リスト「愛の夢:第三番 変イ長調」
『僕はここの職員で、一応、公務員ですし、誰かを特別扱いすることはできません』
何故か僕は、鎧塚さんにそう告げた時のことを思い出していた。
「珍しい顔をしているね」
「珍しい顔、って何ですか」
課長の口から出た言葉に、思わず苦笑してしまう。“珍しい顔”って、何だよ。
僕は、嘘が下手だ。そんな僕を“感情が出にくい顔”という一面が、ある種支えてくれていた。どうやらもう、その武器も通用しないのかもしれない。多分、今の僕は表情も、口から出る言葉も、何一つ誤魔化せていないのだろう。参ったな。
「君は、クレームやトラブルにあまり動じないように見えていたし。こういう話をしても、もっとあっさりした反応をするのかと思っていたよ」
「動じていないように見えましたか」
「内心はいろいろあるんだろうとは思っていたけどね。まあ、たまに仕事をフォローする事ぐらいしか、私にはできなかったけど」
「お気遣い、ありがとうございます」
だったらもう少し窓口に出てこいよ……という言葉はギリギリで飲み込み、お礼の言葉にすり替えた。トラブルの噂はすぐに広まる。これから先の仕事がやりづらくなるのは、ごめんだった。
「何か、この職場に未練でもあるのかい?」
僕は、その言葉に上手く返事ができなかった。
*
事務所から窓口に出ると、待ち構えていたかのように山崎さんがカウンターの脇に立っていた。その顔は今日もいつもと変わらず、ニコニコしている。
「聞いてたんですか」
「聞いてたね」
「……悪趣味ですよ」
思わず強い言葉を吐いてしまう。しかし、山崎さんの表情は変わらなかった。本当に、この人は空気が読める人だ。頭が下がる。
「近頃は三年くらいで、みんな居なくなっちゃいますね。経験を積ませるための人事と言えば聞こえがいいけど、その度に人間関係から何から、色んなことを一からやり直すわけだから、大変だ」
そこまで言うと山崎さんは、こちらを見た。
「どうするの、スーちゃん」
その問いが何を指すのかがわからないほど、鈍くはなかった。
「どう……しましょう、ね」
*
四月に入り、季節は一気に前へと進んだ。色とりどりの花が、世界をカラフルに染め始めている。
そして今日は、水曜日だ。時刻は、午後九時を回ったところである。僕はいつものように、鎧塚さんの使った音楽練習室のチェックに来ていた。指差し確認をしている僕に、鎧塚さんが薄い冊子を見せてくる。
「楽譜、見つかったんです。今、練習中」
鎧塚さんはそう言うと、にっこりと笑った。
とても素敵で、自然な笑顔だった。
ーーこのまま。
どうか、このまま。
世界が、美しく染まったまま。
時が止まってしまえばいいのに。
僕は、鎧塚さんの抱える楽譜を見ながら目を細めた。
そして、鎧塚さんの目を見て、微笑んだ。
「ありがとうございます」
ーー僕は。
「楽しみにしています」
僕は、言わなかった。
“言えなかった”じゃなくて、“言わなかった”。
僕が来週にはこのセンターから異動するという事実を、鎧塚さんに、最後まで伝えなかった。
異動の希望など、出すわけがなかった。これからもこの穏やかな日々が、できるだけ長く続くようにと願っていたから、そんなものは出すつもりもなかった。
でも、仕事において自分の要望が通ることなんて、そう多くはない。これまで仕事をしてきて、散々そういう目に遭ってきた。なのに、今回だけ例外が起きるなんて、どうして期待したりしたのだろう。
突然、姿を消す僕に対して、鎧塚さんはどんな感情を持つのだろうか。
どんなに確かめたくても、僕にそれを知る資格はない。
桜が開花のピークを越え、嵐のようにその花を散らし始めた頃。
僕と鎧塚さんの“水曜日”は、ひっそりと幕を下ろしたのだった。