シューベルト「4つの即興曲:Op.90-3」
初めて鎧塚さんの方から話しかけられたときのことを、僕はよく覚えている。それは、鎧塚さんが利用時間をオーバーしてしまったあの日の、次の週の水曜日のことだった。
「先日は、すみませんでした」
そう言って、鎧塚さんは頭を深く下げた。いつも定型的な会話しか交わさないのに、突然それ以外の言葉で話しかけられたので、僕はわかりやすく動揺した。そんな僕の心の内を知ってか知らずか、鎧塚さんは尚も言葉を続けた。
「ひょっとして、毎週水曜日のこの時間は、いつも窓口をご担当されているんですか?」
「はい」
何回かこうして手続きのやり取りをしているのに、彼女は僕のことを全く認識していなかったらしい。鎧塚さんの言う通り、毎週水曜日の夕方から閉館までは、僕が窓口の担当だった。
ここにいる間、鎧塚さんは演奏のことだけを考えている。微笑ましいな、と僕は思った。
「……どうして、水曜日なんですか?」
これくらいならいいだろうか、と探るような気持ちで、今度はこちらから鎧塚さんに尋ねてみる。彼女は、柔らかな笑顔で答えてくれた。
「水曜日は“ノー残業デー”なんです。週の真ん中だからかな。もちろん、残業せざるを得ない日もあるんですけど、余程のことがなければそこそこの時間で上がれるので、ここの最終枠に間に合うんですよね」
それに、と彼女は続ける。
「ここの練習室、いつ見ても空いているから」
そう言って、鎧塚さんはぺろっと舌を出した。
音楽練習室へ向かった鎧塚さんを僕が見届けた直後、待ちかねたという雰囲気で山崎さんがカウンターに近付いてきた。
「いやあ……“水曜日の君”も、ちゃんと笑うんだねえ」
「え」
ーー“水曜日の君”って、何のことだ。
「あの女の子、毎週水曜日のこの時間にいつも来てる子でしょう?可愛いから覚えちゃった」
僕の心を見透かしたかのように、山崎さんがニコニコ顔で僕に言った。僕は口を僅かに開けて呆けてしまう。何言ってるんだ、この人。
「でもいつも仏頂面というか、“私とは関わらないでください!”っていうオーラがすごかったから。それが、スーちゃんとにこやかに談笑してるんだもの。おじさん、もうビックリだよ」
さすがだなぁ、スーちゃんーーそう山崎さんが続けるので、僕はどうしたらいいのかわからなくなってしまった。とりあえず、気になったことを山崎さんに指摘する。
「“水曜日の君”って……利用者さんに妙なあだ名つけないでくださいよ。彼女には“鎧塚さん”っていう立派な名前があるんですから」
「“鎧塚”!へー、そりゃあ確かに立派だねぇ」
「そういう意味じゃないです。それに……人間なんだから、そりゃ、笑ったりもするでしょう」
「そういう意味じゃないよ」
その言葉に僕はいよいよ、どう反応したらいいかわからなくなった。僕は、そのまま顔を伏せ、特に今見る必要のない書類をめくり始めた。その様子を見て満足したらしく、山崎さんは持ち場に戻っていった。
*
プルルルル……
電話の着信音で、僕は我に返った。気を取り直して電話を取る。
「はい、受付です」
「音楽練習室です。終わりましたので、確認をお願いします」
「わかりました」
僕は、受話器を電話機に置く前に、フックスイッチを優しく押した。フックスイッチとは、固定電話機の受話器を置く部分にあるスイッチのことである。ここに直接受話器を置くと、電話を切る音がガチャン!と強く相手に届いてしまうことがある。予め手でスイッチを優しく押して、電話が切れた後に受話器を置く……というのは、就職して間もない頃に先輩から教わった”お客さんを怒らせないための処世術”だった。
今日すべき仕事をほとんど終えていた僕は、念の為カウンターの番をしつつ、資料の整理をしていた。その途中でふと、鎧塚さんがここに来るようになってからのことを思い返していたら、いつの間にか結構時間が経っていたらしい。
鎧塚さんからの電話があったのは、午後八時五十五分。今日は、時間きっかりだ。
*
「ご自宅には、ピアノはないんですか?」
使用後の音楽練習室のチェックをする、僅かな時間。最近ではそんな貴重な時間に、鎧塚さんと雑談することが増えた。僕の質問に対し、鎧塚さんは楽譜を片付けながら、穏やかに応じてくれる。
「ありますよ。電子ピアノですけど」
「“電子”だと、やっぱり物足りないものなんですか」
「うーん……ちゃんとしたピアノを弾いちゃうと、差は感じちゃいますね。」
それと、と鎧塚さんは続けた。
「貧乏なんです。ちゃんとしたピアノを買うお金も、置く場所もない……だから、ここの利用料が安くて、本当に助かる」
その言葉を聞いて、あまりいい話題ではなかったかもしれない……と思い、僕の心は淡い後悔に包まれた。しかし、少しでもいいから鎧塚さんと話をしたいという気持ちが、その後悔を軽々と飛び越えていく。
「相場とか、よくわからないですけど……公共施設って、やっぱり安いんでしょうか」
そう僕がポツリと言うと、鎧塚さんは楽しそうに笑った。
「破格ですよ!スタジオとか借りようとすると、倍じゃきかなかったりします」
「倍以上……」
僕は一時、言葉を失った。
「……きついですね」
「そうなんです。きついんですよ」
僕の言葉に、鎧塚さんは満足そうに頷いた。趣味にかけるお金は人それぞれだけれど、安く済ませられるならばそれに越したことはない。その趣味が長く続けていきたいものであれば、尚更だろう。
「それにね、公共施設って、部屋の音響もいいところが多いんです。あまり良い言い方じゃないと思うけど、コスパがいいというか。正直、この音楽練習室は、もっと人気があっていいくらい」
「そうなんですか」
僕は思わず目を見開き、音楽練習室の中をキョロキョロと見回した。そうしたところで今見えているものの何がどう音響に影響しているのかはさっぱりわからなかったが、こんな辺鄙なところ……と半ば自虐のように語ってきたことが、少し恥ずかしくなる。物事の価値は、わかる人にはきちんとわかるのだ。
「でも、世間に見つかって人気が出ちゃったら、ここでピアノを弾けなくなってしまうかもしれないから。複雑なところです」
それじゃ、と付け加えて、鎧塚さんは颯爽と去っていった。その表情は、やはり穏やかだった。
*
人気のない夜の公共施設は、正直、少し不気味だ。でも、配属されて仕事に追われているうちに、いつの間にかこの仄暗さにも慣れてしまった。建物だって、夜は眠りにつくのだ。
それぞれの貸し部屋、そして普段自分が仕事をしている事務所の見回りを済ませた僕は、諸々の設備の鍵を収納したセーフティボックスを施錠した。この最後の鍵を守衛の山崎さんに託したら、僕の業務は終了する。ショート丈の黒いダウンジャケットをスーツの上から羽織り、僕は事務所から守衛室へ向かった。
「お疲れさまです」
「はい、お疲れさん」
守衛室には部屋の対角線上に窓が二つあり、センターのロビーと、通用口へ繋がる廊下とに向かってそれぞれ開口している。通用口側の窓にあるカウンター越しに、山崎さんと鍵のやり取りをするのが僕の水曜日のルーティンだ。館内警備は数人が持ち回りで行っているのだが、何故だか僕は、山崎さんと関わることが多い。
遅い時間だと言うのに、山崎さんは今日もニコニコしていた。夜勤があるのは業務上仕方がないこととはいえ、この人の辞書に“疲れる”とか、“不機嫌”とかいう単語はないのだろうか。
「今日はご機嫌だねぇ、スーちゃん」
山崎さんが不意にそんなことを言うものだから、僕はびっくりして、思わず息を止めた。ややあって、軽く息を吐き出してから、山崎さんに尋ねる。
「……そう見えますか?」
「いや、正直言うとよくわかんないんだけどさ」
どっちだよ……そんな気持ちで、僕は山崎さんの顔を見つめる。
「いつもスーちゃん、飄々としてるでしょ。何があっても落ち着いてるし」
「……そう、見えますか」
僕は、目線をやや下に落とした。
やはり、この人も僕を“そういう風”に見ている……そう思うと、何だか少し悲しくなった。
「でもね」
山崎さんの目が僅かに開いた。いつもの糸目ではない。瞼の下に覗いた黒々とした瞳が、僕を通り越して少し遠くを見つめているようだった。
「何も感じてない人間なんていないんだよ」
その言葉に、僕は思わず山崎さんの顔を見た。
「側から見て、感情の変化が読み取りにくい人間って、結構損をしていると思うんですよ。人の心の機微が分かってないと言われたり、逆に何をしても動じないだろうって、妙な期待をかけられたり」
ぶす、ぶすと、山崎さんの言葉が僕の心に突き刺さった。
僕は、ついさっき、目の前のこの人のことをどう評価していただろうか。
ーーこの人の辞書に“疲れる”とか、“不機嫌”とかいう単語はないのだろうかーー
山崎さんが、僕の感情が揺らいだことを察したのかは、わからなかった。ただ、僕の方をチラリと見て、またいつもの糸目がトレードマークの笑顔に戻った。
「苦労してるだろう人間がご機嫌な様子だったら、周りにいる人間としてはそりゃあ、嬉しいもんだよね」
その言葉を聞いて僕はハッとした。思わず目を合わせた山崎さんは、やはり穏やかに笑っている。
「だからね。スーちゃんの機嫌を観察するのは、ボクの趣味みたいなものなの」
お疲れさん、さあ、もう遅いんだし帰った帰った……そう山崎さんに促されるままに、僕はセンターを後にした。