ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第31番 Op.110 変イ長調」
「それでは、こちらが利用許可証と、音楽練習室の鍵です」
「ありがとうございます」
僕がカウンター越しに利用許可証と鍵を渡すと、鎧塚さんはそう言って微笑んだ。いつもの白いコートをはためかせながら、音楽練習室へと去っていく。
駅のホームで、鎧塚さんと席を一つ隔てて語り合ったあの日から、幾らかの時が流れた。センター入口の自動ドアを隔てた向こう側の世界には、冷たい雨が降り注いでいる。天気が崩れるようになったら、それは春の兆しだ。寒さの厳しい季節にも、終わりが見え始めている。
あれから、僕は鎧塚さんと距離を取ろうと試みていた。業務以外の話は、できるだけしないように努めた。僕の中で起きた小さな変化に鎧塚さんが気がついているのかはわからなかったけれど、彼女は特段変わった様子なく、これまで通りに僕と接してくれていた。
一つ変わったことがあるとすれば、山崎さんだ。表面上はいつもと変わらぬ笑顔のままだったけれど、水曜日が来るたびにややセンチメンタルになっているのだ。僕はその変化に気づいていたものの、あえて自分から理由を問い質すことはしなかった。
今日は珍しく、この地域交流センターにあるホールで催し物が行われていた。室内楽、というジャンルのコンサートらしい。平日の夜に、しかもこの“辺鄙な”ところにあるセンターで行う催し物だから、人の入りは決して多くはなさそうだった。しかも今日は、冷たい雨というおまけ付きだ。
僕が関わるのはホールを開ける時と閉める時、そしてマイクなどの設備関係で問い合わせがあった時だけなので、詳しいことは知らなかったし、特段、興味もなかった。せいぜい、いつもよりロビーが少し賑やかだな……というくらいである。
「……はあ」
僕はトイレの鏡の前で、とっくに見飽きた自分の顔を見つめながら、大きくため息を吐いた。
ここのところ、時間が流れるのが遅い。特に、水曜日は。
そんな僕の横で、利用者と思われる高齢の男性が手を洗い終えた。少し訝しそうに僕をチラリと見て、ドアを開けて外へ出て行く。
この地域交流センターでは、職員のトイレは利用者と共用になっている。自治体というものは大抵のところはお金が足りないから、これも節約の一環なのかもしれない。
それはさておき……利用者の前で変な態度を取れば、クレームに繋がりかねない。本当に、クレームというやつは思いもよらない方角から飛んでくるのだ。利用者の目があるところでは、品行方正に努めるに限る。背筋を少しだけシャキッと伸ばして、僕はトイレから廊下へ出た。
「ケイちゃん……あなた、鎧塚、ケイちゃんでしょ!?」
聞き慣れない声がした。しかも、そこそこ大きな声だ。思わず僕は声のした方を見る。トイレのあるこの廊下の先には音楽練習室があった。その入口の防音扉の前で、硬い表情をした鎧塚さんと、小柄な女性が話をしている。というより、女性の方が一方的に鎧塚さんに話しかけているようだった。
「随分お姉さんになったから、一瞬、わからなかったわ!昔は茶色い髪がくるくるしてて、お人形さんみたいだったし……今も、お人形さんみたいに綺麗だけれど。お顔は変わってないわね。本当に可愛らしい」
黒々として美しい鎧塚さんの髪。その髪越しに見えた彼女の顔は、これ以上ないというくらいに蒼白だった。
「音楽練習室……あなた、今もピアノを弾いているの?」
その言葉に、鎧塚さんはビクッと反応した。鎧塚さんの態度と相反するかのように、そうなのね!と女性は声を弾ませた。そしてそこから、一気に声を潜めて、こう続けたのだ。
「……あんなことが、あったから。てっきり、ピアノは辞めてしまったんだと思ってね」
少し離れた場所から見ても、はっきりとわかった。鎧塚さんはこの女性に対して、怯えている。
『ここ、本当に居心地がいいんですよ。知らない街って、すごくいい』
あの時、駅のホームで見た鎧塚さんの笑顔は、とても穏やかで、自然なものだった。
『私はここで、“ただのピアノが好きな人”でいられる。だから私は、ここで楽に呼吸ができるんです』
ーー雨の音が、聴こえる。
トントン、トントンと、屋根を打つ雨の音だ。先ほどより、雨足が強くなったのだろうか。僕はふと、そんなことを考えた。
ーー違う。
これは、僕の心臓の音だ。
トントントントントントン……
僕の身に何かが起きたわけではないのに、僕の心臓は、外から音が聞こえてしまいそうなくらいにうるさく鳴っていた。
ーーダメだ。そんなのは、ダメだ。
お願いだから、鎧塚さんの“居場所”を、奪わないでくれ。
「あの!」
僕は、今まで出したことがないような声を出した。その声に、鎧塚さんと彼女に話しかけていた女性がこちらを振り返った。
ーー考えろ、考えるんだ。
彼女の大事な居場所が、奪われてしまわないように。
「……廊下では、静かにしてください」
僕の口から飛び出した言葉は、半分くらい掠れていた。
子どもを諫めるような、ぺらぺらの言葉。
その場違いな言葉を皮切りに、奇妙に張り詰めた沈黙が漂う。
「すみません」
膠着した状況を破ったのは、意外にも鎧塚さんだった。落ち着いた声で、彼女は続けた。
「ごめんなさい、どなたと間違われているのかわからないですけど、人違いだと思います」
鎧塚さんは、目の前の女性に丁寧にそう告げると、軽く微笑んで会釈をした。クルリと背を向けて音楽練習室へ入っていく。後に残された女性は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして立ち尽くしていた。恐らく僕も、似たような表情をしていたに違いない。
僕は、早々にその場を去ることにした。混乱した様子の女性が気の毒に思えないこともなかったのだけれど、どんな経緯にせよ、せっかく場が収まったのだ。ここで何か話しかけられたりしたら、それこそたまらなかった。