ハノン「60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト:第一番」
僕の職場の話をしよう。
某政令指定都市の、某区の片隅にある、地域交流センター。伏せ字ばかりで申し訳ないけれど、ここが、僕の職場だ。その名の通り、地域住民がサークル活動で利用するような、ごくありふれた公共施設である。
センターには色々な設備が揃っており、手続きをすれば市民や在勤者が自由に使えるようになっている。講演会やコンサートができる小さなホール、運動室、創作活動室、調理室ーーそして、大きなグランドピアノが置いてある、音楽練習室。
この音楽練習室を、毎週水曜日の午後七時から予約している女性。
彼女が、鎧塚ケイ。警備の山崎さんが名付けた、“水曜日の君”とは、彼女のことだ。
この地域交流センターは、とにかくアクセスが悪いことで有名だった。そんな形で話題になるのは何とも不名誉だなと思いつつも、最寄駅から十分ほど歩く上に、その駅自体も路線の中ではマイナーな駅で、急行すら止まらないという事実を踏まえると、まあ、致し方なしといったところか。
利用者は、お世辞にも多いとは言えなかった。平日、特に一番最後の利用時間である午後七時からの枠に予約が入ることは、ほとんどない。
そこに突然現れたのが、“水曜日の君”だった。
センターの施設を使いたいとき、利用者はまず部屋の種類と、時間帯を選ぶ。利用時間は二時間ごとに区切られていて、最後の枠は午後七時から午後九時の間である。
正直、僕には施設側が平日のこの時間を開放している理由がわからなかった。休日ならまだしも、午後九時に終了するこの枠は、平日は本当に利用者がいないのだ。特に、音楽練習室に関しては。
だから、彼女のことは、自然と覚えてしまった。
パソコンで利用状況を確認すると、これまでほとんど埋まっていなかった午後七時からの音楽練習室の枠に、水曜日だけ“○”が付いているのである。しかも、毎週。
更に言えば、彼女はとても目を惹く外見をしていた。
ちゃんと食べているのか心配になるくらいの、華奢な体。背は僕とさほど変わらないから、百六十センチを少し越えたくらいだろうか。きちんと手入れされた真っ直ぐな黒髪は、胸元まであるロングヘアだ。シュッと細い顎に、少し釣り上がった大きな目。そのせいか、彼女はちょっと猫に似ている。
色々回りくどいことを言ったけど、彼女ははっきり言って、とても綺麗な人だ。
初めて彼女に会ったとき、“いかにもピアノが弾けそうな見た目をした人だな”という印象を受けた。そして、こんなステレオタイプな人が実在するんだなと、妙に感心したものである。そんな彼女が、毎週、人が滅多に入らない時間に同じ部屋を予約し続けているのだから、覚えないという方が無理な話だったかもしれない。
それ以前の問題として、彼女と僕との出逢いは、なかなかに印象的なものだった気もするのだけれど。
*
初めて施設を使う人には、等しく説明しなければならないことがある。いわゆる”利用上の注意”というやつだ。まずカウンターで手続きに関わる説明をした後、職員は貸し出す部屋に同行して、実際に利用する時の注意事項を説明する。
その日、初めてこの地域交流センターにやってきた鎧塚さんに対しても、僕はこれまでと同じように対応した。
「使い終わったら、動かした椅子などの備品は元に戻して、使用前と同じ配置になるようにしてください」
「はい」
「利用時間終了の五分前になったら、片付けが終わっていることを確認した上で、受付まで内線で連絡してください。その後、職員が部屋のチェックに入りますので、それが終わりましたらお帰りいただいて結構です」
「わかりました」
ドン!と大きな音がしたので、思わず音のした方向を見ると、鎧塚さんが大きな肩掛け鞄を備え付けの机に下ろしたところだった。びっくりして目を見張る僕をよそに、鎧塚さんは大量の冊子を鞄から取り出していた。装丁の雰囲気から、それらが楽譜であることが、素人の僕にもわかった。全部合わせて、月刊の漫画雑誌くらいの厚さだったと思う。紙は、見た目に反して意外と重い。仕事柄、たくさんの書類と向き合ってきた僕は、鎧塚さんの持ってきた楽譜の多さに呆気に取られてしまった。
ーーあれ、全部この二時間で弾くつもりなのかな。
「何かご不明なことがあれば内線でお知らせください。では」
何となくいろいろと察した僕は、早々に部屋を出るために話を畳んだ。
音楽練習室は、音が外に漏れるのを防ぐため、入り口のドアが重たくて分厚い扉になっている。扉の縁には音を遮断するためのゴムパッキンがついており、開け閉めにはそこそこの力が必要だ。しかも、それが二重になっているという徹底ぶりである。
僕は一つ目の扉を閉め、二つ目の扉に手を掛けた。そのときーー
「え」
思わず声が出て、後ろを振り返る。ピアノの音が聴こえたからだ。
ーー上手い。
衝撃で身体が動かなくなり、僕は二つ目の扉に手をかけたまま、その場に立ち尽くしてしまった。
一つ目の扉が閉まっているので、本来の音量の半分くらいしか、恐らくこの場所には届いていないのだろう。しかし、厚い厚い扉で隔てられているというのに、彼女が“特別”であることが素人の僕にもわかってしまう。
ドミファソラソファミ、レファソラシラソファ、ミソラシドシラソ……
音の動きが速い。どれくらいのスピードで手が動いているのだろう。一つ一つの音の粒がきちんと立っているのに、水が流れるようにそれらが連なって聴こえる。それらは時として大きなうねりとなって、僕の耳へと届いた。
記憶には存在しない感覚だった。意識を断ち切ろうと試みても、耳が、自然に小さなピアノの音を追いかけてしまう。
これは……そうだ、いつも聴いているラジオのパーソナリティの語りに似ている。そう、僕は思った。何かを語りかけるように、彼女はピアノを弾いている。そして、語る内容も語り口もたいへんに心地良いから、いつまでも聴いていたくなる。
ーー”段違い”ってきっと、こういうことを言うのだ。
その時、パッと音が止んだ。どうやら一曲目は終わったらしい。しばらく衝撃で呆けていた僕は、自分が仕事中であることをようやく思い出し、慌てて二つ目の扉を閉めて部屋を後にした。
二、三歩と歩みを進めたところで、あれ?と思い、僕は立ち止まる。
何であんなに上手な人が、こんな辺鄙なところにある地域交流センターに、わざわざピアノを弾きに来たのだろう。
思わず振り返って、音楽練習室の扉を見つめた。僕の問いに対する答えはこの視界のどこにも存在しないのに、僕はそれを探すようにしばらく視線を彷徨わせた。




