ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ:第17番《テンペスト》 Op.31-2 ニ短調」
『どれだけ待たせるんだ』
『きちんと予約したのに、取れてないってどういうことなの?』
『備品が壊れてたなんて……そんなの、最初から壊れていたのをこっちのせいにしているんだろう!』
謝罪、謝罪、苦言、そしてまた、謝罪。
とにかく、僕の仕事は何かと頭を下げる機会が多い。“窓口仕事”というものは、多かれ少なかれそういう面がある。
特に、利用者と直接関わる職員はクレームを受けやすい。自分に非があるならともかく、どうにもならないことまで責められるのは理不尽だとは思いつつも、もはや日常茶飯事だ。世の中の大半の人は多分、公務員が嫌いなのだろう。
僕は、感情があまり表に出ていないらしい。内心、理不尽なクレームに対してはちゃんと苦い思いを抱いているのだが、“こいつは大丈夫”と同僚に思われている節がある。僕が男だということもあってか、他の女性職員に代わって矢面に立たされることが少なくなかった。
表に出てないだけで、感情がないわけではないんだけどな。
というか、こういうのって対応する職員をバトンタッチさせる場合、本来は管理職が出てくるもんなんじゃないの。
この日は特にクレーム対応、その他諸々の接客が立て込んだ一日だった。山崎さんにいつものニコニコ顔で「お疲れさん」と労いの言葉をかけられた後、ほとほと疲れた状態で再び窓口に立つ。
ふと、頭に痛みが走った気がして、僕はこめかみを押さえた。ゆっくり目を瞬いたそのとき、僕はあることに気がついた。
ーーそうだ。今日は、水曜日だ。
窓口のパソコンで、施設の貸出予定をチェックする。午後七時からの枠を利用するのは、音楽練習室を借りる鎧塚さんだけだった。
*
……気が進まない。
僕は、音楽練習室の前で立ち尽くしていた。
時刻は、午後九時五分。練習に向かう鎧塚さんをカウンターで見送ってから、およそ二時間が経過した。いつもなら、きちんと五分前に使用終了の連絡を入れてくれる鎧塚さんが、この日に限って連絡してこなかった。
使用終了の連絡が五分前より早かったことは、これまでに一度もなかった。彼女は利用時間の始まりから終わりのギリギリまで、ピアノを弾いているのだと僕は思っていた。きっと今も、自分の演奏に集中しているに違いない。
その大切な時間に水を差すのは、正直、気が進まなかった。割って入るのは申し訳ないし、何より、今日の僕は疲れている。ここでもし追い討ちのように鎧塚さんからクレームを入れられたら、さすがに心が折れてしまいそうだった。
いやいや。
これは、仕事だ。しごとだ。シゴトダ……
そう何度も自分に言い聞かせて、スーツのジャケットを整えながら息を吐き出した。そして、いろんな意味で重たい防音仕様の二枚の扉を、僕はぐい、ぐいっと押し開ける。
「鎧塚さん」
僕は、ドアの陰から気持ち大きめに声をかけた。何だか気まずく感じられて、彼女の顔は見ずに、ピアノの蓋に視点を定める。
やはり、鎧塚さんはピアノを弾いていた。僕の声に気付いた鎧塚さんが、演奏を止め、ピアノから顔をパッと上げる。
「集中していらっしゃるところ、すみません。お時間を過ぎているので、そろそろーー」
「すみません!」
僕の声を遮るように、鎧塚さんの謝罪が飛んできた。びっくりして彼女の顔を見ると、見開かれた猫のような目が、僕を射抜くように真っ直ぐと見つめていた。何度となくカウンター越しに顔を合わせていたのに、目が合うのはこれが初めてだった。彼女は、今まさに大切なおもちゃを取り上げられようとしている子どものように、ひどく不安そうな表情をしていた。ガタッと音を立てて、彼女が椅子から立ち上がる。
「す、すぐ片付けます!」
「あ、いえ、そんなに急がなくても!」
声と声がぶつかる。僕は鎧塚さんに釣られる形で狼狽えてしまったけれど、努めて冷静に言葉を繋ごうとした。
「そんなに慌てなくて、大丈夫ですから。この後、部屋の点検をするのでここで待たせてもらいますけど、ゆっくり準備していただいて大丈夫ですよ」
「……ありがとう、ございます」
呆気に取られたような表情の鎧塚さんから、言葉が零れ落ちる。
そもそも強い言葉をかける気はなかったけれど、ひどく怯えた様子の彼女に対して、何か安心させるような言葉を掛けなければ……そんな衝動に駆られた僕は、次に続く言葉を懸命に探した。
「……嬉しいと、思います」
「……え」
鎧塚さんが、掠れた声を出した。その顔はまだ少し青い。僕は、半ば必死で言葉を発し続ける。
「ここのピアノ、何か、すごいいいピアノらしいんですよ。僕は、あまり詳しくないのでよくわからないんですけど」
話の展開が読めない……といった表情で、鎧塚さんは僕を見つめていた。そりゃあそうだ。僕だって、この話がどこに着地するのかがわからない。僕はたまらず、手で頭をかいた。
「ホールのピアノはともかく、ここは練習室ですから。そんなにたくさん弾いてもらえるわけじゃないんです。このピアノ」
事実だった。附帯設備であるピアノを使う場合は、部屋の使用料とは別にピアノの使用料がかかる。コーラスの練習や管楽器の練習といった目的で部屋を借りる場合、ピアノをわざわざ一緒に借りる利用者はほとんどいなかった。つまり、このピアノが弾かれる機会は、そう多くはない。
「ちゃんと調律?はしているのに、弾いてくれる人がいなくて。ちょっと気の毒だったんですよ」
いよいよ僕は、鎧塚さんの方を見られなくなって視線を床に落とした。一体この空気をどうするつもりなんだ、僕は。
「だから、嬉しいんじゃないかって……いや、ピアノは生き物じゃないですし気持ちとか存在するのか自体わからないんですけど、何となくそんな風に」
「優しいんですね」
「え?」
頭をフル回転させていた僕は、予想外に割って入った声に対して、間抜けな声で応じてしまった。思わず視線を上げて鎧塚さんの顔を見ると、その表情は先ほどよりも少し落ち着いたものに変わっていた。
優しい、とは、どういう意味だろう。
「……他の施設でも、同じように、熱中しすぎて時間を過ぎてしまうことがありました。お小言を言われるくらいならいい方で、怒鳴られたこともあります」
「そうなんですか」
驚きから素直に言葉が出る。
「遅い時間だから、利用時間を守らないと職員さんたちの帰りも遅くなっちゃうんですよね。わかっているのに……本当に、すみません」
そう言って鎧塚さんは、その場で身体を折って深く頭を下げた。艶々な黒髪が、彼女の仕草を追いかけるようにサラサラと下へ落ちていく。丁寧すぎるほどの態度に、むしろこちらが焦ってしまう。
「いやいや、これくらいのこと、珍しくないですよ」
実際、そうだった。部屋を借りる人たちが活動に夢中で時間をはみ出すことはしょっちゅうあったし、中にはこちらから呼びに行かない限り出ていかないようなふてぶてしい利用者だって、珍しくはなかった。
「集中してらっしゃるのだから、無理ないと思います。それに、多少遅れても僕の帰りの時間にはさほど影響はないですから、気にしないでください」
「そうなんですか?」
「……まあ、全く影響ないと言ったら嘘になるかもしれませんけど」
嘘がつくのが下手くそな僕は、それでも、できるだけ鎧塚さんを刺激しないように言葉を選んだ。
「この部屋を片付けたら帰れるように、他の仕事を終わらせておけばいいだけの話です。声をかけてから退室していただくのに十分もかからないですし、そんなのは誤差ですよ。それに……」
ふと、今日自分に起きたことが頭を掠めた。
ーー謝罪、謝罪、苦言、そしてまた、謝罪ーー
「……鎧塚さんの方が、優しいです。この仕事の半分は怒られるのが職務みたいなところがありますから、鎧塚さんみたいに言ってくれる利用者さんがいると、ホッとします」
そこまで話してようやく、自分がやり過ぎたことに気が付く。
やばい。言い過ぎだ。
彼女に仕事の愚痴を言ってどうする。
恐る恐る鎧塚さんの方を見ると、彼女は穏やかに微笑んでいた。
「……やっぱり、優しいですね」
予想外の言葉に、僕はまた呆気に取られてしまった。
「本当に、ありがとうございます。今、片付けるので少しお時間をいただけますか?」
そう言いながら、彼女は手早く片付けを始めた。口を半開きにしてぽかんとする僕をよそに、ささっと手際よく楽譜や荷物をまとめていく。
しかし、ピアノの片付けをするときだけは、些か様子が違った。できるだけ丁寧に、丁寧に接していることが、素人の僕からも見て取れた。まるで、愛おしい我が子のケアをしているような、穏やかな表情と手つきだった。
僕は、そんな鎧塚さんの様子を、いろんな気持ちがない混ぜになった状態で見守っていた。