタ、ハプニング慣れしすぎ」
と溜め息を吐いた。だから、おまえが溜め息吐くんじゃねっつーの。
学校の帰り。俺とジローは、道の端を並んで歩いていた。俺は自転車通学だが、ジローは徒歩での通学だ。ジローってば、未だに自転車に乗れないらしい。
うわー。ありえねー。超だせー。
そのため、心やさしい俺は、ジローの歩行のペースに合わせるべく、自転車には乗らず、ハンドルを押して歩いていた。
道の端には、側溝と呼ぶにはかなり広めの水路が通っていて、その水路には、鉄板の蓋がしてあった。だから、油断した。鉄板の蓋なんてものを信用した俺が悪かった。
鉄板の蓋というのは、その大半がずれているものである。特に、俺が踏む鉄板は。たとえ、寸前までずれていなかったとしても、俺が踏んだことによりずれてしまうと言っても過言ではない。 今回も、例に漏れず、案の定ずれていた鉄板。それを、まず自転車が踏んだ。鉄板のバランスが崩れたアンタッチャブルな状態で、さらに俺がそれに乗っかったものだから、重さを支えきれず、当然、鉄板は水路に落ちる。自転車も落ちる。俺も落ちる。
どんがらがっしゃん! というベタベタな音をさせ、鉄板と俺と自転車は成す術もなく、高さ約二メートルの水路の底へといざなわれることになったのである。
しかし、落ちたのが下校時で良かった。登校時だったら、遅刻決定。大惨事だ。もう、学校休んじゃおうかな、なんてことにもなりかねなかった。危ない、危ない。
で、名前ね。確かに、俺は幸せな名前を持っている。両親が最初にくれた、一生物の宝物だ。字面だけを見ると、このひとってば、すごくラッキーなひとなんだろうなあ! と、皆が羨むような名前だ。
俺の名前は、運河幸太郎という。
うんがこうたろう。
ほれぼれするような、素敵な名前。
しかし、仲のいいやつらからは、「ラキタ」と呼ばれている。「運河幸太郎」が「幸運太郎」になり、それが「ラッキー太郎」になり、さらにそれが「ラキタ」になった。そういう流れだ。わりと無難に落ち着いてくれて、俺は心の底から安心している。「ラッキー太郎」で流れが止まってしまわなくて、本当に良かった。「ラッキー太郎」なんてゴキゲンなあだ名で呼ばれても、うれしくもなんともない。むしろ、嫌。ラッキーでもなんでもない。「ラキタ」に落ち着いてくれたのは、俺にしては上出来な幸運だ。
ちなみに、保育園時代は「うんこ」と呼ばれていた。お察しの通り、運河の「うん」と、幸太郎の「こ」を取って「うんこ」。決して、うんこを漏らしてしまったがためについた呼び名ではない。決して。
保育園、小学校低学年と言ったら、ちょうど下半身系の単語が楽しくてたまらない時期だからね。仕方ない、仕方ない。
そして、その頃の俺ってば、
「おーい。うんこー」
と友人に呼ばれれば、
「おーい」
と、にこやかに手を振り返しちゃうような、素直でかわいい良い子であった。
おバカちゃんか、おまえは。と、幼い俺をやさしく諭してやりたい。次に、強く抱きしめてやりたい。そして、助言をしてやるのだ。ここを動くんじゃない、と。
友人に手を振るのに夢中で下を見ていなかった俺は、この後、偶然にも蓋が開いていた側溝に、ストンと落ちることになる。
半ズボンの剥き出しの脛をしこたま擦りむいて、俺は大声で泣こうとした。しかし、
「ぎゃあああ!」
という尋常じゃない悲鳴が聞こえたために、泣くタイミングを完全に失ってしまった。俺を呼んだ友人の悲鳴だ。後から聞いた話によると、友人には、俺が突然消えてしまったように見えたらしい。恐怖に打ち震えた友人は、
「うんこが消えた!」
と大騒ぎし、保育士の先生を呼びに行った。
「うんこが、うんこが」
と、友人は繰り返す。
「え。なあに。うんこ? うんこがどうしたの? おトイレ行きたいの?」
友人のもたらした情報は、「うんこ」のみ。先生も困った。もう、本当になんのこっちゃ、である。
先生は、とにかく、友人に連れられて現場に向かった。ほどなくして、側溝の底で、おとなしく体育座りをしていた俺が発見された。
いまでは、あんな細い側溝には落ちない。物理的に難しいというだけで、足くらいは突っ込むことがあるけれど、落ちはしない。当時の俺の体がすっぽりと隠れてしまうくらいに大きかった側溝だが、十六歳になった俺にとっては、ただの溝。そんな細い溝なんて、こわくない。せいぜい、靴とズボンが汚れるくらいだ。まあ、広めの水路には、普通に落ちるけどね。さっきみたいに。
あ。ところで、「ズボン」って言うよりも「パンツ」って言ったほうがクールだろうか。
「ジロー。おまえ、ちょっとそっちの鉄板に乗ってみろよ」
俺は、落ちてしまった鉄板の隣を示す。
「やだよー。落ちるかもしんないじゃん」
ジローはキノコ頭をぷるぷると左右に振る。
「いいから、乗ってみろよ。おまえなら大丈夫だって」
俺は、嫌がるジローの背中をぐいぐい押して、鉄板の上に移動させた。いやだいやだ、と抵抗しながらも、ジローは、鉄板の上に立つ。
「あ。おお。だいじょうぶ。落ちない」
ジローは安心したように、へらっと笑った。
「けっこう、がんじょうだよ」
「本当か」
それなら、と、ジローを退かし、今度は俺が鉄板に乗ってみる。
ガツン。
落ちた。
寸前までずれていなかったとしても、俺が踏んだことによりずれてしまうという現象が、まさにいま、この鉄板に起こったようだ。
「ラキタ!」
ジローの声が上から降ってくる。
「ラキタ! ラキタ、だいじょうぶ!? てゆーか、なにやってんの!」
知るかよ。
水路の法則。
水路の蓋は頑丈だから、滅多に落ちない。ただし、俺が乗った場合を除く。
【ラキタ中学生/あのころ俺は中一だった】
死んでしまいたい!
叫びたいのを我慢しながら俺はしゃがみ込んだまま身体をまるめる。このまま小さくなって、消えてしまいたい。
すり寄ってきた人懐っこい野良猫に赤ちゃん言葉で話しかけている場面を見られたのだ。オレンジ色のトラちゃんだった。
下校途中の俺の脚に絡まってきたその子に、とろけそうになりながら、
「どーちたの、おなかしゅいたの」
などと、しゃがんで耳の後ろをかいてやっているところに、
「あれ、ラキタ?」
と声をかけられた。ツヤツヤのきのこヘアは、同じクラスの砂村次郎だった。中学に入ってから、よくつるんでいる友だちだ。
ひい、と俺は声にならない声を上げる。いまの、聞かれただろうか。聞かれただろうな。恥ずかしい。死んでしまいたい。
神様どうか、時間を巻き戻してください。俺、赤ちゃん言葉なんて二度とつかいません。時間を戻してくれるなら、トラちゃんにもちゃんと礼儀正しく声をかけます。「なにかお困りですか?」って。神様、どうかどうか、お願いします。
神様へのテレパシーを送りながら、俺は身体をまるめ、ジローから目をそらす。トラちゃんは全く空気を読まず、ここもかいてくれ、と喉をこちらに見せてくる。仕方がないので、俺はトラちゃんの喉をかいかいしてやる。もふもふしやがって。このくそかわいらしいトラちゃんめ。
「ラキタ、猫好きなの?」
ジローはそう問うてきたが、俺は答えない。
「おーい、ラキタ。幸太郎。返事してよ。どうしたんだよ」
「ひとちがいだ。俺はラキタではない。誰だ、それは」
「え」
ジローは戸惑ったような声を上げた。
「そっくりさんだ。なんちゃってラキタだ」
「なに言ってんの、ラキタ」
ジローは俺を、運河幸太郎、通称ラキタだと信じて疑っていないようだ。他ならぬ俺自身がラキタじゃないって言ってんだから、信じてくれたっていいじゃないか。くそう、ジローめ。ひとを信じることを忘れてしまった、かわいそうなやつ。
俺はトラちゃんを抱え上げ、ダッシュでその場から逃げた。驚いたトラちゃんが、ぎゃあ、と悲鳴をあげる。爪が制服の肩に食い込んで、微かに痛い。俺は一目散に自宅まで逃げ帰った。
「どうしたの幸ちゃん、その猫」
リビングでみかんを食べていた姉のミユキちゃんが、俺とトラちゃんを見て言った。
「紹介します。こちらトラちゃん。今日からうちの子だ」
息を切らしながら、俺は言う。
「そっか。じゃあ、お母さんが帰ってくるまでにお風呂に入れちゃいなさい」
ミユキちゃんは座椅子から立ち上がり、
「トイレとか砂とか、いろいろ一式買ってくるね」
と出て言った。
俺は制服を脱いで、カッターシャツを腕まくりすると、トラちゃんをお風呂場へ連れて行った。
お風呂場の扉を閉めると、トラちゃんが不安そうに黒目をぶわっと大きくする。おわあ、おわあ、と助けを呼ぶように鳴くトラちゃんにシャワーのお湯をかけると、もふもふだった毛が、ぺったんこになってしまった。
「ぺっちゃんこになっちゃいまちたねー」
言ってしまってから、また赤ちゃん言葉をつかってしまった、と、はっとする。
「意外と痩せていらっしゃる」
礼儀正しく言い直してみた。トラちゃんは、そんなこたあどうでもいい、という感じで、お風呂場からの脱出経路を探している。
嫌がるトラちゃんをシャンプーし、念入りにドライヤーをかけてやると、またもとどおり、もふもふになった。
「ただいまー」
帰ってきたミユキちゃんの脚に、トラちゃんは早速からみついた。
「トラちゃん、お腹すいてるの?」
ミユキちゃんは言い、買ってきたばかりのお皿に、カリカリを入れてやっている。
がつがつとごはんを平らげているトラちゃんに、
「トラちゃん何歳?」
と、ミユキちゃんは普通に話しかけている。やーん、とトラちゃんは鳴く。
「そう。まだまだ赤ちゃんだね」
普通だ。普通にしゃべっている。まるで、俺や両親と話す時と全く変わらない。これが、俺の目指す姿だ! もう赤ちゃん言葉なんてつかわないぞ。
「幸ちゃんにも弟ができたね」
ミユキちゃんは、そう言って食事中のトラちゃんの頭を撫でて、嫌がられている。
弟か。俺は、その言葉をかみしめた。もう、きょうだいは増えないだろうと思っていたが、
「そうか。弟か」
むふむふと笑う。トラちゃんがいままで以上にかわいく見える。
「トラちゃん、よろちくねー」
言ってしまってから、また、はっとする。ミユキちゃんは、ぽかんと俺を見ていた。やーん、とトラちゃんは目を細める。
「おはよう、ラキタ。昨日どうしたんだよ」
朝、教室の自分の席に着くと、ジローがやってきて言った。
「昨日? 昨日なにかあったっけ? おはよう」
早口で言って、取ってつけたように挨拶を返す。
「昨日、帰りに会ったじゃん」
「会ってないよ。俺、昨日帰りに誰にも会ってないよ」
「なに言ってんの。昨日、ラキタ、猫といっしょにいたじゃんか」
ジローはしつこい。他ならぬ俺自身が誰にも会っていないと言っているのだから、信じるのが普通だろう。ひとを信じられなくなったらおしまいだぞ、ジロー。かわいそうなやつ。
俺はため息を吐き、薄目を開けて次郎を見る。
「わかった。おまえが会ったと言い張るその人物が、百歩譲って運河幸太郎だったとしよう」
「いや、そうだったよ。なんでそんなに否定すんのー」
ジローは、わけがわからない、という表情だ。
「しかし、ジロー。おまえが猫だと思っているあの子は、実は猫ではない」
「え」
ジローはひっくり返ったような声を上げる。
「あの子は、俺の弟だ」
「え」
「弟はまだ赤ちゃんだから、赤ちゃん言葉で話しかけたっていいんだ」
ジローは、なにも言わない。長めの前髪で隠れかけた目で、俺の顔をじっと見ている。
「わかるか。あの子は猫ではない。弟だ」
「あ、うん。わかるよ。家族だもんね……」
ジローは、戸惑ったように頷いた。
【ラキタ中学生/お寿司食べて行ってね】
「よかったら、お寿司食べて行ってね」
ミユキちゃんが、にっこり笑って言った。
「えー、いいんですかー」
寿司がうれしいのか、ミユキちゃんに笑いかけてもらったのがうれしいのか、ジローはきのこヘアを揺らしながら、あからさまにでれでれしている。
今日は日曜日で、ジローは俺の家に遊びに来ているのだ。トラちゃんと遊びたいと言ってはいたが、そのトラちゃん本人が現在外出中なので、ジローはうちになにをしに来たのか目的を完全に見失っている。本当はミユキちゃんが目当てなのではなかろうか。
「あー、もう、ミユキさん、本当きれいだねー」
寿司を買いに出かけたミユキちゃんを見送ってから、ジローは言う。
やっぱりだ。ジローめ。色気づきやがって。
「いいなー、ラキタ。あんなきれいなお姉さんがいて。お母さんは実は事業家だっていうし。ラキタは運がわるいと思ってたけど、こういうでっかいラッキー持ってるから普段の運がわるいんじゃないかなー」
などと俺の不運を考察するジローに、
「俺は、お兄さんだと思ってたんだけどな」
言いながら思う。ジローめ。やっぱり俺のことを運が悪いと思っていやがった。
ジローは、くきっと首を折るようにして頭を斜めに傾げる。前髪がサラサラと流れて、間からくっきりとした眉が覗いた。その下の目は、大きく見開かれている。
「えー? ラキタ、いまなんて?」
ジローがふにゃふにゃと不安定な声を出す。
「ミユキちゃんのことを、ある時期まで俺はお兄さんだと思ってたんだけど」
飲み込みの悪いジローのために、やさしい俺は、ちゃんとわかりやすく繰り返してやる。
ミユキちゃんが高校生の時だから、俺が小二の時だ。ミユキちゃんが俺と母に言ったのだ。「私、本当はお姉ちゃんなんだよ」と。
「幸ちゃん、もう私のこと、お兄ちゃんて呼んじゃいやだよ。悪い魔法使いに意地悪されて男に生まれてきちゃったけど、本当は女なんだから。いままでずっと隠しててごめんね。私、これから、少しずつ女に戻るから」
その説明で、すんなり納得した小二の俺は、その時から、ミユキちゃんを名前で呼ぶようになった。ミユキちゃんは、いままでどおり変わらずやさしかったし、俺個人としてはなんの問題もなかった。
「戸籍も身体の形も、まだ男ではあるよ。女性ホルモンは定期的に打ってるみたいだけど」
「え、だれが?」
ジローはおどおどと訊き返す。なにをそんなに動揺しているのか、ジローの様子がおかしい。茶色い眼球がきょろきょろと忙しなく動いている。
「だから、ミユキちゃんだって」
ジローは、なぜか泣きそうな顔になった。
「ミユキちゃんの名前は、美しい幸せって書くんだけど」
俺は続ける。
「『みゆき』じゃなくて『よしゆき』って読むんだ。ミユキちゃん生まれるまで、ずっと女の子だって言われてて、名前も女の子の名前しか考えてなかったんだって。でも生まれてきたミユキちゃんは、身体の形が男だったから、母さんはそれを読みだけ男っぽく変えて名付けたんだ。だけどさ、身体の形は男に見えても、本来は女なんだから、本当は読みも変えなくてよかったんだよ」
ジローは、曖昧に首を動かして、
「そ、そっかー」
と硬い声で言った。
「ミユキさん、本当は男なのか」
「本当もなにも、もともと男じゃないよ」
俺は否定する。
「男だと思ってたのは俺とか周りだけで、ミユキちゃんは生まれた時からずっと女だったんだから」
ジローはぱちぱちと瞬きをして、
「うーん。そっか。そうだよねえ」
と頷いた。やっと理解したようだ。
「ただいまー」
帰ってきたミユキちゃんが、テーブルに寿司を並べてくれる。
「いっぱい食べてね」
と笑うミユキちゃんとは反対に、ジローはあからさまに不満そうな表情をしている。
「ジロー。おまえ、なんだその顔は。ありがたく食べろよ。せっかくミユキちゃんが買ってきてくれたんだぞ」
「だって」
ジローが言いにくそうに口を開く。
「これ、お稲荷さんじゃん」
「お稲荷さんだな」
俺は言う。
「五目稲荷、おいしいよ」
ミユキちゃんも言う。
「お寿司って言ったら、ふつう握り寿司のことだと思うじゃん」
ジローは小さく言った。
「いやなら食うな!」
俺が言うと、
「いや、食べる。食べます。せっかくミユキさんが買ってきてくれたんだもん」
ジローはお手拭で手を拭いてから、稲荷寿司に手を伸ばす。
「ジロー。おまえのその思い込みはいつか身を滅ぼすことになるぞ」
俺も稲荷寿司を食べながらそう言うと、
「ならないよ。ラキタはおおげさなんだよ」
と言ってジローは笑う。俺は、なぜか稲荷寿司に混入していた固いなにかを、じゃりじゃりと噛み砕いた。
「幸ちゃん、またなにか入ってたの?」
ミユキちゃんは笑っている。
了
ありがとうございました。






