ドビュッシー「ベルガマスク組曲より《月の光》」
プルルルル……
「はい、受付です」
「音楽練習室です。終わりましたので、確認をお願いします」
「わかりました」
電話口から聞こえた鎧塚さんの声は、やはり落ち着いていた。僕はふう、と一つ息を吐き出した後に、音楽練習室へと向かった。
ホールの催し物は一足先に終了していた。撤収の時に、鎧塚さんに話しかけていた女性と鉢合わせたが、彼女は特に何も言ってこなかった。先程のやり取りだけでは僕と鎧塚さんに面識があるとは思っていないだろうから、当然と言えば当然のことだった。
「さっきは……本当に、ありがとうございました」
「いえ、僕は何も」
音楽練習室に入ると、開口一番に鎧塚さんがお礼をしてきた。丁寧に頭を下げる彼女を前にして、僕はひたすら気まずかった。結果的に役に立ったのかもしれないけど、自分の取った行動を思い出すと、不甲斐なさで顔から火が出そうだった。
「……昔の、知り合いなんです。その……コンクールとかに、出ていた時の」
緊張から解き放たれたからなのか。それとも、曲がりなりにも顔見知りと言える程度の僕を相手にしたからなのか。鎧塚さんは、堰を切ったように話し始めた。
「そもそも、あまり興味がなかったんです。コンクールは」
そう言うと彼女は俯いて、右手で左腕をきゅっと掴んだ。
「でも、出場していい順位に入ると、みんなが喜んでくれるし。自分に向けられる拍手や歓声を、嬉しく思う気持ちもありました。たぶん、人並みには」
でも……と彼女が目を伏せたまま、続けた。
「私は、誰かに見つかりたくて音楽をやっているわけじゃないんだって、よくわかったんです」
切なかった。この言葉たちが彼女の本心なんだと、痛いほど伝わってきた。
「ただ、音楽が好き……ピアノが好きだから、それに、時間を費やしたい」
そう言うと鎧塚さんは、泣き笑いのような表情をこちらに向けた。
「それだけなんです」
その告白に、彼女が背負ってきたものの大きさを感じて、僕はかける言葉が見つからなかった。
「……また、あの方はここを利用するんでしょうか」
ここは公共の施設だ。条件を満たした人間なら誰でも利用できる、そういう場所である。開かれた場所である以上、今日のようなことが起こる可能性は、これからも消えることはない。
ーーでも。
「何か起きたら、起きたその時に考えればいいんじゃないですか」
自分でも驚くほどに冷静な声が出た。鎧塚さんが僕の言葉にパッと顔を上げる。完全に無防備な表情をしていた。その顔を見て、この人は今までどれだけの”目”に晒され、それに苦しんできたのだろうと、つい、思いを馳せてしまう。もっとも、彼女から話を聞いたわけでも、自分で調べたわけでもないのだから、それはただの僕の妄想に過ぎないのだけれど。
「僕はここの職員で、一応、公務員ですし、誰かを特別扱いすることはできません。ここは開かれた場所ですし、そうあるべきですから、でも」
僕は軽く息を吸い込み、しっかりと鎧塚さんの目を見つめて言った。
「鎧塚さんにも、ここを自由に使う権利があるんです」
僕の言葉に、鎧塚さんの瞳が揺れた気がしたけれど、僕は目を逸らさないように努めた。
これだけは、きちんと伝えたかった。公共の場所を使うのに、鎧塚さんが後ろめたく思う必要なんて、一つもない。
「それに」
僕は、パッと目を伏せた。そして、早口でこう言った。
「僕、鎧塚さんのこと、知らなかったんですよ。そのくらいの知名度なんだから、そんなに心配しなくてもいいんじゃないですか」
僕の言葉に、鎧塚さんは小さく口を開けたまま固まってしまった。僕の心臓はうるさく鳴っていた。鎧塚さんの反応が気になって仕方なかったけれど、とてもじゃないけど彼女の顔なんて見られなかった。二人の間に流れる沈黙が、永遠のように感じられた。
「……確かに」
鎧塚さんの気の抜けた声が聞こえて、僕はようやく顔を上げた。そして、穏やかな笑みと共に、鎧塚さんは軽く吹き出して笑い始めた。とてもいい笑顔だった。その様子を見て、僕は全身の力が抜けていくのを感じた。心の底から、ほっとした。