ショパン「2つのノクターン 作品27:第8番 変ニ長調 作品27の2」
『◯◯線は、車両故障の影響で、現在、電車の運転を見合わせております。ご利用の皆さまには大変ご迷惑をおかけいたします。運行再開まで今しばらくお待ちくださいませーー』
僕は、駅舎のエスカレーターの下で立ち尽くしていた。今流れてきた放送が事実ならば、僕はここでしばらく足止めを食うのだろう。夜遅いシフトの日に限ってこれだ。こんなことなら、守衛室で山崎さんと雑談でもしていればよかった……そう思ったところで、先ほど山崎さんからかけられた言葉が、ちくりとまた胸を刺してきた。
『側から見て、感情の変化が読み取りにくい人間って、結構損をしていると思うんですよ』
僕と山崎さんは、恐らく全然違うタイプの人間だと思われているだろう。でも、その実、同じようなことで苦労をしているのかもしれない。
「あ……」
その声に顔を上げると、僕は、視線の先に思わぬ人物を発見した。白いAラインコートに桜色のマフラー。いつも、センターで見かける装いそのままの鎧塚さんが、エスカレーターを降りてきたのだ。
「そっか……最寄り駅、ここしかないですもんね」
鎧塚さんは、一人で勝手に納得したようだった。
「もう、二十分くらい動きがないんです。しばらく改札の前で待ってたんですけど、ちょっとこれはかかりそうだなと思って、出てきました」
「そうなんですか」
時刻は午後九時半をとっくに回っていた。この駅で降りるべき乗客たちは、既に立ち去った後なのだろう。見渡す限り、僕と鎧塚さん以外に人らしい人が見当たらなかった。住宅街の中にある小さな駅だからか、タクシーが常駐するような場所もない。僕は、頭をかきながら鎧塚さんに状況を説明する。
「ここの周りって、本当に何もないんですよ」
「住宅街ですもんね。それに、こんな時間だし」
鎧塚さんが一応、といった雰囲気で、駅の周りを見回して苦笑した。喫茶店はいくつかあるのだが、こんな遅い時間に空いているような店は一つもない。
どうすればいいのだろう。タクシーを呼べばいいのだろうか。いや、この路線全体が止まっているのだとしたら、別の路線も使える駅まで出るには結構な時間がかかる。それに、他の駅だって同じ状況のはずだから、呼んだところですぐに来るのかもわからない。
地域交流センターに戻ればいいのだろうか。あそこには山崎さんがいるし、座ってお茶を飲むくらいのことはできる。いや、でも往復で二十分かかるようなところにわざわざ誘うのも、何だか……
「私たち、おかしいですね。無言で、棒立ちで」
「……あ」
どうすべきか考え込んでいるうちに、結構な時間が経過していたらしい。何か話しかけるべきだったかと狼狽える僕を尻目に、鎧塚さんがおかしくてたまらないと言った様子でくつくつと笑っている。
「えっと、コーヒーでも飲みますか?」
「え」
コーヒー、と言っても開いている喫茶店などどこにもない。戸惑う僕の前で、鎧塚さんはすっと人差し指を差し出した。その示すものを目で追いかけると、そこには煌々と光る自動販売機があった。
*
「ブラックでいいんですよね」
鎧塚さんは、ベンチに座る僕に缶コーヒーを差し出した。受け取った缶がとても熱くて、僕は思わず取り落としてしまいそうになる。
「ありがとうございます」
少し悩んだ末に、僕はポケットに入っていたニットの手袋をはめて、それで缶を持つことにした。こうすれば、手袋越しにじんわり温かさが伝わってきて、ちょうどいい。
「すごいですね。私、ブラックは飲めない」
「そうなんですか」
「ミルクか、砂糖か、何かしら入ってないと厳しいかな」
そう言うと鎧塚さんは、僕の隣の隣の椅子に腰掛けた。
ここは、駅のホームにある待合室である。座れる場所がどこかにないだろうかと考えたときに、この場所が思い浮かんだ。季節は冬だ。今日は比較的暖かいとはいえ、風を遮ることができる場所であることに越したことはない。
先日、時間をオーバーしたのに見逃していただいたお礼ですーーそう笑って鎧塚さんは、僕にコーヒーを奢ってくれた。買ってもらった今もなお、これでいいのかな……と思ってどぎまぎしている僕を尻目に、鎧塚さんはどこ吹く風といった様子で微糖のコーヒーに口をつけていた。
「……さっきの」
「え?」
沈黙に耐えきれなくなった僕は、ポツリ、と話し始めた。
「えっと……“ちゃんとしたピアノを弾いちゃうとダメ”っていう話」
「はい」
「わかる気がします。少し、ですけど」
鎧塚さんは目を瞬いて、話の先を促した。僕は少し俯きながら、辿々しく言葉を繋ぐ。
「僕、唯一の趣味が車なんです。車が好きというか……ドライブ?が好きで」
「そうなんですね」
あまりこういう話を人にしたことはないし、聞かれる機会もないものだから、僕はドキドキする。
「“いい車”って、一度乗ってしまうと、大変なんですよ。何て言うんだろう……“自分自身が走っている”と錯覚してしまう時があるんです」
こんな話をして、引かれないだろうか。一抹の不安とは裏腹に、僕の言葉は止まらなかった。
「どういう車がその人にとっていいのかって、人それぞれだと思うんですけど。僕にとっては、“右”と思ったときに右にきちんと曲がる感じというか……操作性?って言うんでしょうか。それが大事みたいで」
鎧塚さんは、真剣に僕の話を聞いてくれていた。
「反応が良くて、まるで自分の身体の延長のように操作できる車に乗ると、本当に気持ちがいいんです。ただ……そういう車って、やっぱりすごく高くて」
そこまで言って、僕は手袋をはめた右手で頭をかいた。
「ドライブは好きだから、車は一応持ってるんですけど。自分が運転していて、心から楽しいと思える……そんな車にいずれは乗りたいと思ってしまって。だから、ひたすら貯金の日々なんです」
「……お互い、お金のかかる趣味ですね」
そう言って、鎧塚さんはため息を吐いた。わかります、と彼女は続けた。
「電子ピアノも、楽しいんですよ。最近のものはクオリティもかなり高いですし。でも、グランドピアノを弾くと、やっぱりこれなんだよなあ、って思っちゃう」
鎧塚さんはそう言うと、膝の上でピアノを弾いているかのような仕草をした。身体にそうした癖が染み込んでいるのだろう。
「集合住宅に住んでると、どうしたって気を遣うんです。本当は、少しくらい音を出しても迷惑にはならないと思うんですけど、結局、心配になってずっとヘッドホンを繋いで弾いていて」
流れるように動いていた鎧塚さんの指が止まった。
「ここに来るようになって、久しぶりにグランドピアノを弾きました……嬉しかったなあ。大きい音も小さい音も、全力で弾くと全力でピアノが反応してくれる。表現を抑える必要がない。本当に、気持ち良かった」
そこまで言うと、鎧塚さんは苦笑した。
「そうやって熱中しすぎるから、決められた時間をオーバーしちゃったりするんですよね」
「まだ気にされていたんですか」
僕は驚いた。もうあれは大分前の話だし、あれ以来、鎧塚さんが予約時間をオーバーしたことはない。
「……追い出されたくないから」
鎧塚さんは、中空をぼんやりと見つめながら、そう呟いた。言葉の響きが想像よりも深刻に聴こえて、僕は口が開けなくなってしまった。しばらくして、少し重たくなった空気を打開するかのように、鎧塚さんは明るく言った。
「ここ、本当に居心地がいいんですよ。知らない街って、すごくいい」
鎧塚さんは穏やかな笑顔で、僕に語りかけた。
「私はここで、“ただのピアノが好きな人”でいられる。だから私は、ここで楽に呼吸ができるんです」
上手く伝わるかな……そう言いながら、鎧塚さんは目を瞬いた。
「“ここでの私”しか知らない人とだと思うと、こうして話をするのも、すごくラクなんです。それが、たまらなく心地いい。普段の私を知っている人たちには、できない話だってひょっとしたらできているのかもしれない」
その言葉を聞いて、僕の頭の中で色々なことが緩やかに繋がっていく。
利用者のプライバシーに関わることは、できるだけタッチしないようにするのが個人情報を取り扱う職場の鉄則だ。それは即ち、”できるだけ興味を持たないようにする”ことと同義で、それは公務員である僕の中に、習慣としてごく当たり前に根付いた考え方だった。
それでも、毎週利用許可証を発行していれば、気付いてしまうことがある。
彼女は、この街の住人ではない。ギリギリ市内ではあるものの、それがかえってアクセスの悪さに拍車をかけるような場所に住んでいた。職場がどこなのかは知らないけれど、少なくともここから家に帰るまでには、かなりの時間がかかるはずだ。
鎧塚さんは、遠路はるばるここまで通っている。ピアノを弾く……ただ、それだけのために。
安いとか、いいピアノだとか、音響がいいとか。そういう理由だって大事なのだろうが、ひょっとすると彼女にとって、それらは二の次なのかもしれない。彼女がわざわざこの場所を選んでいる理由に思いを馳せると、胸がちくりと痛んだ。
彼女はきっと、ここで“何者でもない自分”でいたいのだ。理由は、わからないけれど。
海外旅行を好む人の心理に近いかもしれない。街の人々が自分を記号として扱ってくれることの、心地よさ。それを求めて、彼女はここへわざわざ足を運んでいる。
それはきっと、お金で買える類のものではない。僕の想像よりもきっとずっと、彼女にとってかけがえのないものに違いなかった。
「……音楽の世界って、すごく狭いんですよ。どこどこの誰々があの音大に進んだらしいとか、あっちの子は留学したらしいとか」
「そうなんですか」
「うん。本当、嫌になるくらい」
鎧塚さんがそう言って、微糖のコーヒーをくいっと飲み干した。やはり、鎧塚さんのピアノを聞いて、只者ではないと感じたあの感覚は、間違っていなかったのだろうか。
「それが好意的なニュアンスで語られることの方が多いけれど、私は、ちょっと気味が悪いなって思っちゃうんです」
薄情なんでしょうね、と鎧塚さんは続けた。
「それにね、“鎧塚”って名前、目立つんですよ。すぐ覚えられちゃう」
「確かに、珍しい苗字ですね。同じ名前の有名人を知っていたので、読み方はすぐわかったんですけど」
「もし万が一、この先、結婚できるようなことがあるなら……“鈴木さん”とか、“田中さん”とか、そういう名前の人がいいなって思いますよ。下の名前はさほど目立たないから、苗字が変われば上手く埋没できるかなって」
そう言いながら彼女が僕の顔を見た。その視線に対してどんな言葉を返したらいいのかわからなくて、僕は、とりあえず曖昧な表情で応じる。
「何と言うか……徹底してますね」
「徹底してますよ」
そこで会話は途切れた。次の話題を探している間に、僕たちではない人間の声が割り込んできた。
『大変お待たせいたしました。まもなく、◯◯線は運行を再開いたします。当駅にも、まもなく下り電車が到着する見込みです。ご利用のお客様には、大変ご迷惑をおかけしたことを、深くお詫び申し上げますーー』
そのアナウンスを聞いて、鎧塚さんが立ち上がった。
「ありがとうございました。お話しできて、何だか楽しかったです」
僕も、慌てて立ち上がって鎧塚さんへ頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました。お付き合いいただいて」
鎧塚さんと僕の乗る電車は逆方向だ。僕の乗る電車はこのホームに、鎧塚さんの乗る電車は階段を上って反対側に渡った方のホームに到着する。階段に向かって歩き出した鎧塚さんは、二、三歩ほど歩いたところで足を止め、こちらを振り返った。
「また、水曜日に」
そう言って、鎧塚さんは髪を揺らしながらふわりと笑った。そして、また階段へ向かって歩いていく。
僕は、その背中を見送りながら、一つの決意を固めていた。
鎧塚さんと業務以外の話をするのは、本当に本当に名残惜しいけど、これが最後だ。
だって、彼女の大切な時間を邪魔するような存在に、僕はなりたくないのだ。
僕は、“地域交流センターの職員さん”。それ以上は、もう望まない。
これからも、彼女にとって“記号”の一つであり続けよう……僕は、そう決意した。