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リスト「愛の夢:第三番 変イ長調」

『僕はここの職員で、一応、公務員ですし、誰かを特別扱いすることはできません』


 何故か僕は、鎧塚さんにそう告げた時のことを思い出していた。


「珍しい顔をしているね」

「珍しい顔、って何ですか」


 課長の口から出た言葉に、思わず苦笑してしまう。“珍しい顔”って、何だよ。

 僕は、嘘が下手だ。そんな僕を“感情が出にくい顔”という一面が、ある種支えてくれていた。どうやらもう、その武器も通用しないのかもしれない。多分、今の僕は表情も、口から出る言葉も、何一つ誤魔化せていないのだろう。参ったな。


「君は、クレームやトラブルにあまり動じないように見えていたし。こういう話をしても、もっとあっさりした反応をするのかと思っていたよ」

「動じていないように見えましたか」

「内心はいろいろあるんだろうとは思っていたけどね。まあ、たまに仕事をフォローする事ぐらいしか、私にはできなかったけど」

「お気遣い、ありがとうございます」


 だったらもう少し窓口に出てこいよ……という言葉はギリギリで飲み込み、お礼の言葉にすり替えた。トラブルの噂はすぐに広まる。これから先の仕事がやりづらくなるのは、ごめんだった。


「何か、この職場に未練でもあるのかい?」


 僕は、その言葉に上手く返事ができなかった。



 事務所から窓口に出ると、待ち構えていたかのように山崎さんがカウンターの脇に立っていた。その顔は今日もいつもと変わらず、ニコニコしている。

 

「聞いてたんですか」

「聞いてたね」

「……悪趣味ですよ」


 思わず強い言葉を吐いてしまう。しかし、山崎さんの表情は変わらなかった。本当に、この人は空気が読める人だ。頭が下がる。


「近頃は三年くらいで、みんな居なくなっちゃいますね。経験を積ませるための人事と言えば聞こえがいいけど、その度に人間関係から何から、色んなことを一からやり直すわけだから、大変だ」


 そこまで言うと山崎さんは、こちらを見た。


「どうするの、スーちゃん」


 その問いが何を指すのかがわからないほど、鈍くはなかった。


「どう……しましょう、ね」



 四月に入り、季節は一気に前へと進んだ。色とりどりの花が、世界をカラフルに染め始めている。


 そして今日は、水曜日だ。時刻は、午後九時を回ったところである。僕はいつものように、鎧塚さんの使った音楽練習室のチェックに来ていた。指差し確認をしている僕に、鎧塚さんが薄い冊子を見せてくる。


「楽譜、見つかったんです。今、練習中」


 鎧塚さんはそう言うと、にっこりと笑った。

 とても素敵で、自然な笑顔だった。


 ーーこのまま。

 どうか、このまま。

 世界が、美しく染まったまま。

 時が止まってしまえばいいのに。


 僕は、鎧塚さんの抱える楽譜を見ながら目を細めた。

そして、鎧塚さんの目を見て、微笑んだ。


「ありがとうございます」


 ーー僕は。


「楽しみにしています」


 僕は、言わなかった。

 “言えなかった”じゃなくて、“言わなかった”。


 僕が来週にはこのセンターから異動するという事実を、鎧塚さんに、最後まで伝えなかった。


 異動の希望など、出すわけがなかった。これからもこの穏やかな日々が、できるだけ長く続くようにと願っていたから、そんなものは出すつもりもなかった。

 でも、仕事において自分の要望が通ることなんて、そう多くはない。これまで仕事をしてきて、散々そういう目に遭ってきた。なのに、今回だけ例外が起きるなんて、どうして期待したりしたのだろう。


 突然、姿を消す僕に対して、鎧塚さんはどんな感情を持つのだろうか。

 どんなに確かめたくても、僕にそれを知る資格はない。


 桜が開花のピークを越え、嵐のようにその花を散らし始めた頃。


 僕と鎧塚さんの“水曜日”は、ひっそりと幕を下ろしたのだった。

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[良い点] 前話からのフリ 劇的なストーリー展開を思わせるタイトル曲の雰囲気 そして本編 主人公の『言わない』 [気になる点] 楽譜もって微笑んだ鎧塚さん 事情をしってる山崎さん 二人の心中を思うと…
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