フォーレ「3つの無言歌:第3番 Op.17-3」
仕事を終えた僕は、いつも通り山崎さんにセキュリティボックスの鍵を渡し、通用口を通ってセンターを出た。
雨はいつの間にか上がっていた。綺麗に洗われた空気が、僅かに温く感じる。毎年このくらいの時期になると、春に向かって容赦なく進む時間に、気持ちが置いていかれそうになってしまう。気温などの客観的な数字がなくても、実感としてそう思うのだ。
今日は心なしか、いつもより疲れた気がする。
明日も仕事だ。早く帰宅して、風呂に浸かろう……そんな僕を、思いもよらない展開が待っていた。センターを出たところに、僕を待つ人がいたのである。鎧塚さんだった。
「駅までご一緒しませんか?」
断る理由を探す方が、難しかった。先程までの疲れが、霧散したかのようにどこかへ消えてしまった。我ながら、大変都合がいい身体に苦笑するほかない。
*
「お礼がしたいんです。さっきの」
僕と鎧塚さんは、間に二人分くらいの距離を空けて、ゆっくりと歩いた。この時間の住宅街は本当に静かだ。雨上がりの地面を踏む僕と鎧塚さんの湿った足音だけが、静まり返った空間に微かに響いている。
何か話したいことがあるのでは……そう思っていた僕は、鎧塚さんが話し出すのを待っていた。ようやく口を開いた彼女は、「何か好きな曲とか、ないですか?」と僕に言った。思いがけない言葉だった。
「モノとかだと、重いかなと思って。演奏なら、私も楽しいし」
「いいんですか?」
あんなことくらいで……と続けようとした言葉の後半は、間一髪のところで飲み込んだ。その言葉がこの流れに水を差すものだということは、察しの悪い僕にも何となくわかった。
「私の演奏で良かったら。あんまり難しいのは、ちょっと時間がかかるかもしれないけど」
その言葉に、僕はしばし考え込む。僕は、クラシックに明るくない。せっかくの機会だからとぐるぐる考えを巡らせたけれど、ちょうどいい答えにはなかなか辿り着けなかった。
『ーーああ、この曲?“アメリのワルツ”でしょ、知らないの?』
ふと脳裏を過ったとある声に釣られるように、僕はぽつりと呟く。
「……“アメリのワルツ”」
「え?」
鎧塚さんが、少し驚いたような表情になった。僕はその反応を見て、何か間違えてしまったのかと不安になる。
「まずかったですか。多分、クラシックではないと思うんですけど」
「いえ……映画音楽ですよね」
「多分」
どうやら鎧塚さんは、僕よりもこの曲のことをちゃんと知っていそうだった。
「……妹が、フィギュアスケートを好きで」
「へえ!」
そんなに反応してもらえるようないい話じゃないんだ……そう思った僕は、気まずさで思わず頭をかいた。
「僕自身は、さほど興味がないんですけど。たまたま、妹がテレビで女子の競技を観ていて。華奢で、折れてしまうんじゃないかって心配になるような女の子ばっかりなんですよ。そういう子達が何回転ジャンプ……とかバンバン跳ぶので、改めて、すごいことをやってるなと思ってたんですけど」
「はい」
「ひとり、ずば抜けてスピードの早い子がいたんです。素人目に見て、はっきり他と違いがわかるくらい。気になったので、そのままテレビを観ていました」
その時のことを、僕はぼんやりと思い出していた。
「ジャンプも、すっごい“跳ぶ”んです。高さと、飛距離っていうのかな。ますます目が離せなくなりました。それで、その女の子が使っていた曲がとても落ち着いたものだったんです。メランコリック?って言うんですかね」
音楽に明るくない僕は、曲を聴いて感じたイメージをわかりやすく人に伝える言葉を持たなかった。必死で単語を繋いだせいで、何だか妙な汗をかいているような気がした。
「……とても、可愛らしい曲だったんですよ。ダイナミックな演技とのギャップがすごいなって。それで、妹に“今の曲、知ってる?”って聴いたら、“アメリのワルツ”だと」
「……素敵ですね」
「そうですか?」
僕は鎧塚さんの言葉に少し困惑した。今の話のどこに“素敵”と思えるような要素があったのだろう。とりあえず、ここにはいない妹に感謝しておくべきなのかもしれない。
「“にわか”どころの話じゃないですよ」
「ううん。とても、素敵だと思います」
そう言うと、鎧塚さんはにっこりと微笑んだ。
「楽譜を探して、練習してみます。お聞かせできるくらいになったら、またお声掛けしますね」
「……ありがとうございます」
鎧塚さんと僕は、顔を見合わせて、そして笑った。
月が、綺麗な夜だった。
僕は穏やかな幸せを感じていた。何なら、ちょっと舞い上がっていた。鎧塚さんとの距離が縮んだ気がして、嬉しかった。何なら、この先に起こるかもしれないことを、あることないこと想像して、浮かれていた。
ーーだから。
僕らのささやかで、そして大切な約束を脅かすような出来事が間も無く起きようとしているなんて、この時の僕は、知る由もなかった。